インターネットは魔法の杖 |
|
これは、ある教育関係の雑誌のために書いた原稿です。 フラワーちゃんとの出会いを書いてみてはどうかというお誘いを受けたのです。 この原稿をつくるにあたっては、 以下の方々の協力を得ています。 感謝します。 フラワーちゃん、エルモちゃん、 そしてTEDDYの仲間であるAYAさんとエルモちゃんの担任の先生 (すべて仮名です) |
| フラワーちゃんとの出会い |
|
昼休みになるときまって女子の学級委員が職員室に現れる。「じんちゃん、明日の連絡は?」「明日は病院やから私はおらんで。」「腫瘍マーカーか?エコーか?」「ちゃう、骨シンチ。明日の終礼も頼むで。」「まかしときって。」これが、学級委員フラワーちゃんと担任である私とのいつもの会話である。 彼女と交換ノートを始めてから半年になる。そしてそれは、私がホームページ「乳がんNetz/JINJIN」を開設してからの半年でもある。一九九七年十二月、ちょうどクリスマスの日に私は乳がんの手術を受け、放射線治療を終えるとすぐに職場に復帰した。まだ体調おもわしくなく、担任はもたずに一年生の社会科のみを担当することとなる。 フラワーちゃんは、その学年の中でとりわけ目立つ存在であった。授業のたびに担任のもとに苦情が舞い込む。授業中に大声で歌う、雑誌を読む、化粧道具を取り出す、立ち歩く。要するに授業妨害の限りを尽くしているということだ。 しかし、乳がんの話になるとフラワーちゃんは生き生きと変身する。温存療法・抗ガン剤などなど、とにかく詳しいのだ。私が時折授業中に話す入院こぼれ話の展開に、彼女のつっこみが見事にはまる。やんややんやの1時間だ。それもそものはず、彼女は小学6年生の時に母親を乳がんで失っていたのだ。 「そうそう、お母さんも最初は乳がんやってん。それがなぁ、あとで頭にきたんやぁ。じんちゃん、気ぃつけや。」「髪の毛抜けたら、掃除が大変やねんて。あれむっちゃ、むかつくなぁ。」チャイムが鳴るまで、もうどうにも止まらない。お母さんが好きで好きで大好きだった。この頃、夜がさびしくてたまらないと言う。 わたしは、彼女にとってお母さんに繋がるたいせつな糸なのだと思った。こうして私は、思いがけず、自分の職場にこんな幼い「乳がん友だち」をみつけることとなった。 |
| 乳がんと女性たち |
病気は病院で治すものだと思っていた。病気が女性の人生をこれほどまでに変えるものだとは思っていなかった。アメリカでは、乳がんは「フェミニストが置き去りにした問題」だと指摘されているそうだ。私も自分が乳がんになってはじめて、この病が女性であるがゆえのあらゆる問題を内在していることに気づいた。 私は術後すぐに「テディ」という乳がんのML(メーリングリスト)に加入した。小規模なMLだったが、実に個性的なメンバーが集まっていた。職業も多彩、趣味も多彩、オフ会で実際に出会ってみると、皆、ますます惚れなおすいい女っぷりなのだ。 しかしそんなテディの中にも、理不尽な現実は容赦なくおそってくる。ある女性は、結婚後乳がんであることがわかると実家に戻るように言いわたされたという。愛する人から婚約破棄を言い渡された女性たちもいる。苦しい治療のさなかに夫の不倫を知ることになった女性もいる。 20代から40代の女性たちが集うテディでは、結婚・就職・出産・子育てなど、その時期ならではの女性たちの悩みがかわされる。フラワーちゃんの抱えていた問題も、乳がんを通じて多くの女性が経験することのひとつだった。おとなだけではない。母親の悩み・苦しみを彼女は全て感じ取っていたのだ。 |
| せっかく乳がんになったのだから |
自分が乳がんになったことを意味のあるものにしたい。たんに個人の経験にとどめることなく、それを社会化したい…そう考えていたときのことだ。乳がんの情報収集をするために必要に迫られてではあったが、いつしかパソコンに熱中し始めた私は、自らホームページを運営するようになった。「乳がんNetz」という名は、乳がんの女性たちが広くつながることを願ってつけたものである。 そして、その中のひとつのコーナーとして誕生したのが、フラワーちゃんの「風に消えないで」だった。フラワーちゃんとの交換ノートを、インターネットにのせて発信しようと言う試みだった。交換ノートに、彼女はお母さんの闘病生活をつづってくる。それに対して私が返事を書く。ホームページに載せる。テディの仲間からメールが届く。また返事を書く。この繰り返しである。 一月のある日、暖房の切れた寒い教室で、私とフラワーちゃんは震えながら語り合った。なみだと鼻水でずるずるになりながら。泣いて泣いて、それで涙が涸れるものではないけれど、しかし、一緒に涙を流して語り合う、そのステップがなければこのコーナーは生まれなかっただろう。 あえて、ホームページに載せようとしたのはなぜか。それは、元気なふりをしているけれど、フラワーちゃんが「乳がんになったことは不幸なこと」だと思っていること、乳がんになった女性をかわいそうととらえていること、つまり乳がんで母親に死なれた自分も不幸な子どもだと考え、しかも、ひとり涙を流している自分のことを恥ずかしいと感じていることに気づいたからだ。 フラワーちゃんにも決して自分の体験をむだにして欲しくなかった。自分の体験を外に発信することで、きっと何かが生まれるはずだと信じていた。 私が彼女に伝えたかったこと。それは左のの交換ノートの返事に書かれている。はじめて、私は乳がんになって不幸だとは思っていないとフラワーちゃんに明言した文章である。 なかまの命を奪っていくガン細胞は憎いやつだけど、人の心を苦しめ続けるガン細胞は許せないんだけど、乳がんになったことで、私たちはとても充実した人生を送っている。そういう風にテディの乳がん仲間は考えています。 たしかに、時々不安のどん底に落ちることもあります。時には、世の中から見捨てられてたったひとりぼっちになってしまった気持ちになる。時にはまわりの誰にも自分の本当の気持ちが分かってもらえないんじゃないかと悲しくなる。だけど、それ以上にこんな体験をしなければ得られなかった素敵な人との出会いがあります。 この体験は、少し重たいものかもしれないけれど、人よりかがんで歩くことで、他の人には見えない道ばたの小さな花に気づくことがあるかもしれない。少しひねくれて歩いたことで、他の人には気づいていないとなりの世界を知ることができるかもしれない。 少なくとも、その時その一瞬の人生を大切に思う気持ちは、誰にも負けないぞ!この人生楽しんでやるぞ!って、テディの仲間は思っています。「乳がんになって良かった」って、あえて言いたいと思っているのです。 |
| テディに勇気をもらったフラワーちゃん |
| テディの仲間から励ましのメッセージが次々に届いた。それは、私の返事以上にフラワーちゃんの心に届いた。
私はJINJINさんと同じ乳がんの会「テディ」に入っているAYAといいます。年齢は41歳です。フラワーさんのお母さんと同じくらいかなあと思っています。フラワーさんが お母さんの事を一生懸命思い出して書いているのを読みながら、涙が出ました。… いろいろ辛かったよね。 私が、乳がんだと言われた時、私の子どもは小学二年生と小学六年生でした。お医者さんからその事を言われた時に一番始めに頭に浮かんだのは子どもの事でした。「子どもたちが大きくなるのを見る事ができない。子ども達にどうしてあげたらいいのだろう。」と思って頭がガーンとして、涙が止まりませんでした。たぶんフラワーさんのお母さんもそうだったんじゃないかなと思います。 それと私は二六歳の時に母をがんでなくしています。 自分ががんになった時より辛かったです。こんなおばさんになっても 母親が恋しくなる時があります。いま、フラワーさんがどんな思いでいるだろう、と胸が苦しくなります。フラワーさんの手記を読んでいて母親としてと、 娘としてと二つのの思いが私の中にあふれてきて、気がつくとオイオイ泣いていました。 あなたの事を心配して、応援しています。いろいろな事を思い出して書いていくのは辛いと思いますが、頑張って続きを書いていって下さい。それをする事でフラワーさんが何か乗り越えられると思います。 インターネットの力にフラワーちゃんは感動した。同じくメールをくださった方への返事にフラワーちゃんはこう書いた。「私はずっと言って欲しかったことばをもらいました。私は、お母さんに許してもらったような気がしました。」テディの女性たちの力で天国のおかあさんと対話が実現したのである。 |
| ネットでつながる子どもたち 〜 今度はフラワーちゃんが元気を送る番 〜 |
| こうして原稿を書いている間に、ずっと願っていたことが一気に動き出した。メール仲間の教師から、今年のクラスにフラワーちゃんと同じ立場の子どもがいるという。名前はエルモちゃん。昨年母親を亡くし、家庭内もおちつかず欠席がちだったが、高三になりがんばって登校するようになったという。エルモちゃんからフラワーちゃんにメールが届いた。
初めまして。こんにちは。担任の先生から、「一緒の立場の子がおるから読んでみて」と「風に消えないで」を紹介されました。 私も昨年お母さんを亡くしました。乳がんでした。主治医の先生にあと三ヶ月と言われて、一年三ヶ月もお母さんは生き続けた。すごいと思った。 私はお母さんのおかげで自分の夢を持つことができました。今までは将来自分が何をしたいのか、夢もありませんでした。でもお母さんが入院中、傷口のガーゼの取り換えとか、体を洗ってあげたりとか、そして患者のまわりで一生懸命働いているヘルパーさんを見て、福祉士になりたいと思いました。 私の家も前は家族関係がぐちゃぐちゃでした。お父さんはお母さんや家の事をほったらかしで仕事も中途半端で遊んでたし、…省略…私はそんな場面を見るたびに苦しかった。その時は私もまだ小さかったから何もできへん自分に、そしてお母さんに、ただ泣いてた。…省略…この前お父さんから私に手紙をもらいました。「弁当いつもありがとう。お母さんがおらんから大変苦労をかけるけど、もう少ししんぼうしてください。」と書いてました。すごくうれしかった。すごい短い文章やのに、心がこもってて涙があふれ出た。 さっそくフラワーちゃんも返事を出した。 エルモちゃんへ。お手紙ありがとう。とてもうれしかった。私の書いた『風に消えないで』読んでもらってどうでしたか?あの中には、私の思いがつまっています。…省略…おたがいにつらい体験をしました。けど、私は今になって「あぁこれもただのつらい体験じゃないなぁ」と考えるときがあります。それは、こうしてエルモちゃんやいろんな人たちと出会えたことそれと何よりも私の先生と出会えたことです。それにお母さんがいなくなって、いろんなことが見えてきてます。素直になること、人にはやさしくすること、がまんするということ。(省略) 他にも見知らぬ方からも、HPを通じてフラワーちゃんにメールが次々に届いている。フラワーちゃんはその返事を書くのに懸命である。「つながれ子どもたち」…これは、友人が付けてくれた新しいコーナーの名前である。「風に消えないで」を読んだ子どもたちのとの書簡集を作るのだ。乳がんで母親を亡くした子どもたちの思いが、フラワーちゃんからつながっていくことを願っている。 さて、『風に消えないで』最終回の一部を紹介してフラワーちゃんの話を終えたいと思う。母親の死後すぐに、医師から解剖を依頼されたときのことを、彼女はこう書ききった。もちろん、それまで彼女にメールを下さった多くの女性たちのちからをもらってである。 『私と兄ちゃんがOKしたのは、お母さんの死をむだにしたくないし、お母さんと同じ病気になった人が笑って病院を出ていけるようになって欲しいし、何よりも、何でもええから「お母さん」という女の人が生きてて、ここでまだ若すぎるけど、死んでしまったことを、どこかに、誰かの記憶の中に残して欲しかった。お母さんの存在を伝えたかったからや。解剖室にはいるまで、私はずっと長い廊下で見送ってた。最後まで、お母さんはカッコよかった。』 |
| +++ 終わり +++ |
| BC/NETZへ |