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「滞日外国人問題」の第二ステップ
外国人119ネットワーク 渋谷次郎

○「外国人論争 '89」の懐かしさ

 西尾幹二や手塚和彰が「鎖国派」として、大沼保昭、駒井洋、石川好の各氏が「開国派」として、メディアに煽られながら対峙したあの論争を覚えているだろうか。でっちあげの卒論にこの論争を取り上げ、「外国人論争 '89」なんて勝手に命名して喜んでいたのは、自慢にもならない私事だが、この夏、ふとあの外国人論争を思い出して、懐かしさを覚えた。
 年数を数えてみると、懐かしいなんていうほど昔のことじゃない。たった6年前のことに過ぎない。それなのに、「いい時代だった」なんて感傷を含めて、懐かしさを感じるのはなぜだろう。

 当時は、目に見える最新の「問題」が外国人労働者であった。日本中ありとあらゆるところで、一見してそれと分かる外国人が働く姿が見られるようになっていた。これは日本の歴史始まって以来のことであったにちがいない。実際は、この時期に数年先立つかたちで、韓国をはじめとする東アジア諸国からの移民の増大が始まっていたのであるが、ビジュアルな効果は絶大であった。突如として出現した問題のように思われたのである。
 多くの人達が、支援や研究や取材、さまざまな形でこの問題に取り組もうとしていた。首都圏や近畿を中心に、全国で支援グループが発足したのもこの時期だ。89年と翌90年は外国人支援の運動の勃興期。それは一種の流行だったと言ってもいいかもしれない。
 この問題にかかわっていると、労働運動、女性運動、当時ちょうど一段落を迎えていた指紋押捺運動など、各種の運動の経験者と出会うことができた。学部を卒業後もぼんやりとしていた僕にとっては、それはそれは刺激的なことで、この流行の只中にいったん入りこんだ僕は、計画的にというよりはズルズルと支援団体の活動に多くの時間を割くようになった。
 とくに僕がフィールドにしている埼玉県南では、僕らの実働20人にも満たないようなグループが、地域では最先端にいるような気に十分なれた。結成したばかりのグループに、労働、医療、入官法、買売春、住宅……、あまりにも広範な諸問題が一気に流れ込んだ。
 振り返ってみれば、僕らが夢中で過ごしてきた4・5年は沈没せずに漂うだけで精一杯だったというべきかもしれない。ときには岸辺からの小枝に捕まり、ちょっとした裁判に勝ったりして、それを好意的に伝える報道をながめて喜んだこともあった。でもそれは、川の流れに小石を投げ、広がる波紋を眺めて喜ぶ……、それだけのことであったかもしれない。

○不況と滞日外国人

 さて、不況期にもかかわらず、外国人労働者はたいして減らなかった。LA系日系人をはじめとする大企業に雇われた外国人労働者は、猛威をふるったリストラのなか、まずはじめに整理され、コストダウンの標的になった。それでも、自ら生まれ育った社会と日本との比較によってこそ、彼らは暮らす場所を選択するのだ。日本の経済が悪くなったといっても、多くが日本にとどまり、さらに日本にやってくる。
 なんとか日本にとどまろうとする彼らとつきあうなかで、外国人労働者に今回の不況が与えた影響を、二つ指摘したい。
 ひとつは、彼ら/彼女らが、景気の調整弁としてほどよく機能することが明白になったということだ。「契約が切れたからしょうがない」とあきらめ顔で、あまりにも簡単に解雇を受け入れる彼らに、日本の労働慣行に対する無知を感じなくもない。それでもやはり、この大量解雇を許した第一の力は「日本人にだって仕事がないんだから、外国人は帰ればいい」というちまたを支配した発想であったろう。入管に保証書を書く雇用者がいなければビザが更新されないという制度と、更新のための審査基準を厳しくするという行政の圧力がこれを支えた。あまりにも少なくしか彼ら/彼女ら の声を取り上げようとしない報道陣も、この発想を援護するかたちになった。日本人の中高年の解雇があれば、追い掛けてマイクを突き付けた報道陣は、工場に出かけて同じことをしようとはしなかった。85年の円高不況のときとは何たる様変わりだろう。解雇をめぐる判例では、自動的に更新されるべき契約がかなり広範に認められることを、外国人労働者は知りようもなかった。
 今回の不況でおきたもうひとつの結果は、日本に踏みとどまった労働者が、より日本社会での生活力を強めたことである。いったん解雇された彼らは、資金源を失ったリクルーターの手を次第に離れ、自ら開拓したネットワークで、仕事を探し、住みかを探した。より悪い労働条件を受け入れなくてはならないうえに、住宅も自力で賄わなければならない。なんとか日本社会にとどまろうというこうした努力は、今後彼らが日本で暮らし続ける上で、基本的な条件をそろえる努力に他ならない。こうして、不況に対抗する努力によって、企業の敷地内で囲い込まれていた彼らは、より広範な社会に散らばり深く食い込むことになった。
 この変質は、単なる「出稼ぎ」に納まらない外国人の割合を、かなり増やしたように思う。彼らが不況のなかで自力で開拓した職場や住居は、これからも彼らが日本に住み続けるときの重要なベースになることは間違いない。たとえ条件は良くないにしても、日本社会に安定的に住み続ける基礎となるだろう。たとえば、厚生省の統計によれば、日本人の結婚うち日本以外の国籍を持つ相手との結婚の占める割合は3.4%まで上昇している。外国人登録者の数が日本の約1%ときくと、諸外国に比べればまだまだ少ないと「安心」したくなる。しかし、この結婚件数における3.4%という数字から、生まれ てくる次世代の数字、そしてこの家庭を軸に国際的な移動をする人々の数字を考えよう。不況でも変わらなかった数以上の意味合いが見えてくるだろう。

○支援運動の課題

 最後に支援運動の活動が、この6年間でどんな位置まできたかを考えてみたい。まず第一に、ある程度の経験を蓄積し、労災や未払い賃金、それに結婚相談のように、活動のうち、一定の部分がルーティン化してきたことをあげよう。ルーティン化したことは、合理化できて楽になることを必ずしも意味しない。相談がきてから決着まで、結果が予測できてしまう活動は、相談を持ち込む当事者にとっては以前と変わらず重要な活動であっても、かかわるものにとっては新鮮味を欠き、不謹慎に聞こえるかもしれないが、義務感からのみたづさわることになる。かといって、こういった事件が絶対数で減るわけでもないので、増える一方のルーティン化した活動に追われ、体力のないグループは疲弊する。支持者を拡大できた有力な団体は、専従職員を設けたりして、これを乗り切ろうとしているが、そのようなグループはまだまだ少数派だろう。いづれにせよ、支持者と参加者の拡大、それに資金を得て、しっかりとしたNGO組織を形成することが急務なのだが…。
 次に指摘できるのは、いわゆる外国人の支援をする各グループの分業が進みつつあることである。労働運動や女性運動といった特定の運動の影響の強さによって、問題の種類によって得意な分野というのは各グループにあったが、さらに日本語を教えているグループ、行政のバックアップを受けて生まれたグループ、いわゆる文化交流を主としているグループ、さらに外国人自身のグループもある。これは89年とはかなり異なる状況で、それぞれのグループが独り善がりにならず、どんな建設的な関係が創り得るのか……、その関係のなかで、自分たちが果たし得る役割をしっかり見極める必要があるだろう。
 三つ目には、時の経過とともに外国人労働者や移民の問題が、最先端の「流行」ではなくなり日常化することによって、興味を持って参加しようとする人の質が変化したことをあげよう。最初のところでも触れたように、以前に支援団体に集まった人には、それ以前になんらかの運動を経験した者がかなり含まれていた。当時のこの問題のインパクトの大さによるものなのだろうが、そういうなんらかの経験を持つ人をひきつける時代ではなくなったようである。そのうえ、ノウハウの蓄積によって、活動の経験者とそうでない人の、知識の差が大きく開いている。自前の人材を育てる必要が出てきた。幸いにして、ボランティアやNGOの活動に興味を持つ人が多くなって、何かできることはないかと訪れる人が多くなっているので、そういう人の受けとめ方にも工夫が必要であろう。

   国民保険を未登録外国人にも加入できるようにすることや、労災の上積み保証、アムネスティの実施など、従来から引き続く争点も数多い。外国人の定着が進むとともに、新しいタイプの論点が生じるだろう。とくに結婚や離婚、それから子ども周辺でとくにその可能性が強いだろう。もともとが流行を追い求めることが大好きな性分であるから、そういったホットな問題だけを追い掛けるだけで良かったならと思うこともある。しかし、ホットな争点に有利な結果が得られるかどうかは、結局はどれだけ数多くの人が、どれだけ大きな声を上げられるかにかかっている。
 流れのなかで水を分ける杭に、さらに流れを変える堰となるにはどうするかに思いを寄せるようになった。そうはいっても、大きな流れに漂う木の葉で良かった時代が懐かしく思い出される。89年の論争がもたらす郷愁は、いわゆる外国人労働者問題の黎明期への懐かしさではないだろうか。原点を確認しながらも、次のステップに進む時期に来ているようである。

ラテンアメリカ交流協会発行「AL SUR」'96 に掲載  

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