『バグダッドの盗賊(Thief of Bagdad)』は、ダグラス・フェアバンクスの1924年作品が有名だが、ここで話題になった『The Return of the Thief of Bagdad』は、1940年に公開された作品の続編。企画を立てたのはジャスミン・サブーという女性で、1940年版でタイトル・ロールを演じた俳優サブーの娘ということだった。

(右は、ジャスミンによるファンタジー小説のカバー。これを原作に映画が撮られるはずだった。)その後、残念ながらこのハリウッド映画の製作は頓挫したらしいのだが、このニュースでぼくがひっかかったのは、そのサブーという俳優のことだった。何と、インド人のハリウッド・スターというのである。
恥ずかしながら名前も知らなかったぼくは、時代を遡り、このハリウッドのインド人を追いかけはじめた。
サブーは1924年、マイソールに生まれた。イスラム教徒で、本名はSelar Shaik Sabu。、母親はアッサム出身とのこと。アッサムとはちょっと不思議な気もするが、確かにサブーの面立ちには北東インドを感じさせるところがあるような気もする。その母親はサブーを生んで間もなく亡くなり、幼子は父親の男手ひとつで育てられることになる。
父親はマハラジャに仕える象使いで、象がゆりかご代わりだった。しかしその父親も、サブーが7歳のとき亡くなってしまう。サブーには兄がいたようだが、どういうわけか父親の死後、マハラジャから月2ルピーをもらいながら、サブーは一人で暮らしていたという。もっぱらマハラジャの象舎に入り浸り、いつか父親のように立派な象使いになることを夢見ていた。
やがてサブーの運命を変える人々がマイソールの街にやってくる。イギリスからの映画撮影隊である。象と少年の物語を撮るという外国人たちは、多くの象を撮影に使いたいと、マハラジャに協力を要請した。そしてもうひとつ。演技ができる象使いの少年を探していた。
撮影隊を率いる監督のロバート・フラハティはアメリカ生まれ。元々は探検家だった人物だ。探検の地でエスキモーの生活を記録することから映像の世界に入り、長期滞在と膨大な撮影により、対象をありのままに映像作品とする方法を確立した。ドキュメンタリー映画の父と呼ばれ、山形国際ドキュメンタリー映画祭でも、彼と、共同制作者であった妻フランシスの名を冠した賞が設けられている。
そんなフラハティを惹きつける魅力が、少年サブーにはあったようだ。思慮深く、機転がきき、はにかんだ笑顔が魅力的なルンギーとターバンの少年。そして、長い鼻をクレーンのように操ってやすやすと象の背に乗るのだ。
フラハティの撮影していた映画は、後に『カラナグ(Elephant Boy)』(1937)のタイトルで日本でも公開されている。邦題のカラナグとは、カーラー・ナーグ(黒い蛇)で、ラドヤード・キプリングの『ジャングル・ブック』の一話「象トゥーマイ」に出てくる象の名前である。ところがキプリングの物語の映画化のはずが、インドの大地に立った監督は、劇映画を撮ることを忘れてしまったらしい。慣れ親しんだ記録映画のスタイルで、フラハティは少年と象の姿を追って60時間ものフィルムを撮影し続ける。製作者のアレキサンダー・コルダが痺れを切らしたのは、インドでの撮影開始から1年後。フラハティをイギリスに呼び戻し、自分の弟を共同監督としてドラマ部分を完成させることにしたのだった。
サブーはそのドラマ部分の撮影のためにイギリスに呼ばれた。異国での暮らしには様々な苦労があったに違いない。その頃の話を知りたいと思うが、果たせていない。いずれにしても、きっとサブーは象との生活で学んだ忍耐強さを発揮して、自分の道を切り開いたのではないかと思う。
『カラナグ』はベニス映画祭で監督賞をとり、また興行的にも大成功する。まずフラハティの撮った象たちの迫力が観客を驚かせた。そして象に乗る少年サブーも、エキゾチックな容姿や舌足らずな話し方で観客をひきつけた。あどけない笑顔を見せながら、巨大な象をやすやすと操る姿は驚異でもあった。たちまちサブーは映画スターの仲間入りをする。カラナグを演じたイラヴァタという巨象は、映画撮影後ロンドンの動物園に住むことになったが、サブーもまた、イギリスの地で映画俳優の道を歩むことになった。
2作目の出演作『太鼓(The Drum)』(1938)は、帝国映画(empire cinema)の代表ともされる作品である。帝国映画とは、物語の舞台を異国情緒あふれる植民地に求めるとともに、植民地支配を正当化する意図が明らかな、30〜40年代に欧米で作られた一連のプロパガンダ映画をいう。
『太鼓』でサブーが演じるのは、北西インドのパターンの王子。友人であるイギリス人に、太鼓を叩いて迫る危機を知らせるという役どころである。この作品はインドでも1938年に公開された。しかし、パターン人とインドを侮辱する内容だとして、イスラム教徒を中心に上映反対運動が巻き起こり、ついには上映禁止に追い込まれたという。この作品をめぐっては、当時のインドでの言説も含めて分析した研究書もあるので、興味のある方はそちらをどうぞ。とにかく『カラナグ』の成功でインドでも有名になっていたサブーだが、この事件でインドでの立場はやや辛いものになったろう。
『太鼓』の撮影のあと、サブーはしばらく学校に通っていたようだ。10代半ばとなったサブーが、三たびスクリーンに登場するのが、代表作となる『バグダッドの盗賊』である。すっかり筋骨たくましくなったサブーが、犬に変身したり、巨大蜘蛛と対決したり、大入道ジニーと空を飛んだり、大活躍を見せることになる。
これは今見ても文句なしに楽しめる冒険ファンタジーだ。日本では1951年に公開され、例えば朝日新聞の映画評も絶賛である。まずアラビアン・ナイトに取材した映画として、「おもしろさにおいては、この映画に及ぶものはない」とする。さらに特撮も好評で、「大入道とサブウとの対照や、空飛ぶカーペットなどに始まって、おとぎ話の空想が、画面につぎつぎと現れて来る。トリック映画は一つまちがえば、見るにたえないものになるのに、この映画にはイヤ味がない」またサブーについては、「バグダッドの盗賊にはサブウ少年がなり、例の軽快な動作であばれまわる。…この少年の実力も大いに示される」と高く評価している。

『バグダッドの盗賊』は、当初イギリスで撮影されていたが、第2時世界大戦が始まると、イギリスではプロパガンダ映画以外の撮影は許されない情勢となり、残りの作業はアメリカで続けられた。2年の歳月を費やして完成した作品は、1941年のアカデミー賞で美術・撮影・特撮部門の3冠に輝いている。
『バグダッドの盗賊』には複数の監督が関わっている。その一人マイケル・パウエルは、その後もサブーと長くつきあい、自伝でも親友として回想している。パウエルによれば『バグダッドの盗賊』が成功した要因は、サブーの存在にあったという。飾ったところがなく、上品で知的な印象を与えるサブーがいて、初めて特殊効果が永遠の輝きをもったとしている。実は「盗賊」の訳はややイメージが違う。確かに食べ物を盗んだりもするが、悪事というより懸命に生きる少年の姿が印象づけられる。しかも貧相とは正反対で、堂々と明るく元気いっぱいの小泥棒なのだ。
そんなわけで『バグダッドの盗賊』は、世界中の、とりわけ子供たちの支持をあつめた。70年代にテレビドラマ化されたのもその人気の延長だろう。そのときはハリウッドで活躍するインド人俳優カビール・ベーディが主演している。
『バグダッドの盗賊』の大成功後、サブーはパウエルの勧めもあってアメリカに拠点を移す。メジャー映画会社のユニバーサルと契約し、4本の作品に出演している。
ところでロバート・フラハティの妻フランシスは、児童向けノンフィクション『Sabu : the elephant boy』で、インドで出会ったころの少年サブーを紹介している。それによれば、サブーが生まれて初めて自動車に乗ったのは、『カラナグ』撮影のときだった。しかしサブーは、そのスピードに大いに感心しながらも、象の方が優れていると思ったという。なぜなら自動車と違って、象はうるさくないからだ。そのサブーが、今やハリウッド・スターとなり、颯爽とキャデラックを乗り回すようになったのである。
ただしパウエルは、サブーにはスター的な浮ついた態度は微塵もなかったという。「私にとって重要なことは、私と家族がちゃんと食べ、ちゃんと眠ることができることだ。」象使いから出発したことを、決して忘れることはなかったのだ。
1944年、サブーはアメリカ市民となる。当時、一般にはインド人のアメリカへの帰化は不可能であったというから、映画スターゆえの例外的な扱いだったのだろう。市民権を獲得後、サブーは志願して訓練を受け、空軍に入隊。爆撃機の砲手として太平洋に出撃している。時代とともに、サブーの人生も再び大きく動いていた。
戦後、サブーは映画の世界に帰還をはたす。ところが、世界大戦の終結とともに、ジャングル物やファンタジーの舞台となる植民地はもはや失われたあと。活躍の場は極めて限られたものになってしまっていた。
そんな中、『ジャングルの王(Son of India)』(1949)は、サブーにとって大きな意味のある作品となった。ヒロインを急きょ代役で演じた女優マリリン・クーパーと恋に落ち、結婚することになったのである。
ふたりのあいだには、息子と娘が生まれる。息子のポールは、長じてオンリー・チャイルドというロック・バンドを率いるミュージシャンとなる。映画音楽の仕事もある才人だ。娘のジャスミンは、映画撮影用の馬の調教などに携った後、児童文学『Moonshadow : the Adventures of the Thief of Bagdad』を執筆することになる。
サブーは過去の作品のイメージを抜け出せずにいた。俳優としての将来に限界を感じたのだろう。50年代には不動産業に手を染めている。またイギリス、アメリカ以外での活動も始めている。1952年には、インドでヒンディー語映画にも出演している。マヘーシュ・バット監督の父親で、特撮映画で知られたナーナーバーイー・バット監督の『Baghdad』である。未見だが、8曲も挿入歌があるようなので、サブーも踊りを披露しているのではないだろうか。イタリアではヴィットリオ・デ・シーカ監督の『Buongiorno, elefante!』(1952)に出演。また、この頃、サーカスに参加し、ヨーロッパ各地で象のショーを披露した。ただそんなときも、観客の期待を裏切らないようにドーティ姿で登場しなければならなかった。
最後の出演作は、ディズニー製作の『霧の中の虎』(1964)。サーカスから逃れた虎の物語で、サブーの役はサーカスの虎の調教師だった。
そして1963年12月、サブーは心臓発作で急死する。39歳の若さだった。
サブーの生涯をたどりながら、ぼくは当たり役のひとつ、『ジャングル・ブック』(1942)のモーグリのことをしきりに思った。
狼に育てられたモーグリが、とうとう人間の世界に戻らねばならない日がやってくる。モーグリの、いまだかつてない感情の高まりを、原作は黒豹バギーラとの対話を通じてこんなふうに描いている。
「どうしたことだろう? ぼくはジャングルを出たくない。そしていまどうなったのかぼくにはわからない。死ぬのだろうか? バギーラ」狼に育てられたモーグリが、人間たちに取り囲まれる。哀しい遠吠え。サブーが演じるモーグリの叫びには、演技を超えた真実があったと思う。森を去り人間世界に戻らねばならなかったモーグリ。象の森を出て聖林ハリウッドに生きねばならなかった少年サブー。サブーも、何度か涙を流したろうか?「いいや、小さな兄弟よ。それは人間がいつでも流す涙というものにすぎんのだ。もうほんとにおまえも人間になったのだ。そしてもう人間の子ではないのだ。これからさきはほんとうにジャングルはおまえをしめだしてしまったのだ。泣くがいい、モーグリ。それは涙というものにすぎんのだ」
サブーはあるとき、ウォルト・ディズニーに、いつかインドにディズニーランドを作りたいと言ったという。それはとてもアメリカ人らしい夢であり、サブーのインドへの思いを伝える夢でもある。
そしてまた、ハリウッドを生きた少年ならではの夢であったと思う。
<引用文献・主な参考文献>