これからぼくがどうしてインド映画が好きになったのか、という話をします。体系的な話はできませんが、ぼくの体験から、インド映画の楽しい世界の一端を感じていただけたらと思います。
<1987夏 はじめてのインド>
初めてインドに行ったのは1987年の夏でした。そのときは特にインド映画についての知識はなく、たまたまサタジット・レイの『大地のうた』3部作を映画好きの脈絡で見ていた程度でした。そして実際に見ても、確かにいい映画ですが、それほどそこから「インド」ということで映画を括って興味を持つには至りませんでした。
そのインド旅行は、特定の目的があったのではなく、ただインドに行くための旅行でした。
ところが旅行の途中、デリーで 34th National Film Festival に出かけたりもしました。どうしてかというと、ヒマだったこともあるのですが、インド人の映画好きが判って来つつあったからなんですね。
リシケーシュの茶店で、町の知識人みたいな人と話をしました。それまで天下国家を論じていたその人が、まだインドの娯楽映画を見たことがないというぼくに、映画を見ろと熱心にくどきだしたんです。
インドの町を歩くと、そこらじゅうで派手な映画の看板・ビルボードを見ることができます。それを見てちょっと低俗なものというイメージを抱いていたぼくは、インテリのその人が娯楽映画にどうしてこんなに熱心なのか、ちょっと意外に思ったのでした。そのとき、その人の口から出た女優の名前が「シュリーデーヴィー」でした。
<シュリーデーヴィー>
87年当時、誰もが認めるインド映画界のナンバーワン女優だった。タミル語映画出身で、60年代末に子役としてデビュー。77年の『パディナール・ヴァヤディニレー(16歳)』などで本格デビュー。カハラハーサン、ラジニカーントといった人気男優とコンビを組み、次々とヒット作を生み出した。80年代に入り活躍の場をヒンディー映画界に移し、『ミスター・インディア』『ナギナー(女蛇)』『チャンドニー』といった作品を大ヒットに導いた。彼女の喜怒哀楽、というと4つだけだがインドの演劇理論でいうと9つにもなるという感情の、表現の豊かさは実に素晴らしい。何もインドの人々が彼女を支持するのは、単に美しいためばかりではない。
さて、で、そんなこともあって、オールドデリーで娯楽映画を見てみたんです。客引きのお兄さんを捕まえて、いい映画を教えてもらい(それこそ損得抜きに親身に教えてくれました)、そうして見たのが『ワタン・ケ・ラクワーレー(故国を守る者たち)』という映画でした。くだんのシュリーデーヴィーと、当時人気沸騰中だったダンスのうまい若大将ミトゥン・チャクラボルティの娯楽巨編。まあ言葉もよく判らないし、そのときはまだインド映画の楽しみ方がまだよく判ってなくて、映画自体にはそれほど感心しませんでした。突如(と思えた)挿入される歌や踊りも必要なものと思えなかったし。ただリクシャー引きのオッサンやらと一緒に並んで安いチケットを買ったり、受けてるインド人(拍手したり、一緒に歌ったり)を眺めていて、こりゃあ何かあるゾということはヒシヒシ感じました。
そんなこともあって、たまたまやってた 34th National Film Festival に出かけました。そうしたら今度はケータン・メヘター監督の『ミルチ・マサーラー(とうがらし)』という非常にリアルに植民地時代のグジャラートの農村を描いたものを見てしまいまして、それからオリヤー語の非常に素朴な味わいのある作品とか、ちょっと、こういうのもあるのか! って感じでインド映画ってどうなってるんだ! と興味をかきたてられた、そんなところが、ぼくのインド映画との出会いでした。
<1988夏 大インド映画祭>
すっかりインド大好き人間となって帰国したその翌年は、幸運にもインド祭の年でした。そして夏には、インドのいろいろな映画25本を紹介する大インド映画祭が催されました。
インドに飢えていて、なおかつヒマな学生だったぼくはその25本中の19本を見にでかけました。そして、いよいよもってハマってしまったのです。どの作品も素晴らしかったけれど、特に感動したのは『ピャーサー(渇き)』という作品で、それ以降、ぼくは監督グル・ダットの名前をうわごとで口走るようになります。
もう1本は超娯楽大作の『ショーレー(炎)』。これは2回見ました。国民的スター、アミターブ・バッチャンの一大出世作。チャパティー・ウェスタンとも呼ばれるアクション・ムービーですが、こんなシンプルに感動できる自分がまだいたかと思い、本当に驚かされた作品です。上映が終わった祭りのあと、ぼくは2度目のインド旅行の計画を練ったのでした。
<『ショーレー』>
75年末に封切られ、8年間ものロングランをした映画館もあったインド映画最大のヒット作。『ショーレー:文化的解釈』などという研究書が出版されているくらい。ストーリーは『二人の侍』。雇われ用心棒コンビが盗賊から村人を守る。マルチスター・システムを生み、またアクション映画が席巻するきっかけともなった。
文芸物に出ていた2枚目俳優ダルメーンドラはアクション・スターへの道を歩み始めた。怒れる若者の代弁者アミターブ・バッチャンはいよいよ人々の共感を集め、大スターへの道を歩み始めた。熱い、転回点である。
<1989春 2回目のインド旅行>
西ベンガル州にタゴールが大学を作ったので有名なシャンティニケトンというところがあります。そこでボールプル・クリケット・クラブのメンバーとひょんなことで知り合いました。で、練習試合を見学させてもらったりしたんですね。夜になって、星空の下で彼らの一人が、ハーモニカの演奏を聞かせてくれました。タゴール・ソングだとか、いろいろやってくれたのですが、いきなり、聞き覚えのあるメロディーが始まりました。それが『ショーレー』の「この友情を俺は裏切らない」という歌だったのです。この歌は映画の中で何度も使われていて、そのときはサッド・ヴァージョンをやってくれたのですが、これにはめっぽう感動しました。そのあと、ミターイー(甘菓子)屋に連れていかれて、「ごはん食べるな、ミターイー食べろ」とはやされてミターイーを食べさせられた経験とあわさって、あの夜のことを思い出すと甘い気持ちになります。
それからリシケーシュの奥にあるナレンドラナガルというペンフレンドの家にも行きました。そこは、まあちょっと裕福な家でビデオがあったんですね。で、映画をさんざん見せられました。それから、カセットに声を録音して持たしてくれたんですが、家族の歌う歌がことごとく映画のヒット曲でした。そんなこともあって、ぼくはまあインド映画のミーハーになってしまったのです。
ただ、そうしてインドの娯楽映画を見ていくうちに、ちょっと変な気持ちになることがよくありました。見ているときは単純に楽しいのですが、終わってみるとどうしてあそこまでやるのかとか、あの展開はどういうわけだとか、自分には理解できない部分がままあるのです。一緒に見てるインド人が妥当に感じてる部分を、ぼくは奇異に感じてる。3回目の旅行で、ぼくはインド映画を再発見することになりました。
<厚顔無恥のご都合主義>
インドの娯楽映画ではストーリーのご都合主義が大手を振って歩いています。
そのことの意味を、ぼくは、アニル・カプール主演の『ヒファーザト(保護)』を見ていて確信しました。この映画の物語は、みなしごが成長して親の敵をうつというものです。で、主人公が赤ん坊のとき、乱闘に巻きこまれて、橋の上から放り投げられ、あわや川のなかに…、というシーンがあるんですね。ところが都合よく上流からカゴが流れてきて、赤ん坊を受け止めるのです。これを見て、日本人のぼくは、反則ワザと思うのです。そんなうまいこといくか、と。ところがインド人の観客は立ち上がってマジに拍手してるんですうね。ブラボー! って感じで大勢が。同じ強運を表現するにしても信憑性のある演出は他にもいくらもあると思うのです。それをわざわざやるということは、観客が向かい合ってる映画の世界がそれだけ強固だということ。しかもそこに生きる主人公は、物語上の巧妙な仕掛けで作者に保護されるよりも、むしろストレートな奇跡によって救われるべきである。そうインドの観客は感じているんじゃないか? そんなことを考えました。そうしてみると前述のシーンは、幼いクリシュナがヴァースデーヴァによって救出され、カゴに乗ってヤムナー川を渡る有名な神話のシーンを思いださせないこともない。例えば神話の中では、ご都合主義こそ自然で必要なことなんですね。
<循環する物語(円環構造とワンパターン)>
もう一点は循環するストーリーと言ってみました。この言葉の意味はふたつあります。ひとつは、インド映画によくある、ストーリーにおける円環のイメージです。そういう仕掛けさえ作っておけば、下手なストーリーもサマになるという安直な発想かもしれないけれど、逆にいえば、そういう安直でもある程度受けるくらい、それはインド人好みだということです。具体的にはどういうことかというと、かつて父親が恋人にささやいた愛の言葉を、そんなことを知らないはずの息子が全く同じシチュエーションで使うとか。かつて父親が殺された同じ場所で、再び息子が仇と闘うとか。それらは、始めも終わりもないインド的時間観を思いださせる。そしてもうひとつの意味は、ひとことで言えばワンパターンです。同じ(ような)話が何度も映画化されることでもインド映画のストーリーは循環しています。世界的評価の高いベンガルの監督リトウィク・ガタクはインド人を叙事的民族だと言ってます。
ぼくらは気ままに手足を伸ばすのが好きで、物語の細かい展開には余りこだわらない。そして同じ神話や伝説をくりかえしくりかえし話してもらうのが好きだ。ぼくらは物語が「何」であるか余り気にかけず 「なぜ」「どんなふうにして」そうなのかを気にする。これは叙事的態度といってよい。(「インドの伝統と映画製作」『コッラニ』12号、1987)納得しちゃいますね。インド映画にも叙事的世界が広がってるんだなーと思います。
<善悪ならざるもの>
最後の1点はまだあまり自信がありませんが…。インド映画というと単純な勧善懲悪というイメージがあるかもしれません。確かに誰でも知ってるヒーローの俳優が、誰でも知ってる悪役スターをやっつける映画も少なくありません。しかしそこには水戸黄門のような大義名分的なものは希薄だと思います。善悪はあるけれど、勧善懲悪はない。善が悪を意味において懲らしめるのではなく、善玉悪玉が、みんなそれぞれの運命を生きてるということ、その運命を生ききることが最終的な善である、みたいな。そういう感じを受けます。行為への没入。娯楽映画の話に『バガヴァット・ギーター』を持ち出すのは大げさですが、関係なくはないと考えてます。
実は最初に作られたインド製の長編劇映画は神話を題材にしたものでした。そして題材ばかりでなく、演技(手振りなど)・俳優・スタッフ・観客・歌踊りが入るというスタイルまで、映画の要素すべてが古典演劇や民衆劇の伝統を引き継いでいます(日本の時代劇映画のように、どこの国でも多かれ少なかれあることみたいですが)。したがって確かに映画は西洋から入ってきた文化ですが、インド映画の中にインドの人々の伝統的価値意識が色濃くでているとしてまったく不思議じゃありません(まあ、水戸黄門を見れば日本人が判ると言われれば、それだけじゃ判らんと答えますが、まあヒントにはなるでしょう)。
根無し草の都市住民のアイデンティティであった映画は、農村に代表される伝統文化に対峙するものでもありますが、シャーム・ベネガル監督のインド映画作者としての次の言葉には期待せざるをえません。
我々映画の作り手側が、映画は自分たちの伝統的な表現手段であること、故にそれは芸術にまで高めることができること、そしてその責任は自分たちにあることーーこれらをよく心にとめて映画を発達させていけば、きっと我々は新しい伝統を築き上げることもできると思うのです。(松岡環「インド映画レポート'82インド国際映画祭報告」『インド文学』16号、1982)
そんな発見と再発見を通して、ぼくはインド映画に狂いました。
そして、自分の趣味の押しつけかもしれませんが、一人でも多くの人にインド映画を見ていただき、単純に楽しく見ていただいたあと、こってり悩んでいただきたいと思うようになりました。こんな面白いものをひとりで楽しんでいていいのか、という思いが出発点です。
そしてシネマ・サプナーの第1回『ボビー』上映へとなるのですが、具体的にその活動にいたるためには、松岡環さんとの出会いがなければなりませんでした。松岡さんはインド映画紹介・研究の日本でのパイオニアかつ第1人者です。さらに現在は、アジア全域の映画・ポップスなどについて、幅広く紹介・評論活動をされています。
シネマ・サプナーのやり方は、ほとんど松岡さんが東京で1981年から始められたプレーム・シネマの活動をまねています。そして現在にいたるまで、たびたび協力していただいてます。
さてそれでは、ちょっと大げさなので恥ずかしいんですが、こうしてたどり着いた第1回上映会のチラシに印刷した檄文?を以下に載せます。
シネマ・サプナーは、インド映画のビデオ・テープを上映する会です。
現在、中国をはじめとして、アジア・南米・アフリカ・東欧など、今まで紹介されることの少なかった国々の映画を見る機会が徐々に増えています。それらを見ると、これまでの日本の外国映画の上映状況が、いかに欧米偏重であり、私たちが豊かで多様な、別の映画世界に対して閉ざされていたかに気づくと思います。
インド映画が長い歴史をもつこと、年間800本という世界最大の映画生産国であること、今でもインドの人々にとって映画が一番の娯楽であるといったことは、今ではかなり知られていることと思います。実際の作品も、1988年の「大インド映画祭」や、NHKテレビでの放送などを通じて紹介されてきました。
また最近は、南アジアからの外国人労働者向けに、南アジアのビデオ・レンタル・ショップもできていますが、それでも名古屋でというと、インド映画を見る機会はそれほど多くないと思います。
「サプナー」とはヒンディー語で「夢」という意味の言葉です。ひとりでも多くの方にインド映画の楽しさを味わっていただきたい、そう思ってシネマ・サプナーをつくりました。映画を通してインドに、あるいはインド映画を通じて別の考え方や、世界に出会えたらよいなあと思ってます。どうぞよろしくお願いします。(1991年5月)
1991年10月19日(土)、名古屋のインド古典音楽研究会というところで、インド映画についてお話させていただく機会がありました。以上はそのときの話を元にしています。
ぼくをインド映画好きにしてくれたインドの人々、そしてシネマ・サプナーに関わって下さったすべての皆さんに感謝します。
そして今後とも、シネマ・サプナーをよろしく!
(1992年5月)