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第6回オーライ!ニッポン全国大会ライフスタイル賞受賞者 (養老孟司東大名誉教授より手渡されました。(09/3/11)
石破農林水産大臣らが出席し盛大に行われました。


拝啓
もうすぐ春とはいえ寒さ厳しいですが、皆様には益々ご健勝のこととお喜び
申し上げます。
さて、この度「第6回オーライ!ニッポン大賞ライフスタイル賞」を受賞致しました。
誠に有難うございました。ただただ胸がいっぱいで夢のようです。まるで山の頂上
で舞茸を見つけたような感動と喜びです。
大変レベルの高い賞を頂くことになり、光栄に存じております。これもひとえに
皆々様の温かいご声援ご協力のたまものと、心より厚くお礼申し上げます。
これからも50年前の暮らしを基本とした心豊かな暮らしを目指して、皆様と共に
歩んで参りたいと、気持ちを新たにしております。
今後ともご指導のほど、よろしくお願い申し上げます。 敬具
「オーライ!ニッポン大賞」は全国の都市と農山漁村の共生・対流に関する優れた取り組みを表彰し、
もって国民への新たなライフスタイルの普及定着を図ることを目的として、オーライ!ニッポン会議
(代表:養老孟司東京大学名誉教授)。農林水産省ほかの主催で実施しているものです。詳しくは
オーライ!ニッポンホームページをご覧ください。
主催:オーライ!ニッポン会議、農林水産省、(財)都市農村漁村交流活性化機構
<誰もいない>
「時速200キロのもうスピードでコンクリートの壁に激突した。一命をとり止めた人間は、
必死になって、その現場から離れようと逃げた。身動きができず、助けを求めたが誰も
来てくれない。いたる所で同じような事故が起きていたからだ」実際にあった話ではないが、
現在の世界情勢を、私なりに表現してみました。
「自在屋」が「50年前の暮らし」と銘を打ってから、早や、10年が過ぎた。今、世界全体が
経済・環境・教育などの面で行き詰まっている。ほとんどの人間は金銭に目がくらみ、
わき目もせずに猛スピードで突っ走った、そのツケである。壁に激突てしまったのです。
もはや、人間同士が支えあう要素がなくなってしまいました。そこで、今、ようやく自然の
力(エネルギー)をお借りするしかない、と思いついたのです。勝手気ままな人間は、最後の
藁一本にしがみ付いたのです。奪うこと、ではなく与えることが重要なのです。すなわち、
私たちが目指す「助け合い」と「自給自足」という自然との共生です。
50年前の暮らしに、知らず知らずのうちに、一歩二歩と戻っている、と私は思います。
<初夢>
私が、文部科学大臣に任命された。就任の記者会見は、田舎の県庁舎で行われた。
第一声は、囲炉裏端教育の導入である。全国の小・中学校と高校の教室一箇所に
「囲炉裏端」を設置する。いわゆる「囲炉裏端教室」である。学生と先生はこの場で、
悩み事を話したり、将来の設計図を描いたりする。赤々と燃える囲炉裏火。いつも
黙り込む子どもたちは、この教室に入ると、不思議にしゃべりだし、鋭い質問をするように
なった。大臣は、次の手を打つ。全国の家々に、「囲炉裏」を設置する構想を打ち出した。
新築住宅の囲炉設置費用として、政府が半額補助。既存の家の改築費として、300万円
を無利子で貸し出す。返済期間は200年(親子三代)。記者「何故、囲炉裏端なんですか」
大臣「日本の生活の伝統文化だ。囲炉裏のある家に行ったことがあるかね。いの一番に
集まる不思議な空間が囲炉裏端なんだよ。わかるかね、君」
「自在屋」の家の庭には四季を通して、きれいな花が咲き乱れます。


「食育」とは?親子一緒に体験しました。
「自在屋」の目指すもの
50年前の暮らしです。自給自足と助け合いの暮らしです。我慢強い暮らしです。
山や森、川を最も大事にする暮らしです。そこには生物が集まり、やがて人が
住めるようになる暮らしです。不景気がきても、地震がきても、お金がなくても
びくともしない暮らしです。
「自在屋」からの提言
一年に一度、自然界に身を置くことをお薦めします。衣食住の全てを
変えることによって、今までと違う自分を発見でき、自分の感性が磨かれた
気にもなる。例えば雨上がりの日、雨蛙を手の平に乗せてみるのもいいだろう。
野草を食べながらゆっくりと散策するのもいいだろう。
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− 田舎人は決して都会を真似てはならない。真似たところで何んにも
ならない。勝てない。それよりも地方の資源を磨き、門戸を開けて、
都市住民を快く受け入れる心を持つ事が肝要だ。同じ人と、同じ所で
同じ事をやっていても何にも生まれない。衰退していくだけだ。
田舎暮らし体験塾とは
マニュアルや辞書、黒板もなく、先生もいない。ただ、思うがままに何かを感じ
取る場を提供するのみである。「食育」や「温暖化」についても深く考えさせられる
場でもある。読み書きより、まず自ら体験することを第一とする。
尚、当塾は行政主導型ではなく、地域に根ざした住民自前型の活動である。
川井 達弘(かわい たつひろ)
1941年秋田県旧荒川村に生まれる。農家の3男坊。67才。
高校卒業後、就職列車で上京。夜間大学に行きながら、2つの
零細企業を経て、1964年大手外資系コンピューター会社に入社。
定年まで8年を残して、およそ30年間勤めた同社を希望退職して、
1993年、ふる里にUーターン。他人に渡っていた生家を退職金で
買い戻し、300年続いた川井家を再建する。農作業の傍ら、妻と
二人で自宅(生家)を開放し、都市住民を対象にした、田舎暮らし
体験塾「自在屋」を開講、運営。10年目を迎える。これまで当家を
訪れた都会人は、すでに3400名を越える。都会生活34年、田舎
暮らし33年の経験を持って当塾を運営する。
「地域に根ざした食育コンクール2003」で特別賞受賞。2007より
秋田県移住・交流ブロガーとして活躍中。NHK総合テレビ「日本の、
これから」、NHKk教育テレビ「からだで、あそぼ」などに出演。
「自在屋」が3400人の都会住民に愛される理由
・地形、資源に恵まれていること。(我が村は四方八方、山や森に囲まれて
いて、山の麓を川が流れ、真ん中に田んぼや畑がある)
・50年前の暮らしを目指していること。(木造曲りや、囲炉裏、カマドを
備えている)
・料理は田舎料理であること。(新鮮な食材で郷土料理を体験する。化学
調味料は一切使用しない)
・お客様が実家に帰った気持ちになれること。(60年前の暮らしを守り、家は
改造していないので、先祖代々の歴史がそうさせている)
・私たち「自在屋」の田んぼ・畑は無農薬であること。(安全・安心の食育)
・欲張らず儲けない、身の丈運営であること。(田舎は儲けるところではなく、
楽しむところ。当体験塾はそんな塾です))
・妻と私は、都会生活半分、田舎暮らし半分の経験があること。(どちらの
気持ちもよく分かっているので、都会人も安心、村人も安心して交流できる)
・お客様には格差を付けず、誰でも同じように接していること。(1人でも40人
でも、子供でも大人でも、体の不自由な人でも同じ体験をします)
< 「自在屋」の魔法の暮らし紹介>食育推進とCO2削減を実践
灯油代ゼロ円(冬場)・・・・・・・洗い物のお湯はどうしてるだっぺ?
ガス代ゼロ円(冬場)・・・・・・・料理やお茶など、水でやってんの?
洗顔、お湯使わず(冬場)・・・氷で洗うんだべがあ?
電気ポット使わず(冬場)・・・・突然の来客の時はどうしてんだべえ?
炊飯器使わず(冬場)・・・・・・・ご飯たべねえのっか?
電気毛布使わず(冬場)・・・・・−15度、体が凍るべよ?
乗用車、週2回だけ(冬場)・・・出かけたり、買い物はどうすッペえ?
散髪に行かず(通年)・・・・・・・・髪が無くたっていくだべえよ?
履物買わず(2007年)・・・・・・お出かけに必要だべえ?
衣服、買わず(2007年)・・・・・身だしなみってあるじゃん。
野菜、買わず(春)・・・・・・・・・・バランスよくないじゃん。
お風呂をたてず(冬場)・・・・・・側に行けねえよ、これじゃ。
暖房に電気、ガス、灯油使わず(冬場)・・・一日中、寝てるんだべがあ?

       
      
<人生最後の決断>
勇気と決断の時がやって来て、身震いがした。なにしろ、大金をつぎ込む
大事業が私の前で仁王立ちした。請け負うべきか、見過ごすべきか。
その事業とは、倒産した生家を再建する事であった。世間では、この種の
類は、ホッポリ投げるのが一般的だ。金も掛かるし、生活する手立ても無い
のが最大の理由である。だとすれば、下手に手を付けないのが妥当である。
しかし、私には意地がある。生まれ育った家を捨てる訳にはいかない。
たとえ、東京で暮らていても、ふる里を恋しがるものだ。都会の雑踏から逃れ
て、一息つける場所を探すものだ。私の心は、ふる里を救う気持ちに傾い
ていた。
希望退職すれば、退職金が手に入る。金は心配ない。問題は、再生して何を
やるかだ。私が18才で田舎にいた時、東京でいた叔父が「東京は勉強する
所で、住む所ではない」と言っていた事を思い出した。それに、所詮、百姓の
セガレ、三男坊である。このまま東京にいても勝てっこない。両親も家を追い
出されて、苦しんでいることだろう。丁度そのとき、バブル経済が崩壊。会社は
いち早く、希望退職を募り始めた。この瞬間を見逃すな。
この時、私の運命を変えたのは、先見性・勇気・決断の七文字であった。
再建を見逃す方法も選択岐としてあった筈だ。退職金で世界旅行や温泉旅行、
ダイヤの指輪。第二の人生、左ウチワ・・・。だが、私はあえて、ふる里への
Uターンの道を選んだ。両親を救い、300年続いた生家を再建することこそ、私
の生きる道と決断したのである。
妻の愛情溢れる同意があったことは言うまでもない。
その時、殆どの社員は、まだ危機感を感じていないなかった様に思えた。各
企業は経費削減を打ち出し、一斉にリストラに乗り出す。タイミングの差こそあっ
たが、徐々にスリムな企業へと変身せざるを得なかったのだ。その後、退職金
も出ない企業があったと聞いている。それから見れば、私の選択は間違っては
いなかった様に思える。
退職の日、恒例に従い花束を抱いて、上司や先輩、同僚らに見送られて、会社
を後にした。自宅は車で10分の所だが、当日は黒塗りの車が用意されていた。
特に寂しいとか、変な気持ちはなかったが、車の中が花の香りがして、何か
すがすがしい気持ちであったことは確かである。自宅ではこの日のために、用意
されていた物は特に無い。花好きの妻は花を花瓶に入れて飾ってくれた。
いつも通りの夕食を終えて、約29年間お世話になった会社に向かって妻と二人
でお辞儀をした。
<無言の両親と対面>
両親は生家を追われ、秋田市のアパートに移り住んでいるという。一刻も早く
会いたい気持ちで、飛行機に乗った。秋田まで丁度1時間。いつもだったら
生家にまっすぐ行くのに、それも今では出来ない。他人の手に渡っているからだ。
住所を基にアパートに向かった。古めかしい二階建の階段を上がった。ぎしぎし
と音がして、廊下の板がたわむ。12ある部屋には誰も住んでいない。一番奥の
部屋に灯りが点いていた。破けたドアーを開けた。その瞬間、今まで見たことが
ない両親の姿があった。二人とも小さなコタツに入り、目を閉じていた。無言で
あった。兄弟の誰かが、私の来るのを事前に教えたのだろうか。なんで、こんな
・・・・涙はしばらく出なかった。4畳半の、タンスの上には家から持ち出した仏像
が置かれている。”よく来てけだなあ”母がポツント言った。来てくれて有難うの
意味である。父は身動きもしない。私は涙が止まらず、そーと、タンスの上に5万円
を置いて、ドアーを閉めた。
<生家が売られた>
約500坪の土地は荒れ放題になっている。100坪の家の周りは頑丈な板や
スレートで囲んであり、中へは入れないようになっていた。玄関の前の売り物件
の看板はなくなっていたので、誰かが買ったことを意味していた。夜は灯りも
つかず、真っ暗だと村の人が教えてくれた。まだ、誰も住んではいないらしい。
<人が住んではじめて住居と言う>
両親には叔父を通して知らされていた。難産の末、生家は戻った。いったい家の
中はどうなっているんだろう。ぐるっと一回りしても、板などで囲まれていて、入る
場所が見当たらない。そうだ、小学校の頃かくれんぼした時、馬小屋の隅が破れ
ていたっけ。三つ揃いの背広を着ていたのを忘れたかのように、夢中で穴に潜り、
中に入った。ガランとした家の中には何も無かった。家具や食器、農機具、仏壇
も無い。土壁が落ち、窓ガラスが割れている。静かに、座敷に上がろうとしたが、
ぶよぶよした畳に足をとられて、急いで庭にあった長靴に履き替え、再び座敷へ
上がった。土足で悪いような気がしたが、いたしかたなっっかった。ここが茶の間、
ここが床の間、ここが私の寝ていた部屋だ。涙が出るというより、体が震えてどう
にもならなかった。嬉しさからか、寂しさからかは分からないが、早く妻の所に帰り
たくなり、最終便の飛行機に乗り込んだ。
<両親は柱を撫でた>
私達はまだ神奈川に居たので、一足先に両親をアパートから生家に戻すことにした。
7年ぶりに生家と対面することになる。同行した兄弟達によると、玄関を入るなり、
ケヤキのすべすべした柱を涙ながらに撫でたと言う。母はよその家にでも来たかの
ように、遠慮しながら家中を見渡したと言う。
<長男からバトンタッチ>
7年間、空き家同然の生家を一年がかりで修繕し、300年続いた川井家を再建した。
農業の機械化に失敗した長男に替わり、三男の私が家業を継ぐことになる。継承と
言っても継ぐ物が無い。固有の財産は何一つ無いのだ。ただ、無形の財産が残った
のは私の最高の喜びであった。それは明治、大正、昭和、平成と生き抜いて来た、
父、母の「暮らし方」であった。
<50年前の暮らしに戻す>
第二の人生に昔の暮らしを取り入れるのが、私たちの目標でもあり、喜びでもある。
だから極力、機械は使用しない。もちろん化学肥料や農薬もはもっての外だ、意味が
ない。お金はあまり無いので使わない。当然、自給自足と助け合いの暮らしにせざるを
得ない。助け合いとは何か。ギブアンドテイクのことで、都会人に田舎を提供し、私たち
は都会人からニューパワーを頂く。共に喜びを分かち合い、楽しく生きるための助け
合いなのです。
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