市民農園の紹介

その他の国の市民農園

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イギリスの市民農園 allotment garden
 市民農園の発祥は18世紀末のイギリスからと言われている。産業革命の中、囲い込み(エンクロージャー)運動が進み、多くの農民が共有地の権利を失っていった。この救貧対策として、一定区画を割り当てる(アロットメントして)政策がとられた。この農作物の自給生産を目的とした区画が後に発展し、現代のアロットメント・ガーデンへと受け継がれていった。
 19世紀末にアロットメント法が制定され、市民農園の公有化が担保された。第1次世界大戦が起ると、食糧自給の必要性からアロットメントの数が増加し、1918年には最大140万区画に達した。そして、終戦とともに減少したが、第2次世界大戦が始まると同様の動きを見せ、再び140万区画となった。戦後は庭付き公営住宅の増加等もあり減少を続け、ピーク時の1/3ほどまでに減りつづけた。近年のアロットメントは、区画面積を小さくしたり、道具小屋を兼ねた簡易の休憩施設を設けるなど、レジャー的要素が加味され、日本の都市部の市民農園と同様の使われ方をしている。しかし、ドイツやオランダなどの市民農園とことなり、菜園中心の活用がなされており、クラブハウス的な施設もあまり見らないなど、形態的にも日本の都市部の市民農園と類似している。
 欧州では、アロットメントを起源とした運動をドイツを含めた各国に伝播し、シュレーバー博士の思想やフランスの家族運動などにより形態が整えられ、互いに影響を与えながら現在に至ったと考えられている。
オランダの市民農園 volkstuintje

 世界で最も美しいといわれるオランダの市民農園は、フォルクストェイナ(人々の庭)と呼ばれている。その起こりは、産業革命以前の農園労働者が、貧しい生活を少しでも支えるために、過酷な農園労働の合間に与えられた菜園で自給のジャガイモを生産し餓えをしのいだこととする意見もあるが、19世紀に農村から都市に流入してきた工場労働者達が、低賃金を補うために会社に耕作できる土地を要求したり、経営者が労働者のモラル向上や栄養補給に菜園の価値を見出し土地を貸し与えたこととする方が妥当かもしれない。複数の菜園がまとまった農園は、1920年にできたアムステルダムの農園が最古とされているが、1928年に早くも利用者協会の組織が設立されたことは、農園利用を勝ち取るための歴史がかなり以前からあったことを裏付けている。
 オランダの市民農園は二つのタイプに分けられ、一つは野菜を作るだけの菜園で主として農村地域に多く全体の約七割がこのタイプである。他方は主として都市部に多く、区画の中にサマーハウスと呼ばれる休憩小屋を持ち、野菜より花で埋め尽くされている。世界で最も美しい市民農園と評されているのは、この都市部にあるサマーハウス付きの農園のことである。その美しさの訳を、アムステルダム市内の市民農園から探ってみた。
 アムステルダム市は、アムステル川にダムを築き、低湿地や海を埋め立てて造られた街で、複数の同心円状と数本の放射状の運河が、輸送と水抜きのために張り巡らされている。市民農園も同様に水路を随所に配し、農園の水抜きと景観づくりを図っている。区画の面積は約300uで、小屋の大きさは29u以下と取り決められている。水路は高低差が少ないく、排水による汚染が起こりやすいことから、有機無農薬栽培やバイオトイレの導入などに真剣に取り組んでいる。
 電気や水道は、各小屋には配分されていないのも、利便性の追求より環境汚染への配慮だと云われいてる。区画の庭は、花の国オランダらしく野菜の栽培より花の植栽が多くなされており、冬季を除いて美しい花で埋め尽くされている。区画の小屋は、形や外壁、屋根など面積以外は各戸の所有者の趣味で自由とされている。普段の生活において、衣食住の内、住を最も重視するオランダ人らしく、全ての小屋は完璧に手入れされており、窓ガラスに一点の曇りすら見られない。窓ガラスの内側には、真っ白なレースのカーテンがかけられ、窓辺に鉢花まで置かれている。この小屋と区画の植栽、園路や水路の共有部分全てが美しく、管理が行き届き、そして全体として調和していることが、世界一美しい市民農園といわれる所以であろう。
 このように美しいオランダの市民農園は、他の欧州諸国と同様に市民農園利用者による協会組織で運営されている。オランダ全体で約7万人の会員がいる市民農園協会は、国からの援助やドイツのクラインガルテン法のような法的裏付けもなく、自主的な運営を行っている。しかし、協会は、市民農園の用地を市町村から安価に借りるなど、公益組織として位置付けられている。

スウェーデンの市民農園 Kolonitradgard

 首都のストックホルムで最初の市民農園が開設されたのが1904年といわれており、約100年の歴史を持っていることになる。当時、経済的に恵まれていなかったスウェーデンは、貧しい工場労働者を多数抱えており、この労働者の生活を少しでも豊かにするため、ドイツやデンマークにある市民農園をスウェーデンに導入する提案が、ストックホルムの一人の看護婦アンナ・リンドハーゲンによってなされたのが始まりとされている。
 第一次と第二次の世界大戦の時は、ドイツと同様に市民農園が食糧供給の上で重要な役割を果たしたとされている。しかし、戦後になって物を買う余裕がでてくると、自分で野菜を育てることは貧しさを示すこととなり、市民農園運動も低迷するようになった。時が過ぎ、欧州諸国の中でもトップクラスの国民所得を得るようになると、国民の意識も変わり、一時は貧しさの象徴であった野菜づくりを含めて、環境に対する創造的な活動として市民農園が見直され、生活の中に根付いた運動として現在に至っている。
 スウェーデンには、大きく分けて三種類の市民農園がある。一つは「コロニーガーデン」と呼ばれるもので、300から400uの土地に、26から40uの小屋を建てたものである。二つ目は、およそ150uの土地で小屋を建てない「レジャーガーデン」である。最後は、居住地から遠く離れた場所に、週末滞在する小屋を建てた農園で「リモート・コロニイ(離れた集落)」と呼ばれる別荘タイプである。

 スウェーデンの市民農園は、1996年に調査した日本クラインガルテン研究会の廻谷義治によると次のようになっている。1996年現在の市民農園と協会の数は、スウェーデン全体で279の地区市民農園協会に所属する28000区画と、他に協会に属さない7000区画の農園がある。また、ストックホルム市には、75の協会に所属する7100区画の農園があり、その内コロニーガーデンは、28協会で3300区画となっている。
 コロニーガーデンの年間利用料金は、u当たり3スウェーデンクローネに協会費(水・便所・道路等の経費を含むが電話と電気は含まれない)800から1500スウェーデンクローネを加えた金額で、小屋は自分で作るになっている。ある農園の例でいえば、区画の賃借料が900スウェーデンクローネで、これに1000スウェーデンクローネの協会費が加わり、日本円に換算すると年間約3万円の利用料金となる。区画の借りられる期間は通常25年間であるが、これは法律で定められた最大期限である。

 ストックホルム市のパンフレットには、市民農園が果たしている役割を次のように唱えている。『花や果実やあらゆる種類の野菜の収穫物は、農園利用者に深い感銘を与え、私達の多くは都市の中で自然を楽しむため、市民農園の周りを散策し楽しんでいる。市民農園は、都市と周辺地域を美しくする重要な役割を持っている。市民農園は、子供達には自然の味を、老人達には平和なオアシスを提供する首都の重要な呼吸する空間である。そして、この環境は、世代間の断絶に橋を架ける人々の出会いを促進する。首都の市民農園は、鳥や蝶や小さな生き物達の重要な生息空間になっているだけでなく、首都に住む多忙な市民にとって、平和と静寂の空間であるこの市民農園こそが、その魂を休養することのできる本物の庭である。(廻谷義治訳)』
 ストックホルム市内には、7100区画の市民農園があるが、その中には車椅子の障害者が利用する区画など、全ての市民が農園を楽しめるノーマライゼーションの考え方が根底にあると感じられる。

オーストリアの市民農園 kleingarten

 ドイツ語圏であるオーストリアの市民農園は、ドイツと同様にクラインガルテンと呼ばれている。区画貸借の仕組みもドイツと同じく、地域の自治体から利用者組織(クラインガルテナー協会)が賃貸期間50年で借り、各利用者に貸す仕組みをとっている。利用者組織も地区協会から市協会として全国協会というピラミッド型に組織されており、利用者の権益保護にも機能している。
 区画の大きさは240uから400u、標準で約300uとなっている。ドイツと同じなのはここまでで、その他の要件がオーストリア、特にウィーン市のクラインガルテンを特異的なものにしている。まず、ラウベ(区画内に設置された休憩小屋)は、区画の大きさによって面積が規定され、100uの区画では10u、200uでは35u、300uでは50uとなっている。しかも、このラウベの面積はいわゆる建坪であり、二階も同じ面積が認められているばかりでなく、35uのラウベの場合、地下室が50uまで認められており、50uのラウベに至っては、83uの地下室まで可能となっている。つまり、300uの区画には、最大で183uの床面積を持つラウベを建てることが確保され、生活することが十分可能な大きさである。この基準は、州によって異なっており、戦後の住宅難の時代に家の無い人はクラインガルテンのラウベに住んでも良いとなった歴史により、戦争被害の大きかった大都市では大きなラウベが認められている。
 ウィーン市内のクラインガルテンの状況を、1994年に市民農園の国際会議の際に調査をした金丸三郎氏(当時、日本クラインガルテン研究会代表幹事)は、次のように述べている。『多くのラウベは、水、電気、ガス、下水を完備しており、衛星放送のアンテナもついている。中にはプールまで備えたものもあり、完全に住宅化されている。最近に、ラウベの大きさの規制が35uから50uに拡大されたことから、大きなラウベへの立替が盛んで工事中の区画がいくつもある。そのほかの特徴としては、野菜がほとんど作られていないことである。数地区のクラインガルテンの300近くの区画の中で、菜園らしい菜園はたった一区画しかなかった。
 区画の利用に関する制約がないことから、野菜を作る人はまれらしい。「なぜ野菜を作らないのか」という質問をしたら、「野菜を作りたければ、クラウトガルテンを借りる」という答えが返ってきた。クラウトガルテンとは、日本の都市部の市民農園と同様の小屋の付かない小面積の畑のことである。クラインガルテンを菜園と考える我々の基準では、ここは単なる賃貸住宅であるが、彼らにとってはクラインガルテンの快適性を追求し勝ち取った権利の形なのである。
 ドナウのほとりに立つドナウタワーから、境界を接する住宅地とクラインガルテン地区が見えた。違いはクラインガルテンの中には駐車場がないことと、クラインガルテンの方が緑被率が高く土地利用にゆとりがあることであった。』
 オーストリアのクラインガルテンの全てが、このウィーン市と同じ訳ではない。ザルツブルグ市など住宅環境の良好な地方都市では、ドイツと同様なクラインガルテンを見ることができる。しかし、それらのクラインガルテンが、将来ウィーン化する可能性も十分にある。特定の契約者が、都市内部の公共用地を50年もの間、安価な借地料で専有するだけで、地域に対して公益性を果たさない施設を社会がいつまで認めているのであろうか。居住環境の補完的な機能を期待されるクラインガルテンが、それ自体居住空間となり地域環境に付加を与えるようになったら、地域におけるクラインガルテンの存在意義はあるのであろうか。我々も、欧州の市民農園を目指し、利用者の既得権を強力に保護し、居住空間と同様の快適性、利便性を求めていけば、当然の帰結としてこのようなものになることを意識しておく必要がある。日本においても、中山間地に整備が進む滞在型ではその恐れが無きにしも非ずである。その意味で、オーストリアのクラインガルテンは、我々の市民農園のあり方や考え方に大きな示唆を与えてくれる。




チェコ

 チェコは、ソビエトが存在していた時代には、チェコスロバキアとして東欧諸国の一員であった。1993年にスロヴァキアと分離・独立したが、市民農園は当然のこととして社会主義体制の特徴を持っている。社会主義国家の市民農園は、民主主義国家の市民農園より国民生活の中で重要な位置を占め.るとされていた。旧東ドイツを例にとると、クラインガルテンが多いのは、生鮮食品を含めた流通体制の不備や、農業生産効率の低さからくる都市部の慢性的な食糧不足に対する市民の自衛方策だけでなく、利用者が地代の他に収穫物の一部を体制に納め、都市の食糧供給の一部を賄っていたことから、国の政策でもあったのである。 このような背景から、社会主義体制が崩壊した今日も、チェコ共和国の首都である人口120万人のプラハ市では、郊外のいたるところに市民農園が存在している。残念ながら、公式な調査訪問をしていないので、統計的データを持ち合わせていないが、1996年にドイツドレスデン市で開催された市民農園国際会議に参加した、日本クラインガルテン研究会の牟田浩美は、会議の後に訪れたプラハ市の市民農園を次のように紹介している。

「プラハのホテルは、西欧の都市と比べても宿泊費が高いので、市の中心地から市電で20分位離れた住宅地の中のペンション(民宿)に宿をとったのです。ペンションの奥さんに、近くの市民農園の場所を聞き出かけたことろ、住宅地と農地の境や鉄道線路脇の騒音緩衝地帯などに、ものすごく多くの市民農園があることに驚きました。その幾つかの市民農園を見て感じたことは、区画の大きさは300uくらいで西欧諸国の市民農園と同規模ですが、芝生の面積が少なく野菜を真面目に作っているのが印象に残っています。それと、大分昔に建てたと思われるラウベを、自分達で修繕しながら大事に使っているのが見て取れます。
 市民農園の中で、他の国では見たことが無い面白い区画を発見しました。それは、二つの区画の境界に建つラウベです。それぞれの区画からの入り口があることから、ラウベの中が真ふたつに区切られたいわゆる『二戸一』なのでしょう。注意して見ていると四つの区画が交わる場所に建つ『四戸一』まで存在しています。小さな建物は、外壁が多くなり建築コストが割高になることへの対処だと思いますが、日本でも使えそうです。全体的にお金をかけていないし地味なのですが、決して荒れていない。人々に市民農園が愛されている暖かさすら感じました。この雰囲気や、これだけの数の市民農園を地域の人が利用していること、作物の栽培管理をしっかりしていることから、ドイツより市民農園が人々の生活の一部になっていることを実感いたしました。」

 チェコの市民農園は、ドイツと国境を接していることから、昔からドイツのクラインガルテン(シュレーバーガルテン)の影響を強く受けたと思われるが、社会体制の事情とはいえ生産機能をしっかり残し、余暇的活用との調和が図られたものといえる。