1997年
1997年のFAX年賀状から・・・
あけましておめでとうございます。1997年をいかがお迎えでしたでしょうか。
小生、モスクワでの初めての新年を迎えました。こちらに留学しましてから、早いもので、もう4ヶ月になり、大学にも日常生活にもなじんで元気に過ごしております。
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ご承知のように、ロシア経済の混乱は深刻で、給料不払いのために全国的に大規模なストライキが行われ、電気や暖房の止められた地方が増えています。
年金生活者が不安の中で細々と暮らしている一方、この混乱につけこんで巨万の富を築き、豪華な別荘を持ち、高級車を乗り回し、ナイトクラブで乱れた夜を楽しむ“新ロシア人”と称する人種もだんだんと増えてきました。貧富の差は革命前の状態だと年金生活者や一般の労働者は語っています。
しかし、多くの知識人たちは、70年間のソビエト社会主義体制の残滓を洗い流したかのように全く自由に発想し、政治を批判し、多くの本を読み、芸術を愛好し、ジョークを飛ばし、何事にも徹底しています。
そして若い女たちの多くが目が覚めるほどに美しい。その裏では想像を絶するような残虐な事件も後を絶ちません。全くロシアはフィクションの世界です。
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今は夜明けが9時過ぎですから、9時から授業のはじまる日は夜明け前に寮を出なければなりません。間もなく1週間の冬休みも終わり、8日から授業再開です。
1月1日 絵に描いたような快晴。ロシアのテレビも朝から新年特別番組の目白押し。
日本から妻が持参してくれたお節料理のほかに、寿司、シャブシャブなどの準備をし、副島さんやグルジア娘を招いて新年のパーティーを開く。グルジア娘たちはお節に目を見張り「クラシーボ(きれいだわ)」を連発していた。日本酒で乾杯。数の子、蒲鉾、寒天、煮しめに手が伸びる。娘たちの合唱に妻は聴き惚れていた。そしてお年玉のプレゼント。1997年も楽しく明ける。
2日からは妻を連れて市場に出かけたり、大学を見学したり、オペラや美術館に行ったりで過ごし、ラリーサの家にも招かれる。
ヴァロージャもラリーサも陽気に歓待してくれ、「みんなの出会いを祝して」から「健康のために」「幸せのために」とロシア式乾杯を重ね、山のようなラリーサの手料理に妻も小生もいたく感激する。
また、オリガ先生もご主人のオレーグと一緒にわれわれを招いてくれ、オレーグが射止めたカモシカの料理とオリガ先生のロシア式お節料理でもてなしてくれた。ここでもオレーグが命名した「カンパイチク」を繰り返しながら夜遅くまで歓談した。
7日はロシア正教のクリスマス。深夜から未明にかけての大聖堂の祈祷式をテレビ中継で見る。荘厳な儀式と信者たちの敬虔な表情に深い感動をおぼえる。僧侶の力強い低音の祈りの声と透き通るようなコーラスに心が洗われるようであった。
妻のモスクワ訪問はわずか1週間であったが、彼女には新しい友だちも出来、小生には充実した楽しい時間だった。
夕方4時、旅行会社の車でシェレメーチェヴォ第2空港に向かう。なんとなく名残惜しい気分を振り払って「今年もいい年になるといいね」と互いに言いながら別れる。出国ゲートの影にかくれるまで妻は手を振っていた。
旅行会社の車はひどいオンボロで、空港に向かう時もいつエンコするかと危うかったが、帰りはますます調子がおかしくなって来て、高速道路上で何度も止まりかける。
運転手は「この車はなんていう奴だ」と八つ当たりするやら「明日はリモント(修理)だな」と呟くやら。小生も始めは笑っていたが、街中に入って来ると、車の底に石が当たるような音が激しくなり、信号で停まる度にエンジンがかからなくなったり、突然、爆発音を上げたりで、もう逃げ出したくなる。
しかし、目の前に寮が見えてきた時には、よく頑張った車と運転手を褒め称えたくなった。寮の構内に入り、玄関まであと20メートルという所で、車は役目を終えて安心したのか息絶えた。
運転手は大真面目に「ご迷惑をかけてすまなかった」と詫びはしたものの、さすがはロシア人、規定の40ドル満額を請求し、領収書を切って寄越した。
8日 授業再開。エレーナ先生、すっかり元気を回復したようであった。寮に帰ってから食事の支度にかかったが、しばらく炊事から離れていたので、献立を考えるにも、すっかり勘が鈍ってまごつく。
9日 夕方、小生のブロックに、また、戦闘服に身を固め、銃を構えたミリツィオネール(警官)たちがどやどやと駆け込んできた。2度目のことなので最初の時ほど驚かなかったが、ドキッとはした。
パスポートは大学に預けてあったので預り証を見せる。何か事件があったのかと訊いても何も答えず、隊長は寝室にベッドが2つあるのを見て、「奥さんは」と訊く。「おととい日本に帰った」と答えると、離婚でもしたのかと、ちょっと気の毒そうな顔をしながら引き上げていった。
10日 燃料が枯渇しているカムチャツカに向かっていたロシアのタンカー「ナホトカ」号が日本海で沈没し、流れ出した油が日本の沿岸に漂着して大きな被害をもたらしているというニュースが伝えられる。また、このため極寒のカムチャツカの燃料不足は一層深刻になったことも合わせて伝えていた。やれやれ。
第16便(1月19日)
このところ夜明けが少しずつ早くなってきています。気温が高いと雪が解け、冷えるとそれが氷になって、通りはスケートリンクのようにつるつる滑る所と沼地のようにぐじゃぐじゃの所ができています。
先日、寮の高い階から東洋人が身投げをして死亡しました。身元が判らないため、ミリツィオネールが、顔を復元手術した写真を持って、各部屋に聞き込みにまわって来ました。目をつぶった女の写真で、よく豆腐を売りに来る若い韓国人にそっくりだったので口に出かかったのですが、黙っていたらその豆腐売りが次の日に現われました。あの時話さなくて良かったと冷や汗が流れましたよ。その後、自殺した女性はヴェトナム人で、ノイローゼのためとわかりました。
第17便
1月21日 この所、無為な生活を送っていたら、罰が当たり虫歯が出てきた。ウオッカで鎮めるか、アルコールを断って薬で鎮めるか思案のしどころだ。
22日 松長君に、彼の家庭教師のリューダ先生を紹介してもらう。メデアは友だちとしては最高だが、グルジア人のため発音が少しおかしいのと、綴りや文法を時々間違えたりするので、同じ寮に住んでいる本職の先生に基礎から見直してもらおうと思ったからである。
若いけれどリューダ先生は専門家だけあって、小生の弱点をすぐに見抜き、会話と読物の聴き取りを中心に教えてくれるという。1時間15ドルというのを10ドルに負けてもらって週1回お願いする事にした。そしてメデアには1回減らして、週2回にしてもらう。彼女は快く了解してくれた。
23日 タマコとカオリが先週無断で欠席したためイリーナ先生にきつく叱られた。
授業の最中、突然、近くの教室で女の悲鳴と机などを投げつける音がする。あまりにひどいので見に行くと、狭い教室の中の机を全部壊して、女子学生がうずくまっていた。後で聞いた話では、試験に落とされて自失してしまったらしい。
第18便
1月30日 チェチェンの大統領選挙で穏健派のマスハードフが勝利した。これからエリツィンとどう折り合いをつけていくか見ものだ。
31日 テレビの調子がよくないと管理主任のローザに訴えたら、早速、別のテレビと取り替えてくれた。ローザはロシア人には珍しくテキパキと処理してくれるので助かる。おまけに今度のテレビは日本製で、リモコンもついている。
2月1日 イリーナ先生の鼻風邪がかなりひどく、ハンカチで鼻のかみ通し。美人の先生だから絵にはなるが気の毒だ。彼女は見かけによらず頑固で、休講にするとは絶対に言わない。
メデアとクリスチーナがわが寮に越してきた。一部屋に3人、ベッドは3つあるが机は2つ。寮費は1ヶ月30ドルで外国人留学生の5分の1だが、狭くて大変だろう。
第19便
2月6日 ベチェリンカで飲む機会も多く、胃腸薬がなくなったので、大使館領事部の医務官の所へもらいに行く。いつも優しい医務官が「飲みすぎは駄目ですよ」と言いながら薬を出してくれた。
この診療所の大工さんという苗字の看護婦さんについて、ロシア語の作文を書く。これを和訳してみた。






