モスクワから飛行機なら1時間余り、汽車だと14時間。隣の国ウクライナの首都キエフはそれほど近い所にある。元は同じ国「ソ連」の中にあったが今はよその国。
モスクワに住む外国人がウクライナを旅行するにはロシアの出入国ビザとウクライナの出入国ビザが必要で、後者を入手するには、まず、旅行のスケジュールを綿密に立て先方のホテルを予約し前金を払ってバウチャー(旅行予約済み証明書)を入手し、ロシアのビザを添えてウクライナ領事館に提出しなければならない。
この手続きはとても面倒で、ロシアの旅行会社に委託するしかない。(ウクライナ領事館が午前中だけ、それも週に4日間しか窓口を開けないこともあって、手続きそのものが解るまでに1週間かかった。) 結局、大学を経由してロシアのビザを、さらに旅行会社を通じてウクライナのビザを入手するのに1ヶ月近くかかった。遠い隣の国でもある。

4月30日 やっと待望のウクライナ旅行がはじまる。晩年のチェーホフがこよなく愛したヤルタに5日間、エイゼンシュテインが名作「戦艦ポチョムキン」のロケ地に選んだオデッサに2日間、そして首都のキエフに4日間の予定である。
まず、クリミア半島の東海岸にあって、黒海沿岸でも最も美しいリゾート地のヤルタに向かう。そのヤルタに行くには飛行機にしろ列車にしろ、85キロ離れたシンフェローポリに一旦入り、そこからトロリーバスや車で山越えをして行かなければならない。
8時前に留学先のモスクワ大学の寮を出る。シェレメーチェヴォ第1空港までタクシーで行くと20ドル、地下鉄(定期券)とバスで行けば2ルーブリ、その差285倍となれば、少々重いものを持っても当然後者で行くことになる。
国内線の利用客が中心のこの空港で、国際線のカウンターで搭乗手続きをし、税関の検査、出国審査を受ける。小さいながら免税店も当然あり、そこでウィスキーの小ビンを買う。
搭乗に手間取り、30分遅れで離陸。機内は満員。隣席はぺテルブルグで英語の教師をしているアメリカの青年で、休暇を取ってヤルタに遊びに行くとか。ロシア人の学生はよく勉強するなどと取りとめのない話をロシア語でする。
1時間余りでシンフェローポリに到着。ところが、シェレメーチェヴォで小荷物扱いにさせられたリュックをピックアップしたら、背負い帯についていた携帯電話入れがない。そこに突っ込んでいたサングラスのケースと一緒に消えている。リュックを乱暴に扱っているうちに取れたものか、泥棒にやられたものかわからないが、いやな予感が見事に当たってしまった。
また税関申告も普通は機内で書いておくよう配慮されているものだが、突然、検査官の前で書くことになり、ロシア語で書いたらだめで、英語に書き直させられる。それも同じ物を2通も。おまけに外国人は5ドルの医療保険に強制的に加入させられる。
こうしているうちに乗客の最後になってしまい、トランスファーで迎えに来ていた運転手が心配して探しに来る始末。どうも到着早々から面白くない。
100ドル両替してグリーブナ紙幣を初めて手にする。安っぽいデザインの紙幣だ。540グリーブナあった。つまり、1ドルが5,4グリーブナ見当だから、グリーブナは安っぽく見えても、ルーブリの5倍以上の価値があるということになる。
快晴のドライブ日和。山越えをして2時間半の道のりをヤルタに向かう。途中、前をのろのろ走っていたトラックを追い抜いた時、運悪く警官に違反を見つかる。運転手は35グリーブナの罰金を取られ、パスハ(復活祭)の祝いの日だというのについていないとこぼす。
山ばかりの風景から、突然、青い海が現われる。明るい南の黒海だ。晩年のチェーホフが結核の療養をしながら「三人姉妹」「桜の園」「小犬を連れた奥さん」などを書いたヤルタ、革命まで皇帝や貴族の別荘地だったヤルタにやって来た。
丘の中腹にある1300室の大きなヤルタホテルに着くと、待ち受けていた現地旅行社の若い男性社員がてきぱきとチェックインの手続きをしてくれた。
582号室。1泊38ドルの部屋にしてはいい部屋で広さも十分。応接セットにダブルベッド、机の袖の中に冷蔵庫もあり、バスの栓も健在で水もきれいだ。洗いざらしのタオルが気にならぬでもないが、料金に免じて良しとしよう。
さっそくタクシーで街の中心部の海岸通りに出る。
「小犬を連れた奥さん」が毎日散歩をした海岸通り。黒海の明るい波がきらめく海岸には大小の観光船が停泊し、棕櫚の並木が続く通りにはレストラン、カフェ、みやげ物屋、ゲームセンターが軒を連ねている。
店の前には色とりどりのパラソルを広げたテーブルが並び、エクスカーションの呼び込み、アイスクリーム屋、記念写真屋、似顔絵かき、楽士たちの客の取り合いだ。
まだ夏のシーズンにはかなり早いが、5月の連休を前にして人出も多く、ぞろぞろと散歩を楽しんでいる。
カフェでジョッキを傾ける人たち、海岸のベンチに座り込んで海を眺めている人たち。絵を売る人と見ている人、将棋をさしている人、新聞を広げている人・・・
海岸通を少し奥に入ったところに、山に上るロープウェーがあった。ゴンドラのような、大きなバケツのような2人乗りの乗り物に乗客が次々と飛び乗って山頂に向かう。
沿線の家々の軒を掠め、食事をしながら談笑している邸宅の上、ひっそりした貧民窟の上、家畜の寝そべっている上、花が咲き競っている庭の上などを間近に見下ろしていく。
山頂に近づくにつれ後方の海が雄大に開けていく。教会の金色の屋根と青い海が映えておとぎの国を展開していく。美しい。実に美しい。
山頂のオープンレストランでシャシリク(串刺しの焼肉)を肴にワインを飲む。陶然と夕暮れの海を眺める。空港での小さなハプニングはあったが、天気はよく、眺めもよく幸運な旅のスタートとなった。
5月1日 メーデーの朝。快晴。レストランへ朝食をとりに。バウチャーに朝食付となっていたので、そのつもりでいたらレストランでは別料金だという。それは納得できないと頑張っていたら無料になった。
ところが、運ばれてきたのは無料で当然といった朝食であった。乾いたようなハムとサラミ、固いチーズ、りんごジュースにパン。10年前のロシア旅行で出された朝食を思い出す。それでも気の毒だと思ったのか、オムレツが1つ追加された。
ホテルのフロントに行って、朝食付きとなっているバウチャーの契約と違うではないかと文句をつける。フロントは明日からはこんなことはないと約束する。
今日は天気がいいので、さっそく遠出をしようと思い、サービスビューローにバフチサライ宮殿のエクスカーションを申し込みに行く。しかし、本日はバフチサライは希望者が少ないのでグループのエクスカーションはない、個人の場合だと車とガイド付で9時間、118ドルだという。
まる1日専用のガイドが雇えて、足の心配がないならいいエクスカーションだと思ってOKする。ケチな朝食の反動で豪華なエクスカーションを選択する。
運転手は昨日空港に迎えに来たヴァロージャ、ガイドはリューダというブリューネットの、ロシア語の発音の明瞭な中年の女性。
ドライブコースはちょうど熱海を抜けて伊豆半島のドライブを楽しむような感じ。天気は良く、道路もよく、山と海の風景が次々と異なった展開を見せ、それに一斉に咲き始めた春の花々が彩りを添えて飽きさせない。また、ヤルタは有名なワインの産地だけに、ブドウ畑があちこちに見える。
時々、車をとめては写真をとりながらドライブを続ける。高い陸地から見下ろす黒海は文字通り海であった。海の青さがマラッカ海峡に似ているなと思ったが、この海には船が1隻も見当たらなかった。
バフチサライの町は一見した所、ロシアのどこにでもあるような埃っぽい田舎町だが、その一角にイスラムの高い尖塔が目立つハーンの宮殿があった。
バフチサライはクリミア・ハーン国の首都だった町。クリミアといえばロシアの貴族の保養地というイメージがまず浮かぶが、それとは一味違うクリミアのもう一つの顔だ。
「ハーンの宮殿」は16世紀に建てられたオスマン・トルコ風の宮殿で、内部には泉や中庭が点在し、ハーレムや立派な客間、男だけの談話室などがハーンの優雅な生活を偲ばせる。
初めて見るハーレムはアラビアンナイトの世界がいろいろと想像されて特に興味深かかった。また、プーシキンの詩で有名な「涙の泉」があった。クリミア最後のハーン、クリム・ギレイが薄命の愛人をしのんで「石にも涙を流させよ」と作らせたもの。
恋の噴水 生ける噴水よ!
おまえにふたつのばらをささげる
こやみなき おまえのささやき
歌のなみだの いとしさよ。
しろがねにかがやくしぶきは
つめたい露で わたしをうるおす。
流れろ 流れろ なぐさめの泉!
すぎた日々の思い出をささやけ・・・
金子 幸彦 訳
大きな樹の茂る庭園の散策は気持がよく、しばらくぶらぶらと一人で歩く。
この後、ガイドと運転手をさそって近くの小さなレストランへ。小生はビール、2人はミネラルウォーター、それに、サラダ、ソリャンカ(スープ)、ステーキにコーヒーが付いて3人前で1000円。クリミアのハーンになった気分で皆に奢る。
食事の後、1キロほどの坂道を登っていくと、断崖を刳り貫いて造られたウスペンスキー修道院があり、信者が大勢集まって祈りをささげていた。あたりには大きな洞窟が至るところに掘られ、昔はここで穴居生活が営まれていたことを物語っている。
朝の9時半に出かけ、ホテルに帰ってきたのが夕方の6時すぎ。さすがにベテラン運転手のヴァロージャもバテ気味のようであった。
部屋のテーブルの上にレストランに至急立ち寄って欲しいというメモがあったので行ってみると、朝食はやっぱり有料だと、今朝も頑張っていた女係長がまた言い張る。大方こんなことだろうと思って用意していったバウチャーを見せ、ちゃんと朝食つきと書いてあるだろうと、もう一ふんばり頑張る。
あんな朝食こっちから願い下げたいのだが、行きがかり上、意地でも頑張らざるを得ない。上役の女性がやってきて、「迷惑をかけて申し訳ない。明日もお越しください」と謝るので、こちらも引き下がる。
夜は海岸通のオープンカフェで夕食。学生アルバイトの子らがとても感じがよかった。
ところが、帰りのタクシーの運ちゃん、ものすごいスピード狂で、曲がりくねった狭い坂道で前の車を追い抜こうとするから危なっかしくてしょうがない。ホテルが見えたところで下ろしてもらう。
真夜中、消し忘れていたテレビで、ものすごくハードな映画をやっていて目が覚める。その後でなんと、タケシの映画を見る。題名は忘れてしまった。深夜のとんでもない時間にホテルの中庭で花火の打上げが始まったので。
5月2日 今日は、あまりついてない1日であった。朝起きた時は快晴で、今日もいい一日になりそうだった。
8時、レストランへ。またもやトラブル。昨日から頑張っているあの女が小生の顔を見るなり、あなたの朝食代はやっぱりこのホテルに支払われていないとすごい見幕。小生も頭に来てフロントに文句を言う。
フロントとレストランの女がなにやら言い争っていたが、いくら待っても埒が明かない。
ろくでもない朝食のために右往左往させられるのはもうごめんだ。「バカヤロウ」と小さい声で悪態をついてレストランを後にし、同じホテルのカフェで朝食をとる。
こちらは料理もサービスもレストランに較べてはるかに良く、最初からここにすればよかったと後悔した。
きょうはグループエクスカーションで、市街から16キロほど離れたアルプカ宮殿に行くことにする。
この宮殿は、帝政時代の市政官ミハイル・ボロンツォフ伯爵のもの。山に面した北側はイギリスのチューダー様式で、黒海に面した南側はイスラムの宮殿を思わせる面白い建物だという。
この日、これまで天気についてきた晴れ男に、ついに雨の女神が微笑みかけてきた。ホテルを出る時から降り始めた雨が宮殿に着くころにはいっそう強まる。
それなのに、田舎から出てきたらしい赤ら顔の若夫婦の提案で、駐車場から遠回りして宮殿に至る森のコースを選んだため、全員雨の中を歩かせられるはめとなる。森の中は植物園のように、珍しい樹々が一杯でこれはこれで面白かったが、かなり濡れてしまう。
やっと宮殿についたが、今度は融通のきかない女が中に入れてくれない。前がつかえているというのだが、前の組は随分前に入っている。しばらく待たされた後、やっと中に入れてもらう。
宮殿の中は、数え切れないほどの豪華な部屋が並び、見事な調度や装飾品、絵画などが所狭しと展示されていた。特に、温室植物園になっている大部屋には驚いた。貴族の蒐集品をいろいろ見て外へ出たらまた雨。
バスは海沿いの道を帰る。途中、海に突き出た崖っぷちに、ヤルタのシンボルと言われる小さな美しい宮殿「ツバメの巣」が見えてきた。バスは、ここで一時停車。
「ツバメの巣」はクリミアの絵葉書に必ず出てくる有名な館で、海に聳える断崖の縁に建った城のような建物である。だが、天気が悪い上に、遠くからの眺めだったので折角のヤルタのシンボルもあまり見栄えがしなかった。
バスがヤルタの中心街にさしかかったところで一人先に下ろしてもらい、海岸通りに出てワインの試飲会をやっている老舗のマッサンドラに立ち寄る。
地下のワイン倉庫で12種類のワインを試飲しながら講師の話を聞く。辛口の6種類はうまいと思ったが、あとは甘すぎて飲み切れなかった。赤のカベルネが一番気に入った。
ほろ酔い気分で表に出ると急に腹が減ってきたので近くのレストランでアルコール抜きの昼食をとる。チョウザメのスープがうまかった。海からの微風が心地よい。
ホテルに帰り、自分の部屋の前まで来て、鍵を部屋の中に置いたまま外出したことを思い出す。今朝、集合時間に遅れそうになって急いで部屋を飛び出したために忘れたのだった。
フロントに行って事情を話すと、あなたの階のゴールニチナヤ(女中さん)に開けてもらえと言う。このホテルは旧ソ連の国営ホテルで、客に命令するだけ、自分からは何のサービスもしないようだ。
働いていたゴールニチナヤをやっと探し出して開けてもらう。さて、頭でも洗おうと思ったら、浴室にシャンプーが置いてない。また1階まで降りて行って売店で買ってくる。
今日は、あまりついていなかったので、ゲン直しに、夕食はいつもと違うものを食べようと、地下の北京料理の店に行く。豪華風個室に案内され、中国酒に鴨やアワビや魚の料理など何品かと汁そばを注文する。ここまでは良かったのだが・・・
料理は甘すぎたり塩辛かったり、汁そばは長い麺でなくスパゲティーの切れ端のようなものが浮かんでいたりと散々であった。ボーイに、コックは中国人かと訊いたら、そうだと言う。一体どんな味覚の持ち主なんだろう。〆て90ドル。結局、これがついていない1日の総仕上げとなった。
5月3日 きょうはきのうとは打って変わった上天気。心が弾むほどだ。入れ込んでしまって、8時前にカフェに行ったらまだ閉まっていた。8時過ぎもう一度出なおす。
今度は地階のカフェが開いていたので、ここで簡単な朝食をとる。地階のカフェの方が一階より安いためロシア人が多い。カフェの前では果物屋が箱を並べてみかんやぶどうなどを売っていた。何となく大衆的な雰囲気である。
きょうは待望のチェーホフ博物館へ。中心街からタクシーで10分くらいの所に樹木と花で埋まったようなチェーホフ邸に来る。まず、博物館の方へ。
おばあさん館員たちがとても親切でいろいろ気を使ってくれる。こんなに気分よく見学できる博物館も珍しい。チェーホフの生い立ちからの写真がきちんと整理され、モスクワ芸術座関連のものは実に丁寧に多角的に展示されている。
小生には、なじみの写真も初めての写真もどれもが貴重で、胸が締め付けられ、息がつまるような気がした。そのほか、チェーホフの達筆の原稿や大きな机、生前愛用していたいろいろな身の回り品が展示され、そのいずれもが息づいているようであった。
3階建ての白い瀟洒な邸宅は、チェーホフが若いころ住んでいたメーリホヴォの家に較べて、生活にゆとりがでて来た、成熟した作家の雰囲気を感じさせる。家具調度も贅沢なものは一つもないが、趣味のいい、目の行き届いたものばかりである。
作家の手造りの庭園は樹木と花が一杯で、散歩しながら、それらを間近に楽しめるように細い道がいくつもつけられている。木陰にベンチがあり、そこでしばらくあたりを眺めながら休んだ。
チェーホフは結核の療養をしながら、この邸宅で家族とともに晩年の5年を過ごし、トルストイやゴーリキーらとの交友を楽しんだ。そして、「三人姉妹」や「桜の園」などを書き上げた。
門の前でのんびり駐車していたおじいさん運転手のタクシーで海岸通りへ。このおじいさん、小生が日本人だと知って大仰に喜び、さらに学生だとわかって賛嘆の声を上げ、料金はどうしても半額の5グリーブナでいいと言ってきかなかった。なんだかチェーホフの短編に出てきそうな人物だった。
船着場の乗船券売り場で今日のクルーズはあるのか訊くと、波は多少荒いが船は運航しているという。「ツバメの巣」までの往復の乗船券を買い、近くのレストランで昼食を取りながら船の着くのを待つ。
船は60トンくらい。波は見た目より高く、かなり揺れるが、船に強い客しか乗っていないようで、みな平気な顔をしていた。
船は岸に沿って300メートルほど沖合いを有名な寺院、保養所、研究所、それにゴルバチョフが、91年8月、ソ連崩壊の引き金になったクーデター事件の際滞在していた別荘などを眺めながら走る。30分ほどで「ツバメの巣」が建っている断崖の下の船着場に着く。
岸壁に乗り上げそうに揺れる船から船員に支えられて一人ずつ上陸する。急な階段や坂道や岩を伝って「ツバメの巣」まで登っていく。
1912年にドイツ人の富豪によって建てられた館が岬の先端の崖ッぷちにツバメの巣のように張りついている。よくもまあこんな所に建てたものだと驚かされる。よほど変わり者の富豪だったのだろう。今はイタリア料理の高級レストランになっているが、見たところ客の影はなかった。
船は20分しか待っていないというので、船客たちは写真を2−3枚撮ると、息を切らして船着場に引き返して行く。
船着場には大波が周期的に襲っていたが、小生が船に乗ろうとした時、運悪く一番大きな波が岸壁にぶち当たり、飛沫で着衣の後ろ半分が洗われてしまった。ジーンズの上下が濡れたぐらいですんで幸運だったのかもしれない。それほど大きな波だった。
海岸通で下船してからしばらく日向を歩き、日当たりのいいカフェでビールを飲んだりしながら着衣を乾かす。これもきっと忘れられない思い出となるだろう。
ホテルに帰ってサービスビューローに明日のエクスカーションの予定を見に行ったら、もう連休も終わりなので明日のエクスカーションはお休みということだった。
すっかり顔なじみになった、まんまるの可愛い顔をした所長のターニャに「明日はヤルタとおさらばだ」と言うと、「またぜひ来てくださいよ」と丸い手を差し出した。
夕食はホテルの一番上の16階にあるレストランへ。ソビエト時代の面影を残す野暮ったいステージ付きのレストランで、500人くらい入れそうな、やたら大きなサロンの壁はヒダの一杯付いた白いカーテンで被われている。
どこにも客の姿が見えないので、もうやっているのかと訊いたら、「どうぞ」と中年のボーイが愛想よく迎えてくれた。あまり愛想がいいので逃げ出すわけにも行かず、広々としたサロンに一人座らされる。
ステージの上にポツンと置かれたテープコーダーから昔懐かしいポール・アンカの「オンリー・ユー」がヴォリューム一杯に流れている。ほかに客が居ないからサービス満点で、頼んだ料理もまずまずであった。
夕暮れの山と海の美しい遠景を眺めながら、時々音の割れる擦り切れた歌を聴き、頃合に冷えたカベルネの杯を傾けるというチグハグな一人だけのディナーとなる。
5月4日 7時前に目が覚める。天気良し。きょうはヤルタを出発してオデッサに向かう日だ。ヤルタ最後の観光はニコライ二世の夏の別荘リヴァディア宮殿、というよりも有名なヤルタ会談の会場になった宮殿へ行くことにする。
チェックアウトを済ませ、ホテルのタクシーの溜まり場で顔なじみになったサーシャに送ってもらう。
リヴァディア宮殿は市街地から3キロほどの海の見える高台にある宮殿で、周りの庭園には色々な花がきれいに植えられている。1階にはヤルタ会談に使われた円卓があり、ルーズベルト、チャーチル、スターリンが座った位置に名札が立てかけてあった。
その他、ルーズベルト用の寝室や食堂、トルコ風の壁に囲まれた中庭があり、当時の写真や新聞記事なども展示されていた。
立派なトイレがあったので、その前に座っているおばさんに使っていいのか訊いたら大きな鍵を持ってきて開けてくれた。
一流ホテルのトイレのようにきれいで、少々緊張して用を足す。55年前、チャーチルやスターリンもここで同じようなことをやったのだろうと思うと可笑しさがこみ上げてくる。歴史的トイレを出ようとしたら、おばさんに「5グリーブナ」と言われて途端に現実に引き戻されてしまった。
2階は皇帝の家族の生活ぶりを伺わせる立派な家具調度のほか、皇女たちの自筆の絵などがそれぞれ、いろいろな部屋に展示されていた。
ニコライ二世はロシア最後の皇帝なので、ピョートル大帝やエカテリーナ女帝の宮殿のような豪華絢爛といった趣はなく、むしろ、一見した所では簡素と言ってもいいくらいだが、よく見ると、相当に贅沢な、金のかかった、しかも、シックな感じの宮殿であった。
この後、宮殿の前で待っていたサーシャの車で、そのままシンフェローポリに向かう。オデッサには列車で行くので、車は、空港よりも少し近いシンフェローポリの街へ向かう。
この山越えのコースで珍しいのは、定期バスがトロリーの為、山の中をトロリーの架線が延々と走っていることだ。理由をサーシャに訊くと、電気の方がガソリンより安いのと、排気ガスから自然を守る為なのだそうだ。2時間半かかるこのトロリーの路線は世界最長という話だ。
途中、ドライブ・インで休憩してお茶を飲もうとサーシャを誘ったが、彼が固辞するので、売店でジュースを買ってきて木陰で一緒に飲む。
サーシャはとても律儀な青年で、いつも白いYシャツに黒いジャケット。口数は少ないが、こちらの質問には的確に答えてくれる。おまけに料金はほかの運転手よりも2割ほど安い。オデッサ大学を卒業したが、いい就職口がなくてタクシーの運転手をしていると話していた。
予定より早くシンフェローポリの街についたので、そのまま車で市内を案内してもらう。
シンフェローポリはクリミア半島の中心のかなり大きな街で、樹木が多く、大寺院や大学、病院、劇場、市場もあり、繁華街は賑やかで活気があった。しかし、これといった特徴もなく、30分くらいで一回りしてしまった。
鉄道の駅に出たところで、サーシャにウクライナ製のコインロッカーの使い方を教えてもらい荷物を預ける。使い方が少々複雑なので、サーシャは細かく気を使いながら丁寧に説明してくれた。
彼とはここで別れることにし、料金を払う。リヴァディアの観光に2時間、シンフェローポリまで2時間、市内観光に30分、会わせて4時間半で彼は190グリーブナ(4000円)と言う。200グリーブナ渡すとお釣を出そうとするので、お釣はチップだからいいと言うと、こんなにたくさんもらってうれしいと初めて笑顔を見せた。
17時5分発、1日に1本しか出ないオデッサ行きの列車。1等の車室を奮発したのだが、特急の1等の半分の広さで、ベッドが上下2段になっている。
テーブルの下は洗面台。蓋を上げると顔が洗えそうだが水道の蛇口がはずされている。2人部屋としては狭いが、1人なら相客に迷惑をかけることもかけられることもないので丁度いい。幸い、相客は居なかった。列車は鈍行で各駅に停まりながらのんびり走って行く。
持参のいかと蛸の燻製、キャビアつきのクラッカーを肴にコニャックの水割りを飲む。軽快なコトコト、コトコト、という車輪の音が心地よい・・・
まん丸な夕日が沈んでいく。
暗くなったので蛍光灯のスイッチを入れるとジーッという雑音が襲って来てあわてて消す。薄暗がりでは本も読めず、横になって列車の揺れる感触だけを楽しむ。
そのうち眠ってしまったが、夜中突然、下痢を起こし2回トイレに行く。いかクンか蛸クンが良くなかったかな。それとも、少し疲れが出てきたかな。薬を飲んで寝たら朝までに快復。
5月5日、日本では子供の日。太陽が、きのう夕日が沈んだ位置から昇ってきたので一瞬戸惑ったが、夜中のうちに列車が180度カーブして走ったのだと思いつく。時計の見まちがいで1時間早く起きてしまったので、車掌にお茶のサービスを頼み、日記をつけたりする。
車掌は若くて、クリミアでは珍しい美人、仕事もテキパキしている。快晴の朝、ほぼ定刻通りにオデッサに着く。
ホームにはタクシーの運転手が大勢押しかけて来て口々に声をかける。ホテルは駅前のトロリーの停留所から3つ目のところと聞いているので、タクシーは断る。
「黒海の真珠」といわれている美しい港町のオデッサ。ヨーロッパの各地と結ぶ船が頻繁に出入りするこの街は開放的で、洗練された明るい感じがする。目抜き通りは両側に18世紀から19世紀の石造りの立派な建物が並び、大きな樹木がアーケードを作ってとても美しい。
クラースナヤ(美しいという意味)ホテルがバウチャー指定のホテルだが、外壁をニンフの彫刻で飾った19世紀のアールヌーヴォーの建築で、由緒のある館を利用したこじんまりしたホテルである。
着いたのが朝の7時頃だったので、早すぎてチェックインが出来ず、フロントに荷物を預けて散歩に出かける。
足は自然にポチョムキンの階段の方へ向かう。ホテルで買った地図を頼りに繁華街を抜けて港のほうへ行くと、写真や映画で見覚えのあるあの階段がひょっこり現われた。
エイゼンシュテインの不朽の名作「戦艦ポチョムキン」の中のショッキングなシーン、階段に追い込まれて逃げ惑う市民たちを兵士の列が上の方から発砲しながら追い詰めていくシーン、中でも赤ん坊を乗せた乳母車が、弾に当たった母親の手を離れて、走り落ちていくシーンで有名なオデッサの階段である。この階段を見る為に1泊だけオデッサに立ち寄ったのであった。
ところが、第一印象は「あれ、これがあの階段か」と思わずつぶやいたほどのありふれた階段だった。これじゃ瞼の母とは似ても似つかない別人ではないか。
階段両脇の縁の部分は最近修理したのだろう、きれいにコンクリートが塗られ、街灯も新しく付け替えられて歴史の重みが全く感じられない。階段の下も道路をはさんで新しく海駅のビルが建てられて古い船着場の風景を遮っている。
街の通りや建物は大切に保存されているのに、オデッサにとって最も貴重な、世界的にも有名になった景観がなぜこの様に省みられないのか理解に苦しむ。
白々と修理されたポチョムキンの階段の両脇には、みやげ物屋が競い合って商品を広げている。しかし、それらは映画の「ポチョムキン」には全く関係のない旧ソ連軍の軍服や帽子、階級章、それに「ロシア」のマトリョーシカなどで、写真や絵葉書もエイゼンシュテインや彼の映画に関するものはおろか、ポチョムキンの階段そのものさえちゃんと撮ったものがない。
若いみやげ物屋にエイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」を知っているかと訊いたら誰も知らないのにあきれてしまった。彼らは、しいて言えば、エイゼンシュテインのおかげでここで商売が出来ているというのに。
すっかりグルーミーな気分になって、二百数十段あるという階段を一段ずつ踏みしめながら下りて行く。一番下まで来て、ふと振り返って階段を見上げた時、意外なことに、この階段が今度は驚くほど大きく見えた。そして、急に映画の中のシーンが蘇ってきて、それが現実の階段とオーバーラップしてきた。
そのイメージをたどりながら、下からもう一度階段を上り始め、やっと自分を納得させられたような気がした。そしてこの階段との出会いから、あの恐るべき映像を造りだしたエイゼンシュテインの天才に改めて畏敬の念を禁じえなかった。やはり、ここまで来てよかったと思った。
観光の街オデッサは観光シーズンにはまだ少し早く、なんとなく活気を欠いているようだ。19世紀にウイーンの建築家によって立てられた有名なオペラ・バレー劇場も今日は休みだという。
ホテルのサービスビューローのおばさんが気の毒がって、明日は第2次大戦中にパルチザンが立てこもった地下トンネル「カタコンベ」の見学ができるよう手配してくれることになった。
クラースナヤ・ホテルは、宿泊料がヤルタ・ホテルの4倍の160ドルだが、噂通り、立派なつくりで19世紀にタイムスリップしたような感じである。
廊下も階段も絨毯を敷き詰め、大きな部屋の家具調度全てが19世紀のもの。天井の高さは、日本の家屋で言えば、ちょうど2階の天井の位置にある。それはいいのだが、このところ異常気象で少々寒い。ヤルタも朝晩は冷えて寒かったが、ここはヤルタより北なのでもっと寒そうだ。
モスクワの寮生活では、シャワーだけで風呂につかることが出来ないので、さっそく立派な浴室の大きな浴槽に十分に湯を張って思い切り体を伸ばして入浴を楽しむ。こんなに伸び伸びと湯につかるのは何ヶ月ぶりだろう。
入浴の後、大きなベッドの上で貴族になった気分でウトウトしていたら電話のベルに起こされる。サービスビューローから、明日の「カタコンベ」行きの車と運転手の手配が出来た、ついては料金について運転手と直接交渉して欲しいという。
早速、サービスビューローに行くとヴァロージャという運転手が待っていた。ヤルタのホテルの運転手もヴァロージャだったが、こちらのヴァロージャは中々のやり手のようで、見学時間を入れて往復3時間、50ドルでどうかと言う。
バフチサライはガイド付き、9時間で118ドルだったから、こちらはかなり高いと思ったが、バスで行くとなると不便で1日がかりになるし、サービスビューローのおばさんがわざわざ頼んでくれたことでもあり、いさぎよくOKする。
さらに、サービスビューローのおばさんが、今夜大きな船が入って、オペラ・バレー劇場が団体客の為に幕をあけるそうだから、うまく行けばもぐりこめるかもよという耳寄りな情報を伝えてくれる。
午後はまず、ホテルの隣の旅行代理店で明日のキエフ行きの汽車の切符を買い、通りのカフェで、チョウザメのフライと茸の壷料理にビールで昼食。この後、タクシーを拾って市内を一回りする。
港から始まって貴族の館、寺院、博物館、美術館、有名な広場や公園そして港を遠望できる高台など1時間足らずで回る。これで土地勘をつけて、もう一度、自分の足でめぼしい所を拾って歩いた。
オデッサにはアールヌーヴォーの建造物があちこちにあるが、その一番典型的なのが、市内で一番の目抜き通りの中にあるパッサーシ。
高いアーケードの天井がガラス張りになっていて2階建ての商店街の壁面全てがニンフの彫刻で埋められている。
ホテルに帰ってもう一度風呂に入り、着替えて、オペラ・バレー劇場に向かう。劇場横の玄関から、観光船でやって来た大勢の団体客に紛れて、ホールの入口まではうまく侵入できたが、残念ながら、入口を通過したところで鬼のような大女に怪しまれて捕まる。
今日は団体客以外はだめ、せっかく日本から来たと言ってもだめと、いくら頼んでも聞き入れてくれずついに諦める。
しかし、このままホテルに引き返すのも残念で、タクシーを拾ってドラマ劇場に向かう。
芝居はもう始まっていることはわかっていたが、ウクライナの劇場の雰囲気だけでも味わいたいと思ったからだ。 劇場の支配人に芝居を見せて欲しいと頼んだら、「2幕目からでよかったらどうぞ。お金は結構です。」と快く迎え入れてくれた。捨てる神あれば、なんとかとはよく言ったものだ。
この劇場は古いが、かなり大きく、地方の劇場にしては役者も揃っており、セットもきちんと組んでいて、効果、照明もモスクワの並みの劇場以上であった。しかし、客の入りは3分くらいで、経営はかなり苦しいことを思わせた。
ホテルに帰って、フロントにお茶が欲しいと頼んだら、出前しかないと言って近所のカフェに頼んでくれた。出前は中国茶店からで、中国茶の大きな急須が砂糖と一緒に配達された。8グリーブナ(200円)。これは中々のサービスであった。
5月6日 ベッドの中で連続10発ほど快音を発す。どうやら腹の調子はいいようだ。中国茶が効いたのかな。勇んでレストランへ朝食をとりに。ヤルタでは朝食トラブルに泣かされたが、ここでは朝食券をくれた。
ところが妙なことに、ここは格式のあるホテルなのにレストランの入口が階段下の隅にあって、物置のドアのような粗末な板のドアが付いている。変だなと思いながらも中に入ると、そこには立派なレストランがあった。
まるで狐につままれたようであったが、現在、ホテルは改修中で仮の入口がつけてあったのだ。かなり大きなレストランで、天井は象牙を使って中国風の派手な細工が施され、豪華なシャンデリアと共にサロンの雰囲気を盛り上げている。
壁は宮殿の壁のように金の模様が入りテーブルや椅子はエリザベス調。ステージの上には白いピアノまである。ところが、給仕をする人が見当たらない。
厨房に向かって大声を出したらウェートレスが出てきた。「お粥もありますけど」と言われ、トライしてみる。
荷造りを済ませ、夕方までジェジュールナヤ(当直のおばさん)に預け、チェックアウトする。
サービスビューローに立ち寄って、おばさんに夕べはオペラ・バレー劇場に入れなかったことを話すと痛く同情して、劇場の古いパンフレットをくれた。
時間通りに来たヴァロージャの車でカタコンベに向かう。彼は道中いろいろと観光案内をしてくれる。しかし、30分もしないうちに現場につく。
「ここがカタコンベの入り口だ」とヴァロージャは言って、車を降りた。なんの変哲もないただの道端に直径50メートル、深さ4−5メートルの大きな陥没のような穴があり、その壁面に、いくつか防空壕のような洞穴が掘られていて、あるものは石などを積んで入口をふさぎ、あるものは頑丈な扉に鍵が掛かっていた。
ここには看板も何もない。時々バスや車が埃を舞い上げながら通り過ぎていくただの田舎道の傍らだ。
年をとった掃除夫が一人、穴に下りていく階段を掃除していて、博物館は今日は休みだと言う。ヴァロージャは少しうろたえ、館長の家に行って案内を頼んでくると、車でどこかへ消えた。
小生は手持ち無沙汰で、辺りの風景をカメラに収めていたら、掃除夫のおじさんが、道路をはさんだ向こうにある小さな建物が資料展示館だから、あそこで見物しているといいと言って案内し、電気をつけてくれた。
そこには第2次大戦中のパルチザン兵士の肖像写真や当時の記録、それに、土埃をかぶった武器や生活物資などが展示されていた。
間もなくヴァロージャが館長を伴ってやってきた。40歳くらいの誠実そうな館長は挨拶したあと、洞穴の前でカタコンベ(地下トンネル)の説明を始めた。
オデッサの街が建設された時、石材の全てが自前で調達され、その結果、街の真下に1000キロに及ぶ迷路のような地下道が残ることになった。これが第2次大戦の際、ナチス・ドイツに抵抗するパルチザンに使われ、現在、その迷路の一部が戦死したパルチザンの記念博物館として公開されているということであった。
館長の手にした小さなランタンに仄かに照らしだされた洞穴に入る。直径が小生の背丈ぐらいのヒンヤリしたトンネル。この区分だけで80人ものパルチザンが生活していたそうで、指令所を始め、井戸兼秘密の出入り口、機関銃をすえつけた見張り所、武器の修理所、病院、戦友の慰霊碑、男性用女性用の寝室、台所、それに、バーニャ(蒸し風呂)や娯楽室までが作られており、徹底抗戦の意気込みに溢れている。
壁のいたるところに書かれた落書きが、太陽の見られる日まで耐え抜いて戦った彼らの心情を生々しく語りかけてくる。地下道の終点の階段を上っていくと、そこが先ほどの展示館につながっていた。陳列されている写真や展示物が先ほどとは全く違ったものに見えた。
わざわざ案内してくれた館長に礼を述べ、礼金を渡した後、オデッサの市街地へ引き返す。
予定より早く街に帰って来たので、きのうのタクシー観光で行けなかった男子修道院を見に行くことにする。カタコンベとは逆の、海水浴場の方向に10キロほど行った所に修道院はあった。
付属の神学校を持つ修道院は鬱蒼とした樹々に覆われた静かな環境の中にあった。本堂の中にも入れたので蝋燭を2本買い、1本をヴァロージャに渡して一緒に供える。
外のベンチにかわいらしい女の子と男の子がいたので写真を撮ったら、おばあさんがしきりに何か言っている。ヴァロージャに訊くと、おばあさんは写真屋が孫の写真を撮ったと思ったらしく、お金は払えないと言っているという。そこで、わたしは旅行者だ、お孫さんがとても可愛いので撮らしてもらったのだ、と話したらやっと納得してくれた。
汽車が出るまで、まだ3時間ほどあり、もう一度海岸通りの並木道に出る。どうも歩き過ぎのようで右の腰の辺りが痛み出し、だんだん足を引きずるほどになってきた。
並木道のベンチでしばらく休憩。隣にアベックが来ていちゃついたり、ジプシーのばあさんがカネの無心に来たりする。並木道の少し先にポチョムキンの階段があり、オデッサを去る前にもう一度見ておきたいと思ったが、結局、素通りしてしまう。ポチョムキンの階段は自分の記憶の中にあればいいのだ。
その代わり、記念にオデッサのいい地図を1枚買いたいと思って駅前に出る。
駅前の地下道の階段で、ジプシーの子供たちだろうか、丸坊主で、裸足で、汚れたシャツに垢だらけの顔をした子供たちが10人ほど寝そべったり、何かムシャムシャ食べたり、互いにふざけあったりしている。
この地下道の風景は何処かで見た風景と全く同じだと思った。そうだ、55年前の日本。終戦直後の焼跡にあった戦災孤児の風景にそっくりそのままではないか。危うくタイムスリップして眩暈を起こす所だった。この浮浪児たちの中に自分がいたのではないかと思った。
地下道から明るい表に出てやっと我に返り、オデッサでの最後の時間を最後の奥の手を使って過ごすことにする。行き当たりばったりのバスに飛び乗るのだ・・・
思いがけない場所に連れて行ってくれるし、座ったままでいいし、金はかからない。オデッサ・シャンパン工場だとか、オデッサ撮影所だとか、タラス・シェフチェンコ公園だとか有名な場所に出てくるたびに快い緊張感を覚える。
自分がどこを、どっちに向かって走っているのか全くわからないことにスリルと解放感が味わえて楽しい。
3本目に乗ったトロリーが丁度ホテルの近所まで来た時下車し、荷物を受け取りに行く。朝、荷物を預かってくれたジェジュールナヤはもう帰宅した後だったので、ポーターのおじいさんがあちこち駆けずり回って荷物を見つけてきてくれる。
列車はもうホームに入っていた。今回の車室も寝台が縦に2段のタイプでシーツや毛布などの夜具は更に粗末なものだった。それでもやはりシーツ代5グリーブナ取られた。その代わり、発車すると間もなく車掌がお茶を運んできた。
夜中、寒くて、セーターを着た上に、上段の毛布も借りて寝る。朝方気がついたら暖房が入っていた。
5月7日、快晴。定刻の朝7時半、キエフ駅着。やはり首都だ。ホームの雰囲気もオデッサとは違い、タクシーの運転手にも凄みがある。行き交う人々の表情もきびしい。オデッサとは違って浮浪児の姿は見えなかった。タクシーでホテルへ。
近代的な大きなビルが目立つが、樹木が多くてさわやかな感じがする。マレーシアのクアラルンプールを思い出した。
古都キエフは1500年の歴史を有する「ルーシの母」、東スラヴの最初の統一国家である。現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシはここから発する。
駅から10分くらい、タラス・シェフチェンコ大通りの一角にウクライナホテルがあった。ヨーロッパ風の古い建物。内部も落ち着いた作りで中流ホテルといった感じ。
朝食はチャンと用意されていて、今度の旅行では初めてのヴァイキング。選択の幅が広く、久しぶりに満足の行く朝食となる。
朝食のあと外出。ホテルを出てタラス・シェフチェンコ大通りの坂を下り、交差するメインストリートを左に折れて歩く。通りで客待ちをしていたタクシーに声を掛け、例によって街を一巡する観光を30グリーブナで交渉する。若い運転手は50グリーブナほしいと言う。
結局、メーターで支払いをすることで話がつき、韓国製の新車に乗る。アスファルトや石畳の道を登ったり下ったりしながら2時間走り回った。運転手は中々有能な青年で、見所をうまく選択しながら街を縦横に走り、要領よく説明してくれた。60グリーブナだった。
彼の会社の車は全部韓国の「現代」社製の小型だそうで、彼も大変気に入っているようだった。なんで韓国製がいいのか訊いたら、日本車ほどじゃないけれど性能がいいし、日本車のように高くないからと言っていた。
彼と別れてから交通路線図を買い、地下鉄で郵便広場に出て、古い石畳のアンドレイ坂を上る。高台の上のアンドレイ教会に続く、このカーブの多い坂道は古いキエフの町並みを最もよく残しているといわれている。
自作の絵や彫刻、民芸品、骨董品などを売る露店が坂の上まで1キロほど続いている。ユーモラスな老人の顔の木彫りとちょっと変わったアンドレイ教会の貼り絵の額を買った。
カフェにお茶を飲みに立ち寄る。カフェでもレストランでもメニューはウクライナ語と英語だけ。ロシア語は消えてしまっている。小生のように英語は忘れ、ロシア語しか知らない者にはとても不便だ。中年から上のウクライナ人が話しているのはロシア語のようだが、若い人たちはロシア語を嫌っていて話したがらない。
注文を取りに来たウェートレスにロシア語で「チャイ ス リモーノム(レモンティ)」と言ったら“Tea with lemon?”と訊きなおしてきた。つまり、ロシア語はわかっているのだが、使いたくないのだ。民族意識の強いウクライナ気質が、かつての支配者のことばを許さないのだ。学校でも、おそらく、ロシア語を締め出しているのだろう。
オデッサでもこんなことがあった。船着場の近くで、少年が絵葉書を売りに来た。”Can you speak English?”と訊くので、「ヤ ガバリュー パ ルースキ(ロシア語を話すよ)」と応えると、少年は何も言わずに立ち去って行った。
レモンティで喉を潤した後、ケーブルカーでドネープル川を見下ろしながら、青い建物で有名なミハイロフ修道院に出る。教会も修道院も修理中のところが多いが、このミハイロフ修道院も、ご多聞に漏れず、派手に修理をしていて原型が殆ど見えない。
さらに、地下鉄でウラジーミル通りに出て「黄金の門」を見る。11世紀、ヤロスラフ賢公によってキエフを守る城壁が築かれ、この門も造られた。建設当時は、今と違って、金色の丸屋根が光って遠くからでもよく見えたと言われている。
「黄金の門」の少し先にあるソフィア大聖堂は、やはり11世紀に建てられ、現存するキエフ最古の、そして最も格式の高い教会だ。17世紀に現在の建物に再建されたが、ウクライナバロックの様式と色彩の調和がとても美しい。
内部の壁面は11世紀のままだそうで、豪華なフレスコとモザイクで埋められ、中央祭壇の真上のドームからは巨大なキリストとマリアのモザイクが下を見下ろしている。端正で非常に美しいが、かなり宗教的な重圧感を感じさせる教会でもあった。
キエフはオデッサよりさらに寒く、今日は外出中にとうとう風邪を引いてしまったようだ。モスクワを出る時は暑いくらいだったので、南のウクライナはもっと暑いだろうと思っていたのが、この寒さである。
5月8日 今日も快晴。だが、寒い。広いレストランに今朝も客の姿が見えない。きのうからこのホテルに宿泊しているのは小生一人かな。ヴァイキングのメニューも昨日より少ない。その代り、ウェートレスが「熱い料理は注文で作ります。オムレツ、ハムエッグ、ソーセージのうち何がいいですか」と注文を取りに来た。オムレツを頼む。
オデッサではオペラ・バレー劇場から締め出しをくらったので、キエフでこの仇をとろうと、今日はいの一番に国立劇場のバレーのチケットを買いに行く。明日の「ロメオとジュリエット」が手に入った。
その足で鉄道の国際駅に行って10日のモスクワ行きの切符を買う。このあとタクシーを拾って、キエフ観光の目玉であるペチェルスカ大修道院に向かう。
ドネープル川下流の丘陵地にあるペチェルスカ大修道院は、東スラヴで最も長い歴史を持つ修道院。その歴史は1051年、ギリシャの僧アントニオスとフェオドスィが川岸の洞窟で修道生活を営んだことに始まる。
修道僧たちはその後も洞窟を掘りつづけ、洞窟の中で祈り、洞窟の中に葬られた。この洞窟をペチェーラといい、そのまま修道院の名となっている。
修道院は7キロに及ぶ石壁で囲まれ、教会や博物館が集まっている北側と地下墓地のある南側に分かれ、要領よく見学するにはガイドが必要だと思い、イリーナというロシア語のガイドを頼む。
彼女はテキパキと案内してくれ、聖三位一体教会の見事なフレスコ画、ウスィフスヴィヤツカヤ教会の中央ドームの「見下ろすキリスト」、トラペズナ教会の天井画など普通では4時間くらいかかるところを、2時間半くらいで回ってくれた。
ドネープル川を見晴らす展望台で一息入れ、写真を撮った後、さらに地下墓地に入る。細い蝋燭1本の明かりを頼りに真っ暗な洞窟に入るので足元は見えない。
迷路のような洞窟の所々にガラス張りの棺が置かれ、近づいて蝋燭をかざすと、その中に横たわった僧たちのミイラが見える。狭い地下教会には入りきれないほどの信者が詰め掛け、熱心に祈りをささげていた。
洞窟の中のコーラスはエコーがかかってとても美しい。饒舌な観光客たちも、さすがに寡黙になり、真っ暗な地下の迷路をうつむいて幽冥の境を彷徨っている。
外に出てきた時はかなり疲れていた。勿論、地下墓地の雰囲気に圧倒されたこともあったが、広い、起伏の多い境内を修行僧のように歩き回った為だ。イリーナは1日3組の客を案内するそうで足腰が鍛えられているが、小生は息を切らして彼女の後を追っかけていた。
イリーナと別れた後、書籍博物館で12世紀に編纂された年代記の「過ぎし歳月の物語」の写本を見たいと思ったが、あいにく博物館が休みで見ることが出来なかったのは残念だった。
都心に戻って、フレシチャーク通りとホテルのある通りの角で右に曲がって、ぶらぶら歩いていたら、昨日どうしても見つからなかったニカという小さなカフェが偶然目に入った。
旅行案内によると、このカフェの魚料理がうまいという。鮭のフライとイカのフライを注文してビールを飲む。
日本の天ぷらに似てカラッとしていて、とても食べやすい。熱いフライにレモンの汁をかけて、ふうふうしながら食べる。かなりの量があったがみんな平らげてしまった。
ホテルに帰り、久しぶりに熱い湯にどっぷり浸かり、筋肉の疲れを癒す。腰の痛みは風邪が一緒に連れ去ったようだった。その風邪も喉が多少痛かったくらいで、大事に至らずよかった。
ベッドに横になって、ワインを飲みながらテレビを見る。ウクライナのテレビは半分くらいロシアの番組の再放送のようで以前に見たものが多い。ウクライナの自前の番組はあまり金のかかっていない、普段着のスタジオ番組が多いように見受けられた。
5月9日 快晴。大祖国戦争(第2次大戦)戦勝記念日。
とうとう今回の旅行も大詰めを迎える。朝の大通りから戦勝記念日祝賀パレードのマーチが聞こえてくる。
天気もいいことだし、郊外の「民族建築と生活」の野外博物館に行ってみることにした。
タクシーで30分、なだらかに広がる丘陵地に、ウクライナ各地から集めてきたといわれる古い木造の教会や農家などが点在している。
ある家屋には昔の家具や生活用具、それに農機具なども展示してあり、ある家屋は荒れるがままに放置してある。
一軒の農家の中庭で、麦わら帽を被り民族衣装を着て大きな髭を蓄えたじいさんと中年の男が日向ぼっこをしていた。
小生が通りかかると、「どこから来た?」と訊くので「日本から」と答えると、「まあ座れ」と腰をずらしてベンチに空きをつくる。
中年の男は自分の腕時計をはずして自慢そうに見せ、「この時計は日本製だ。15年も正確に動いている。」と言い、じいさんは[あんたはいくつだ?]と訊くので「65だ」と答えると、驚いて、「わしと同い年だ」と言うので今度はこっちが驚いた。小生の方は、じいさんはてっきり80くらいの老人だと思っていたので。
「あんたは、日本で、今何をして暮らしているのか?」「小生は今、ロシアに住んでいる。学生だ。モスクワ大学でロシア語を学んでいる。」「こりゃ驚いた、学生だと?」「正確に言えば、年金生活者の学生だ。」「マラジェーツ!(大したもんだ)」と大きな手を差し出し握手を求めてくる。
「記念に一緒に写真を撮りたい」と頼むと「ハラショー。だけど、ちょっと待った」と言って家の中に入り、自慢気に大きな木製のパイプを咥えて出て来た。中年の男にシャッターを頼み、じいさんと手を握り合ってカメラに収まる。
しばらく田舎道を散歩していると家陰から男が走り寄って来て、家の中を見てくれという。そこはみやげ物屋だった。この野外博物館には俗っぽいみやげ物屋なんかないだろうと思っていたので意外だったが、よく見ると中々いいものがあった。
きれいな刺繍のあるルバシカが目に入り、値段を聞くと120ドルだという。有名な人の刺繍だというだけあってとてもいい。でも、外国人だと見て値段を吹っかけていることは分かっているので、100ドルにしないかと訊いたら、女主人が110ドルと言う。
じゃ、止めたと言って店をでると、先ほどの男が追いかけて来て、105ドルにすると言う。もういいよ、と行こうとすると、100ドル!と叫ぶ。じゃ、気が向いたら後でもう一度寄るからと言って先の道を進む。
祝日だったので、若い人たちや家族連れがあちこちで楽しそうに遊んでいる。朽ち果てたような木造の教会、まだ人が住んでいるのではないかと思われるような手入れの行き届いた民家、藁葺き屋根の農家、厩、放置された畑、廃村をそっくり博物館にしたような大舞台・・・
廃墟になった風車小屋がいくつも見える草原で、ロシア人のようにビールのラッパのみをする。
2時間ほど胸一杯にいい空気を吸い込みながら村の中をさまよい歩き、あのみやげ物屋のところに出てきた時、もう一度寄ってみた。ルバシカはよく見ると小生には少し大きすぎ、胸の所に染みがあるのに気がついて結局買わなかった。
博物館の正門に出て来てバス乗り場で時間表を見ていたら、馬を引いてきた地元の少年がバスはいつ来るかわからないよと言うので、タクシーで都心に帰ってくる。
人のよさそうな初老の運転手と、道々、いろいろ話しているうちに、ウクライナ語の話になり、小生がウクライナ語を話すのは難しいと言ったら、彼が「俺もそうだよ」と応えたのがとても印象的だった。
夕方、風呂に入って汗を流し、着替えをしてから劇場へ出かける。遠い所にあると思っていた劇場は、実はホテルから歩いて直ぐの所にあった。
劇場は正式にはタラス・シェフチェンコ国立オペラ・バレー劇場といい、伝統のあるいい劇場だ。客席は平土間から桟敷、立見まで5層になっている。ちょうどボリショイを一回り小さくしたような感じを受けた。
同じ桟敷の前の席に10歳くらいのとてもチャーミングなお嬢さんが座っていた。白いレースの襟のついた黒いビロードのドレスを大人っぽく着こなし、きちんと姿勢を正して崩さない。
白い首筋の美しさと金髪の艶かしさ、ちらっと横顔を見せた時の大きな目と鼻筋のバランスのよさ、どこをとっても欠点というものがない。時折、舞台の演技に拍手を送る時の興奮した様子がかわいらしい。
今夜の出し物は「ロメオとジュリエット」。踊り手たちはジャンプやターンの力感に多少乏しいけれど、全体にバランスがとれて、きれいにまとめているという感じを受けた。
5月10日 快晴。(12日間の旅行で雨が降ったのは、結局、1日だけということになる。)
8時起床。今回の旅行も今日で終わり。今朝はレストランに客が多く、メニューも元に返った。トマトジュース、オムレツ、キャベツの酢漬け、りんご1個、パン1切れにコーヒーが小生の定番。
食後は、まず、ホテルの近くにあるウラジーミル聖堂に行く。小生は信者ではないが、朝の祈りの雰囲気が好きで、旅先ではよく朝の教会を訪れる。タラス・シェフチェンコの並木道の散歩も朝が一番いい。
聖堂には、もう大勢の信者が集まってお祈りが始まっていた。コーラスが美しい。聖堂の壁画は豪華絢爛。黒を基調に金色をふんだんに使ったフレスコは19世紀のヨーロッパ絵画の影響を受けて、とてもドラマチックであった。
この後は、地下鉄の大学駅からトルストイ駅へ。そう言えばモスクワの地下鉄にはトルストイ駅はなぜか無かったっけ。
アンドレイ坂で偶然、ブルガーコフの博物館を見つける。「巨匠とマルガリータ」「白衛軍」「劇場のロマン」のブルガーコフは小生の好きな作家である。この博物館は革命前に彼と家族が住んでいた家だそうで、古い写真や家具などが保存されている。
ちょうど訪れた時、ポーランド人の学生と恋人と思われるドイツ人の女子学生が来ていて、彼らと一緒にロシア語の案内を受けた。それぞれの部屋は「白衛軍」のイメージでアレンジされている。現実の家具と真っ白な夢の世界の家具が置かれ、シュールリアリズムの世界が展開する。最後の部屋では鏡越しに「白衛軍」の揺れるラストシーンが見られる。面白かった。
今回の旅の最後のプログラムとして、ウクライナ人からウクライナの魂と尊敬されているタラス・シェフチェンコの博物館を訪ねることにする。
ウクライナを旅していると各地で、ロシアのプーシキンのように、タラス・シェフチェンコの銅像、彼の名をつけた大学、劇場、公園、通りなどに出会う。彼はどんな人なのか、なぜ、これほどまでに国民に慕われているのか興味を持ったからだ。
キエフ市内にシェフチェンコの博物館は2つあるが、彼が住んでいた家につくられた文学記念館に行くことにする。
その記念館は都心のど真ん中、独立広場を50メートルほど奥に入ったところにあった。都心には珍しい木造の農家風の家で、大きな樹に囲まれ、手入れの行き届いたきれいな庭があった。
おばあさんが2人ひっそりと働いていた。日本からの客にちょっと驚いたようだったが、ロシア語を話す客なので安心したらしい。喜んで色々説明してくれた。
タラス・シェフチェンコは農奴の家に生まれた。ぺテルブルグの美術学校で絵画を学ぶが、折からのウクライナの民族運動に身を投じる。
その間、ウクライナ語で民族の誇りや農奴の自由を求める詩を数多く書く。また、中央アジアに流刑になった際には多くのスケッチを残した。
異民族に支配されつづけたウクライナ人にとって、自分たちの文化、とりわけ言語は民族の存亡にかかわるものであった。シェフチェンコはそれを美しい詩で表現した国民詩人であった。
わたしが死んだら 祖国ウクライナの
広大なステップに葬ってくれ。
果てしなく広がる草原と
ドネープル川とその岸辺が見えるように、
川のほえる声が聞こえるように。
悪魔の血がウクライナから
青い海のかなたに流れ去るとき
わたしは神の御許へみまかる。
広大な大地も山も すべてを後にして
神に祈りをささげるために。
そのときまでは わたしは
神を知らぬ。
葬れ 立ち上がれ 鎖を断ち切れ
悪魔の血を濯ぎ
自由を勝ちとれ
そして 偉大な国で
自由な 新しい国で
やさしい おだやかなことばで
わたしのことも
きっと 想いだしてくれ。
(この詩はシェフチェンコの代表的な作品。ウクライナの人々は暗記しているという。記念館ではシェフチェンコ直筆のコピーが売られていた。小生の知人のロシア人に露訳してもらったものを和訳してみた。)
記念館に展示されている絵はいずれも写実的な精緻な絵だが、優しさと激しさ厳しさが絵によって大きく異なり、同胞に向ける暖かいまなざしと圧制者に向けた憎しみが描き分けられている。
ウクライナの人たちがタラス・シェフチェンコを敬愛し、特に若い人たちが、つい最近まで支配してきたソ連を嫌って、ロシア語を排斥しようとしている気持も理解できるような気がした。
定刻の18時20分に、モスクワ行きの特急列車はキエフ国際駅を発車した。コンパートメントの相客はヴァロージャというジプシーのアーチストだった。モスクワのロメーンというジプシーの劇場や、ナイトクラブでギターを弾きながら民謡を歌っているという。胸板の厚い、バリトンのいい声をしていた。
彼は、6年前新潟のロシア村の開村式に招かれて日本に行ったことがあると言って、いろいろ印象を語り、あらゆるものが気に入っていると日本を絶賛した。
音楽のこと、旅のこと、自然の美しさについて、モスクワでのジプシーの生活について、アメリカでの演奏旅行について、チェルノーブイリ原子力発電所の事故について語り続けた。そして、チェチェン戦争を激しく非難した。
鉄砲の扱い方も知らないようなロシアの若い兵隊が毎日死んでいく、死傷者はもうじき1万人を越すだろう。何の為の戦争なんだ。チェチェン人にテロリストの烙印を押し付けて、陰でうまい汁を吸っている奴らの為の戦争じゃないのか。すばらしい文化をもったチェチェンは焼け野が原で、もう何も残っていない。
この恨みを晴らす為に誇り高いチェチェン人は永久に戦いつづけるだろう。たとえ、徹底的にやられても、孫子の代まで戦いつづけるだろうと。この話は良く聞く話だが、彼の口から語られると強烈な真実味を帯びてくる。
また、こんなことも言った。モスクワでは仕事で遅くなると、時々、得体の知れない奴に襲われる時がある。そんな時にはこれを使う、と言って彼は大きな飛び出しナイフを出した。これは日本製なんだ。自分の大事な護身用のナイフで、まだ人を切ったことはない。でも、これをちらつかせると大抵の奴は逃げていくと笑った。
10時ころ、国境のウクライナ側の駅でウクライナの税関の検査があった。申告書を見せただけで簡単に済んだ。 列車が発車して、眠りかけたころ、激しくドアを叩く音がして、今度はロシアの国境警備隊の入国審査、つづいて税関の検査があった。
ヴァロージャの方は簡単に終ったが、ロシア人の若い将校は小生のビザに関心を持って、「あなたは本当に学生か?」と訊ねるから「そうだ」と答えると「何の勉強をしているのか?」と質問がそれて行く。「ロシア語だ」「何でロシア語を勉強するのか?」とますますそれて行く。
そんなこと、こちらの勝手だろうと言いたいところを、「私はロシアの演劇に大変興味を持っているからだ。」と、いつも用意している返事をすると、将校たちはやっと納得したようにパスポートを返してよこした。
ヴァロージャも「あの将校の質問は当然だ。ロシア人にとっては、あなたの年で留学したり、ましてや、ロシア語の勉強をするなんて考えられないからなあ」と言った。
今回のウクライナ旅行でも「なんでロシア語の勉強をするのか」という質問をよく受けた。答えはいつも「ロシア演劇に興味があるから」に決まっているが、それはこの答えが一番理解されやすいからだ。
小生が英語の勉強をしているとすれば、「何で英語の勉強をするのか?」という質問はあまり受けないはずである。英語は必要だから誰でも勉強してあたりまえ。ところが、ロシア語は違う。
ロシア語はもう必要もない外国語なのに、ロシアはもう沈没するだけの国なのにと、みんなが意識の隅で思っているらしい。さらに、ウクライナのようにロシア語を知っていても捨てようとしている国もあるというのに・・・
小生の偽らざるところは「ロシア人が面白いから。ロシアが好きだから」と言いたいのだ。しかし、この答えで、あの将校たちは納得してくれただろうか。
窓の外は少し明るくなり、列車はロシアの林の中を走りつづけている。ヴァロージャは静かに眠っている。ああ、もうすぐモスクワだ。モスクワに帰ってきた。
おわり





































































