あの男は、他の誰とも違っていた。
私が主上(おかみ)付きの女房として内裏に上がってから二年になる。
一月前、あの男が頭の中将となるまで、私はあの男のことをほとんど知らなかった。
蔵人頭ともなれば、仕事柄あの男は主上の御前に詰めることが多い。
他の公達が、始終主上の顔色を窺い、ご機嫌取りに終始しているのとは違い、あの男はそつなく務めをこなすものの、どこか醒めていた。
それを主上もかえって信頼に値すると思われるのか、ことあるごとに近くお召しになる。
自然、主上の身の回りのお世話をしている私たちとも、顔を合わせる機会が増えた。
その日も、いつものように主上のおそばに上がると、お召しがあってちょうど中将が清涼殿に参上したところだった。
…入ってきたその男を、それとなく見る。
勅許を得ているので、直衣姿での参内が許されている。
白の直衣に桜重ねという冬直衣姿。出衣(いだしぎぬ)の紅色も鮮やかだった。
…その時。
中将は私にゆっくりと視線をあてた。
おそばに控える他のどの女房にでもなく、まっすぐ、私に。
熱っぽく見つめるというのでもない、かといって睨み付けられているわけでもない。
ただ、見つめている。
その視線の意味を私は計りかねていた。
いったい、どういう男なのだろう、この男は…?
…昔通っていた女性(ひと)がいたと聞いたことがある。
その女性がはかなくなった(亡くなった)、とも。
あの男が、俗世のことはどうでもいいと言わんばかりの醒めた表情を見せるようになったのは、それからだという。
…そんな男に興味を持つなんてバカげている。
はかなくなった女性と張り合うなんて。
『そんなこと、あたしのプライドが許さないわ』
そう。
何人もの公達に言い寄られても、いつだって適当にあしらってきた。
ある男は心を尽くした歌をたびたび寄越したし、またある男は唐渡りの珍しい絹を送ってきて私の気を引こうとした。
『その程度でこの私を籠絡できると思ってんの…?』
男たちを腹の中で笑いながら、いつも相手の気を損ねないようにやんわりと、でも毅然とした態度でお断りしてきた。
極上の微笑みとともに。
だから「落ちそうで落ちない女」と、内裏(うち)では通っているのだ。
中将はまだ私から視線をはずさない。
が、そこで恥ずかしそうに視線を伏せるのは、世間並みの女。
私も扇をかざし、薄く微笑みを浮かべたまま、挑戦的にその視線を受けてたつ。
紅梅重ねの女房装束の裾を優雅にさばきながら。
「…中将…?」
いつまでたってもそば近くへ来ないのを不審に思われた主上の声に、中将はゆっくりと視線を私からはずし、おそばへ控えた。
その日から、ことあるごとに私はあの男の視線を感じていた。
しかし、それくらいで簡単になびくような私ではない。
諾とも、否ともとれる微笑みで、いつもあの男のそばをすり抜けていた。
それにしても…。
あの男はなぜあんな表情(かお)ができるのか。
私の心の中まで貫き通すような、あの視線。
私の反応に構わず、余裕を見せる醒めた微笑み。
あの瞳に見つめられると、なぜか心が騒ぐような気がした。
でもまさか、そんなこと、ありえない。
この私が、こんな男に。
そんな日々の中、夏が近づいていた。
私はしばらくお暇をいただいて、三条にある自分の屋敷に宿下がりすることにした。
気の張る勤めからから解放された久しぶりの休みに、心からくつろいで一日を過ごす。
主上のもとに上がっていれば、色々な公達が自分の局にやって来るし、華やかに言葉を交わしながら、秘かな恋愛の駆け引きも楽しめる。
しかしその実、政治の中枢に近い私たちから、他人より早く情報を得ようという公達の政治活動でもあるのだから、一時たりとも気が抜けず、かなりのストレスのかかる日々でもあるのだ。
「たまにはこんな休みもなくちゃ、ね…」
前から気にかかっていた衣装を新調したり、香を調合したり。
一日を自分の好きなように使える自由を楽しんでいた。
そんな日の宵を過ぎた頃。
初夏にしては少し暑い一日だったので、夕餉を終えた私は、少しまどろんでいた。
…気がつくと、部屋のすぐ外に人の気配がする。
「誰…?」
思わず声が鋭くなった。
「厳しい声だねえ。大概の男はその声だけですくみあがっちまうぜ」
「スパイク…!」
…あの男だ。
何で…こんなとこまで…?
女房の誰かが手引きしたのだろうか。
「いったい、何しに来たのよ」
「宿下がりって聞いて…ちょっとご機嫌伺いに」
御簾を巻き上げて、さりげなく身体を滑り込ませてくる。
とっさに身をかわそうとするが、袿(うちぎ)の裾を押さえられて、身動きがとれない。
「今さら…逃げるなよ」
「あたしをそこいらの女みたいに扱うの、やめて」
私の意思を無視したやり方に少し腹が立って、何とか身体をずらそうとしながら、かろうじて言った。
「ずっと…お前のことが気にかかってた…。わかってただろ?」
「陳腐な口説き文句よね」
「そんなんじゃねえよ」
「とか言いながら、前の女性(ひと)にも同じことを言ったんじゃないの?」
ずっと意識下にあった女性(ひと)へのこだわりが、つい私に余計なことを言わせた。
不用意な私の言葉に、男の態度が少し荒々しくなる。
「つまらねえことを…!」
言いながら、私の袿に手をかける。
紫苑の袿が何の抵抗もなく滑り落ち、あとは袴の他、羅(うすもの)の単(ひとえ)だけの姿になってしまった。
薄暗いとはいえ、素肌が透けているに違いないと思うとたまらず、身をよじらせて何とか逃げようと必死になる。
「裸より、ずっと色っぽいぜ」
「いやっ…離して…」
「離すかよ」
逃げようとする私の肩に手を伸ばして引きつけ、抱き寄せる。
しなやかで、それでいて力強い指の感覚を肩に感じ、目がくらむような感覚が私を襲う。
どうして、こんなことくらいで…。このあたしが…?
口惜しさに言葉も出ない。
抱き寄せた私の首に手を回し、親指で耳をゆっくりと撫でる。
男が動くたびに、狩衣から漂う香の匂いが強くなる。
身体の奥がだんだん熱くなり、つい甘い吐息を漏らしそうになって、気付かれないように顔を背けた。
「どうした、フェイ?息が、乱れてるぜ」
からかうような口調。
「何でもないわよ」
顔を背けた意味がなかったことが悔しくて、少し早口に言い返す。
「何でもないなら、こっち向けよ」
言われて、仕方なしに男の方を見る。
「…もう…やめてよ、あたしなんかをからかって遊ぶのは」
「本気でそう思ってんのか?」
低い声でそう言い、心の中を見透かすように、じっと私の目を見つめる。
また、この表情…。
「そんな目で…見ないでよ…」
「見たくなきゃ、目閉じるんだな」
そう言いながら、唇を重ねてきた。
「ん…んんっ…」
言われたからではなく、無意識に私は目を閉じていた。
指が私の頬から耳へ、それからうなじへと滑るのを感じながら、いつしか私は唇を開き、舌を受け入れていた…。
「あっ…はあっ…」
唇が離れた後、首筋に口づけを受けながら、私の身体はゆっくりと褥(しとね)へ横たえられる。
「思った通り、色っぽいぜ、フェイ。声も、表情も」
顔を上げて囁く声に、少し我に返った。
「いや…そんなこと…言わないでよ…」
「褒めてるんじゃねえか」
「ばか…」
「…もっと乱れさせてやるよ」
言うが早いか、単を取り去り、唇を私の胸の頂に覆い被せてきた。
「ああん…!」
思わず大きな声をあげてしまう。
悔しいことに、その声がますます男を調子づける。
余裕のある、手慣れた愛撫。私の反応を見ながら愉しんでいる。
私は、快感に負けるというより、いつからか心の奥底にあった、この男への想いに負けそうになっている…。
でも…。
これは…この男にとって…ただの気まぐれ…?
そんな不安が、ずっと心の奥から離れない。
今の時代、身体を重ねたからといって、なにがしかの責任がついてくるというものでもないのだから…。
でも今は、強いて考えないことにした。というより、考えられなくなりそうだった…。
男が、自分の着ている狩衣を脱ぎ捨てた。単も、指貫も、すべて。
焚きしめられていた香の薫りが、また鼻腔ををくすぐる。
私の袴はいつの間にか部屋の真ん中に散らされている。
改めて、横たわっている私を抱き締めた。
素肌が直接触れる感覚が、私の身体をますます熱くする。
「はあっ…」
下腹部に、硬くなったものが…当たっている…。
「ん…」
いつしか、自分から唇を求めていた。
「結構、火がつくの早えんだな」
「ばか…」
男の言葉に少し赤くなったが、そんな思いは、ゆっくりと押し開かれていく力強い感覚で、一瞬にして霧散していた…。
何もかもが男の思うままになっている感じがして、ちょっと癪かも…。
そんなことを思ったのもまた、奥まで満たされて、軽く意識が飛んでしまうまでのことだった…。
「あっ…あっ…」
男に与えられるリズムのとおりに、声をあげ続けている私。
男の身体から、さっきの香とは違う、汗の匂いが漂う。
その匂いがまた、私を燃え立たせていく。
心の中の不安と、今この男に抱かれているという現実。
不安を忘れるために、目の前の快感に溺れようとしているのかもしれなかった…。
「あっ…!あっ…!いいっ…!」
男の動きが激しくなるとともに、私の声も大きくなる。
両手で男の背中をまさぐり、爪を立てる。
自分から唇を求めておきながら、息苦しくなってすぐに離してしまう。
自分の行動を、制御できなくなっていた。
ただ、与えられる快感を貪っている。
…そして、目の前が白くはじけた…。
それから何度も、私たちはお互いの身体を確かめあった。
久しく感じたことのない、終わった後の充足感と倦怠感。
『…あたし…何回いっちゃっただろう…』
「はあ…っ…」
私の上に重なったままの男の首筋に手を回しながら、思わず吐息が漏れる。
「…後悔してんのか?」
私の吐息をどう誤解したのか、少し上半身を起こして、男が聞いてきた。
「…そうじゃないわ。でも…そうかもね」
「何だよ、それ」
「いいじゃない、お互い、楽しんだんだから」
男の頬を両方の手のひらで包みながら言った。
この男にとって、今日のことが特別なことであって欲しい…。でもそれを強要はしたくない…。
身体を重ねてから、自分のそんな気持ちに気付いてしまったことが、後悔と言えば後悔だった。
それに…。
この男の心の中にはまだ、以前の女性がいるのではないか…。
さっき私がふと漏らした一言が、男の態度を一変させてしまった。
あの時から、その疑いが心の中から離れない。
かといって、それを直接確かめるなんて、できるはずもない。
確かめてみて、もしそのとおりだったら…?
そんな気持ちが、私に物分かりのいい女を演じさせていた。
「噂に違わぬ、遊び上手な女ってことか」
ゆったりと余韻を楽しんだ後、身支度をしながら男が言った。
「ふふ…。あんただってそうでしょ?後腐れがないあたしみたいな女を選んだんだから」
私は袿だけを羽織って、脇息に凭れながら言う。
「そんなんじゃねえよ」
「いいわよ、無理しなくて…。あっ、ちゃんと朝になる前に帰ってね?人に見咎められたくないの」
「お前って…面白れえな」
「何よ、それ」
「なんでもねえよ」
そう言って男は、来たときと同じように、密やかに帰っていった。
あの男からの文はすぐ、夜が明けきるまでに届いた。
「『つれなくみえし』
近いうちに、また必ず」
あの男らしい、しっかりした手跡(て)で、あの男らしい、あっさりした文面だった。
歌を引用ですましているのもまた、あの男らしい。
『つれなくみえし』とは、
「ありあけのつれなくみえし別れより 暁ばかり憂きものはなし」
という壬生忠峯の歌を引いているのだろう。
歌の意味は、「有明の月が残っていたあの別れの時、あなたの態度はひどくつれなかった。それからというもの、暁の頃はあの時のことが思い出されて辛い」というところだろうか。
さっきの別れの時の、私の態度を言っているに違いない。
人の気も知らないで。
私もさっと走り書きで返事を書いた。
「『たきのおとにはたてじとぞ思う』
『近いうち』なんて、曖昧な言い方。心の程がわかるってもんよね」
軽い皮肉で返してやった。
ちなみに、私の引いた和歌は、
「吉野川水の心ははやくとも たきのおとにはたてじとぞ思う」
意味は、「あなたに対する思いは吉野川の急流のように激しいけれど、滝のように音に聞こえて、人の噂になるようなことだけはしたくないと思っている」というくらいのものだ。
けれど…。手紙を使いに持たせた後で、私は少し後悔していた。
さっきの手紙に「近いうちっていつ?」と書いたことは、図らずも私の本音が出てしまっていたのではないか…?
普通の結婚なら、男は女のもとに三日連続で通ってくることになっている。
「それを次にいつと言わないなんて…。私のこと、真剣じゃないの?」とも取れる書き方なのだ。
そんな媚びを売るような言葉。
私らしくなかった。
…一度寝たくらいで、こんなに心が乱れるなんて。
次にいつ逢えるかわからないことが、こんなに不安だったなんて。
そして、素直にそう言えない自分が、もどかしかった。
男が帰った後の部屋は、何だか前と違って見えた。
『この部屋、こんなに広かったっけ…?』
たぐり寄せた衾(ふすま)(眠るときに被る少し厚手の衣のようなもの)には、あの男の移り香が残っている。
「何よ…。勝手に来て、勝手に抱いて…あたしをこんな気持ちのまま置いて、帰るなんて…」
『そう。スパイクは一言だってあたしのこと「愛してる」なんて言わなかった…』
『聞けば、よかったの?「愛してる?」って…?』
『でも、言葉なんて多分、何の意味もないわ。言葉なんかじゃ、本当の気持ちは伝えられないし、分からない…』
『じゃあ、何であたしを抱いたの?何であたしは…抱かれたの…?』
答えの出ない考えばかりが巡っていく。
気がつけば、残り香とともに衾を抱きしめていた。そして、なぜか涙がこぼれていた。
−つづく−
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