私はすぐに、また内裏(うち)に上がることに決めた。
じっとこの家にいるのは、まるであの男が来るのを待っているように思われるんじゃないかと思ったから。
そしてそれよりももし、待ってもあの男が来なかったら…?
そう考えただけで耐えられなくなりそうだったから。
内裏に戻って忙しくしていれば、これ以上あの男に心を乱されずにすむと思った。
戻った後、宮中であの男に会っても、以前と変わらぬ様子で振る舞った。
中将も調子を合わせるように、「公達と主上付きの女房」という関係以上の素振りは見せない。
その様子にほっとしている私と、少し失望している私。
自分でもどうしたいのかよくわからなかった。
そんな頃、御所で蹴鞠の会があった。
「せっかくの機会だから」と同輩の女房に誘われ、私も御簾の陰から見物することにした。
御庭で若い公達が次々と鞠を蹴り上げる。
中将もその中に混じっていた。
鞠を蹴り上げる、軽やかな身のこなし。
少し意地になっているかのような、子供っぽい表情。
瞬間。
その姿を見ているうちに、不意によみがえってくるものがあった…。
あの夜、私を見つめた眼差し…密やかな囁き…そして今も私の身体に残る快感のなごり…。
切ない疼きが、身体を走った。
その後の宴で、灯火に照らされた中将の姿を見てもまた、あの夜を連想してしまう。
『初めての男じゃあるまいし…いつまでも未練たらしいわよね、私も』
私は適当なところで御前を下がり、自分の局に戻った。
もうかなり夜も更けていた。
『思い出さないようにしてたのに…』
「はあ…」
思わず、ため息が出た。
「そのため息は、俺のせいか?」
御簾の外で声がした。
「スパイク…」
あの男の声だった。
「急に、何バカなこと言ってんのよ」
月明かりにぼんやりと浮かぶ男の姿に向かって、つい憎まれ口をたたく。
「バカなこと?」
「そうよ。自信過剰にも程があるわ」
「自信過剰、ねえ」
そう言いながら、当然のように御簾を巻き上げ、するりと中に入ってくる。
「ちょ、ちょっと」
あせる私をからかうように、男は私の横に座り込む。
「逢いたかったぜ、フェイ」
冗談とも本気ともつかない口調で言う男の顔を、不本意にもじっと見つめてしまっていた。
「何よ…それ」
「どうしてすぐまた内裏に戻ってきちまったんだよ」
「そんなこと…あんたに関係ないじゃない」
「関係ないわけねえだろ?」
近づく男から逃げようとする私の手首を床に押さえるように掴み、ゆっくりと、噛みしめるように言った。
「本当に、逢いたかったんだ」
『スパイク…』
その言葉に、一瞬そのまま男の胸に崩れおれそうだった。
でも、私の最後のプライドが、ここで敗北を認めるのを許さない。
「…一度寝たくらいで、もう恋人気取りってわけ?だいたいこんなところで…人目に付いたらどうしてくれるのよ」
ああ…。なんて素直じゃない私。
「…お前って、ほんと素直じゃないのな」
「何よ」
『…自分でも、そう思ってるわよ』
心の中で、そう自分に悪態をついた。
「まあ、いいさ。ここでどうこうしようとは思ってねえから。でも…」
男は言いながら私の髪に顔を埋めた。
「あ…」
髪にまで神経が通っているかのように、私に男の唇の感覚が伝わった。
「次に会うときまで覚えとく、この香り」
ゆっくりと立ち上がって、男は局から立ち去った。
『…何であんな言い方しかできなかったんだろう、あたし…』
また素直になれなかったことに、思いっきり自己嫌悪を感じていた。
落ち込んだ気分を変えようと、物忌みを理由にまた、宿下がりをした。
そのまま内裏にいて、あの男と顔を合わすのも気まずかったし…。
今度は周りの数人にしか知らせずに下がったので、あの男がやってくることはまずありえないと思っていた。
そして、可もなく不可もなく、といった平穏で、退屈な日々が過ぎていった。
が、ある夜。
門のあたりが騒がしい。
「何の音…?」
女房を見にやらせようとしたその時、慌ただしい足音が近づいてきた。
「…!」
女房の息をのむ声が聞こえる。
私は立ち上がって、様子を見ようとした。
目に入ってきたのは血塗れになったあの男だった。
「スパイク…!」
『怪我…!?』
そう思ったとき、きゅっ…と胸の奥が掴まれたように苦しくなった。
「どうしたの、その血?どこ、切られたのよ?」
駆け寄って袖を掴んで言った。
「俺の血じゃねえよ」
「…?」
「内裏から退出して帰る途中、賊に襲われた。従者が何人か切られたが、賊はみんな切り捨てた。これはその返り血だ」
安心のあまり、その場で座り込んでしまった。
「よかった…。てっきりあんたが切られたんだと…」
「心配してくれたのか?」
「当たり前じゃない…」
「今日は、素直なんだな」
「バカ…」
男が私の横に腰を下ろした。
「袿…血で、汚れてるぜ」
「あっ」
「ま、いいか、どうせ脱ぐんだし」
「誰がそんなこと決め…あっ!」
言いながら男は私の肩を引き寄せ、あっさり私は唇を奪われていた。
記憶の底に残る、男の香りが強くなる。
「んっ…」
重ねた唇を離し、男は私の頬を手のひらで覆う。
「心配させて、悪かったな。危ねえ目に遭って、真っ先に思い浮かんだのがお前の顔だった」
「スパイク…」
「襲われた後、とっさに行き先を従者に告げるときも、出てきた言葉は自分のじゃなくて、お前の邸だったんだ。いるかどうかもわかんねえのにな。…屋敷を血で穢しちまって、悪い」
「いいわよ、そんなことどうでも…!あんたが無事だったんだったら、それで…」
「今日はいやに素直なんだな」
「…さっきあんたが血塗れで入ってきたとき、ほんとにあたし、心臓が止まりそうだった」
「フェイ…」
「今までつまんない意地張ってたわ。あんたの気持ちがわかんなかったから。でもあんたが怪我したって思ったとき、このままじゃ嫌だ、自分の気持ちに素直になることの方が大事だって思ったの」
「……お前」
男は少し首を傾げて、私を見る。
「今、俺の気持ちが、わからなかったって言ったか…?」
心底不思議そうに言う。
「…?…そうよ。あんたはあたしの所に来はしたけど、それが遊びか本気かなんてわからないし」
「お前なあ…」
あきれかえったように言う。
「何よ」
「俺がここへ来ること自体、結構政治生命かかってんだぜ?」
「せ、政治生命…?」
いきなり大仰な言葉が出てきて、少し面食らってしまう。
「俺も真っ向から帝に盾突くってのも…って思ったし」
「『帝に盾突く』…?…ええっ?」
「お前、帝に懸想されてるって専らの噂だし?」
「『帝に、懸想』…」
思いもよらない言葉が次々出てきて、ほとんど男の言葉を繰り返してばかりいる。
「なんで、そんなこと…」
かろうじて、その言葉だけを絞り出した。
「お前…どんな身分の公卿に言い寄られても袖にするなんて、他にどんな理由があるんだよ」
そんなことで、そんな結論に…?
…ああ。男の理屈だわ。
「だから、来たってことだけで、俺の気持ちは伝わるかと思ったんだよ」
「そんなことぐらいで、分かる訳ないでしょ」
「そうだったみてえだな。それに、誰かさんは全然素直じゃねえし」
「素直じゃない…って…」
「そうだろ?あの夜だって、あんなに態度や身体に現れてんのに、認めようとしねえし、俺への気持ち」
「身体に…」
それは…あの…あの時…すんなり受け入れちゃったこと…かな…?
「俺…あの時、お前の気持ちが分かった気がして、すごくうれしかったんだぜ?マジで」
「スパイク…」
男はいたずらっぽい目で言う。
「なのにお前はいつまでも強がってるし。何でだよ?」
「あたし…あんたの負担になりたくなかったのよ。あんたの心の中には、前に通ってた女の人がまだいるんじゃないかって…思ったから」
「お前…そんなこと気にしてたのか」
「そんなことって…」
「確かに昔愛した女がいた。そいつが死んだときは、もう二度と女は愛せないと思った…」
少し遠い目をした男を見て、やっぱりその女の人に嫉妬してしまう。
「でも」
視線をはっきりと私に戻して言う。
「もう、気持ちの整理はついてる。第一、そんな気持ちのまま、お前を愛せるほど器用な男じゃねえよ、俺は」
「スパイク…」
そっと、男の肩に顔を埋めた。
「お前のこの髪の匂い…忘れられなかった」
男が私の髪を手に取り、顔を押しつけて言った。
「あたしも…スパイクの匂い…ずっと覚えてた…」
汚れた衣を脱ぎ捨てて、お互い単と袴だけの姿になった。
ゆっくりと、どちらからともなく唇を重ねる。
舌が、お互いを確かめ合うように絡まり、離れる。
男の背中に回した手に、知らず知らず力が入る。
離したくない…。そう思った。
男が、指で私の髪をかきあげる。
抱き寄せていた手がいつの間にか私の単の中に忍び込み、衿が押し開かれて、唇が首筋から鎖骨、そして胸のふくらみに近づいてくるのを、少し熱を持っている意識の片隅で捉える。
「あ…」
私は少し期待のこもった声をあげてしまう。
「あはっ…」
男の唇が、いきなり私の胸の蕾を捉える。
硬くなってしまった突起を唇で挟み、舌先で掃くように刺激する。
かと思えば、ゆっくりと吸ってから、挟んだ唇でも愛撫するように滑らしながら、音を立てて離す。
「はあっ…ああんっ…」
「気持ちいいんだろ?」
顔を上げて問いかける。
「ばか…!…あっ…」
それ以上の反論は、再開された愛撫によって遮られてしまった。
男がゆっくりと私がまとっている残りの衣を身体から取り去る。
「うん…あはあっ…」
片方の胸の蕾を唇で愛撫され、もう片方は男の指でつまみ上げられて、身体を甘い電流が走り抜ける。
「この間より、ずっと感じてないか?」
男が私の顔をのぞき込む。
「ばか…!変態…!」
「お前が感じてると、俺も興奮するんだよ。 だから…もっと感じろよ」
胸を愛撫していた男の手が私の足の間へ向かう。
「あっ…」
待ちきれなくなってしまってること…気付かれてしまう…!
「あっ…やあっ…!」
男の指が、私の秘めやかな部分に伸びてくる。
「んんっ……」
その指がなめらかに動いていることを自分でも感じて、いたたまれなくなる。
「この間よりずっとスムーズに動いてるぜ?」
「ああっ…いやあん…」
そしていきなり、指がするりと忍び込む。
「うあ…ん…」
突然の感覚に、思わず男の肩を掴み、しがみつく。
「そんな色っぽい声出すなよ。こっちまでたまんなくなるじゃねえか」
『誰のせいよ…』
そんな言葉が出てくる余裕すらも、もうなくなっている。
「お願い…もう…」
「『もう』、何だよ」
「ん…意地悪…」
普段の私からは想像もつかない甘えた声が出てしまう。
「冗談…。俺だってもう我慢できねえよ」
そう言うと、自分も残りの衣を脱いで体勢を整え、男はゆっくりと私を貫いてきた。
「ああん…」
「準備万端って感じだぜ、ここ」
「あはぁっ…」
からかわれているのがわかっていても、つい反応してしまう。
待ちかねたように、迎え入れていた。
身体がつながっただけなのに、心もつながったと感じられるのはどうしてだろう…?
それも、この間の夜よりも、ずっと深く…。
「ああんっ…」
奥まで届いたのを感じたとき、ただそれだけで瞼の奥が白く弾けた。
「フェイ?まさか、もう?」
また、からかうような、男の口調。
「…いやあ…ん…」
「そんなに締め付けるなよ…すぐ終わっちまうじゃねえか」
「ああん…だって…」
そんな言葉ですら、刺激になってしまう。
私を奥まで満たし、ぴったりと身体を重ねている男の背中に腕を回す。
「ああん…すごい…気持ちいい…」
男が動くたびに、一つ一つの快感が蓄積されて、だんだん大きな快感になっていく。
まぶたの裏に、白い霞がかかってきた。
「あっ…もう…ダメ…また…ああっ…!」
私はまた大きく身体をのけぞらせていた。
男の息も、荒くなってくる。
「俺も、もう…いきそう…」
それを感じて、私はまた達しようとしていた。
「あっ…もう……もうダメ…また…!すご…いい…あはああっ…!」
…それは、今までと比べ物にならないくらいの大きな波だった。
「…んはああっ!…ああっ!…い…くうう…ん…!」
強く、奥深いところまで打ち込まれながら、男の背中に爪を立て、背中をのけぞらせて、びくん、びくん…と全身を何度も痙攣させる。
同時に、私の奥にも熱い液体が吐き出されるのを感じていた。
「あっ…ん…!」
折り重なって、少しずつ重くなる男の体重を感じながら、次第に意識が遠のいていた。
「…お前みたいな手応えのある女に会ったの、久しぶりだった…」
並んで横たわりながら、男が独り言のように言った。
「手応え…?」
甘く、心地よい疲れに身体を任せなが ら、私も気だるい口調で聞き返す。
「大抵の女は型どおりの反応しか見せねえし。言い寄れば簡単になびくし。その点、お前は面白かったぜ?」
「面白いって…何よ」
「身体全体で俺に気持ちをぶつけときながら、言葉では遊びだって言い張ってんだもんな」
「あれは…その…」
「だいたい、遊びの相手に向かって『あたしなんかをからかわないで』なんて言うかよ、普通」
「……」
そういや、言ったかな、そんなこと…。
「肝心なことは全然見てねえくせに、細かいことばっか気にするし」
「だからそれは…あんたが何にも言ってくれないから…」
「そうそう言えるかよ、そんなこと。ちょっと考えればわかるだろうが」
「だって…わかんなかったもん…」
「俺を、信じろよ」
私に向き直って言った。
「……」
『信じてる』…そう言おうと思った。
でも何だか、素直にそんなかわいいことが言えなくて…。
それに、もう少しこの男の気持ちを聞きたかったから。
で、そのかわりに、こんな言葉が口をついて出ていた。
「でも、そんな簡単に信じられるわけないじゃない。何にも言ってくれない男を」
「…やっぱり、面白えな、お前」
「何よ、それ…」
ふくれっ面の私を見て、男が笑った。
『なんかまたうまくごまかされた気がする…』
しばらくすると、男の本邸から狩衣が届けられ、着替えて男は明け方帰っていった。
「また来る」
「ほんとかしら?遊びかもしれないのに」
「お前なあ…」
別れ際にそんな会話を交わして。
『別にスパイクのこと、信じてないわけじゃないわよ。ただ、もう少し、言葉にして欲しいなって…思っただけじゃない…』
まあ、私のわがままだってことは、分かってるんだけど。
今度も、時をおかずに文が届けられた。
期待と不安に胸をおののかせて、薄様に書かれた手紙を開く。
手紙には、
「『いはで思うぞ』
そんな程度じゃねえんだよ。
素直じゃないお姫様へ」
とだけ、書いてあった。
『いはで思うぞ』というのは、「心には下行く水のわきかへり 言はで思ふぞ言ふにまされる」という古歌を引いているのだろう。
意味は「表に出ずに流れる水のように、心の中で言わずに思っている方が、口に出すよりずっと思いは強いものだ」というところだろうか。
「口に出して言えるくらいの軽々しいもんじゃなくて、もっと真剣なんだよ、お前に対する俺の気持ちは」…そういう意味の文面に、思わずその手紙を胸に押し当ててしまう。
「やられた…」
悔しいけど、私にはその手紙だけで十分で、柄にもなくまた少し涙が出そうになった。
「でも…こんな手紙寄越して、どう返せって言うのよ」
言葉にすれば軽々しいというのなら、手紙など書く意味がない。
私は少し考えた末、
「香こそ恋しき」
とだけ書いて返した。
これには本歌があるわけではなくて、「ただ香りだけが恋しいの。その香りに会いたいから、来て」と、素直じゃない女ぶりを発揮したつもりだった。
その返事はすぐに来た。
一言、「今夜」とだけ書かれてある。
その文字を見た瞬間、また不覚にも身体を熱いものが走ってしまう。
『あたし、しばらく内裏には帰れそうにないなあ…』
そう思いながら、先の手紙と今のを一緒に、いとおしむように文箱に収めて、とっておきの香を焚きしめる準備をするために、裾を翻して立ち上がった。
−おわり−
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