■大阪商船の揚子江航路
| 日清戦争の結果、揚子江の航行権を獲得すると明治29年(1896)5月の大東新利洋行(後の大東汽船)を嚆矢としてわが国の海運会社が進出を始めた。 |
| 逓信省命令航路として開航。大井川丸、天龍川丸2隻で毎月6航海。寄港地は鎮江/蕪湖/九江また通州・江陰・天星橋・儀徴・南京・大通・安慶・武穴・黄石港・黄州に停船。明治33年(1900)9月から揚子江航路用に建造した浅喫水型船型の大利丸、大亭丸が前記2船と入替わった。明治34年(1901)10月には大貞丸を加えて3隻で南京を寄港地に加え毎週2航海とした。明治38年(1905)7月さらに購入船大福丸を加えて4隻で毎月12航海としたが明治40年(1907)3月、日清汽船へ航路とともに譲渡した。 |
| 逓信省命令航路として開航。新造船大元丸が毎月3航海。寄港地は沙市で新堤・荊河口(後に岳州に変更)に停船した。明治34年(1901)10月には大吉丸を加えて2隻で毎月6航海とした。明治40年(1907)3月、日清汽船へ航路とともに譲渡した。 |
■大阪商船の南支那航路
| 淡水香港線 |
明32.4.1(1899)開設〜大4.4(1915)基隆香港線〜昭14.10(1939)東亞海運に譲渡 |
| 臺灣総督府の命令航路として開航。隅田川丸、舞鶴丸が毎週1航海。厦門/汕頭に寄港。明治36年(1903)上半期より毎月5航海(内1回は自由航海)とし、明治38年(1905)には大仁丸、大義丸を加えた。大正4年(1915)4月命令航路更改に伴い基隆香港線と改称され開城丸と大仁丸で毎週1回、基隆及び香港を発航した。大正14年(1925)には鳳山丸及び開城丸、昭和5年(1930)以降は廣東丸と鳳山丸が就航。 |
■大阪商船の北支那航路
| 天津経過神戸牛荘線 |
明32.9.11(1899)開設〜明33.7(1900)北清事変のため休航 |
| 舞子丸が就航。毎3週1航海とし門司/天津に寄港したが明治33年(1900)7月以降、北清事変のため休航。 |
| 芝罘経過神戸牛荘線 |
明32.9.25(1899)開設〜明33.7(1900)北清事変のため休航 |
| 打狗丸が就航。毎3週1航海とし門司/芝罘に寄港したが明治33年(1900)7月以降、北清事変のため休航。 |
| 神戸北清線 |
明35.2.26(1902)開設〜明38.3.3(1905)大阪北清線〜明39(1906)下半期に廃航 |
| 北清事変のため休航していた天津経過神戸牛荘線及び芝罘経過神戸牛荘線を神戸北清線と改称して再開。盛航丸他2隻で毎週1回神戸、牛荘を発航し門司/芝罘/天津に寄港。日露戦争期は用船1隻が就航したが明治38年(1905)3月3日、大阪延航に伴い大阪北清線と改称、汽船4隻で月4乃至5航海とした。日露戦争後牛荘方面の出荷減少により明治39年(1906)下半期に廃航となった。 |
| 明治39年(1906)2月25日大阪出航の大信丸を第1船として開始、就航船は他に大智丸。計2隻により月3航海の定期サービスとした。寄港地は神戸/門司/芝罘で冬季結氷中は休航した。間もなく温州丸を加えて3隻により月4乃至5航海とした。明治41年(1908)11月5日以降、神戸/門司を連絡地として國有鐵道と船客、手小荷物の船車連絡を開始。 |
■大阪商船の滿州航路
| 明治38年(1905)1月旅順開城と共に満州開発の先駆として開設。舞鶴丸を第1船として下半期には舞子丸、基隆丸、安平丸の4隻により毎週2回の定期サービスとした。翌明治39年(1906)4月、逓信省命令航路となり、大義丸、大仁丸を配船。続いて当航路用新造船鐵嶺丸、開城丸が就航した。その後租借地関東州の経営と満州の開発及び滿鉄事業の隆盛とともに日本/大連間の荷客は激増し、航路の重要性が増したため、明治40年(1907)には新造船嘉義丸、払い下げ船天草丸、さらに明治44年(1911)より臺中丸、臺南丸を配船した。 |
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