肌が風の流れを感じとった。
何か懐かしさが脳裏を掠めた。
静かに深呼吸をして、そっと顔を起こすと網膜を刺激する眩い光が戻った。
「この電車は間もなく終点潮使駅に到着いたします。お忘れ物無いようにお降り下さい。ドアとホームの間は……」
閑散とした車内に終着駅への到着を知らせる車掌の声が響き渡る。それでも降りる準備にいそいそと取り掛かる者の姿はまったく見当たらない。
「終点か……長かった」
滑り出し、多くの乗客を乗せた電車は、コンクリートで覆われた都会という灰色の乱雑とした街並みの中を進んできた。
ビルの街並みを抜け、一駅、一駅ごと徐々に減っていく乗客を横目に、そして今度は自分が誰かの横目で見送られながら、さらにその電車から数回乗り換えて、今度は辺鄙な田舎町の風景を眼に映しこの電車に揺られてきたのだった。
途中、降りた駅のホームで喉を潤すために買ったペットボトルのお茶はすでに尽きて、少々…とはいわずとにかく冷たい物を身体は欲していた。車内の冷房効果もあって舌の先端が唇の渇きを捕らえていた。
「………」
空になったペットボトル。
その底に僅かに残った雫を揺らしていると、覗き込んだプラスチック越しに緑色に彩られた山間、青い海が広がった。更にその先、白い砂浜、白い灯台が車窓から遠くに見えた。
「海の街だ…」
緩やかにくねるレールの先には青い海に突き出た街が浮かんでいた。
電車がその速度を緩め、これまた車内と同じように閑散としたホームに滑り込んでいく。手開きの窓からホームの様子を覗いてみると、この電車を待ち侘びている人は…やはりそれほど見当たらない。
電車のドアが開くと車内に熱気が勢いよく入り込み、冷房で冷やされた車内が一瞬で生温くなった。
(暑い……な)
今まで体験したことのない暑さに踏み出すのを戸惑う。日差しが肌を突き刺し、熱気を纏った風が絡み付いてくる、簡単に言えば不快な暑さだ。
しかしそんな不快な熱気を纏った風を一瞬、吹き払う風が流れたのを感じてはっと風の行方を見つめた。
(いい風…)
すっと流れるように俺の脇を通り抜けていく黒く長い髪の少女の袖が今度は羽風を起こす。
顔は見えない…でもなぜかその風に惹かれている自分に気付いた時、俺は長い髪に誘われるようにして踏み出していた。そして降り立ったそこは俺が降りる目的地、潮使駅のホーム。
その風をもう一度感じたくて周囲を見渡したけど、閑散としているはずの駅のホームにその目立つはずの黒く長い髪は見当たらなかった。
再び重苦しいじんわりとした熱気が纏わり始めた。
暗い駅の改札を抜けると、強い太陽が覗き込むようにしてアスファルトに陽を落としているのが、その揺らめいている輝きで分かった。
陽の光がアスファルトに反射して焼けるような感覚に包まれた。溶けるという表現はまさにこの瞬間を表しているものだろう。引き返そうかと思うほどこれ以上踏み出すのを躊躇わせる。それでも踏み出していくと背中にかなりの量の汗が滲み始めたのが分かった。
ロータリーの中心にある時計は午後一時半を指して、秒針はコツコツと時間を刻んでいる。温度計は俺の真正面で、これでもかばかりに三十二℃という涙の出そうな表示を浮かべていた。
「はぁ」
思わず漏れた吐息。この街の気候に慣れるのは相当時間がかかると思えてならない。
小さな田舎町に加え平日の午後、当たり前だが駅前に人はそれほどいない。本当だったら今ごろは気だるい午後の授業に耳を傾け机に向かっているころだ。
この前まで何事も無く、ただ平凡、当たり前のように過ごしていた生活。自分なりに充実していた毎日が転校というかたちでピリオドが打たれた。
しかしそのピリオドが打たれた瞬間、それまでの生活が当たり前ではなく、簡単に言えば偽りの生活だったように感じている自分に気付いているのは何故だろうか?
(あの日々が偽りの生活なんて……おかしな話だよな)
明日から新しい学校の机に向かっているのだろう。これもまた想像さえできない…それでも、慣れていくのが人間。明日という日が今日という日に変わりそれが毎日という当たり前の生活になってゆくだろう。明日は明日の風が吹く…と言ったところだろうか。
違うか?違わない…どうでもいい。
(でも、上手く言えないが明日からの生活が……生活に俺は実感を感じている?意味不明だ……)
駅前から真っ直ぐに延びたメインストリートに足を踏み込んだ時、背中に何か降りかかるような何かを感じ取りふと振り返った。駅の裏側には山とはいえない丘が広がっていた。その丘の稜線に沿って広がる入道雲が飛び込んできた。その圧倒的な存在感に押しつぶされそうになる。
「すごい大きな雲だ…海辺の街ならでわなのだろうな。こんな雲、今まで見ることができなかった…」
そのスケールに圧倒されている俺を掠めるように流れてくる風は、電車の中で感じたものと同じ。そしてそれは徐々に何か懐かしくて不思議な薫りを感じさせた。
「………」
街の音が消されたような静かさが訪れ、その中で風の音だけが耳に響く、こんな言いようのない不思議な感覚に包まれるのは初めてだ。
「あっ…」
しかしそれも一瞬、風が吹き抜けてしまうと街の音も戻り、そんな気持ちも一緒に空の彼方に消えてしまった。振り返る…そこにも青い空に広がる入道雲があった。
一歩一歩踏み出し辺りを見渡せば、綺麗に整備された菱形模様の歩道が街を彩る。
先ほど買った缶ジュースを口に含み、身体に染み込む冷たさを心地良く感じながらといきたいが、すぐに焼けつく日差しに爽快感は奪われた。
(……暑すぎる)
この街、潮使市は海を売り物にした観光の街。等間隔に並んだ水色の街灯と同じように海産物の土産物屋が軒を並べていた。
その遥か上空で旋回する海鳥を眺めながら進んでいくと防波堤に突き当たり海に出た…と思ったがそれは海ではなく河だった。だが流れ着く先には海が広がっている河口。この河は長い距離を流れようやくこの潮使の海に流れ込んでいる。
その壮大な眺めに圧倒されていると風が潮の香りを運んで、それらが鼻腔を擽る。
(…なんだろう、また懐かしい)
潮の香りに何故だか懐かしさを感じる。薄い潮の香りが俺の中にある何かを呼び醒ます…そんな感覚を受け取った。
(この海風を前にも感じたことがあるような気がする……気のせいか)
見知らぬ土地であっても、その素朴さに何か懐かしいものを感じるものなのだろうか?田舎の風景を見ると誰もが感じるあの懐かしさに似ているけど…少し違う。
(……海は生命の源)
懐かしさを感じたのはそのせいなのかもしれない…。
自他共に認める性格、あまり悩むのは好きではない。
俺は小さく微笑んでそう納得するとその場を後にした。
(都会にない素朴な風景がある海のある街、そこに流れ込む大河、いい街かもしれない……この暑ささえなければ)
ガコッ、静かな街のせいだろうか?いつもより響き渡る音をたてて自動販売機の取り出し口に缶ジュースが落ちた。
それを掴む左手が帯びていた熱が一気に消えていく感覚が気持ちいい。
プルタブを開いて口に含むと一瞬、全身が清涼感に包まれ、それでもすぐに不快感が戻る。そんな一瞬の感覚を楽しみながら、まだ古きよき風景が残る潮使の街を進んでいった。
懐かしさに浸りながら歩き始めた俺を見て、誰かがひっそりと笑っていた。
ある夏の日、暑さはまだまだ激しさを増していくようだった。
第1話 夏の風に誘われて
知らぬ土地での目覚めは普段よりもむしろ良かった。
カーテンの隙間から差し込む朝日は、眠気眼には眩しいがとても気持ちがいい。風に乗ってくる海鳥の声が目覚ましの代わりにもなり、また再び眠りへ誘う子守唄のようにも聴こえた。
家族で食卓を囲む…それはいつもと変わらない朝の風景なのだが、
「いってきます」
玄関を開けて望む景色はいつものものと違っていた。
長方形に浮かび上がる光の世界への枠をくぐると、まるで違う世界にでも紛れ込んでしまったような錯覚にさえなる。そこにはいつも見慣れたものはなく、青々とした海と空が広がり、潮の香りが漂う新しい街、海の街だと教えてくれた。
(降り注ぐ陽も、吹き抜ける風の匂いもまるで違う…それは当たり前だけど…)
門を出て一度振り返る。どんなに、どの方向から見ても知ったものは目に映らなかった。
緩やかな坂道を歩き出す。顔を上げると今日から通うことになる高校が丘の上と言うか、…よく言えば岬の上に見ることができた。
夏休みまですでに八日を切った今、一本道が続く坂道の上にそびえる、まるで入道雲のようなはっきりと白く浮かんでいる岬北高校に転校することになった。
(岬北高校か…まずは慣れてから…友達を作って、でも時間は掛かるだろう。大変だ…)
転校生というものはなんて面倒くさいものなのだろうと思わず溜息がでそうになった。それでもあの岬北高校に通わなければ俺の通うべき高校は他にない。
この海の街潮使には街を囲むようにそれぞれ三つ高校がある。
街の北側に普通科の岬北高校、西に商業科の岬商業高校、東に岬水産高校。潮使に息づく伝統工業や漁業に将来身を置こうとする者は商業、水産高校に進み、進学を希望する者は普通科に進むのだと聞いた。
この街でずっと昔から息づいている伝統工業や漁業に関わるわけでもない、進学を希望している俺にとって全く普通の岬北高校は妥当だった。
(漁師になるわけでもないし、かといって醤油作りに関わるわけでもない。普通が俺には合っているだろう)
と、思いをめぐらせているうちに、人の流れに乗りながら校門まで辿り着いていた。
新しい高校生活の出発点が目の前にある。それでも校門をくぐることに特に緊張に包まれるわけでもなく、風景は違っているものの、どこか慣れ親しんでいる自分に気付く。
本当なら新しい高校で何が待っているか分からなく、不安でいっぱいの筈。だけど普通に誰にでも起こる感情が湧かないのは、あと八日ほどしか登校する必要がないからかもしれない。
学校に慣れることや友達を作ることも九月に入ってから、後回しと考えれば、余計な緊張を感じないのだろうと気が楽になった。
(それにしても暑い)
それらより、こっちのほうが気になって仕方がない。もうすでに背中は汗で湿り気を帯びて、新しいシャツがぴったりと背中に張りついていた。
こんな朝早くからも太陽は容赦なく街を包み込むように照らす。この暑さに慣れる日は本当に来るのだろうかとこちらの心配の方が大きかった。
立ち止まりもせずに、校門を何気なくくぐり、自然を装ってたくさんの生徒と共に登校風景に混じった。
当たり前なのだが知っている顔などひとつもない。誰も違和感なく転校生の隣を通り過ぎてゆく。俺から少し浮いた雰囲気を感じ取ってもおかしくないのだが、誰一人俺を気にかけるものはいなかった。その上、
「おはよう…今日もいい天気ね」
見知らぬ顔という目を向けられる以前に、漆黒の長い髪を靡かせた女子生徒に突然挨拶をされた。その瞳は今上空で輝いている太陽のような輝きを放っている。でも、容赦なく照りつける太陽とは違って気持ちのいい光を宿していた。
(駅の長い髪?…違うか顔は見てないもんな)
なぜかあの駅で袖風を起こして行った黒く長い髪の女性を思い出した。一つ大きな鼓動が胸を打ったのが分かった。
俺の返事を待っているのだろうか…女子生徒は輝くその瞳をくりくりとさせて待っている。
「…おはよう。少し暑いかもしれないね」
気のない返事に、そうかしら?という疑問符が浮いたような笑みを一瞬見せた後、爽やかな笑みを浮かべてその女子生徒は昇降口の人込みの中に消えていった。
(あれ?)
なぜかその背中を追いかけたくなる衝動に駆られる。追いかけて彼女の隣に並んだもう一人の自分が見えたような気がした。その姿は肩を並べ登校する恋人のように見えなくなかった。
そんな一瞬の幻を風が吹き払うと、言いようのない懐かしい気持ちに包まれ足をとめた。
「今のはなんだったんだろう…あんまり暑いから頭がボケたのかもしれないな」
流れに逆らうように立ち止まる転校生に目もくれず、それぞれのテンポで教室に向かう生徒。それでも、中にはさっきの女子生徒のように挨拶をしていく生徒もいた。人間性が豊かな生徒が多いのかもしれない。
男子は薄い青のシャツ、女子は同じ色のシャツに胸にはオレンジのリボン、なかにはシャツよりも濃い青の薄いサマーベストを着用している。ズボンやスカートも青系の色でまとめられ全体的の青を基調とした制服だ。
俺も今それと同じものを着用しているのだが、以前の学校の制服が赤を中心としたものだったので違和感をうける。それでも耐えがたい熱気の中で、赤い色を身に付けるのも酷かもしれないと思うと落ち着いた青の配色は気が楽になった。
(さて…俺もいくか、初日から遅刻してもしょうがない)
昇降口をくぐり、窓から差し込む光を浴びながら賑やかな廊下を進んでいく。校舎の隙間からも海が見ることができることに気付いた。
(何処からでも海が見えるんだな……。おっとそんなこと考えるより、まず職員室に行って担任に挨拶か)
青い海原がきらきらと輝いている。気にかけないようにしても目に飛び込んでくる風景、階段の踊り場からも青い水平線が目にはっきりと映った。
教室に向かう途中、何度も窓から海が見え隠れした。おそらく教室からも海が見える、いや絶対見えるだろうと確信する。
「向こうにも同じような校舎が見えるだろう。あちらの校舎は別館になっているんだ。部室とか特別教室とかのね」
一度、そう言った担任の横顔を見るとその眼鏡の枠が太陽の光に反射していた。それから担任の言うほうに目を向けると、今いる校舎と中庭を隔てて別館の校舎が目に入った。その風景が白い壁に塞がれたと思った時、
「ここが私の受けもつクラスであり、今日から波川のクラスになる二年六組だ」、そう言うと担任は「ちょっと待っていて」と先に教室へと入っていった。
担任の登場でクラスの雰囲気が膨れ上がっていくのが聞き取れる。
テレビの中で目にするようなお決まりの場面。数分後転校生を紹介するということになって俺が入っていくのだろう。教室の中は転校生が来るとあってざわめきが止むところを知らない。
しかし、そのざわめきを聴いても緊張するどころか、妙に落ち着き払っている自分に驚いていた。随分と肝の据わった転校生だと自分で感心してみる。
「昨日話した転校生だ。夏休み直前で何かと不安だろうから、仲良くしてやってくれ。それじゃ波川」
「はい」
ここまできてまだ落ち着いている。
サ――、ドアが物音一つ立てずに開いた。
そこはまったく知らない空間、違う教室、違う生徒、違う雰囲気。
以前通っていた教室で自分が座っていたところには違う顔が、友人達がいた席にも違う顔が座っている。それは当たり前、そして窓からはやはり海が見える。
止んだざわめきの中に、足音を響かせて教壇に立って挨拶をしようとしたその時、突然夏疾風が吹き荒れた。
青いカーテンを激しく靡かせて、
「あっ…」
誰かの声と共に小さな欠片がまるで花弁のように教室中に待った。
その一つがひらひらと俺の手の中に収まり、広げてみるとそれはパズルの一欠片。
「……風に散ってしまったのね」
「えっ…」
透き通る声。
誰とも分からない悲しそうな呟きが一つ、手の平の欠片を見つめる俺に届く。誰の声だろうかと見回すが、しかしその声の持ち主は俺の目には映らなかった。
パズルの持ち主が担任に叱責を受けたあとその欠片を全員で拾い集めることになった。
教室中に広がった欠片を皆で一つ一つ集めていった。そして俺の手の中にある最後の一枚をその持ち主に手渡した時、同時に俺と同じように漆黒の長い髪をした女子生徒が、「はい」と言って手渡して去っていく。一瞬、残念そうに苦笑いを俺に向けたその顔が俺の中に強く残った。
風も緩やかに変わって、ようやく俺の自己紹介が始まる。
「はじめまして波川 流です。よろしくお願いします」
挨拶はこる必要もない、そしてこった挨拶など出来るほど起用ではない。簡単に挨拶を済ませると担任に指示された席へと向かう筈だった。しかし、
「波川の席は…あれ、おかしな、確か昨日用意しておいた筈なんだが」
「やだ先生、ここは私の席ですよ」
指示された席にはすでに女子生徒が座っていた。
(えっ、この人は朝の…そしてさっきの)
「すまない、そこは…そこは小宮山の席だったな……最近物忘れが激しくなったらしい?すまん今すぐ用意するから少し待っていてくれ波川」
「先生ったら!」
「あはははは、先生しっかりしてよ!それとも先生とあろうものが転校生いじめ?」
生徒に笑われながら担任は苦笑を浮かべ踵を返した。俺もその担任を苦笑しながら見送った。
不に視線を感じて振り返ると、あの太陽のような瞳がきらきらと輝いていた。
その席に座っていた小宮山は、校門で挨拶を交わしていったあの女子生徒だった。その小宮山と目が合った瞬間、鼓動が高まり、突然緊張という感覚が全身を駆け巡った。
「同じクラスだね」と小首をかしげ微笑む小宮山に鼓動がまた一段と高鳴る。
一つ一つの毛穴から汗が噴出す感覚と指先が湿っていく不快感。その高鳴りが最頂点に達するのを止めさせたのが、息せき切って机を抱え飛び込んできた担任の姿だった。
「はぁはぁ、すまなかった波川、この机を使ってくれ。そうだな…席は空いている小宮山の隣でいいだろう。小宮山仲良くしてあげるんだぞ」
「いやだ私は先生のように意地悪なことはしないわ」
また教室中に花が咲くように笑いが広がった。
「………」
もしあのままだったら心臓が飛び出していたかもしれない。今はもう、小宮山の隣にいても鼓動が高まることはなかった。
「私は小宮山薫流、よろしくね…」
「……よろしく、小宮山さん」
「…小宮山さんは他人みたいで嫌だな…薫流でいいわ。私も流と呼ぶからそれでいいでしょ…二人の名前、似てるもんね」
一方的に区切られたけど、別に嫌ではない。新しいクラスに馴染んでいくきっかけにもなるし、なぜか薫流にそう呼ばれても違和感はなかったからだ。
「分かったよ…」
窓際後ろの席。何処からでもそうだが海がよく見える……と、視線を外に投げかけた時、
「私は橋本望美。今日からよろしくね」
斜め前の女子生徒が人懐っこい笑顔を向けた。その笑顔には人を惹きつける魅力を感じた。
「こちらこそよろしく橋本さん」
「そんな硬くならないで!それに望美でいいよ…でも私は薫流のように呼び捨てはちょっと恥ずかしいから流君て呼ぶね。いいでしょ」
そう言って望美が視線を向ける薫流は、別に恥ずかしくないわと言う風にまん丸とした目をこちらに向けた。こちらが恥ずかしくなるくらいだ。
ポニーテールに水色のリボンという今時珍しい髪型だか、違和感はなくむしろ彼女にはそれがぴったりに思える。
「あれ、汗かいているけど体調悪いの?」
「いや…あまりにも暑いんで」
「暑いって…まだ七月よ」
「ここの気候に慣れるには時間がかかりそうだよ」
「フフ、八月はもうすぐだし、まだまだ暑くなるわよ…頑張ってね?」
まいったなと再び窓の外に視線を移すと、
「あら、もう嫌になっちゃった?と言うのは冗談よ!今の時期転校なんて大変ね。あっ、私は汐原安希子、望美と同じように名前で呼んでくれていいわ」
望美の右隣に座っているショートカットの安希子が悪戯っぽい笑みを浮かべていた。初対面でも軽口が聞けるサバサバとした性格とはきはきとした口調が心地いい。
「嫌になったら転校すればいい…なんてわけにもいかないだろう?しかし本当に厳しそうだな流。俺は瞬だ、よろしく頼むよ」
「心配することはないそのうち慣れる。俺は海元洸矢、瞬と同じサッカー部に所属しているんだ。そうだ波川もサッカー部に入部しない?」
「いや…折角だけど俺は遠慮しておくよ」
最初に言葉を交わしたせいもあるだろうけど、この五人とは良い仲になれる気がした。気を使われるより、遠慮なく話し掛けてくれる方が親しみやすい。そして徐々に他の生徒とも打ち解けていけばいいだろう。
ちょっとした笑顔で始まる新しいクラスでのホームルーム。まだクラス中が笑いの渦の中にある中で、俺はまた窓の外、蒼い海に目を奪われていった。
この時期はすでに夏休みモードに突入していて、授業に集中している時間など三割、良くて四割程度。風に乗って耳に入ってくる会話は夏休みのことばかり。
「流は夏休みをどう過ごすの?」
肘杖をついた薫流が囁くように訊ねてくる。
それぞれが、自分では自分なりに長い夏休みの中で壮大な予定を立てているものだろうけど、他人の予定を訊くのもまた楽しいものなのだろう。予定が合いそうならば一緒にどうか?というのも楽しみが倍になるものだ。
しかし俺には予定らしき予定などないし、立てられるはずもなかった。きっと暑い、暑いと口にしているうちただ過ぎていってしまうに違いない。
気づいたときには秋の気配…そんな夏の過ごし方を思うと悲しい気分になった。
「どう過ごすと言われても…この街には来たばかりで友達もいないし、特に予定なんてない。まっ、伝統が息づいていて興味深い一面もあるし、色々と街を探索してみようと思っている。それが予定になるのかな」
それが今思いついて、予定といえるものなのかもしれない。
「…そう、来たばかりね。良かったら私が案内してあげるわ」
「えっ、でも悪いよせっかくの夏休みなのに。予定があるでしょ?友達と家族と恋人がいれば毎日が大切な時間になるだろう」
「ううん、私に他の予定はないけど、流と過ごす予定ならあるから心配ないわ」
「俺と過ごす予定って…よく分からないことをいうんだな」
「決まり!それが私と流の夏休みの予定。私が流を案内したいの、だって私達友達だもの」
初めから案内してくれるつもりだったのだと薫流の顔には書いてある。それ以外の予定は無いことも。
心温まる人の行為を無駄にするほど酷いことはない。そんないつか読んだ小説の一説を思い出した。
「そうか、ならお願いするよ…一人より誰かと一緒の方が楽しいよね。海の街の見所とか教えてくれると嬉しいな」
「うん、流と二人なら楽しいわ…」と、笑みの上にさらに笑みを浮かべ薫流は頷いていた。
昼休みに入ると本格的な談笑が始まりそれぞれ思い思いに散り始める。
この高校には学食があるというので弁当は持ってきていない。学食がどんなものか、早速新しい環境を体験できるとあって楽しみだった。
早速出かけようとしたとき、その早速タイミングを待っていたかのように薫流が、
「ねえ、流はお昼どうするの?」
「この学校に学食があるときいたから、学食ってどんなところかとても楽しみにしていたんだ」
「学食で取るのね。なら一緒に行きましょ。私が案内するわ、とても大変よ」
「大変?」
「行けばわかるわ」
そう言って悪戯な笑みを浮かべ歩き出す薫流。それに釣られるように、
「なら私達も」と、薫流の誘いにさっきの四人も加わり学食に行くことになった。
六人で肩を並べて歩くのもずっと慣れ親しんでいたことのように感じる。すれ違いに薫流の知り合いが挨拶を交わしていくときも、隣にいる見知らぬ俺の存在に特別な意識を持たないようだった。
前の高校には学食はなかった。それゆえに昼休みの込み様にはハッキリ言って驚かされた。
「これで食事が出来るの?」
食事を取るのを諦めかけた時、手馴れたもので五人は手際よく自分の分を持って人ごみの中から出てきた。
「すごいんだな…俺も取って来ないと」と、決意を固めるが「流の分は私が持ってきてあげたわ」という薫流は二人分のランチを器用に手にし、ほらと言って差し出した。
「あれ二人分食べるんじゃなかったの?」
「違うわ、流のためにとってきてあげたの。それに私はこんなに食べられない」
「薫流ならスピードはないけどもくもくといけそうだけどな」
薫流は洸矢にちょっと頬を膨らませて腕組みをした。
「ありがとう…」
名前でと言われてもいきなり呼ぶのは照れくさい。『さん』を付けるか付けないか迷ったのを見透かすように薫流は「薫流よ」と、微笑んだ。
「ありがとう薫流…」
「うん」
薫流と呼ばれ嬉しそうにする彼女を見て、恥ずかしさなどどこかへすっ飛んでいる自分がいた。
「それにしてもよく俺が頼もうとしたBランチが分かったね?」
「それは、流が私と同じようにBランチを頼むと思ったから……エビフライ好き…でしょ」
「あっ、うん」
「ほー、薫流は流に随分気があるじゃないか」
瞬に対してフフと微風の様な笑みを浮かべる薫流。
「私も解かるような気がするな。だって流君はセミスィートでちょっと好みだな。それに初めて会った気がしないんだもの」
「おいおい、初めて会った気がしないそれってナンパの決まり文句だろ?安希子もアタックかけるのか?」
「違うわよ瞬」
からかっているのだかなんだか分からないが、目を細めて安希子がウィンクをした。
「初めて会った気がしないというのは私も感じるわ…」
「望美もか?女ってのは場の雰囲気や流れですぐこう衝動的になる。いやだね〜乙女チック」
「そんなんじゃないわよ」
しかし彼らがそう話すのもまんざらでもない気がすることをこの時口には出さなかったが感じ取っていた。
この街に降り立ち、初めて潮の香りをかいだ時のように初めてでないような何か懐かしい感覚を。おぼろげながらうっすらと……思い出すように……何かを……何かが埋まるように。
「どうした…流?」
「いや、何でもない」
瞬の声で、どこか違う場所に意識が飛んでいたような不思議な感覚から解き放たれる。顔をあげると窓の向こうに青い海と正面に薫流の瞳があった。
「まだ、緊張しているのね」
「緊張か…そうかもしれないな。でも初めての緊張とは違う………いや、よく分からないよ」
「フフ、大丈夫。流はすぐに慣れるわ」
薫流は静かに微笑んだ。
「そう言えばここの学食って魚物が多いよね?煮物に、焼き物、刺身から…」
「海の街だからね魚が豊富なの。あっ、私の家定食屋をしているから良かったら来てみて。刺身定食がおすすめ」
望美が目を輝かせて言う。その脇で瞬も、
「俺達は魚ばかり食って育っているようなものだし、それに好きだ」
口に魚をくわえながら言われればなんとも説得力がある。
「私が美人なのも魚を食べているおかげね」
「……勝手に言っていろよ」
まあ、なんとも楽しい仲間に初日から知り合えたようだ。思ったより早くこの学校になじむことができるかもしれない…安希子達に混じって笑みを浮かべているということはもう馴染んでいるかもしれない。
俺は彼等の微笑ましい姿に、一緒になって微笑んでいる自分に気付いてさらに微笑んでいた。新しい学校で、新しい仲間に囲まれた楽しい昼の時間が過ぎていった。
教室に戻ればクラスメイト達が回りに集まり熱気が一段とこもる。開け放たれた窓、微風に靡く青いカーテン、しかしその風がここまで届くことはなかった。
(海が見える……)
ふとクラスメイトの合間から見える青を追ってみるとそれは……またあの海だった。
チャイムとともに午後の授業が始まっていった。
〜同じなんだよ〜
午後になるとさらに日差しが厳しくなり、気温も三十四℃を上回りそうになっていた。
「辛そうね」と、ノートに滴れる汗の粒を見た望美が気遣ってくれる。時折吹いてくる風も外の温度そのものを運んでくるかのように暑い風だ。
授業も残すところ一つに夏休みモードも加わり、生徒の気分はすでに外に飛んでいる模様。それでもコツコツとノートを取っている自分のまめさに苦笑と微笑みが交じり合う。
六時間目終了の鐘と共に今日一日が終了すると運動系の部活に所属している瞬、洸矢、望美は教室から飛び出し部活に向かう。
「私は文科系だから」と、安希子はそれとは違う方向へと歩いていった。その後姿から文型とは思えない、すっと線の伸びた体系が彼女の魅力を引き出しているのがわかった。
瞬からサッカー部に入らないかと何度も誘われた。運動は得意だがサッカーなんていう激しいスポーツをこの暑さの中、外で走り回る気にはなれなかったので断った。少し悪い気もしたけど、こればかりは仕方がない。
(……ちょっと校舎内を探索して帰るか)
教室に流れる風と共に、立ち上がると視界を覆うように薫流の黒髪が風に靡いた。
「すぐに帰るというわけじゃないわよね。少し校内を歩いてみない?流」
「ちょうど校内を観て回ろうと考えていたんだ。よかったら案内してくれないか薫流」
「うん!よかった…待っていて」
「案内してくれるつもりだったの?」
さっきまで抱いていた、彼女の落ち着き払ったクールな印象を払拭するようなに可愛らしい笑みを浮かべる薫流がいた。
シンプルな構造と思ったが想像以上に複雑。薫流がいなかったら効率よく校内を見て歩くことは出来なかったろう。教室錬から離れるとそこは未知の世界だった。
「こっちは部室錬、安希子がいるかもしれないわ」
窓から反対側に見える校舎が、どうやら今まで自分達が(今でもいると思っている)教室錬だと分かった。どうやらいつの間にか部室錬などがある別館に来ていたようだった。
「大丈夫よ流、私がいるから迷ったりしないわ」
「そうだね…って、俺一人だったら迷うってこと?」
「フフフ、どうかしらね〜?」
「顔に似合わず意地悪なんだな」
苦りきった表情の俺を横目で見た後、薫流は一歩前に出てお腹のあたりを抑えてくすくすと笑っていた。笑っている顔を見られないようにしているのだろうけど、背中が笑っているのでばればれだ。
まったくといった思いで外を見ると、ガラスに映った自分の膨らんだ顔がおかしくて思わず吹き出してしまい、それと同時に薫流も耐え切れなくなって声を出して笑い出した。
「あははは、ついでに流が校内を不安そうに彷徨っている姿まで思い浮かべちゃった。フフフフフ……」
「そんなに笑うことないじゃないか」
「いいじゃない…友達だもん」
そう言って薫流は俺の腕を取って楽しそうに笑った。
爽やかな香りが彼女の髪から伝わってくるそれは、色気を感じさせる不純なものではなく、淡く清純で自然な心落ち着かせてくれる香り。そしてどこか安らぐようで懐かしい気分にさせてくれた。そんな気分に浸っている時、
「どうしたのこんなところで、お・ふ・た・りさん」
薫流とは違う小悪魔のような悪戯っぽい顔をしながら安希子が行く手を塞ぐようにたっている。
それに気付きパッと腕を放したけど、まだ薫流の残り香だけは消えてなくならない。
「もう何年も付き合っているような雰囲気を放っていて二人ともお似合いよ。他の男子が泣くわよ薫流」
「いいの」
ここに来るまで男子生徒の視線を薫流が浴びていたのは分かっていた。それだけの魅力が彼女にはある。
「ちょっと流に校内を案内していたの」
「まっ、そういうことにしておくね!薫流…と流君」
茶目っ気いっぱいの表情でからかう安希子を見て苦笑するしかない。このようなタイプには何を言っても無駄だろう。返せば返すだけ、何倍にもなって帰ってくる。自分を苦しめるだけになるだろう。
「もう!何を言っても無駄だなという顔していないで何か言ってよ流君」
「えっ、何で分かるの?」
安希子と薫流は「なんでって…」顔を見合わせた後、ぷっと吹き出して「だって顔に出ているもん」といって笑い出した。窓に映った顔は語らなくても相手に心の中が分かるくらい単純明快さが表情に出ていた。
安希子と別れ昇降口から外へ出るとそこには昼間と変わりない、むしろ今日一日の熱気を収束した上下から照り返す厳しい日差しが待っていた。
「汗一つかかないで薫流はよく平気だね。俺なんか変えのシャツが欲しいくらいだよ」
安希子だって薄っすらと汗を滲ませていたのに、薫流は涼しそうな表情でいる。慣れとはここまで極められるものだろうかと首を傾げるしかない。
「暑いのは暑いわ。でも当たり前の暑さだし、私はこの暑さが好きよ。流もきっと好きになるわ」
「俺も?……難しいと思うけど」
腕を組んで考え込むようにする。それでも片目を開くと、漆黒の髪を指の間に滑らせて微笑みかける薫流がいた。またあの鼓動が強く胸を打った。
二人はゆっくりと流れる放課後の時の中を、ゆっくりと歩んでいった。喉が渇ききっているということに気がつき、自動販売機に向こうと……ガタン、一人の男子生徒がジュースを買い終えたところだった。
「ねえ、薫流はなに飲む?校内を案内してくれたお礼におごるよ」
「えっ本当?嬉しい!だったら流と同じ物がいいわ。流の好きなものなら私も好きよ」
なら迷わないですむと思い自動販売機に振り返ったその時、ゆっくりとこちらに振り向いた男子生徒と視線がぶつかった。
「…………」
「…………」
なぜだろうか…まるで鏡に映った自分を見るように……そして何か他人とは思えない雰囲気をに体が硬直した。一言で言えば自分に似ていると感じる。
二人の間を流れていった風に、あの懐かしい感覚を思い出させた潮の香りが含まれていた。
その男子生徒は口元だけを薄っすらと緩め、女性のように形のいい唇を開くと透き通るような声で、
「……君は…転校してきたのかい」
「うん、今日」
「………そうか、受け取って」
パッ、そう言うとその男子生徒は買ったばかりの缶ジュースを二本投げてよこす。それをなんとかキャッチすると冷たさが手の平に広がる。
それをみると偶然なのかはこれから買おうと思っていたレモンティーだった。
「君の分は?」
「僕の分はここに」
男子生徒の手には同じレモンティーが握られている。まるで俺が二人分買うことを分かっていたようだった。
「……飲みなよ。もう一本はあの人に」
「ああ、ありがとう」
レモンティーを薫流に手渡すが、その視線は自分を通り越して男子生徒に釘付けになっている。手が触れた瞬間に、少し震えているのが分かった。
冷たい飲み物が身体に染み渡る……昨日この街に来た時飲んだジュースの時と同じように心地良い。だがその心地良さが消えることは無く持続しているのはなぜだろう。日差しも変わらず強いままなのに…
そしてこの生徒といると、ずっと探していたものが見つかるような、離れていたものが戻ってきたような何ともいえない安心感に包まれた。
(なんだろう…この人は)
「……君も僕と同じことを感じているみたいだ」
「…同じこと?」
「……たぶん同じなんだよ。そう僕と君は似ている…違わないだろ」
そう感じていたのに間違いはない。しかしいきなり言われても戸惑うしかない。だが否定もできない……。
「似ているというだけで、そう驚くこともないじゃないか。………僕は浦崎広澄」
「俺は波川流…よろしく」
薫流の腕がいつの間にか絡められている。
「私は……」
薫流が流と並び名乗ろうとした時、それを遮るようにして一陣の風が吹き、
「知っているよ。君は小宮山薫流…さん」
薫流を見た広澄の瞳が、瞬きのうちにスッと曇り、パッと明るくなったのを見たような気がした。それは小さなことでも大きな変化のように思えてならなかった。それでも薫流の瞳は同じ輝きを宿しているだけ。
「私を知っているの?」
「うん、僕は君を知っている」
「私、あなたのこと知らないわ…」
「この学校、狭いようで広いから…」
何故だろうか彼の言う『知っている』は、ただ名前を知っているや、以前に一度二度会っているものとは違う。親しい人間の口調に聴こえなくもなかった。しかし薫流はまるで彼を知らないよう。
彼はぱっと俺に向き直り、
「………波川君、せっかく知り合えたんだし今日からよろしく。そして…小宮山さんも」
もう一度薫流に振り返った。
何故だろうか、彼には薫流たちと同じように名前で呼んでほしかった。だから、
「こちらこそ…流でいいよ」
「ええ、よろしく…浦崎さん」
「それじゃ僕は下校するよ…今日は本当にいい海風が吹いている。澱みのない、純粋な潮使特有の風、ここ10年ほどまったく吹かなかった」
音も立てないで飲み終えた缶をごみ箱に入れると、浦崎は校門の方へ向きを変えて歩き始めた。五歩ほど歩き振り向くと、
「僕のことも広澄でかまわない」
そういい残し、今度は振り向くことも無く去っていった。
(…浦崎広澄か……不思議な人だ。でも、他人じゃない…そうだな言うなれば昔から知っているような感じがする人だ。いい友達になれるような気がする)
暫く彼が消えたほうを眺めていたが…背中を伝わるいやな感じに気がつく。思い出したように再び汗が流れ始めたようだ。
部活動が始まると校内に生徒達の声が広がり始め、そんなけたたましさがまだ太陽が厳しい陽を落としているグランドに拍車をかけた。
「さて帰ろうか…ん?」
ぎゅっと強く握られた俺の袖が、薫流によって少し汗ばんでいくのがわかる
「……………」
「薫流?」
背中から清純な香りを含んだ風が囁きかけるのが分かった。
(あの人…流に似ているわ…そっくり)
そう呟いた薫流の聴こえないはずの呟きを、風が俺の耳に届けてくれた。