日本人とユダヤ人だけが,神からのぞみの土地をたまわった。日本人は「神勅」によって,ユダヤ人は,神と太祖アブラハムとの「契約」によってである。根本的な違いは,日本人が無条件に与えられたのに対して,ユダヤ人の場合は「法(神の命令,神との契約)を守る」という条件を満たす限り約束の地カナンを享有することができる。しかもこの条件を満たさなければジェノサイドである。神が何度奇蹟によって危機からイスラエルの民を救っても,彼らは神を信じようとせず,法を破り,神の命令に背く。これが旧約聖書の主テーマである。イスラエルの民は,本来ならジェノサイドされるところを,不思議に生命を長らえて流浪の民となり,約束の地に住んだり出ていったりを繰り返してきた。一方の日本人は,約束の地葦原の瑞穂の国に,天壌とともに窮無く住着いたきり一度も出ていくことはない。
なぜ日本人とユダヤにこのような違いがあるのか?それは,ユダヤ教の論理が因果律であるのに対し,神勅の論理は予定説であるからだ。つまり,ユダヤ人は条件付きだったが,日本人は無条件だった。この違いこそが決定的である。その他の決定的な違いの一つが,戒律の有無である。
仏教でいう「戒律」とは,「戒」がさとりを得るための修業ルール,「律」が出家集団の僧伽の中の人間関係を律するルールであるが,ここでは該当宗教固有のルールという意味において用いる(こう定義すると,仏教以外の宗教に関しても「戒律」を論ずることができる)。
戒律と法律(すすんでは社会規範)との関係となると,宗教によって異なる。
ユダヤ教とイスラム教では,宗教の戒律=世俗の法(法律)であり,社会規範も同一である。
仏教においては,仏教の戒律と世俗の法律とは全然違う。出家集団たる僧伽の中には世俗の法律は侵入してこない(ことになっている)。僧伽には,独自のルールが支配している。
キリスト教には,戒律も法(律)もない。あれをせよ,これをするなとは,福音書には一言も書いていない(人間の内面における心の問題は書かれていても,外面的な行動に関するルールはなく,法源にはなりえない)。すべての人間は法律を守らない,これがパウロの命題であり,キリスト教の根本ドグマである。旧約から新約へ契約を更新したが,新契約の内容はゼロなのである。では,救済してもらえないのか,というとそんなことはない。キリスト教は,旧約聖書も聖書として受け継いだ。それによって法律の部分を補ってるのだ,かといってユダヤの法律をそのまま採用しているのではない。ユダヤの法律が,人間の外面的行動の規範であったのに,キリスト教に引き継がれると人間の内面的行動,すなわち心情規範に大転換されてしまった(この大転換によってキリスト教は世界宗教足りえたのだが)。
ユダヤ教やイスラム教に於いて「正しい」とは,「法律を守ること」。「正しくない」とは,「法律を守らないこと」。「正しい」とは法律との関係によって決められていた。…のにだ。キリスト教になると,法律とは無関係に「正しい」ことが決められるようになった。つまり,「正しい」とは,神が正しいとすること,神と人間とが正しい関係を結ぶことであり,神と法律は切り離された。
では神が与えたもうた法律を飛び越えて,直接神と正しい関係を結ぶ方法,神によって正しいと認められる方法は何か?それはイエス・キリストを信ずることによって,である。こうなると,「正しくない人も,イエス・キリストを信ずれば正しい人になれる」ということになり,外面的行動の正しさと内面的な行動の正しさは無関係ということになる。
キリスト教会は,ローマ法を手本に教会内部を律する教会法を作った。中世西ヨーロッパ社会では,聖なるカトリック教会と外なる俗社会(俗社会の法はゲルマン人の習慣に基づくゲルマン法)に二分されていたが,どちらも本質的にはキリスト教法ではない。ユダヤ教やイスラム教とは異なり,キリスト教では,宗教の教えと法律,社会規範とは,それぞれ違っている。しかも,カトリック教会を始め,キリスト教諸派は,本来のキリスト教にはあり得ない法や戒律を発明した(キリスト教における戒律は,元来,本質的にイエス・キリストとは関係がないのである)。
こんなことは日本人にとっては,むしろ当たり前のことかもしれないが,世界の宗教からすると,奇異なことである。