|
人生科読本 序
題して「人生読本」とはせず,「人生科読本」としたのは,「人生読本」といえば,いかにも人生(処世)経験ゆたかな人の,主観的人生観の意味になってしまいます。ところが,今ここに私が企図しているのは,それなのではなくして,かえっていずれの時代にか,われわれ地球上の各国,各地域の学校において,今の高校あたりの過程で,「人生科」という学科目が設置され,坦々として−ということは,今の宗教のように,異様な雰囲気を立昇らせることなしに−「人生とは何か」ということが語られる時代が来なければならないし,また来らすべきだと信じ,その時のテキストをまず書いておきたいというのが,私の念願なのです。これは私が中学(旧制)四,五年生時代,自分の人生に悩みはじめたころからの願いであって,その後,私はさまざまな遍歴をしながらも,一途にそれを追求しつつ,以来ちょうど五十年にして,今度こそは書けると思って,書き下ろしたのが,この本です。
つまりこの本は,いわゆるの「人生読本」よりももっと普遍的意味で,こうした「人生科」のテキストたりうるもの,ということを目指しています。−はたしてそんなものを書くことができるだろうか−私は可能だと思えばこそ書きはじめたわけですが,それにはそれなりにの根拠があります。
というのは,近世以来,デカルトの「我思う故に我在り」という命題は,疑うべからざる普遍的命題だとされています。この命題は一口にいって,論理的意味において「人類の意識存在としての我の自覚」(「在るかぎりのものは我の思う意識との関わりにおいて在る」という自覚)だというべきでしょうが,そうだとすれば,その根底になければならぬものとして,つぎの命題をあげることができます。それは「我をいきるものは,我以外にはない」(自己についての原則)ということと,「思う我そのものは必ず可死的生命を生きている」(生命についての原則)ということです。
デカルトおよびそれにつづく西洋合理主義哲学は,この「意識存在としての我の自覚」において意識存在面(生存面)のみを抽象し,展開させましたが,ここにいう「我を生きるものは我以外ない」ということと,「思う我は必ず可死的生命を生きている」という具体的生命の実物面こそは,「生きているこの我」の人生の根本に関する命題でなければなりません。しかもこの二つのことは,「我が思っても思わなくても,肯定しても否定しても,それとは関わらぬ根本において,そうである」(と思わずにはいられない)ような「絶対事実」でなければならないのです。
それでこの二命題を「我思う」(心識についての原則)とともに,根本三原則とし,これをもって,「自己の生命の実物」をどこまでも真直ぐにみつめてゆけば,「人生そのものの在り方」を,これからの若い人たちにも坦々として語ることができる,と思うのです。
というのは私たちにいわせれば,われわれの「自己の人生」とは,この三つの根本的絶対事実が絡み合って展開しているのであって,ここではその絡み合いを一々ときほぐしつつ,それを「人生としての方向の在り方」「人生としての時間の在り方」「人生としての現成の在り方」「人生としての歴史の在り方」などとして語ってみたわけです。
そして結局これを要するに,近世以来,昔からの宗教が権威を失い,そのため今の人たちの人生,生き方において,ただ生存競争のみが究極の生活原理(力)となっています。これに対し私は,「自己本来の生死する生命力」を原理(力)とする生き方,および「生死する生命として心識(あたま)を働かす態度」こそを掲げたいのです。
それゆえここにのべることは,「生きるということを,香港フラワーのようにたんに「死を切り捨てた生存」とのみ決めこんでいる今の世間常識からみれば,あまりにも意想外な話がのべられてあるように思われる所があるかもしれません。しかし他ならぬ「自己の生命の実物」を真直ぐにみつめつつ読んでくだされば,かえってそこに自己の人生の真実が語られてあることを,よみとっていただけるのではないでしょうか。
このような私の意図がはたして成功したかどうか−これは将来の人類歴史が決定してゆくでしょう。今はとにかく,そうした世間的評価の問題とはかかわりなしに,何よりもあなたご自身の目をもって,真直ぐにこの本をよんでいただくことを,著者としてはこいねがう次第です。
一九八〇年夏
著者しるす
|