| 試 験 突 破 の 道 程(みちのり) |
1.受験の動機
| <経営の基礎知識の重要性を痛感> 中小企業診断士の資格を取得しようと決意したのは、96年3月のことだった。この資格については 以前から知っていたが、サラリーマン時代は仕事と遊びに忙しく資格取得などということに全く興 味がなかった。景気もよく、普通にやっていれば成果も上がったので、むしろ資格というものに対 して「あれは仕事という現実からの逃げ」と馬鹿にしていた感もある。 認識を新たにしたのは、放送局を退職してすぐに、ある建設会社の社長から電話をもらってその会 社を訪問したときのことだ。94年6月頃の話である。その社長から「現在の公共事業主体型を見直 して、住宅のリフォーム事業に進出したいので全社的なリストラをしたい。ついてはその計画を作 ってくれないか。」といきなり言われた。 仕事をくれるというのは嬉しかったが、一体何をどうしたらいいのか全くわからない。社長から前 期の決算書を渡されたが、損益計算書も貸借対照表も読めない状態では見直しも何もあったもので はない。「自分にできるのはせいぜい販売促進計画とその戦術である広告宣伝の立案と実施にしか すぎない。しかしこの社長は明らかに『経営戦略そのもの』の構築を求めている。決算書も読めな いようでは話にならない。経営者の要望を受け止めるためには、やはり最低限の経営知識は備えて おくべきだ。」とその時痛感した。これが、中小企業診断士の資格を取得しようと思った直接的な 動機だ。それから2年後、何とか自分の会社の事業も軌道に乗り出し、少し精神的にも余裕が出て きたので、満を持して中小企業診断士の資格取得に本格的に取組むことになった。 |
2.簿記講座の受講(1996年4月〜7月)
| <財務管理の過去問題にショックを受け、財務基礎講座を受講> 受験を決意すると同時に、書店に出かけ受験参考書類や合格体験談を取り揃えてみたが、内容も古 くどうもピンとこない。それよりも、過去の問題を見てびっくりしたのは「財務管理」で相当なレ ベルの問題が出題されており、ちょっと見ただけでこれはとんでもない試験だとびびってしまった 以前、建設会社の社長と会ってから決算書が読めないコンプレックスを持っていたので財務管理云 々の前にまずは財務諸表をマスターしなければと強く思い込んでいた。 偶々、新聞で簿記の基礎から教えてくれる「財務基礎講座」というスポット講座をやっている受験 校が梅田にあると知り、説明を聞いた上でとりあえずこの大栄学院に週2回通学することにした。 「財務基礎講座」は、96年4月から始まり7月まで計24回あった。1回あたり2時間半の講座で、 簿記の基礎である仕訳から決算書の作成、損益計算書・貸借対照表の構造、工業簿記の基礎、原価 計算、損益分岐点の知識、基本的な財務分析などかなりのボリュームがあった。講師は大手メーカ ーを定年退職した中小企業診断士で、懇切丁寧な教え方が印象に残っている。 講座の対象が全くの初心者を想定したものであったので、自分にとっては大変取組みやすく、また 久しぶりに勉強をするという新鮮さが心地よかった。何か頭の中に新しい知識が染みてくるといっ た感じだった。講座が終わった当日、必ず復習をしてその項目を完全に理解出来ているかを確認し た。基礎的な部分は別に問題がなかったのだが、決算仕訳の細目と原価計算(標準・全部・直接) の部分で躓いてしまった。理解できない部分、計算しても解答に行き着かないことが多く頭を抱え た。どうにもならないので自分で「簿記の基礎」(日経文庫)や「会社簿記入門」(中央経済社) 「損益計算書・貸借対照表の読み方」(西東社)、「わかりやすい原価計算」(同文館)等を買っ てきては必死で研究し、「何故そうなるのか」を理解しようとした。講座で出てきた問題点・課題 に対して、自分なりの方法で解決を図ったということになる。今になれば懐かしい思い出ですむが どうしても理解ができず、参考書と電卓を前にして悪戦苦闘し徹夜に及んだ日もかなりあった。 結果的に3ヶ月、計24回に亘る財務基礎講座は皆勤賞で、自分としては満足度が高く大きな収穫が あった。 まず、決算書が読めないというコンプレックスが払拭できたことだ。それと中小企業診断士試験の 財務管理に関して、まったく歯が立たないと思っていたのが、そうでもないと考えられるようにな ったことだ。そういう意味で、本講座受講前に敢えて財務の基礎講座を受けたのは戦術的には成功 したといえるだろう。 |
2.1次試験対策(1996年9月〜1997年8月)
| <大栄学院の1次対策講座に通学> 財務基礎講座を受講中の7月に長男が生まれた。39歳になる直前だった。長男を見にいった病院の 待合室で仕入管理の参考書である「戦略的商品管理」を必死で読んだことを鮮明に記憶している。 仕事の方も東京と大阪を往復しながら展開していたので、出産とも相俟って勉強に費やす時間が殆 どなくなってしまった。 財務基礎講座を受講した受験校で、9月から1次試験の対策講座が始まり特に抵抗もなく大栄学院 に通学を始めた。週1回の通学講座で、1コマが2時間半、4回で1科目を終えるというカリキュ ラムだった。9月から12月までで共通4科目(経営・財務・販売・労務)を網羅する形だ。 この受験校では、一人の専任講師が8科目全てを担当する。かなりの範囲を、それも今日的なテー マも加味しながら講義していくのだから、ちょっとした職人芸である。 大栄学院の基本テキストは、講座が始まる10日ほど前に入手しざっと目を通した。日本能率協会の 通信教育用のテキストだった。オリジナルでないことに少し疑問を抱いたが、著者を見るといかに も試験委員みたいな顔ぶれなので、その辺がポイントかもと考えた。しかし表現や言い回しがかな り難解だと感じたので、保険をかける意味でも「企業経営通信学院」の通信講座に申し込み、ここ のテキストを入手し、経営基本管理から読み進めていった。結果からいうとこの企業経営通信学院 のテキストは、8科目とも平易な内容で理解がしやすかった。 大栄学院の講座には週1回、木曜日の夜に行った。ただ、受験校での講座は、あらかじめ自分で企 業経営通信学院のテキストを読み、さらに専門書を拾い読みしてそれなりの理解をしたことを確認 するため、あるいは他の受講生のレベルを計るために、もっといえば学習の緊張感を維持するペー スメーカーとして位置づけた。参考書を読み受験校で確認し、それがこれまでの社会人としての経 験の中にフィードバックされ、より体系化された知識の集積となった。 この年の10月から、京都を拠点にした地域経済新聞の創刊プロジェクトに参画することになり、1 年後の創刊を目指すということで、翌年は勉強どころではなくなるという予感があった。出来る時 にやるだけやっておこうと考え、受験校に出来るだけ先行してテキストを読み込む作業を進めた。 <年内に共通4科目のテキストを3回通読> 受験校のカリキュラムは年内に4科目の基礎編を終えるというものだった。基本的には、企業経営 通信学院のテキストを読込みながら、それをベースにして自分なりのノートにまとめる学習方法を とった。結局、年内に共通4科目のテキストを3回通読した。1回目は流し読みで、2回目は下線 を引きながら、そして3回目はキーワードにマーカーをつけながら読んだ。学習開始からつけてい た学習日誌には、年末年始を前にした思いが次のように書かれている。 「1回目の山場として年末年始がある。まがりなりにも共通4科目を一巡した段階で、これをどう 深化するか、そして専門4科目にスムースに入っていけるか、この辺が大きなポイントになる。具 体的には年末年始までに、共通4科目のサブノートを作り上げるべきだ。専門4科目は1月〜3月 で仕上げる。大栄学院では3月まで共通科目が続くので、皿回し学習にはよい。4月からは本格的 なアウトプット、2次対策も本格化してくるだろう。6月には模擬試験もある。7月に入ると総ざ らえと直前対策になる。そういう意味で4月〜6月の3ヶ月間は極めて貴重な期間になる。」 <殺人的な忙しさとアウトプットでの苦戦> 年が明けて1997年、1次試験受験の年である。年末年始は和歌山県の実家に帰省し、商業科目のテ キストを時間の限り読み込んだ。そして、中旬からは受験校も再開し共通4科目の応用編が始まっ た。年明けから、前年からスタートした地域経済新聞の創刊プロジェクトが本格的に動き出し、2 月からは毎日大阪・阿倍野から京都・五条の京都リサーチパークまで約2時間かけて通勤する形に なり、事実上、平日の学習は不可能となった。大栄学院では、平日2回の講義を日曜日にまとめて 受講できるシステムがあったため、仕事の変化に合わせて日曜日に通学することにした。 2月、3月と忙しさは増し、深夜帰りや泊まり込みも当たり前になった。土曜日も出勤することが 多く、電車の中でのテキストの読み込みと日曜日の受験校での講義だけが学習の場になった。この 時期一番困ったのは、これまでのように受験校での講義を復習がわりに出来なくなったことだ。そ れでも共通科目の段階では、年内に先行していたので貯金があり何とかこなしていたが、3月から 商業科目の講義が始まり、予習も復習も出来ないまま講義に臨んでは悪戦苦闘した。 そうした中、受験校では2月から1科目の講義が終わる毎に、科目テストが実施され順位が発表さ れた。経営基本管理の科目テストは2月上旬の土曜日に行われ、午前中にそれを受けて午後から京 都へ行くという強行軍になったが、何とかクリアした。結果は70点で50人中6位だった。経営基本 管理はどちらかというと得意科目で、しかも年内にかなり先行していたので、この結果は順当なも のだったが、この時初めて他の受験者のレベルと自分のポジション、相対的な学習進度を知ること ができ有意義だった。受験校に行くというのは、こういった点が最大のメリットなのかもしれない 続いて行われた財務管理の科目試験でも、やはり70点をとり50人中9位に入った。財務管理でベス トテンに入った意味は大きい。戦略的に財務基礎講座を受講した成果があったからだ。 2科目でベストテン入りして気をよくしている間も束の間で、仕事の方はますます忙しくなり学習 は進まなくなった。焦りが出てきたのも無理からぬことで、やる気は十分なのだが絶対的な時間が 足りないジレンマに苛まれた。 4月に入ると受験校では、毎週日曜日の講義(10時〜5時)に加えて土曜日に2時間半の答案練習 が始まったが、新聞創刊準備会社の法人化と取締役副社長就任の多忙さと相俟って、いよいよ殺人 的な雰囲気が漂いだした。平日は朝7時半に自宅を出て会社の責任者として走り回り、帰るのは最 終電車が定番で、自宅に帰りつくのは午前1時前、それから風呂に入って寝る、土曜日は午前中に 受験校の答錬を受け(80分間)、その後の解説は受講せずに京都に向かい仕事をする。帰りはまた 最終電車。日曜日は朝10時から5時まで受験校で商業科目の講座があった。さらに4月からは受験 校で知り合っ人達と10人くらいで勉強会を作り、日曜日の講座が終わってから夜9時まで公民館の 会議室を借りて過去問題や白書の検討会などを行った。 1回目の答錬の成績は惨澹たるものだった。予習・復習なしで講座に臨み、体系図はおろかサブノ ートも作らず試験を受けても、よい成績を取れるはずもない。1回目の答錬は8科目トータルで17 位(このうち仕入管理の答錬は受けていない)と振るわなかった。科目別でもベストテンに入った のは1科目だけにとどまった。「このままではいけない。何とかしなければ」と思いながら、状況 は自分に不利になるばかりでどうしようもなかったが、せめて受験校を休まないのが次につながる 唯一の方法と自分に言い聞かせ、風邪を引こうと徹夜明けであろうと受験校に足を向けた。 <電車の中での参考書精読と解答テクニック> このころ効率的な学習のため、いろいろ検討して結局「完全合格対策」(経林書房)という参考書 を購入し、通勤電車の中でこの本を精読した。出来ることはそれだけだった。 そして5月の連休は3日だけ休みが取れたので、マンパワーの開催する「店舗レイアウト講座」を 受講した。この科目は内容がよくわからず苦手科目になっていたので、この時期に何としても補強 しておく必要があった。 連休明けから始まった2回目の答錬では、1回目の反省から出来るだけ題意に即した答え方を意識 し特に記述式の問題では文章を簡潔に、時には箇条書きを使ってシンプルな解答を心掛けた。さら には明らかにわからない問題でも、問題文からキーワードを拾い出してそれらしく答えるなど、テ クニック面でかなり工夫を凝らした。結果は上々でほとんど勉強をしていないにもかかわらず、8 科目トータルで9位に食い込み見失いかけていた希望が再び蘇った。 続いて6月下旬に行われたこの受験校の模擬試験では8位に入り、何とか合格ラインまで近づいた という手応えを得た。仕事はますます多忙を極め、平日は電車の中のそれも片道の1時間しか参考 書を読めなかったが、その1時間は本当に精神を集中して精読に没頭した。睡眠時間は1日4・5 時間で朝の電車も辛かったが、何故か本を読む時アドレナリンが湧いてくるようで変な心地よさが あった。 7月になると受験校は、土曜日と日曜日にゼミ形式のまとめ講座となった。これにもすべて出席し 少しでも試験に関係のある項目を身につけようと積極的にディスカッションに参加した。 7月20日に最後のゼミが終わった時、何ともいえない充実感と達成感を全身に感じた。最後まで頑 張り通した自分に対し誇りを感じた瞬間だった。最終日に来ていた受講者は27人で、100人近くい た秋頃からすれば4分の1に減っていた。 この年の1次試験は8月1日と2日に行われたが、試験の2日前、事業計画の作成に追われ事務所 に泊まり込み徹夜仕事となってしまった。そして試験前日帰宅したのが午後11時過ぎ、持ち物の準 備をして寝るのが精一杯だった。 |
4.1次試験受験と合格発表・2次試験受験断念(1997年8月)
| <1次試験受験> 8月1日はとんでもなく暑い日だった。ポロシャツにチノパン姿で家を出た。妻が合格弁当を作っ くれた。難波から近鉄電車に乗り換えたが、電車の中には診断士の試験を受験すると思しき男性の 姿が目に付いた。「彼らも自分と同じように1年間頑張ってきたんだ。」そう思いながら、持参し た参考書に目を通した。 会場の大阪商業大学に続く道は、受験者で埋め尽くされていた。道の両脇では受験校の職員らがパ ンフレットを配布していた。せっかくだからと全部受取り紙袋に入れた。 会場が見えた時、急にこみ上げてくるものがあった。疲れた体を引き摺って受験校へ必死で通った 日々が思い出された。「よくここまでこれたなあ」そう思うと何故か胸が一杯になった。 大学の正門をくぐり、教室を確認して自分の席についた。自分の教室は300人ほどが入る大教室だ った。見回したところ知り合いはいなかった。あとは試験に集中するだけと気合を入れた。 経営基本管理と経済的知識は概ね納得の行く内容で、8割方解答が書けた。問題の財務管理は、資 金運用表の問題で時間を取られ、おまけにトイレに行きたくなり5分ほど時間をロスしたこともあ りかなり苦戦したが何とか5割は確保したかなという実感を持った。仕入管理も7割は取れた。労 務管理もこの年は平易な問題が多くこれも7割確保、店舗施設管理はかなり苦戦し4割とれたかど うか。販売管理は得意科目なので8割確保、商品知識はよくわからないまま終わったが5割は何と かとったかどうかというところだ。 試験が終わった時点での自己採点は509点(プラスマイナス20点)だった。このままいけば合格で ある。仕事に追われて後半戦は殆ど勉強時間が取れなかっただけに、この成績は健闘したというべ きだろう。 <1次試験に合格するもその年の2次試験受験を断念> 1次試験で手応えを感じたものの、試験が終わってそれまでの緊張感が抜けたこともあり、8月は 京都での仕事に没頭することになった。2次試験の短期講座にも申し込んでいたのだが、丁度新聞 社の社員採用のための説明会を休日に開催することになり、5回のうち初回出ただけであとは出席 できず、この時点でこの年の2次試験の受験を断念した。いまから考えると、無理矢理にでも受験 すれば良かったと思うが、その時は精神的にも余裕が無く1次試験でかなりの労力を使っていたこ ともあり、闘う前に諦めたというのが本当のところだ。 1次試験の発表は9月17日に行われた。この日は会社には午後から出るといって、朝10時の発表を 大阪商工会館まで見に行った。コンピュータのアウトプットの番号の中に、「740番」という自分 の番号を確認した時、とりあえずほっとした。勉強は苦しかったが途中で投げ出さずに頑張ったこ とが報われたと思った。 2次試験にはその足で申し込んだが、受験はする気はなかった。10月10日の試験当日はとりあえず 会場まで行き、どんな人が受験しているのか、雰囲気はどうかなどを自分の目でみて確かめた。 |
5.2次試験対策(1997年12月〜1998年10月)
| <TBC受験研究会に通学> 97年12月にいよいよ地域経済新聞創刊が決まっていたため、週に2回は会社に泊まり込むというハ ードな日々が続いた。2次試験のことも気にはなっていたが考える余裕がなかった。 12月中旬のある日、会社を早めに出て以前から関心のあったTBC受験研究会へ2次講座の説明会 を聞きに行き、その場で土曜コースに申込みを行った。2週間に1回のアウトプット講座である。 毎回出席できる自信はなかったが、とにかくやれるだけやってみようと思った。TBCは業界でも 合格率の高さでNO.1の受験校である。必勝を期すにはやはりレベルの高いところで切磋琢磨す るのがよかろうと考えた。 1次試験と違い2次の講座は2週間に1回でそれも復習中心の学習形態だったので、今度は電車の 中での学習で結構カバーできた。 TBCのアウトプット講座は、前半の80分で問題に取組み後半の90分で解説がある。このパッケー ジが1日2コマ行われる。本試験並みの緊張感で問題に取組むので結構疲れる。 土曜コースの受講者は27人ほどいたが、平均年齢は47・8歳で自分は予想に反して若い方だった。 受験2回目の人が半分くらいで、3回目が4分の1くらい、あとはかなりのベテランである。 1回目のアウトプットは小売業だったが、わけがわからないまま適当に答えを書いたら55人中、 22位だった。予想外の成績に少し自信を持ったが、2回目はそうもいかず36位だった。しかし、 前年は2次試験を受験せず、事例について何の準備もしていない自分がきちんと学習をしてきてい る(ように見える)受験者に混じって、いきなりこの成績は大健闘と云えた。きっちりやればでき るとその時そう思った。 仕事の忙しさは相変わらずで、ベンチャー新聞社の役員としての精神的なプレッシャーも相当なも ので、平日は2次試験対策に没入するわけにはいかなかったが、このTBCのアウトプット講座は 2週間に1回で、それも試験形式なので結構いい刺激になり、いいペースメーカーになった。ただ 成績の方は、その後あまり伸びず中位より少し上くらいで推移した。 <模擬試験で不本意な成績、自分流の学習方法を開発しそれに賭ける> 8月下旬に受けたマンパワーとTBCの模擬試験では、自分としてはかなり書けたつもりだったが 結果的には、マンパワーが660人中209位、TBCが303人中146位と振るわなかった。特に、マンパ ワーの事例では、19点という過去最低点をつけられショックを受けた。TBCでもそれまでのアウ トプットの手応えで、上位2割を狙っていただけに出鼻をくじかれた感じで面白くなかった。特に 事例での低得点がかなりこたえた。 この時までは、TBCのカリキュラムや指導方針通りに学習を進めてきたが、模擬試験の成績の低 迷で受験校そのものの限界を感じ、残された1ヶ月間は自分流のやり方でやるだけやってみようと 決意した。自分流のやり方とは「徹底した過去問演習」である。各受験機関でさまざまな問題集が 出ているが、本試験を踏まえたという意味で過去問題に勝る問題集はない。過去に出題された問題 をいろいろな角度から研究し、あるべき解答を追求することが本試験での解答作成能力を最大化す る原動力となる。残された学習方法はこれしかないと思った。 中小企業対策については、TBCで配布されたものをベースに、自分なりに白書や施策総覧、施策 パンフレットなどから重要施策を抽出し、最終的に200字は89施策、600字は13テーマに絞り込んだ そして、それをMDに吹き込み主に電車の中でそれを聞いて暗記し紙に書いて確認した。 <最後の追込みと2次試験受験、そして合格> 7月までは仕事が忙しく思うように学習時間がとれなかったが、8月から少し時間がとれるように なり、8月は100時間、9月は160時間とかなり追込みを行った。中でも中対に関しては、暗記の確 認のため紙に再現する作業をやりすぎて3回腱鞘炎になったくらい必死でがんばった。事例も過去 問演習を繰り返し、かなりこなれた解答をかけるようになった。 そして10月10日、さわやかな秋晴れの日、前年は会場へいくだけだったが、今年は明らかに合格す るために会場へ向かった。受験番号は97番、やる気満々で試験に臨んだ。会場内は1次試験より 緊張感と殺気が漂っていたが、必死さでは他人に負けない自信があったので雰囲気に呑まれること はなかった。 中小企業対策は予想が当たり、600字・200字とも8割は書けた。事例は計算問題が出た事例Tでか なり慌てたが、それこそ必死で全問を埋めた。よく考えれば平易な問題なのだが、時間がなく焦る とパフォーマンスがかぜん悪くなるものだ。 事例U、V は正面から見識を問うまともな問題で、自分としては組みしやすい内容だった。両方 とも落ち着いて解答し、淡々とした中で試験は終わった。事例Tが5割、事例U・V が6割の出 来と直感した。終了直後の自己採点は、トータル255点で合格の手応えはあった。 試験から合格発表までの1ヶ月半は本当に永い期間だった。手応えはあったものの確信はない。 悩んでも仕方のないこととわかってはいてもやはり気になる。 そして、合格発表当日、やはり自分で発表を見に行った。朝から雨の降るいやな天気の日だった。 仕事の状況から、もし落ちたら来年は独学で臨むことが予想された。いやむしろ、もう受験でき ないかもしれないとも考えた。会場に続く通路で思わず足が竦んだ。落ちた時の辛さが恐かった。 大阪商工会館5階の掲示板に張り出されたコンピュータのアウトプットの中に、自分の「97番」 を見つけた時、さすがに興奮を覚えた。何度も指で自分の番号を辿った。財務基礎講座を受講し 始めてから2年と7ヶ月、受験校に通学する直前に生まれた長男は「とうさん」と単語を発するよ うになっていた。長いような短いような、でも必死で頑張ったかいがあった。努力は見事に報われ たのである。 中小企業白書をもう一度 (いちご白書をもう一度の曲で) 診断士の2次試験が今年もまた来る 合格・必勝を期して受験校に通った 苦しい場面では弱音を吐いたね 成績上がらなくて自信をなくした 中対で疲れて事例では悩んだ 試験が終わった時 力がすべて抜けた 来年も読むだろうか 中小企業白書を 今度は診断士として読みたいと願った 僕は午前中の仕事を休んで 合格発表をみに本町へ出かけた 合格者の中に自分のを見つけて 「重荷が降りたよ」ときみに電話をしたね 来年も読んでるだろう 中小企業白書を 受験の辛いメモリー心にしまって 受験の辛いメモリー忘れはしないさ |