アメリカ旅行雑感



− 「四菜一湯」からみるアメリカの中国資本 −


「四菜一湯」

○四菜一湯
ニューヨークで最初に入ったのは、中華料理のお店だった。中華料理といっても、高級なものではなく、ごく庶民的なお店である。ただ、少し形式が変わっている。店に入ると、入り口のところで白米がどっさりと乗せてあるトレイを渡される。トレイはお子さまランチのように区分けされていて、そこにおかずが入るようになっている。店の中央に、おかずがざっと60種類(!)は並べられていて、そこから好きなものを選ぶバイキング形式だ。炒め物や煮物を中心に、食材は肉・野菜・豆腐・魚・豆とバラエティに富んでいる。気になったおかずの前で立ち止まると同時に、店のおばちゃんがささっと前に寄ってくる。
「カチャッ、カチャッ、カチャッ」
銀色の大きなスプーンを両手にもったおばちゃんは、おかずが指定されるのを待ちかまえている。私が欲しいおかずを指さすと、そこに向かって銀色の大きなスプーンがすっと伸びて、おかずをたっぷりとすくい上げ、手元のトレイにどさっと乗せてくれる。こうしておかずを4つまで選べる。4つを合わせるとかなりのボリュームで、女性だったら残してしまう量だ。これにスープがついて(スープは1種類しかない)4ドル。4つのおかずに1つのスープだから、店の名前は「四菜一湯」という。

このバラエティとボリュームで4ドルというお得さは、ニューヨークではそう見つからない。マックやバーガーキングなどのファーストフードでも、セットで頼めば5ドル以上はするし、安くて旨いと評判のピザだって、栄養価を高めようとトッピングを少しでも乗せれば5ドルを超えてしまう。一方で、四菜一湯。中華料理だから、味はまぁ保証できる。さらに、強火で炒めてあるからおなかを壊すこともない(と私は信じている)。おまけにボリュームはたっぷりだから、ここで食べれば1日2食で済む。結局、私は1週間のニューヨーク滞在中、4回も食べにいった。


「四菜一湯」の店内


その食事


○ニューヨークのチャイナ・タウン
この「四菜一湯」は、チャイナ・タウンにある。チャイナ・タウンというのは、世界中の大きな都市には大概どこにでもあるが、ニューヨークのそれは世界最大級ではないか。世界最大級というのは、ただ印象としてロンドン、東京(正確には横浜)のより大きい気がするというだけだが、規模以外の違いもある。ロンドン、横浜のチャイナ・タウンには、赤や黄色で彩られた豪華な門が据えてあって、多分に観光地としての色が強い。そこに歩いている人も、観光的な要素にひきつけられた観光客がメインであって、生活臭のようなものはかぎ取りがたい。

ニューヨークは、それと違っている。私はボストンからバスでニューヨークに入った。ラッキー・スターという中国資本のバスを利用したため、チャイナ・タウンでおろされた。バスをおりると、道には中国人が歩き、店先では中国語が飛び交い、看板は中国語で満たされている。もちろん欧米人も歩いているがその数は少なく、圧倒的大多数(9割以上)が中国系である。観光地というよりも、そこは中国人が生活する場所として機能しており、生活臭が漂っている。やや誇張していえば、私は中国におろされたといってもいい。

ニューヨークのチャイナ・タウンに漂う生活臭は、立ち並ぶお店から放たれているようにも思える。八百屋から、スーパー、DVDショップ、飲食店、雑貨屋などありとあらゆる種類のお店があって、しかもどの店でも中国語表示の商品が陳列されている。つまり、中国人が中国と同じ生活を送るために必要なものが一通り揃っている。

おもむろに、そうした中の一軒に入ってみる。店員は中国人を相手にするような「中国風」の応対をしている。「中国風」という言葉には少し説明がいる。中国ではものを買っても、日本でいう「ありがとうございました」といったあいさつを店員はしない。店員と客のあいだには、カネとモノを交換する作業があるだけで、コミュニケーションは価格交渉の際にしか生じない。交渉の結果(もちろん交渉がない場合もあるが)、客は納得してその金額を支払うから、店としては売って当たり前。どうしてこういう商慣行が生まれたのか、その背景を私は知らないが、とにかく中国の店先では、「(買っていただいて)ありがとうございます」というコミュニケーションが発生する余地がない。

ニューヨークのチャイナ・タウンにもその精神(文化)が流れている。何度か買い物をしたが、「Thank you」とか「謝謝」と言われた記憶がない。
代金を支払うと、
「んっ」
まことにむすっとした顔で(本人にそのつもりはないのかもしれない)、品物の入ったビニール袋が押し出される。店員はすでに私に興味はなく、こちらを見ていない。
「んっ」
こちらも負けじと無愛想に、品物をひったくるようにして店を出る。これが私の思う中国風であり、ニューヨークのチャイナ・タウンにあるお店ではこれが生きている。たとえばこれがボストンの中華街になると違ってくる。応対はごく丁寧であり、スーパーの店員は、「Thank you very much」とあいさつしている。

ところで、ニューヨークのチャイナ・タウンはいまでも拡大を続けているのではないか。私のもつガイドブックの地図上には、チャイナ・タウンの少し北にリトル・イタリーの文字がある。だが実際にそこに行ってみると、そこは依然として中国資本の店が立ち並ぶチャイナ・タウンである。四菜一湯も私のガイドブック上では、リトル・イタリーにある。このガイドブックは5,6年前のもので少し古い。つまり、この5,6年の間にリトル・イタリーはチャイナ・タウンに飲み込まれてしまったらしい(少し東のほうにイタリア資本らしい皮用品を扱ったお店が集中している通りはあった)。


チャイナ・タウンの一角にある八百屋さん


この日のチャイナ・タウンは、何かお祭りのようなものをやっていて、人がごった返していた。


○中国資本の強さ
再び中華料理屋の「四菜一湯」にいる。おかずを選んでいると、店のおばちゃんがスプーンを鳴らしながら近づいてきた。おかずを選びながら、ぼんやりと中国資本の強さついて考えている。

彼らは真面目に働いているようにみえる。朝から晩まで汗水たらして働いている。たとえばこの四菜一湯、いつ行っても働いているメンバーは一緒であり、休みはなさそうに見える。汗水たらして働くのはどの民族でも同じかもしれない。ただ、中国人は働いて稼いだものを、消費活動にあまり使わないように思える。中国人も飲んで騒ぎはするが、その度合いはたとえばスペイン、イタリア、ラテン系の人々と比べて慎ましいような印象が私にはある。旅行記だから許されるだろう大胆さで私の偏見(?) を述べると、南欧の人々は消費を好む傾向が強く、それに比べて中国人は、稼いだものを蓄える蓄財の才に秀でているのではないか。

話はやや脱線する。大航海時代、中世という硬い殻を破って、初めてヨーロッパ大陸の外に出ていったのはスペイン、ポルトガルの人々だった。彼らは南アメリカにたどり着き、そこには黄金が豊富に眠っていることを発見する。そのため南アメリカはエルドラド(黄金の国)とも呼ばれた。多くのスペイン、ポルトガル人はエルドラド目指して海を渡り、そしてヨーロッパ大陸に大量の金を持ち込んだ。持ち込まれた金はスペイン、ポルトガルに止まることなく、そこを通り過ぎて北へ、つまりフランス、ドイツ、イギリスに流れていった。歴史にifはタブーだが、もし黄金が北へ流れずスペインにとどまっていたら、それによって資本蓄積が進み、スペインで最初に産業革命が起こったかもしれない、というようなことを読んだことがある。アメリカ大陸から入った金が、スペインにとどまらなかった理由はいろいろあろうが(ユダヤ人の追放など)、ひとつには消費を好むスペイン人の性質にあったのではないか、などと思ったりする。一方で、中国人の歴史にはそうしたことがない(と言い切れるほど私は中国史について詳しくはないが)、というイメージが私にはある。この中国人の民族的なエトスのようなものが中国資本の強さと関係しているかもしれない。

単純に、中国人の人数の多さのせいかもしれない。歴史をみたとき、アメリカへの中国人移民は相対的に数が多かったようである。時代は少しさかのぼって1882年、アメリカで初めて中国人の移民を禁止する法が制定された。安い労働力である中国人が、雇用の場を奪っていたことがその原因らしい。これは中国人に限った移民禁止法で、それだけ多くの中国人がアメリカに移民していたと考えてもいいだろう。この移民禁止法は、1943年まで続いた(同じ時期、カナダでは中国移民に人頭税が課された)。その後、移民数を制限する割当制がとられるようになり、60年代に入ってからやっと中国人移民が自由化されたらしい。現在のチャイナ・タウンは、この60年代以降の自由化された時期にニューヨークにやってきた中国人がつくったものだという(以上、中国移民博物館:MoCAでの資料による)。つまり、ニューヨークのチャイナ・タウンの規模拡大には、移民自由化によって起きた移民数の増加が寄与しているらしい。

ところで、60年代以降、中国人移民が自由化されたのはベトナム戦争と関係があるのではないか。戦争のために国内の労働力が兵力として海外に流出する状況にあって国内労働力を維持するには、労働力を外から受け入れるしか手がない。そう考えると、南米からの移民がアメリカで最近問題となっていたのは、イラク戦争と関係がありそうに思える。

話を戻そう。中国資本の強さは、中国人の多さのせいなのか。それだけでもないような気がする。たとえば、チャイナ・タウンがあって、なぜ南アメリカ・タウンやアフリカン・タウンができないのか(彼らが集中的に住んでいる地域はあるらしいが)。統計的な数値は知らないが、街を歩いている限り、アジア系よりも南アメリカ系やアフリカ出身の人のほうが多いのである。このことを考えると、どうも人数の多さだけでは中国資本の強さを説明しきれない気がする。

○同族経営?
その民族性や数の多さではなく、その経営形態に秘密があるのかもしれない。中国資本は、基本的に家族経営である。家族内の誰かの商売がうまくいくと、兄弟姉妹、子どもを呼ぶ。さらにおじ、おばなど血縁関係のある人が集まってくる。移民先でうまく生活できたときに、家族をそこに呼ぶのは中国人ならずともどの移民でも同じだろう。ただ、中国人の血縁の幅広さは、他と比べて圧倒的なのではないか(このあたりは人類学を専門としている人にでも尋ねてみたいものである)。中国資本は家族経営というより、同族経営といったほうがいいような幅の広い経営形態なのではないだろうか。

四菜一湯で、てんこ盛りにされた中華料理をかきこむようにして食べている。すると突然、歌声が聞こえてきた。顔をあげると、店のおばちゃんが私のほうを見ながら、気持ちよさそうに歌っている。後ろを振り向くと、そこにはテレビがあってカラオケの映像が流れている。おばちゃんは空き時間を利用して、カラオケの練習中らしい。

中国人は真面目に働いている、と書いたが、それは正しくないかもしれない。勤務中に余暇の要素を取り入れ、適度にリラックスして(?)仕事にのぞむことで、中国人は四六時中休みなく働けるのかもしれない。さらに思うのは、同族経営だと常に職場に家族がいるから、休日をとって家族とコミュニケーションをとる必要が生じにくいのではないか、ということである。さらに同族経営についていえば、経済学でいうところの労働分配率が低くても大きな問題にならない。労使が一緒のようなものだから、労働問題が発生する余地がない。加えて、同族経営は、取引コストがかなり小さく抑えられるのではないか。

・・・と、以上は同族経営についての私の思いつきに近く、かなり怪しいところがある。ようは、中国資本の強さのひとつには同族経営が関係しているのではないか、ということを言いたいが、確信を得るにはまだ知識が足りないようだ。

相席している私の正面に座るおじさんも、テレビのほうを見て小声で歌い始めた。店内でデュエットをしているじゃないか、と思いついたら、笑いがこみ上げてきて思わずご飯を吹き出しそうになった。私は中国に3回訪れ、中国について卒論・修論を書いたが、それでもいまだにこの国が、ときおり強烈な新鮮さをもって迫ってくるときがある。四菜一湯は、そういう場所として強く記憶に残っている。


アメリカ自然史博物館で撮った中国人の家族にかんする図。
中国人の同族の範囲の広さを示しているのではないかと思われるが、
よく分からなかったというのが正直なところ。



― 歩かされるニューヨーク ―

旅先では、よく歩く。知らないところでは、できるだけ自分の足で確かめたい、という原始的な欲求が働くせいかもしれない。ただ、ニューヨークでは「歩く」というより「歩かされた」という感じがする。そのつもりはないのに、ふと気付けば、必死になって歩いている自分を見つける。
「どこへ向かおうとしていたんだっけ?」
と考え出してまもなく、また歩くのに夢中になっている。前へ前へ、もくもくと歩いている。

ニューヨークの道は真っすぐだからこういうことが起こるのだと思う。街のほとんどの道が格子状になっていて、カーブしている道はない。だから歩こうと思えば、一度も曲がることなく3,4キロ歩き続けることができる。
ニューヨークに着いて2日目、まだこの「歩かされる構造」に気付いていない私は、7th streetから42th street(streetとは横に走る道)まで「歩かされた」。地下鉄の駅でいえば、約5駅分である。この長距離歩行のせいで、翌日は足がひどい筋肉痛になった。

歩かされる構造のせいか分からないが、人の歩く速度がはやいように感じる。みな大またで風を切ってさっそうと歩いていく。歩いている人種は多様である。スーツをびしっと決めたWASP、ヤンキースのジャンパー+ダボダボGパンに帽子を斜めにかぶった黒人、チノパンに黒い革ジャケットを着て薄っぺらい革靴を履いた中国人など。アメリカ人には肥満が多いときくが、ニューヨークの街中には、それほど太った人は見当たらない。細身の女性、がっしりと体格のいい男性が、次々と私を追い抜いていく。
「ざっ、ざっ、ざっ」
音が聞こえてきそうな勢いで歩いていく彼らに右から左から抜かされていくと、つい私の足も速まっていく。

「歩かされる」のは、信号を守らない習慣のせいでもある。彼らは信号が赤でも車が来なければ渡っていく(信号を律儀に守るのは日本人だけのような気がする)。
「車が来ないなら渡れるじゃないか」
というのは合理的にみえるが、時に何をそんなに急いでいるのか、車の往来のわずかな間隙を駆け足でぬって渡っていく人もいる。まことにせわしない、といえばそうである。そんな感じだから信号を守る人は少なく、車の往来が激しいところでない限り、信号で足が止まることはない。こうして、ニューヨークではつい歩かされてしまう。

   
ニューヨークの街並み。どこで撮ったのかは忘れてしまった・・・


ラジオ・シティ近くの交差点にて




― 美術館と富のあり方―

ニューヨークは美術館が充実している。メジャーな美術館だけでも、5,6コがマンハッタン島にある。そのほとんどは、セントラル・パークの東側に集中している。この地域(アッパー・イーストサイドの5番街)は、それゆえにミュージアム・マイルとも呼ばれている。

このあたりは、大富豪が住む高級住宅街になっている。といっても、日本人が想像するような一戸建ての豪邸が並んでいるわけではなく、見上げるような高さのマンションが道の両側に壁のように立ちはだかっている。そのマンション街の中に、美術館が点在している。メトロポリタン美術館をはじめとして、グッゲンハイム美術館、ホイットニー美術館、フリック・コレクションといったニューヨークを代表する美術館は、おおよそこの地域に集中している(MoMAを除く)。

美術館がある特定地区に集中しているのは、それらの美術館が私立であることと無関係ではないような気がする。ニューヨークの美術館・博物館の多くは、個人の寄贈やコレクションにその創設の起源をもつ(下記表参照。ちなみにボストンも同じように私立が主であることを考えると、この話をアメリカ全土に広げても間違っていないのではないか)。想像もできないような莫大な富を築いた資産家のうち、芸術に興味のある人たちがそのコレクションを公開したり、財産を寄付するかたちで、それらの美術館は始まっている。彼ら創設者は、政治家や地主といった人たちではなく、実業家(ビジネスマン)であることにアメリカ的な特徴があらわれているようである。

大富豪の実業家の多くは、19世紀後半に出現した。この時期、アメリカは急速な経済成長を達成している。経済成長の理由は、私には定かではない。おそらく政治的に不安定な状況にあったヨーロッパ大陸から、質の高い労働力と資本がアメリカ大陸に逃れてきたのが主因ではないか。政治的に安定した安全な市場を求めた資本が、豊富な天然資源に恵まれたアメリカを目指して海を渡り、それが19世紀後半のアメリカ経済成長の土台となったのだろう。「金ぴか時代」とも言われる時代である。このときアメリカで築かれた莫大な量の富は、一部の個人実業家の手に集中した。カーネギー、ロックフェラー、モルガンといった大富豪は、いずれもこの時代に活躍した人たちである。そうした桁外れの富豪たちが、美術品に興味を持ったり、芸術家へ支援したりすることで、世界中から優れた美術品が集められ、現在の美術館・博物館が形作られていった。

そうした美術館の内容をひとつひとつ紹介できればよいが、絵画や芸術作品を鑑賞したときの感動を言葉で伝えるのはなかなか困難であり、さらに、そうした困難さを補うような知識ももっていない。ここでは、写真にコメントをつけるかたちでこの旅行記のタイトル通りまさに雑感としたい。


創立年(または一般公開年 創設者やその経緯など
メトロポリタン美術館 1870年
(1880年に現在の位置へ)
米国最初の裁判長ジョン・ジェイの呼びかけによって、
ニュージャージー中央鉄道社長のジョン・テイラー・ジョンストン
のコレクションと寄付がもとになって設立。
後に、モルガン、ロックフェラーによる協力あり。
ニューヨーク公立図書館 1911年 2つの私設図書館(不動産・皮貿易業ジョン・ジェイコブ・アスター
のものと愛読家ジェームズ・レノックスのもの)を合わせて設立。
その際、弁護士サミュエル・ティルデンによる寄付、
後にカーネギーによる寄付。
モルガン・ライブラリー 1924年一般公開 1906年にできたモルガンの私設図書館をその息子が一般公開。
MoMA 1929年 L.P.ブリス夫人、C.J.サリヴァン夫人および
J.D.ロックフェラー2世夫人という3人の女性によって設立。
ホイットニー美術館 1930年 鉄鋼財閥の孫娘
ガートルード・ヴァンダービル・ホイットニーによって設立。
フリック・コレクション 1935年 鉄鋼王H.C.フリックの邸宅をそのまま美術館に。
グッゲンハイム美術館 1959年 鉱山王(銅)S.R.グッゲンハイムのコレクションと寄付をもとに設立。


○メトロポリタン美術館

古代ギリシャ時代のコーナー。兜がどうも小さいように見える。昔の人は、現代人より小さかったらしい。
  
中世時代の人間も現人代より小さかったようだ。比較対照として一緒に写ってもらった(あくまで勝手にとっただけだが)のは中学生ぐらいか。展示されている銀の甲冑は、彼らには小さくてとても入らないように思われる(日本の鎧兜も隣のコーナーにあって、それらはもっと小さかった)。人間の身長は、いったいいつ頃から何をきっかけとして伸びたのだろう・・・?

 中世の宗教美術も充実している。


中世の時代、こうした宗教美術に多くの労力が費やされた。きわめて曖昧な表現だが、この分の労力のようなものが(ごく単純にいえば労働時間に集約できる!?)農業技術や科学的研究の方向に使われていたとしたら・・・中世美術をみるたびに思う。

 
紀元前7〜800年前につくられたものだったと思う。王朝の名前は忘れてしまった・・・。

産業革命を起こすための技術は紀元前から存在した、というようなことをある本で読んだ。当初はそれを疑わしいと思っていたが、メトロポリタン美術館をまわっているとどうもそれは正しいような気がしてきた。紀元前であっても現代にひけをとらない素晴らしいレベルの芸術品がある。
ただ、その芸術品のレベルには、時代によってムラがある。私のぼんやりとした感覚では、個人が大きな権力と富をもって統治していた時代の芸術品は、そのレベルが高いような気がする。

○MoMA
特に気に入った作品をいくつか紹介。
 誰だっけ・・・

 シャガール

 マティス


この人、絵を観てる時間より、解説読んで写真撮ってる時間のほうが長い・・・。
そういう人、けっこういます。写真撮りたくなる気持ちは分かりますけどね、私も強く印象に残った絵は、記憶のために写真に撮るようにしていますし。
ちょっと話すだけでその人の印象が変わり、おおよその性格もつかめることが多いように、絵も、少し立ち止まってみるだけでその絵に対する印象が変わるし、よく見えてくることが多い。


ピカソの絵。名前は・・・確認しわすれた。いま携帯の待ち受けに使ってます。
天才というのは、ものが人と違ってみえる人のことらしい。この絵は2人の人間の絵だと思うが、私には人間がこういう風に見えたことはない。それでいて、絵の表現したいことにはなんとなく納得がいく。このことは、ピカソの絵だけではなく、名画といわれているものには多く当てはまる。その人にしか見えていないのだが、いわれてみれば皆が納得するようなものの見方、そういうものの見方ができる人を、人は天才と呼ぶらしい(さらにこのことは絵の世界だけではなく、どの世界でも通用する気がする)。


MoMAは、日本人の建築家が設計したようです。とても気持ちのよい空間です。


○図書館
ニューヨーク公立図書館

閲覧コーナーが開放的で、とっても素敵。こういものが私立でつくられてしまうのがアメリカ。


ボストン市立図書館
 つくりが似ています。ちなみにボストンのほうが古いです。

  
素敵な中庭つきです。

○邸宅系

フリック・コレクション

中庭があって、品のある落ち着いた建物です(写真撮影禁止だったかもしれませんが、知らずに撮っちゃいました・・・)。


フリック・コレクションと同じように個人のコレクションを展示したのがイザベラ・ガードナー美術館。こちらはボストンにあります。同じく吹き抜けの中庭があって、落ち着いた雰囲気の素敵な建物。


クーパー・ヒューイット国立デザイン博物館。元カーネギーの邸宅。




― フレンドリーなアメリカ人:ケイタイヲカシテクダサイ―

アメリカ人は、概してフレンドリーなのではないか。2年ほどボストンに住んでいる友人A(日本人)も、このことに共感してくれた。アメリカ人は見知らぬ人とコミュニケーションをとるのに、抵抗をほとんど感じないらしい。他人とコミュニケーションをとる際の垣根が、きわめて低い。

ビルの入口などで、前に入った人がドアを押さえて後ろの人を待ってあげている、という場面に何度も遭遇した。これは女性に対するマナーかと最初は思ったが、よく観察してみるとどうもそうではない。男の私を待ってくれている場合もある。さらに、観光客らしき人は、この「ドア押さえ」をしていないことから、どうやらアメリカ人の特徴らしい(ニューヨーク的な特徴であって、ボストンではそれほどではないと友人Aは言う)。この例は、フレンドリーという語感とはやや異なるものの、他人とのコミュニケーションにおいて垣根が低いという感覚に共通するものがある。

他の例として、こんな光景もよく見かけた。手元にライターのない人が、通りすがりの赤の他人からタバコの火を借りている場面だ。初めてこの光景を見かけたとき、顔見知り同士かと思ったが、注意して観察すると、本当に通りすがりの他人同士である。

私が体験したフレンドリーさにこんなことがあった。そのとき、私は1人でボストン市中に出かけていた。ボストン滞在中、先ほど触れた友人Aのところに滞在させてもらっていたが、彼の家はボストン市中から車で30分ほど離れた郊外にある。電車で家の近くまで行けるが、その駅からでも徒歩20〜30分はかかる。そのため、ボストン市中を観光したときは、何らかのかたちで彼に車で迎えに来てもらっていた。その日、迎えにきてもらう場所と時間を彼に伝えてあったが、私はそのための電車に乗り遅れてしまった。次の電車は1時間以上後だし、もしその電車に乗っても、友人は私が遅れて来ることを知り得ない。とにかく彼に乗り遅れたことを伝えなくてはならなかったが、たまたまテレフォンカードが切れてしまっていた。夜11時に近く、テレフォンカードを購入できるような店はもう閉まっている(コインで電話するという発想がそのとき私には思いつかなかった。まぁ思いついても、手持ちのコインは1ドル未満であり、かけられなかったのだが・・・)。

私は夜11時のボストンに、1人取り残された気になってだいぶ心細くなっている。通りにはすでに歩いている人は少なく、車もあまり走っていない。心なしか、風も涼しくなったように感じる。海外での夜のひとり歩きは、やたらと心細い。とにかく友人Aに連絡をとって、ボストン市中まで迎えにきてもらうしかない。しかし、そのための連絡手段がない・・・。最終手段として、他人に携帯電話を借りようと思いたった。

誰かに声をかける前に、私は自らの状況を頭の中で英訳し、繰り返した。相手にしっかりと説明できるように準備し、覚悟を決めたのである。手持ちの現金は2ドルしかなかったが、ワンコールだったら1ドルぐらいでも大丈夫だろう、などと代金を要求された場合のことも考えた。場所は、鉄道駅の待合広場。ここなら、話しかける相手をじっくりと選びやすい。

「Excuse me? Could you lend me your cell phone?」
レッド・ソックスの試合帰りらしい20代のアメリカ人カップルに声をかける。話しかけているのは女性のほうである。
「Sure, here you are」
何のためらいもなく、笑顔とともに携帯電話をすっと渡された。自分の状況を説明するつもりでいた私は、女性のレスポンスの速さに呆気にとられている。私はまったくの他人である。もう少しためらいがあってもいいようなものだ。目の前に出された携帯電話を前に、ためらったのは私のほうである。私はややおびえたように微笑んで、携帯電話を受け取る。ありがたさと申し訳なさを感じて、不自然に身を縮こませながら、友人の電話番号をプッシュする。そして、臆病な小動物になったように小声で電話をする。
「Thank you very much」
電話が終わって、携帯電話を返す。
「You’re welcome」
彼女は軽くそう言うと、もう自分の作業に戻っている。まるで何事もなかったかのようである。
「お金はいくら払えば・・・」
小心者の私は、作業に戻っている女性におろおろときいてみたが、彼女は(まさか払う気?)といった驚きの顔で私を見つめ返しながら、「No, no」と言った。

このやりとりの間、男性のほうはといえば、私に一瞥もくれない。カップルは電車を待つ間、テーブルで寄せ書きのようなものをつくっていたらしい。彼はその作業に夢中になっているのか、それとも私のことを気にしていないのか(おそらくこちらであろう)、理由はいずれにしろ、男性はその作業から目を離そうとしなかった。

この出来事を驚きをもって友人Aに話すと、彼も何事でもないかのように「オレもたまに他人から携帯を借りるよ」と言った。私にとってはカルチャー・ショックでも、アメリカに2年住む彼にとっては日常茶飯事らしく、私は肩すかしをくらった気分である。
友人にそう言われてよく考え直したが、やはり日本人からすると上の出来事は違和感がある。
「スミマセン」
日本の駅で、見知らぬ外国人がなまりのある母国語(日本語)でそう言ってきた場面を想像している。
「アノー、ケイタイヲ、カシテクダサイ」
「いいですよ、どうぞ」
と、何のためらいもなく笑顔で携帯を手渡せる・・・そういう日本人をどうにもイメージできない。

ところで、帰りの機内でこれを書いている途中、くしゃみが出た。
「Bless you」
隣に座っているアメリカ人がつぶやいた。もちろん、彼は赤の他人である。日本人の私は、思わず頭をさげて、「どうも」と小声。こういうコミュニケーションの気軽さがアメリカにはある。





― 多人種社会の影響 ―

フレンドリーさは、多人種社会であることと関係がありそうに思える。街を歩いていると(特にニューヨークでは)、さまざまな人種に出会う。WASPはもちろん、アフリカ系、南米系、ヨーロッパ系、アジア系と、世界中ほとんどの人種が集まっている。

少し抽象的な話をしたい。
多様な人種がつくる社会では、それぞれがもつ固有の文化や習俗は通用しなくなる。そうした共通の文化的土壌がないような社会とは、ようするに、身内の約束事を知らない未知の相手とコミュニケーションをとらなくてはならない社会である。その場の雰囲気や小さな仕草を相手が、こちらの意図したように読みとってくれることを期待できない。つまり、自分が「当たり前」と思っていることが、相手にとっては「当たり前」ではない。自分の「当たり前」を相手にも知ってもらわなくては、円滑にコミュニケーションをはかることができず、それを防ぐために「当たり前」を言葉にして説明しなくてはならない。しかし、何が自らの当たり前で、何が相手の当たり前かが分からないため、「どんな些細なことでも言葉にして相手に伝える」という土壌が生まれるのではないか。ようは、言葉によってはっきりと表現することが、自分の意志を伝える主要な手段となる。多人種社会の副作用として、そういう環境が生まれるのではないかと思う。

例を出そう。日本であれば、相手がむすっと黙っていても、その状況や身なりなどから、相手のことをある程度「察する」ことができる。このことは日本人にとっては当たり前のことだが、それは私たちが日本という同じ文化的土壌にあるためである。むすっとした人をみて、日本人ならばその人を偉い人ととるかもしれないが、アフリカ人が同じ状況におかれたら、(この人は腹の調子でも悪いのか?)と思うかもしれない。同じ仕草や状況にあっても、違う文化圏の人はそこから違うものを読みとってしまう。そうした誤解を避けるためには、どんな些細なことでも言葉にして伝えざるを得なくなる。

こんなことがあった。帰国日に飛行機が遅れ、私は乗り継ぎの便に乗れなかった。その航空券処理の受付カウンターでのことである。列に並んで前の客への対応をみていると、忙しさのためか受付のおばちゃんは、ひどく疲れているようである。こちらが質問しない限り、事務的に処理されるのだろうと思った。
「フライトは明日になりますね」
航空券を渡すと、おばちゃんはややけだるそうにそう言った。
「明日?」
そう一言たずねただけである。その一言に対して、おばちゃんはフライトがなぜ明日になるのかを、天候が国際線に与える影響から、東京の空港の状況、自社の東京へのフライトのことに至るまで、細々としたことを説明しはじめた。その間、私は何も言わず、黙ってきいているだけ。日本であれば「察してくれ」というような些細なことまで説明している。

もちろんこの例は、予定外に1泊しなくてはならないという特殊な状況を割り引く必要はあるが、些細なことでも言葉で明らかにして伝える、というアメリカ人のひとつの例としてもみることができるかと思う。

やや飛躍するようだが、アメリカ人はプレゼンテーションの能力に長けているという。友人Aによると、同じことを発表させても、アメリカ人とそれ以外の出身の人とを比べた場合、圧倒的にアメリカ人のほうが巧くこなすという。さらに、アメリカ人の講義する授業はきわめて分かりやすい、というのが、友人Aのアメリカの大学に対する評価である。こうしたプレゼン能力や授業の分かりやすさといった能力、つまり人に何かを伝える能力にアメリカ人が秀でているのは、上のことと関係がありそうでもある。つまり、どんな些細なことでも明確な言葉にして表現する土壌に育った彼らアメリカ人は、人に何かを伝えるときにもその慣習に従う。日本人であれば相手に察してもらうような周知のことであっても、アメリカ人は臆することなくひとつひとつ明確にしながら説明していく。その結果、アメリカ人の説明のほうが分かりやすいものとなるのではないか。

この多人種社会の影響は、コミュニケーションのもっと基本的な部分にも現れる。彼らは誤解を生まないために、どんな些細なことであっても言葉にして説明する。そのためには、まず相手とコミュニケーションをはかる下準備が必要となる。その方法として、彼らは初対面でも気軽にあいさつし、軽く会話をかわす。自分が相手にとって敵ではないことを知らせ、双方にとってひとまず害のない関係を築くためといってもよい。こうして、初対面でも愛想よくコミュニケーションをとることが、アメリカ社会での「当たり前」となっているように思われる。

そういう「当たり前」をもつアメリカ人にとって、他人と軽く会話をかわすことなど何でもない。知り合った当初から、相手との間の垣根が低い。相手が、垣根をまたいで簡単に自分の庭にはいってきて、また自分も相手の庭に臆することなく入っていくことができる。日本人ならば、初対面の人との交流は垣根が相当に高い。だから、相手の庭に入るのには、ある程度時間が必要になる。初対面なら、まさに垣根越しに話すことがお互いにとって心地よい距離になる。一方、アメリカ人にとって、垣根はまたげる程度に低いものであり、初対面の相手であっても庭に入り込んで握手までしてしまう。相手の庭に入らない限り、相手のもつ文化・習慣が分からないからだ。そうして互いにオープンになり、相手の基本情報を知ることで誤解を避けようとする土壌が生まれる。日本人にとってそういうアメリカ人は、きわめてフレンドリーに写る。悪くいえば、図々しく、または軽々しく写る場合もある。

日本人にとっては、アメリカ人のそうしたフレンドリーさに過度に期待してしまうことが多い。初対面でも笑顔で話してくるから、自分に対して好意があり、自分のことをもっと知りたいのかと、妙に素直に思ってしまう。しかし、実はたいがいそんなことはなく、アメリカ人は普段と同じようにコミュニケーションをとっているだけ。

ちなみに友人Aによると、アメリカ人は誰とでも気軽に話せるが、その全員と深い関係を築けるわけではないという。垣根がないから庭を行き来するのは自由。しかし、プライベートである家の中に入れる人数は、日本人もアメリカ人もさほど変わらない、ということか。




― 実験場としての機能とビジネス ―

多人種社会であることの影響は、文化だけではなく、ビジネスにも影響を与えないわけにはいかない。アメリカでビジネスを展開・拡大しようと思えば、多様な人種の好みや趣向、需要にこたえるものでなければならない。それゆえに、アメリカでのビジネスは自然と、世界中の人々の最大公約数的な需要にこたえうるものを生み出すのではないか、と思ったりする。別の角度からいえば、アメリカで流行ったものは世界中のどこでも成功する可能性を秘めているといえないだろうか。たとえば、マクドナルドやコカ・コーラは、世界中のどこでも見かけることができる。このことにはいろいろな理由があるだろうが、ひとつには多人種社会アメリカでの経験(実験)が一役買っているに違いない。

ドラマの話をしたい。アメリカ発のドラマが日本でもヒットすることは多い。逆にそれ以外の国のドラマが継続的に流行ることは――韓流ブームなどはあるが――少ないように思える。『フレンズ』、『ER』、『24』、『Lost』、『プリズン・ブレイク』など、アメリカ発のドラマはいくつもあげることができる。このことも上のことと関係がありそうに思える。アメリカでうけるためには、ネイティブではない人でも分かるような比較的難しくない言葉使いが必要なことをはじめとして、それと同時に、誰にでも通用する分かりやすいストーリーが重要となる。最近流行った『24』、『Lost』、『プリズン・ブレイク』などは細かい部分の英語が分からなくてもストーリー展開がつかめるようになっている。私は『24』、『Lost』ともにシーズン1をすべて見たが(ちなみに『フレンズ』は10シーズンすべて鑑賞)、両方ともストーリーラインは簡単である。それでいて、次回何が起こるのか気になるつくりになっていて、観ているものを飽きさせない。

やや余談になるが、TVドラマの使命は観客を飽きさせずに、次回に惹きつけることである。これが至上使命であるため、シーズン全体を通して観た場合、完成度は低くならざるを得ない。お茶の間(?) を次回に惹きつけるために、キャラクター構成に無理が出てきたり、シナリオに矛盾が出てきたりする。『24』では、後半にやや無理な展開があったし、『Lost』はシナリオに気になる点があるのはもちろん、短気な私にとっては、展開の遅さとキャラクター設定の無理が気になり、途中でよく早送りをしてしまった(一方で、『24』シーズン1の前半は、非常によくできていたと思う。おそらく前もってまとめて構想されており、視聴率が悪ければ、前半で終わらせるつもりだったのだろう。だが、爆発的にヒットしたため番組継続が決定され、それゆえに一部後半でシナリオに矛盾が出てきたのではないか)。「ドラマの不完全性」とでも名付けたくなるこのことは制作者のせいではなく、TVドラマのもつ制約のせいであるといえよう。そういう意味で、TVドラマからは大作は生まれないと思ったりするのだが・・・(といっても面白いものはつい見てしまう)。

話を戻すと、アメリカ発の商品は世界的にうけるのではないか、ということであった。
ベーグルも、そういう可能性のある商品ではないだろうか。ニューヨークでの朝食は、毎朝ベーグルであった。しかも、同じお店に毎日通った。ベーグルは単純においしいし、その割にその調理法がきわだって難しいようには思えない。いろいろなバリエーションがあるから――普通はチーズクリームをはさむが、卵焼きやベーコンなども――、宗教的な理由でマーケットが絞られてしまうことは少なそうだ。

飲食とドラマ以外に思いつくものがないが、アメリカ発の商品が世界的に広がる背景には、アメリカという国が多人種ゆえに、ビジネスの実験場として有利だからではないか、と思ったりしている。




― アメリカ国旗とアメリカ国民 ―

多人種社会と関係することを、もう少し続けたい。

唐突だが、2週間あまりのアメリカ滞在中、自分がアメリカにいることを意識せずにはいられなかった。アメリカに旅行しているのだから、そんなことは当たり前と思われるかもしれない。ただ、その理由が少し変わっている。というのは、至るところにアメリカ国旗が掲げられており、毎日どこかで見かけるのである。ビルの入口、公園、地下鉄、学校などなど(下の写真参照)。国旗を見かけない日はなく、そのためにアメリカにいることを意識しない日はなかった。

その国旗高揚数は、日本よりも圧倒的に多い。日本では戦争時の苦い経験からか、国旗を掲げることに対してアレルギー反応があり、そのため国旗をみかける機会は少ないのだろう。日本以外と比べたらどうか。たとえば、私が半年間留学していたデンマークでは、国旗を目にすることが日本と比べたら多かった。時々、スーパーマーケットの店頭などで国旗が使われているのを見かけたりした。しかし、それは国旗を掲げているというよりは、国旗のデザインがたまたま都合がよいために使用しているといったようである。実際、スーパーでよく見かけたのは、手品のときに使われるような小さな国旗がいくつも連なっているようなもので、「国旗高揚」からはほど遠い。アメリカのように国旗を、まさに高揚しているシーンは、デンマークではほとんど出会わなかった。

他のヨーロッパ諸国を旅行したときにも、国旗の存在が気になったことはないといっていい。スペインには3週間ほど滞在したことがあるが、スペインの国旗がどのようなものか今すぐにはイメージできないほど、国旗の存在は影が薄かった。また、中国には何度か訪れているが、同様に、国旗を意識する機会はそれほど多くない。

つまり、アメリカで掲げられている国旗数は、相当多いに違いない。もし、「1人当たり国旗高揚数」というような指標をとったら、アメリカが――少なくとも先進国のなかでは――圧倒的にトップではないかと思う。

話は変わるが、「国民」という概念が生まれたのは、人類史上、比較的新しい。いまでこそ、「日本国民」とか「日本人」といった言い方は当たり前だが、そうした「国民」という概念が広がったのは、日本では明治維新のころだったと、どこかに書かれていたのを記憶している。「国民」が新しいのは、なにも日本だけのことではなく、世界レベルでもそうである。では、何が「国民」を生んだのか。その疑問に答えるものとして、出版物の普及によるという説を読んだことがある。出版物の普及によって人々の頭の中に、特定の国民像またはイメージが共有されるようになり、それが「国民」を生んだという。詳しくは書かないが(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』参照)、あえて一言でいえば、「国民」という概念が生まれるのに、出版物が個人個人をくっつける接着剤的な役割を果たした、という仮説である。この仮説の応用編として、アメリカ国旗の存在が、アメリカ国民を形成するのを手助けしていないか、ということを考えている。

ところで、「アメリカ人」というのはうまく定義できない。アメリカ人と聞いて、まずぱっと思い浮かぶのは、アングロ・サクソン系の白人かもしれない。しかし、黒人がアメリカ人であっても違和感はないし、中国人風の顔をした人がアメリカ人であっても、ああそうかと納得できる。アメリカにいると、あまりに多くの人種が違和感なく街を歩いていて、そういう中を歩いていると、ふと、
「アメリカ人とはいったい誰のことだろう?」
と思うことがある。そのくらいアメリカ人とは、定義しづらい。どうも「アメリカにいればアメリカ人になれる」、そういう気軽さのようなものがアメリカ人には備わっているように思える。私のような純アジア系の顔でも、口を閉ざして日本語なまりの英語さえ話さなければ、他人からはアメリカ人と思われる。

そういう社会で、もしアメリカ国旗がなかったら、つまり、もし目に見えるかたちで「アメリカ人」を示すものがなかったら・・・彼らはアメリカ人としてのアイデンティティを失ってしまうのではないか。アメリカ人は頻繁に国旗をみることで、アメリカ人としての自分を確認しているのではないだろうか、そんなことを思った。


<国旗高揚写真集>


 ニューヨーク証券取引所


とあるビルの合間




スーパーマーケットにて。写真では小さいですが、車4台分ぐらいのサイズです。


空港のゲート。



― 弁護士事務所とレストラン ―

あまりに暇だったため、電話帳を手にとってしまった。

暇だったのには事情があって、それは帰国日のことだった。ボストンから日本への帰国便は、シカゴで乗り換えることになっていた。その日、シカゴはハリケーンが発生したほど大気の状態が不安定で、そのためボストンからシカゴへの飛行機が大幅に遅れた。飛行機は2時間ほど遅れたために、私は東京へのフライトを逃した(乗換え時間は40分ほどしかなかった)。国際線はそのスケジュールをあまり変更することはなく、私のような乗換えの人を待つことは少ない。そのため、私がシカゴへ到着したときには、東京行きのフライトはすでにシカゴを発っていたのである。利用したアメリカン航空では、シカゴ−東京間のフライトは1日1便しかなく、次の便は翌日。私は1日待たなくてはならなくなった。

航空会社が、その系列ホテルの部屋を安い価格でとってくれて、そこに1泊することになった。風雨が強く外に出る気にならなかったため(しかも、目に見える範囲には何もなかったため)、私はホテルでゆっくりと過ごすことに決めた。

ほとんどテレビを見て過ごしていたが、それでもさすがに飽きる。私は暇をつぶすのがあまり得意ではないらしい。それで仕方なく、電話帳でも手にしてみたのである。この電話帳は、職業別に並べられている。特にページ数の多い職業は、脇に赤、黄、青などで色分けされていて、どこからどこまでだか一目で分かるようになっているようだ。いったい何の職業がページ数が多いのだろう?と、素朴な疑問が浮かでしまった私は、おそらく相当に暇をもてあましていたのだろう・・・。

テーブルの上に置くと、どすんっとテーブルが揺れるほど重く、厚い。身体を横に曲げて、どの色がもっとも厚いのか、眺めてみる。1番多かったのは、2番目に多かった職業のなんと2倍近いページ数で、ダントツの1位であった。それは意外にも、「弁護士、弁護士紹介所(lawyer, lawyer guide)」。数えると、145ページを占めていた(総ページ数が何ページかを見逃した)。2番目は「レストラン(restaurant)」で75ページ。3番目は「保険(insurance)」(車のものがメイン)で67ページ。次いで「自動車(automobile)」が57ページであった。ページ数を数えただけだから単純比較は難しいが、どうやらレストランの数より、弁護士事務所の数のほうが多いことは間違いなさそうだ。

一生に一度も弁護士のお世話にならない人が大多数の日本人にとって、この状況はちょっと想像がつかない(日本の電話帳を同じように眺めたことはないが、どうなのだろう?)。弁護士事務所が多いということは、何か問題が発生した場合、アメリカでは法律や訴訟によって解決をはかることが多いと考えてよいのだろう。なぜそういう社会が出来上がったのか?どうもこれも多人種社会と無関係ではなさそうだが、かといってそんな簡単なものでもなさそうにも思える。いまの私にはこれ以上は判然としない。ここでは、アメリカが日本とはだいぶ違った社会であるということを感じた、ホテルでの一出来事として、備忘録的に記しておくだけにしよう(ところで、アメリカの法のことを知るという意味では、ハーバード・ロー・スクールの状況を描いた良書にスコット・タロー著『ハーバード・ロー・スクール』がある。やや古いが、筆者が体験したロー・スクールでの1年間が赤裸々につづられていて、読み物としても面白い)。




― セントラルパーク写真集 ―









 





   


桜が咲いていました。私以外、眺めている人はいませんでしたが・・・(笑)



    







    





<おまけ:その他の写真>

真ん中に小さく自由の女神


エンパイア・ステート・ビル








帰宅したとき、自宅から見えた夕焼け



最終更新日 2007/6/4

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