| 道幅 | 起伏 | 人通り | 交通量 | 緑 | 風景 | メモ |
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| 狭〜普通 | 多い | 無〜少 | 無〜少 | 多い | 山と峠と谷のある風景 | 美女谷温泉 |
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[甲陽鎮撫隊が進軍した小仏峠路の風景] |
現在の甲州街道は小名路から高尾山南麓を経て大垂水峠(オオダルミ)を越え、相模湖 畔の与瀬に出る道筋であるが、そもそもこのルートは明治21年になって開かれ たものだ。それ以前の江戸時代の甲州道中は日本橋から高尾までは概ね現在の甲 州街道と同じ道筋だが、小名路(コナジ)からは異なって裏高尾に入り、駒木野関 を通って小仏峠を越え、小原宿、与瀬宿へと通じていた。ちなみに甲州道中の宿 駅を日本橋から下諏訪迄順にあげると次のようになる。
内藤新宿、高井戸、布田五宿、府中、日野、八王子、駒木野、小仏、小原、与瀬、 吉野、関野、上野原、鶴川、野田尻、犬目、鳥沢、猿橋、駒橋、大月、花咲、初 狩、白野、阿弥陀、黒野田、駒飼、鶴瀬、勝沼、栗原、石和、甲府、韮崎、台ヶ 原、教来石、蔦木、金沢、上諏訪、下諏訪
そして下諏訪で中仙道に接続していた。
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風雲急を告げる幕末、慶応4年(明治元年、1868)正月、鳥羽伏見戦争で敗 れた新撰組は江戸へ敗走。帰府後の同年2月、近藤勇と土方歳三は新たな隊士を 募り組織を再編して甲陽鎮撫隊を結成した。折から江戸城総攻撃に向かう西郷隆 盛を参謀長とする総勢五万余という東征軍が迫りつつあった。甲州街道は板垣退 助を参謀とする土佐藩や因州藩などの東山道軍が進軍しており、これを阻止すべ く甲陽鎮撫隊は甲府城を守備する佐藤駿河守に合流して官軍を迎え撃つことに決 した。3月1日江戸を出発、2日には日野を通過して八王子宿で宿泊、3日には この小名路を通って小仏峠へ向かった。陣容は京都以来の旧新撰組隊士21人を 含む200名足らずであった。圧倒的な官軍を前にして、数日後にはここが甲陽 鎮撫隊の惨めな敗走路となり、官軍の怒涛の進撃路になるであろうことを誰も予 想出来なかったのであろうか。
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[小仏関に立つ駒木野宿の碑] |
小仏関は駒木野にあるので駒木野関とも言うが、元々この関所は武蔵と甲州の国 境の小仏峠の頂上にあった。天正6年(1578)、峠では何かと不便というこ とで駒木野に移された。従って小仏関と言うのが本来の呼び名である。元和2年 (1616)駒木野関と改称した。小仏峠にあった当初の関所は小田原北条氏の 関東防衛の最前線の砦として60人の守備兵がその役割を担っていたと言うが、 北条氏滅亡後は江戸に入府した徳川家康の管理下となり、八王子の千人同心達が 役人として詰めた。その後江戸時代を通じて関所は存続したが、甲陽鎮撫隊が甲 州勝沼戦争で惨敗した翌年の明治2年、約300年の関所の歴史に幕を下ろした。 なお関所破りの刑は重く見つかれば市中引き回しのうえ磔だ。その刑場は今の小 名路辺りにあったと言う。
念珠坂は年中坂とも呼ばれていたそうだが、菊地正氏の高尾山説話集「むかしで ござる」にこんな面白い話が記載されている。昔この辺りに銀河夜叉という鬼が いて、夕暮れ時に出没しては人を襲っていた。ある日、里の婆様が高尾山に参詣 した。思いのほか遅くなり、婆様が銀河夜叉のことを心配をしていると、老師が 通りかかり数珠をくれた。婆様は数珠を持って山を降り坂を越えようとした時、 案の定、銀河夜叉が現れて襲いかかってきた。婆様は逃げたが足がもつれてひっ くり返った。その弾みで数珠の紐が切れ、数珠球がコロコロと坂道を転がりだし た。銀河夜叉は数珠球に足を捕られて、坂の下まで転げ落ち大穴に落ちてしまっ た。それ以来この坂には銀河夜叉は現れなくなったという。
⇒⇒⇒ 昔々の多摩話−念珠坂の銀河夜叉
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[高尾山の旧参道入口の風景] |
菊地正氏の高尾山説話集「むかしでござる」に蛇滝にまつわるこんな話がある。
昔、高尾山を中興した俊源大徳という偉い坊様がいた。ある日、水行に適した滝 がないかと裏高尾を散策していると数人の猟師がなにやら騒いでいる。近づいて 見ると白蛇を踏みつけて山刀で殺そうとしているところでした。聞けば鹿を射よ うとしていたところ、この蛇が足に噛みついて取り逃がしてしまったと言う。以 前にも同じ様なことがあり、今度こそはこの蛇を殺さないと気がおさまらないと いうのである。坊様は殺生はよくないと幾ばくかの金を渡して蛇を助けてやった。 蛇は大変喜んでお礼に坊様が求めるよい滝に案内しましょうと、沢伝いに這い進 み大きな岸壁をするすると登り始めました。すると不思議なことに蛇が岸壁の上 に達するや否や一条の清らかな滝が流れ落ちました。坊様は水行にとてもいい滝 だと大変喜びました。蛇が滝になったことから以後この滝を蛇滝と呼ぶようにな ったという。
⇒⇒⇒ 昔々の多摩話−蛇滝の由来
ところで摺指の豆腐屋さんの名が峰尾となっているが、摺指では住民のほとんど が峰尾姓という。佐藤孝太郎著「多摩歴史散歩」によれば14世紀の南北朝時代 の南朝方の重鎮小山氏の末裔とのことだ。足利氏の圧力を避けて一族は常陸、会 津、白河と転々とした後、八王子に至り、甲斐の武田氏の元で再挙を図るもかな わず、ついには摺指の地に土着したという。常林寺は峰尾氏の開基になる寺だそ うだ。
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[かつての小仏宿辺りの風景] |
小仏宿の青木家はかつて『三度屋』という屋号で呼ばれていたという。というの は江戸時代の飛脚は月に三度、甲府と江戸の間を往来したことから三度飛脚とよ ばれていた。青木家はその三度飛脚の定宿であった。筆者は未確認であるが、こ こより少しばかり峠方向に上った所の左手にある宝珠寺には「甲府三度飛脚中」 と刻んだ常夜燈があるとのことだ。飛脚たちが奉納した記念燈という。ちなみに いわゆる三度笠とは三度飛脚が被っていた笠のことを指す。
甲陽鎮撫隊の小仏峠越えは雪の中の行軍であったという。隊士の服装は洋服の上 着のような恰好の綿入れを着て、これへ撃剣の胴をつけて、ズボンをはいて、草 鞋ばき、刀は白木綿の帯を締めてこれにさし、白い木綿の鉢巻をしていたという。 装備は小銃500挺と大砲2門だった。徳川家や会津藩等から得た軍資金を元に 装備を整えたものという。近代装備の圧倒的戦力を有する官軍に勝てるわけがな いのに、甲陽鎮撫隊に軍資金と武器を与えて甲州へ向かわせた幕府の意図は何だ ったのだろうか。一説には江戸城無血開城を企てる勝海舟が、新撰組が江戸にい たのでは不測の事態が起こりかねないと判断し、江戸から切り離すための策であ ったとも言われている。
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[小仏峠の風景] |
新編武蔵風土記稿によれば、小仏の地名の起こりはこの山の辺に堂ヶ谷という所 があって、そこに大日如来像が出現したことによる。堂宇を建て大日如来像を安 置していたものを、後年この峠に引移したという。残念ながら堂宇は朽ち果てて 今はない。
戦国時代の永禄11年(1568)武田信玄関東遠征の折、本隊は拝島方面から 北条氏照の滝山城攻めた。これに呼応して小山田信茂の率いる甲州武田の軍勢は 小仏峠を越えて背後から滝山城を攻撃した。高尾駅の北側の廿里(トドリ)は両軍 が激突した古戦場だ。当時の小仏峠はまだ街道が整備される前のことであり、恐 らくただ獣道があるだけの山深い峠であったと思われる。この戦で不意を突かれ た北条氏は敗れ、このことから氏照は小仏峠を睨む強固な防衛拠点が必要と判断 し、新たに八王子城を築城し城替えすることになった。そして八王子城の砦とし てここに富士関役所を置き甲州武田からの防衛拠点とした。これが小仏関の始ま りである。小仏関はその後天正年間に山を下って駒木野に移設された。
「多摩ら・び」18号(2001)に茶屋の老夫婦の記事がでていた。
それによれば江戸時代は峠に5軒の旅籠があり、飯盛女と呼ばれる公認の遊女 もいるほどの賑わいがあったそうだ。明治36年八王子−甲府間に甲武鉄道 (現中央線)が開通すると峠は寂れ、旅籠は人の手を離れ、建物は朽ち果てた という。そんな昭和の初め、麓の青木夫婦はそのうちの1軒の旅籠に移り住み 茶屋を開いた。茶屋の名物は自作の竹笛であったという。二人三脚で毎日、自 宅から茶屋まで小型トラクターを使って40分かけて登ってくるのだという。 もう80歳にもなり、仕事が続けられるのも、あと3、4年とのことだった。
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[照手姫の伝説を伝える美女谷の風景] |
美女谷とは何とも気になる地名だ。これにはこの地に照手姫という美女にまつわ る数奇な伝説が残されていることによる。俗に美女谷伝説と呼ばれているもので ある。伝説によれば、室町時代のこと、底沢川の上流の西入川の七つ淵という所 に照手姫というそれはそれは美しい娘がいた。ところが父母に先立たれ、やむな く八王子から藤沢へ出た所で横山太郎という盗賊に囚われた。折から常陸国小栗 の城主であった小栗判官平満重が謀反の疑いで関東管領足利持氏に追われて藤沢 にやってきて盗賊の宿に泊まった。盗賊は満重から金品を巻き上げることを計画 し、照手姫を使って毒殺しようとした。驚いた照手姫は計略を満重に打ち明けた ため、かろうじて一命を取り留めることができた。照手姫は盗賊の元を脱走し武 州金沢へ向かったが追っ手に捕らえられ川へ投げ込まれた。一旦漁師に助けられ るが漁師の女房が嫉妬し美濃国の青墓宿に遊女として売られてしまった。一方平 満重は謀反の疑いが晴れて小栗城に復帰し、やがて盗賊横山太郎を討伐した。そ して照手姫を救い出し妻に迎えて平和に暮らしたという。
⇒⇒⇒ 昔々の多摩話−美女谷伝説
馬頭観音堂の横の立札にこの道筋が甲州道中である旨をこんな風に記されている。
「甲州道中はここを登り中央自動車道の下を通り、樋谷路沢を渡って小原宿本陣 脇へ出ますが、今は通行不可能です。」と。
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[小原宿本陣屋敷の風景] |
小原宿は東西2丁半(約273m)の宿場で、本陣と脇本陣、旅籠7軒があった。 本陣は、江戸時代に信州の高島、高遠、飯田三藩の大名及び甲府勤番の役人が、 江戸との往復の時宿泊するために利用した。屋敷の当主清水家の先祖は、後北条 の家臣清水隼人介で、後に甲州街道小原宿が設けられてからは、代々問屋と庄屋 を兼ねていたという。屋敷はその建築様式からみて江戸時代後期の18世紀末期 か19世紀初期の頃の建築と言われている。ちなみに甲州道中で現存する本陣は 小原宿本陣の他に日野宿本陣と下花咲宿本陣(大月市)の3箇所である。
慶応4年3月3日、与瀬宿に入った甲陽鎮撫隊に力強い援軍が到着する。日野の 農兵「春日隊」22人が合流したのだ。春日隊は甲陽鎮撫隊が日野の名主佐藤彦 五郎宅に立ち寄った際、彦五郎が申し出たものだ。彦五郎は近藤勇の剣術天然理 心流の恩師近藤周助の門弟で近藤勇の兄弟子に当たり、また土方歳三の姉を妻に しているという間柄でもある。京都時代から新撰組を精神的、物的に支援してき た人物だ。物資の調達など主として兵站を支援すべく参加したようだ。
慶応4年3月4日、春日隊を加えた約200名の甲陽鎮撫隊は雪の降りしきる笹 子峠を越えて駒飼宿に進軍する。しかしここで甲府城が既に約三千の官軍先鋒隊 の手に落ちたことを知る。副長土方歳三は急遽援軍を求めて本隊を離れ江戸へ向 かう。近藤勇はやむなく勝沼の柏尾山に陣を敷いてここで最後の一戦を決意する。
慶応4年3月6日、午後1時頃、甲州勝沼戦争の戦端は切られた。近藤勇は鎖帷 子(クサリカタビラ)で武装して奮戦したという。しかしながら三方から官軍の圧倒的 な火力、兵力による攻撃の前に、甲陽鎮撫隊の大砲2門は沈黙、1発の火をふく こともなく壊滅する。同日5時には戦闘は終結し甲陽鎮撫隊はちりじりになって 敗走したという。
なお、勝海舟による江戸城明け渡しはこれより約1ヶ月後の慶応4年4月2日の ことである。
ついでながら相模湖駅に来た時は筆者には一つの楽しみがある。駅前の商店街に 「ル・ポン」というパン・ケーキ屋さんがある。ここの名物は石老山の麓で獲れ たリンゴを材料に使ったリンゴパイだ。美味しい上に家族全員が食べてもなお余 りある大きさで値段も500円と手頃だ。相模湖などを訪れた時は必ず帰りに買 うことにしている。