小仏峠を越えて甲陽鎮撫隊の進撃路甲州道中を行く
距離:約12.5Km <通過エリア: 八王子、津久井>
[古道・峠シリーズ]

道幅起伏人通り交通量風景メモ
狭〜普通多い無〜少無〜少多い山と峠と谷のある風景美女谷温泉

[甲陽鎮撫隊が進軍した小仏峠路の風景]

甲州道中は江戸幕府が代官大久保石見守長安に命じて整備させた五街道の一つで ある。日本橋を起点に江戸と甲州を結ぶ街道で今は旧甲州街道と呼ばれている。 慶長9年(1604)に甲府まで、慶長15年(1610)には更に下諏訪まで 延長して中仙道と接続し完成した。ようやく天下を掌中に納めた徳川家康だが、 甲州武田の残党の動静を監視する必要があり、また万一の事態に備えて逃走路を 確保しておく必要もあって整備された模様だ。

現在の甲州街道は小名路から高尾山南麓を経て大垂水峠(オオダルミ)を越え、相模湖 畔の与瀬に出る道筋であるが、そもそもこのルートは明治21年になって開かれ たものだ。それ以前の江戸時代の甲州道中は日本橋から高尾までは概ね現在の甲 州街道と同じ道筋だが、小名路(コナジ)からは異なって裏高尾に入り、駒木野関 を通って小仏峠を越え、小原宿、与瀬宿へと通じていた。ちなみに甲州道中の宿 駅を日本橋から下諏訪迄順にあげると次のようになる。
内藤新宿、高井戸、布田五宿、府中、日野、八王子、駒木野、小仏、小原、与瀬、 吉野、関野、上野原、鶴川、野田尻、犬目、鳥沢、猿橋、駒橋、大月、花咲、初 狩、白野、阿弥陀、黒野田、駒飼、鶴瀬、勝沼、栗原、石和、甲府、韮崎、台ヶ 原、教来石、蔦木、金沢、上諏訪、下諏訪
そして下諏訪で中仙道に接続していた。

甲州道中は開設以来、信濃の信州高島・高遠・飯田三藩の大名の参勤交代と、三 代将軍への宇治茶献納の茶壷道中として利用される程度で、旅人も少なく、東海 道や中山道に比して寂れた街道であった。しかし風雲急を告げる幕末の動乱期に は官軍と幕府軍の衝突の舞台ともなった。京都から敗走してきた新撰組は甲陽鎮 撫隊を結成、官軍への最後の組織的反抗を企てた。世に言う甲州勝沼戦争である。 小仏峠を越える甲州道中の道筋は甲陽鎮撫隊に名を変えた新撰組最後の進撃路で ありまた敗走路でもあった。

今回はそんな小仏峠越えの甲州道中を辿ってみたいと思う。JR高尾駅から甲州 街道を経て、小名路から裏高尾の旧甲州街道に入る。小仏峠を越えて美女谷へ下 り、底沢から小原宿を経て与瀬へ。帰路は相模湖駅へ出るものとする。



高尾駅を出て駅前のバスターミナル横から西へ向かう線路沿いの道に入る。甲州 街道は交通量が多く歩道も狭いので避けた方がよい。閑静な住宅街を抜け線路脇 の狭い路地を抜けるとJR中央線のガード下を交叉する甲州街道に出る。ガード 下は橋になっていてその下には南浅川が流れている。ガード下を潜り街道に沿っ て70〜80mも進めば小名路という裏高尾へ向かう旧甲州街道への分岐点に来 る。分岐点の道標は以前は「小名路」となっていたが、最近「西淺川」に変わっ てしまった。由緒ある名を何故変更してしまったのか行政の対応に疑問を覚える。
小名路から旧街道に入ると車も少なく、つい先ほどまでの甲州街道の喧燥がまる で嘘の様に静かだ。それもそのはず裏高尾の旧街道筋はもう都県境の峠路の始ま りなのだ。かつて八王子宿を発って甲府へ進軍した近藤勇率いる甲陽鎮撫隊もこ の小名路で故郷多摩との惜別の思いを強くしたことであろう。

風雲急を告げる幕末、慶応4年(明治元年、1868)正月、鳥羽伏見戦争で敗 れた新撰組は江戸へ敗走。帰府後の同年2月、近藤勇と土方歳三は新たな隊士を 募り組織を再編して甲陽鎮撫隊を結成した。折から江戸城総攻撃に向かう西郷隆 盛を参謀長とする総勢五万余という東征軍が迫りつつあった。甲州街道は板垣退 助を参謀とする土佐藩や因州藩などの東山道軍が進軍しており、これを阻止すべ く甲陽鎮撫隊は甲府城を守備する佐藤駿河守に合流して官軍を迎え撃つことに決 した。3月1日江戸を出発、2日には日野を通過して八王子宿で宿泊、3日には この小名路を通って小仏峠へ向かった。陣容は京都以来の旧新撰組隊士21人を 含む200名足らずであった。圧倒的な官軍を前にして、数日後にはここが甲陽 鎮撫隊の惨めな敗走路となり、官軍の怒涛の進撃路になるであろうことを誰も予 想出来なかったのであろうか。

[小仏関に立つ駒木野宿の碑]

なだらかな上り坂を登る。途中アルコール専門の駒木野病院横を通り、坂を登り 切ると右手に木柵で囲まれた小仏関跡がある。関跡には「史蹟小佛関跡」と刻ん だ石柱と、関所の配置図を示した「小佛関所絵図」なる説明板、それにこの辺り が宿場であったことを示す「甲州街道駒木野宿」と記した大きな石碑が立ってい る。徳川幕府はここを西方防衛の拠点と位置づけ不審者の出入国を厳しく監視し たのであろう。今は小さな公園でもあり、関所梅林といって春先には見事な梅で 賑わう所でもある。

小仏関は駒木野にあるので駒木野関とも言うが、元々この関所は武蔵と甲州の国 境の小仏峠の頂上にあった。天正6年(1578)、峠では何かと不便というこ とで駒木野に移された。従って小仏関と言うのが本来の呼び名である。元和2年 (1616)駒木野関と改称した。小仏峠にあった当初の関所は小田原北条氏の 関東防衛の最前線の砦として60人の守備兵がその役割を担っていたと言うが、 北条氏滅亡後は江戸に入府した徳川家康の管理下となり、八王子の千人同心達が 役人として詰めた。その後江戸時代を通じて関所は存続したが、甲陽鎮撫隊が甲 州勝沼戦争で惨敗した翌年の明治2年、約300年の関所の歴史に幕を下ろした。 なお関所破りの刑は重く見つかれば市中引き回しのうえ磔だ。その刑場は今の小 名路辺りにあったと言う。

駒木野関を後にし、旧宿場の風情を残す平坦な街路を抜けると、念珠坂と呼ばれ る長い下り坂に入る。坂道左手に念仏塔、庚申塔等の石塔が立つ。その一つに「 念珠坂」と刻んだ石碑がある。念珠坂とはいささか奇妙な名前だ。

念珠坂は年中坂とも呼ばれていたそうだが、菊地正氏の高尾山説話集「むかしで ござる」にこんな面白い話が記載されている。昔この辺りに銀河夜叉という鬼が いて、夕暮れ時に出没しては人を襲っていた。ある日、里の婆様が高尾山に参詣 した。思いのほか遅くなり、婆様が銀河夜叉のことを心配をしていると、老師が 通りかかり数珠をくれた。婆様は数珠を持って山を降り坂を越えようとした時、 案の定、銀河夜叉が現れて襲いかかってきた。婆様は逃げたが足がもつれてひっ くり返った。その弾みで数珠の紐が切れ、数珠球がコロコロと坂道を転がりだし た。銀河夜叉は数珠球に足を捕られて、坂の下まで転げ落ち大穴に落ちてしまっ た。それ以来この坂には銀河夜叉は現れなくなったという。
⇒⇒⇒  昔々の多摩話−念珠坂の銀河夜叉

[高尾山の旧参道入口の風景]

念珠坂を下り、ゆるやかに蛇行しながら道なりに進むと辺りは次第に鄙びた雰囲 気となる。ほどなく緑幼児園と称する小さな建物の前にくる。つい最近までここ は八王子市立浅川小学校の上長房分校だった。都心からそれほど離れているわけ ではないのに分校があるとはいかにも裏高尾らしいと、通るたびに感じたもので ある。分校の前はバス停「荒井」でその傍らに昔懐かしい火の見櫓と地蔵堂があ る。地蔵堂には地蔵様1体と庚申塔が1基並んでいる。再びゆるやかな上り坂と なる。南側から南浅川の支流小仏川が接近しやがて街道と並走する形となる。対 岸は樹林で覆われ、その中に一条の散策路が縫う様に走っている。裏高尾は高尾 梅郷の地としても知られており川沿いのあちこちに梅林が点在する。この辺りの 対岸には天神梅林と称する梅林がある。特に紅梅が綺麗な梅林だ。バス停「蛇滝 口」界隈にさしかかると、民家が建ち並び採れたて野菜を直売する家もある。左 手川に臨む古びた建屋は旧蛇滝茶屋で、高尾山の蛇滝信仰の講中が利用した休憩 所だ。バス停の対面にはこの付近が荒井遺跡という縄文時代・平安時代の集落跡 であることを示す案内板が立っている。「圏央道反対」の標語がやたら目につく のは、この付近が建設予定地のためだ。もう既に工事もかなり進んでいる様だ。 自然豊かな山里をやがてはコンクリートで固めた高速道路が貫くのかと思うと暗 澹たる思いがする。清明会浅川ホーム横から山手へ分岐する道は高尾山登山道だ。 分岐点には「ここより高尾山道」と刻んだ古びた石の道標、「高尾山新四国八十 八ヶ所道」と刻んだ石柱、それに「蛇滝水行道場入口」と記した木柱が立ってい る。昔はここが高尾山の表参道だったのだが、今は利用する人もほとんどない寂 れた登山道になっている。ただ傍らの湯の花梅林は高尾梅林の中でも一際見事な 梅林で季節の頃は観梅客で賑わう所だ。”湯の花”とはいささか奇妙な名前だが、 一説には、裏高尾で温泉が湧いたとの言い伝えがあることによるのだろう。

菊地正氏の高尾山説話集「むかしでござる」に蛇滝にまつわるこんな話がある。
昔、高尾山を中興した俊源大徳という偉い坊様がいた。ある日、水行に適した滝 がないかと裏高尾を散策していると数人の猟師がなにやら騒いでいる。近づいて 見ると白蛇を踏みつけて山刀で殺そうとしているところでした。聞けば鹿を射よ うとしていたところ、この蛇が足に噛みついて取り逃がしてしまったと言う。以 前にも同じ様なことがあり、今度こそはこの蛇を殺さないと気がおさまらないと いうのである。坊様は殺生はよくないと幾ばくかの金を渡して蛇を助けてやった。 蛇は大変喜んでお礼に坊様が求めるよい滝に案内しましょうと、沢伝いに這い進 み大きな岸壁をするすると登り始めました。すると不思議なことに蛇が岸壁の上 に達するや否や一条の清らかな滝が流れ落ちました。坊様は水行にとてもいい滝 だと大変喜びました。蛇が滝になったことから以後この滝を蛇滝と呼ぶようにな ったという。
⇒⇒⇒  昔々の多摩話−蛇滝の由来

蛇滝を後にしこども村を左に見て小仏川とともにS字に曲がりながら進むと摺指 (スルサシ)の集落に入る。バス停「摺指」の前に「するさしのとうふ」の幟を立て た峰尾豆腐屋がある。副業で「おからドーナツ」を売っている。試食も出来るの で気に入ったら買ってみるとよい。ちなみに店の電話番号は0426−66−0 440だ。集落の外れの沿道右手には曹洞宗の白雲山常林寺がある。

ところで摺指の豆腐屋さんの名が峰尾となっているが、摺指では住民のほとんど が峰尾姓という。佐藤孝太郎著「多摩歴史散歩」によれば14世紀の南北朝時代 の南朝方の重鎮小山氏の末裔とのことだ。足利氏の圧力を避けて一族は常陸、会 津、白河と転々とした後、八王子に至り、甲斐の武田氏の元で再挙を図るもかな わず、ついには摺指の地に土着したという。常林寺は峰尾氏の開基になる寺だそ うだ。

[かつての小仏宿辺りの風景]

竹林が繁る都水道局裏高尾増圧ポンプ所の小さな建物を左にやると、右前方の上 方に中央自動車道の赤いガードが目に入る。山の緑に赤が良く映えてなかなかい いものだ。バス停「裏高尾」を過ぎ日影まで来るとマス釣場がある。人のほとん どいない山里なのにここだけは釣り客で賑わっている。城山へ向かう日影沢林道 を避け、曲がりくねった道を川沿いに進むとアーチ型をした古びた赤煉瓦造りの 中央線のガードがある。何とも言えない風情のある空間だ。ガード下を潜り小下 沢林道(オゲザワ)(最近は木下沢林道と記載した道標がかかっている)への道を 避け左に曲がると、道は左に線路と川、右に小さな集落に沿ったなだらかな上り 坂となる。かつての小仏宿はこの辺りのことを指すのだろう。民家の表札に『青 木』という名がいくつか見える。青木家はかつて甲州道中を往来する飛脚の定宿 であったという。

小仏宿の青木家はかつて『三度屋』という屋号で呼ばれていたという。というの は江戸時代の飛脚は月に三度、甲府と江戸の間を往来したことから三度飛脚とよ ばれていた。青木家はその三度飛脚の定宿であった。筆者は未確認であるが、こ こより少しばかり峠方向に上った所の左手にある宝珠寺には「甲府三度飛脚中」 と刻んだ常夜燈があるとのことだ。飛脚たちが奉納した記念燈という。ちなみに いわゆる三度笠とは三度飛脚が被っていた笠のことを指す。

中央線のレールが小仏トンネルに掻き消えるとバス停の終点「小仏」の横に至る。 ここからは次第に山腹が迫って空が狭くなってなる。浅川神社と臨済宗南禅寺派 小仏山宝珠寺横を過ぎるといよいよ勾配はきつくなヘピンカーブとなる。景信山 への登山口を右にやるとほどなく車止めがあり小仏峠への登山口となる。ちなみ に登山口の横に分岐する階段は宗教施設「真の道」への道だ。
登山道は杉や檜等の樹林で覆われ薄暗いが山の冷気がすがすがしい。しばらくは 道幅も広く勾配も穏やかで楽に登ることが出来る。道の傍らには小沢が心地よい 沢音をたてて流れている。道筋には所々苔むした石垣が残る等いかにも旧街道ら しい趣を漂わせている。うねうねと沢沿いの道を進むとやがて沢は左手山腹へ離 れてゆく。そしてそこを境に登山道は鋭くVターンし狭い急勾配のジグザグ道と なり本格的な峠路に変貌する。慶応4年3月3日、甲陽鎮撫隊の隊士達は銃を担 ぎ、大砲を引いてこの峠路をもくもくと甲府を目指したことであろう。

甲陽鎮撫隊の小仏峠越えは雪の中の行軍であったという。隊士の服装は洋服の上 着のような恰好の綿入れを着て、これへ撃剣の胴をつけて、ズボンをはいて、草 鞋ばき、刀は白木綿の帯を締めてこれにさし、白い木綿の鉢巻をしていたという。 装備は小銃500挺と大砲2門だった。徳川家や会津藩等から得た軍資金を元に 装備を整えたものという。近代装備の圧倒的戦力を有する官軍に勝てるわけがな いのに、甲陽鎮撫隊に軍資金と武器を与えて甲州へ向かわせた幕府の意図は何だ ったのだろうか。一説には江戸城無血開城を企てる勝海舟が、新撰組が江戸にい たのでは不測の事態が起こりかねないと判断し、江戸から切り離すための策であ ったとも言われている。

上方の山腹が低くなり空が広くなってくるとやがて標高548mの小仏峠に着く。 峠は高尾山系の交通の要衝で尾根伝いに南へは城山と高尾山、北には景信山と陣 馬山が続き、また峠を越えて旧街道を西へ下れば相模湖方面へ出る。峠は樹林で 覆われあまり見晴らしがいいとは言えないが、登ってきた方面を振り返れば山間 から遠くに高尾や八王子の市街を臨む事が出来る。峠には以前青木屋という茶屋 があり、ザクロ、アケビ、クリ、天然なめこ、ヒラタケ等の山の幸が多数売られ ていて結構楽しい所であったが、数年前から廃屋になってしまった。ハイカーで 賑わったかつての懐かしい峠の風情が今も思い出される。茶屋はなくなったがベ ンチはたくさんあり一息入れるのにいい所だ。広場の端には峠に関所があった頃 からのものという地蔵1体と、青面金剛と三猿を刻んだ庚申塔1基が立っている。

[小仏峠の風景]

新編武蔵風土記稿によれば、小仏の地名の起こりはこの山の辺に堂ヶ谷という所 があって、そこに大日如来像が出現したことによる。堂宇を建て大日如来像を安 置していたものを、後年この峠に引移したという。残念ながら堂宇は朽ち果てて 今はない。

戦国時代の永禄11年(1568)武田信玄関東遠征の折、本隊は拝島方面から 北条氏照の滝山城攻めた。これに呼応して小山田信茂の率いる甲州武田の軍勢は 小仏峠を越えて背後から滝山城を攻撃した。高尾駅の北側の廿里(トドリ)は両軍 が激突した古戦場だ。当時の小仏峠はまだ街道が整備される前のことであり、恐 らくただ獣道があるだけの山深い峠であったと思われる。この戦で不意を突かれ た北条氏は敗れ、このことから氏照は小仏峠を睨む強固な防衛拠点が必要と判断 し、新たに八王子城を築城し城替えすることになった。そして八王子城の砦とし てここに富士関役所を置き甲州武田からの防衛拠点とした。これが小仏関の始ま りである。小仏関はその後天正年間に山を下って駒木野に移設された。

「多摩ら・び」18号(2001)に茶屋の老夫婦の記事がでていた。
それによれば江戸時代は峠に5軒の旅籠があり、飯盛女と呼ばれる公認の遊女 もいるほどの賑わいがあったそうだ。明治36年八王子−甲府間に甲武鉄道 (現中央線)が開通すると峠は寂れ、旅籠は人の手を離れ、建物は朽ち果てた という。そんな昭和の初め、麓の青木夫婦はそのうちの1軒の旅籠に移り住み 茶屋を開いた。茶屋の名物は自作の竹笛であったという。二人三脚で毎日、自 宅から茶屋まで小型トラクターを使って40分かけて登ってくるのだという。 もう80歳にもなり、仕事が続けられるのも、あと3、4年とのことだった。

茶屋の軒を抜けると道標がある。「相模湖5.5km、底沢バス停3.5km」 「城山0.8km、高尾山3.7km」等となっている。相模湖・底沢方面の下 り道を採り、まずは美女谷を目差す。路傍に「旧甲州街道」と記された木柱が立 っている。山道といってもさすが旧甲州街道、道幅もゆったりしていて楽だ。し ばしば断面がUの字型をした道もあり、一瞬鎌倉道を進んでいる様な錯覚を覚え る。ベンチ1基と道標のある三叉路を右に折れ、相変わらず杉や檜林の木漏れ日 の中をうねうねと下って行く。やがて青空がぽっかり開き高圧鉄塔がそそり立つ 空間に出る。ほっとする一瞬だ。道標には「底沢バス停2.4km、小仏峠1. 1km」となっている。高圧鉄塔を後にして更に下るとそのうち山麓から車の走 行音が聞こえてくる。やがて右手下方に中央高速道が姿を現す。深い美女谷に足 場を置く高い橋脚の上に高速道は走っている。程なく山道は終わり舗装道に出る。 下山口の道標を見ると「小仏峠1.8km、底沢バス停1.7km、相模湖駅3. 7km」となっている。筋向いには「美女谷温泉この先50m右折」の案内もあ る。案内に従い坂道を50mも下ると車道に合流する。再び「美女谷温泉500 m先」の案内に従い右へVターンする。深い山間の谷筋とその上を跨ぐように走 る高速道の赤い橋梁はまさに絵にも写真にもなる風景だ。車道といっても車両の 通行は全くと言ってよい程ない。道なりにうねうねと下ってゆくと深い谷筋に鉄 道が走っているのが望める。小仏トンネルを抜けてきた中央線の軌道だ。やがて 高速道を遥か上に仰ぐ巨大な橋脚の横を過ぎると深い谷間の三叉路に出る。その 一角には小さな墓と紅葉の木がある。晩秋には真っ赤に色づいて美しい。傍らに は底沢川が流れている。ここにも道標があり「小仏峠3.5km、相模湖駅2. 0km」と記されている。美女谷温泉は右の山へ向かう分岐道を沢沿いに100 mも進めばある。静かな山峡の温泉宿で陣馬山や景信山、城山など高尾山系の登 山後の疲れをとるのにうってつけの温泉だ。いつか一度訪ねてみたいと思う。ち なみに電話は0426−84−2010だ。また三叉路を左に入ると底沢川に架 かる古びた橋がある。橋の名は美女谷橋という。

[照手姫の伝説を伝える美女谷の風景]

美女谷とは何とも気になる地名だ。これにはこの地に照手姫という美女にまつわ る数奇な伝説が残されていることによる。俗に美女谷伝説と呼ばれているもので ある。伝説によれば、室町時代のこと、底沢川の上流の西入川の七つ淵という所 に照手姫というそれはそれは美しい娘がいた。ところが父母に先立たれ、やむな く八王子から藤沢へ出た所で横山太郎という盗賊に囚われた。折から常陸国小栗 の城主であった小栗判官平満重が謀反の疑いで関東管領足利持氏に追われて藤沢 にやってきて盗賊の宿に泊まった。盗賊は満重から金品を巻き上げることを計画 し、照手姫を使って毒殺しようとした。驚いた照手姫は計略を満重に打ち明けた ため、かろうじて一命を取り留めることができた。照手姫は盗賊の元を脱走し武 州金沢へ向かったが追っ手に捕らえられ川へ投げ込まれた。一旦漁師に助けられ るが漁師の女房が嫉妬し美濃国の青墓宿に遊女として売られてしまった。一方平 満重は謀反の疑いが晴れて小栗城に復帰し、やがて盗賊横山太郎を討伐した。そ して照手姫を救い出し妻に迎えて平和に暮らしたという。
⇒⇒⇒  昔々の多摩話−美女谷伝説

三叉路を左にとり美女谷橋を渡り小さな集落を通る。再び中央高速道の橋脚の下 をくぐるが、その橋脚横の右手に小さな馬頭観音堂がある。厳しい山道での荷駄 の運搬に疲れ果て行き倒れになった馬の霊を弔ったものであろうか。いかにもこ の道筋が古い甲州道中であることを物語っている。

馬頭観音堂の横の立札にこの道筋が甲州道中である旨をこんな風に記されている。
「甲州道中はここを登り中央自動車道の下を通り、樋谷路沢を渡って小原宿本陣 脇へ出ますが、今は通行不可能です。」と。

本来の甲州道中はここからしばらく通行不能なのでこのまま道なりに進む。左の 谷筋を並行に走る中央線に眼をやりながら下って行く。煉瓦で出来た長久保架道 橋で中央線をくぐると左手は深い底沢川の断崖の上に沿う道となる。やがて前方 に東西に車両の行き交う大きな青い橋梁の橋が見えてくる。大垂水峠から下って きた現在の甲州街道だ。程なく底沢橋の袂で甲州街道に出る。橋上から見下ろす 底沢は遥か下方を流れ、まさに文字通りの沢と言える。しばし足を止めて楽しむ とよい。

[小原宿本陣屋敷の風景]

ここからはしばらく現代の甲州街道を進む。大きく左手へUの字形に回り込むと 街道を挟んで空の広がる広々した景観に変貌する。というのも北側の高尾山系が 後退し、南側には相模湖が広がるためだ。やがて歩道に「これより二町半 甲州 街道小原宿」と記した木柱の横に来る。昔の宿場町に入ったのだ。街道の北側筋 向いに古風な門構えの旧家がある。小原宿本陣屋敷だ。信濃の大名達が参勤交代 の際に宿泊した屋敷跡だ。入場料は無料なので時間があれば立ち寄るとよい。

小原宿は東西2丁半(約273m)の宿場で、本陣と脇本陣、旅籠7軒があった。 本陣は、江戸時代に信州の高島、高遠、飯田三藩の大名及び甲府勤番の役人が、 江戸との往復の時宿泊するために利用した。屋敷の当主清水家の先祖は、後北条 の家臣清水隼人介で、後に甲州街道小原宿が設けられてからは、代々問屋と庄屋 を兼ねていたという。屋敷はその建築様式からみて江戸時代後期の18世紀末期 か19世紀初期の頃の建築と言われている。ちなみに甲州道中で現存する本陣は 小原宿本陣の他に日野宿本陣と下花咲宿本陣(大月市)の3箇所である。

小原宿の集落の外れに、街道沿い北側に「南無阿弥陀仏碑」という奇妙な石碑が 立っている。説明版によると旧甲州街道はここより少し南に下がった所にあり、 もともとそこに建てられていたものが移設されたのだそうだ。相模川北岸地帯に 見られる特徴的な仏碑とのことだ。石碑を挟んで街道対面に小原広場があり、そ の前に「小原宿、与瀬宿、旧甲州街道」と記した道標が立っている。旧街道はこ の広場を一旦下って再び路地を上がり、この先の現甲州街道と交差する。交差点 はすぐ目と鼻の先の陸橋下なのでわざわざ旧道を辿ることもないだろう。陸橋下 の交差点に来れば現代の甲州街道を離れて右手の集落に入る旧道を辿ろう。
平野旅館を左にやり坂道をのぼる。登りきった所は「中丸三叉路」と呼ぶ三叉路 で、一転左側の下り道をとる。だらだらと坂道を下ると坂の途中の右手土手の上 には石仏らしきものを納めた小舎が2つ並んで建っている。そのまま道なりに下 ると坂道は一旦一服となる。左へ回り込むとそこは丘の上で民家の間から相模湖 とその周辺の山々、それに中央線と相模湖駅、その界隈のかつての与瀬宿の町並 みが一望の下に望むことが出来る。この辺り道が入り組んでいて実にわかりにく い。再び南へ向かう道幅の広い長い坂道を下って行く。坂の途中まで来ると坂道 を右に下る狭い急階段があり、そこに「与瀬宿 旧甲州街道」と記された道標と 案内板が立っている。案内板には「甲州道中はこの階段を降り、えんどう坂を下 り桂北小学校前へ出る」と記されている。道標に従い集落の中の狭いえんどう坂 を下って行き、方向を南に転じて真直ぐ進むと、やがて桂北小学校の建つ現代に 甲州街道にT字路でぶつかる。与瀬宿に到着したのだ。T字路の道標には次の宿 場「吉野宿 旧甲州街道」と記されている。慶応4年3月3日、雪の小仏峠を越 えてきた甲陽鎮撫隊の一行はこの与瀬宿で宿営している。

慶応4年3月3日、与瀬宿に入った甲陽鎮撫隊に力強い援軍が到着する。日野の 農兵「春日隊」22人が合流したのだ。春日隊は甲陽鎮撫隊が日野の名主佐藤彦 五郎宅に立ち寄った際、彦五郎が申し出たものだ。彦五郎は近藤勇の剣術天然理 心流の恩師近藤周助の門弟で近藤勇の兄弟子に当たり、また土方歳三の姉を妻に しているという間柄でもある。京都時代から新撰組を精神的、物的に支援してき た人物だ。物資の調達など主として兵站を支援すべく参加したようだ。

慶応4年3月4日、春日隊を加えた約200名の甲陽鎮撫隊は雪の降りしきる笹 子峠を越えて駒飼宿に進軍する。しかしここで甲府城が既に約三千の官軍先鋒隊 の手に落ちたことを知る。副長土方歳三は急遽援軍を求めて本隊を離れ江戸へ向 かう。近藤勇はやむなく勝沼の柏尾山に陣を敷いてここで最後の一戦を決意する。

慶応4年3月6日、午後1時頃、甲州勝沼戦争の戦端は切られた。近藤勇は鎖帷 子(クサリカタビラ)で武装して奮戦したという。しかしながら三方から官軍の圧倒的 な火力、兵力による攻撃の前に、甲陽鎮撫隊の大砲2門は沈黙、1発の火をふく こともなく壊滅する。同日5時には戦闘は終結し甲陽鎮撫隊はちりじりになって 敗走したという。

なお、勝海舟による江戸城明け渡しはこれより約1ヶ月後の慶応4年4月2日の ことである。

ここからは甲州街道を100mも西に進み、信号のある交差点を右折すれば相模 湖駅はすぐだ。旅の土産に駅前のル・ポンでリンゴパイでも買って帰ることにす る。

ついでながら相模湖駅に来た時は筆者には一つの楽しみがある。駅前の商店街に 「ル・ポン」というパン・ケーキ屋さんがある。ここの名物は石老山の麓で獲れ たリンゴを材料に使ったリンゴパイだ。美味しい上に家族全員が食べてもなお余 りある大きさで値段も500円と手頃だ。相模湖などを訪れた時は必ず帰りに買 うことにしている。


多摩のジョギング道 ( http://homepage3.nifty.com/k_harada/ )
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