ポスト・モダニズムと丸山真男

                         冨 田 宏 治    

目  次 

   はじめに                           

   1.日本の「ポスト・モダニスト」による「丸山批判論」  

    (1)「ポスト・モダニスト」の「近代主義」批判     

    (2)「日本批判」と「批判的国民主義」        

    (3)「近代」という「『知』のしかけ」           

    2.丸山真男とポスト・モダニズム              

    (1)南京とアウシュヴィッツ              

    (2)「無意識的構造」の自覚化とそこからの離脱  

    (3)「欲望」「権力」「自由」のトリアーデ        

   むすびにかえて                        

 


はじめに  

 丸山真男の一周忌を目前にひかえた一九九七年八月一一日付の『朝日新聞』夕刊は、「戦後思想の運命 尽きない『市民社会と丸山真男』論」と銘うつ記事を掲載した。この記事では、「丸山は市民社会の再建なんて言わなかった。市民社会とは同質的な市民、その意味でブルジョア社会の市民が他を排除して作ったソサエティーであり、そんなものを丸山は無条件に支持した訳ではない」という石田雄の(一九九七年二月の国民文化会議の「丸山真男と市民社会」という討論会における)発言が紹介される一方で、丸山没後に目立ってきた「もうひとつの丸山批判論」として、酒井直樹、姜尚中らによる「丸山を『市民主義』というより『国民主義』と見て批判する傾向」が紹介されている。もっとも、後者は、すでに雑誌『現代思想 第二二巻一号』(一九九四年一月)の「特集」において展開されていた一連の日本の「ポスト・モダニスト」による「丸山批判論」の部分的な再論というべきものであり(酒井も姜も、ともにこの「特集」に論考を寄せている)、特に目新しいものではないといえるかもしれない。ただ、死去一年を経て、丸山の思想の再評価に関心がもたれはじめていること、そして、その中心に、丸山の追求した「近代」と、具体的な歴史的近代としての「西欧近代社会」との関係がいかなるものであったのかという問題が依然として存在し、これをめぐって、酒井や姜らのそれにとどまらず、日本の「ポスト・モダニスト」による「丸山批判論」がさらに浮上してくるに違いないということは確かなようである。

 さて、丸山の思想の再評価という問題については、これまでも筆者なりにいくつかの機会に論じてきたところでもあった。

 それは第一に、筆者が拙稿「『近代主義』の射程−丸山眞男の政治思想」(1)において、笹倉秀夫の『丸山真男論ノート』(2)を手がかりとしながら論じたように、丸山の追求した「近代的意識」とは、「民主主義原理」と「自由主義原理」との「アンチノミーの自覚」を内容とする「内面的に緊張した意識」だったのであり、そうした「近代的意識」に支えられる「『永久革命』としての民主主義」こそが、丸山の理念的「近代」像にほかならなかったという点である。そして、こうした丸山の「近代」像が、いわば、ハーバーマスの「未完のプロジェクト」としての「近代」像と共鳴しあうものなのではないかという問題であった。もちろん、ハーバーマスがポスト・モダニズムの批判する「西欧近代」の「独話的理性」に対置するものが、間主観的な「対話的理性」であるのに対して、丸山の求めるものが、あくまでも諸個人の主観的内面における「内面的緊張」(=「主体的緊張の弁証法」)にほかならないということは確かである。そして、ここにこそ両者を決定的に隔てるものがあるという異論も成り立ち得よう。しかし、拙稿「『近代的意識』と自発的結社−丸山真男の政治戦略」(3)で論じたように、丸山は、社会的規模における「『民主化』の結社」と「『自立化』の結社」の緊張関係、各結社内部における「組織性」と「自発性」の緊張関係、結社を構成する諸個人の主観的内面における「民主主義原理」と「自由主義原理」の緊張関係を重層的な連関の中でとらえていたのであり、そうであるとすれば、丸山とハーバーマスとの相違は、それほど大きなものでないとも考えらる。そして、この点は、冒頭に触れた『朝日』の記事で紹介されている住谷一彦や高畠通敏らの「公共空間の中で相互にコミュニケーションするというハーバーマスの市民概念として広くとれば、丸山の思想のなかに『市民』の考えはある」という立場とも通じあうものであるとも言えよう。いずれにせよ、筆者の提起したかった第一の論点は、丸山の思想が、ハーバーマスのそれと同様、西欧のポスト・モダニズムに対質可能なものなのではないかという問題なのであった。

 しかし他方で、筆者は、こうした論点とは一見矛盾するかに見える第二の論点を提起しなければならないとも考えている。それは、拙稿「丸山真男−『文化接触』と『文化変容』の思想史」(4)において、日本のドゥルーズ研究者による「丸山真男は、・・・・ドゥルーズの『地層学』に類似する観点から、歴史意識の『古層』あるいは『執拗低音』を紀記神話に遡って抽出した。外来思想の主旋律を変容・修正してしまう執拗低音の研究は、私たちを無意識の裡に拘束しているものを対象化することによって足元をすくわれないようにするために是非ともやらなければならない作業である」(5)という言明を引きながら論じた点であり、丸山の「古層」=「執拗低音」論が、いわゆる「近代」=「モダンなるもの」に対するスタンスの外見上の違いにもかかわらず、「自文化」における「無意識的な構造」の自覚化と、それによる「無意識的構造」からの解放を志向する点で、フーコーやドゥルーズらの「ポスト構造主義」と相通ずるものなのではないかという論点である。すなわち、丸山の「古層」=「執拗低音」論は、むしろ「西欧近代」の「自己批判」としての「ポスト構造主義」に対する「非西欧世界」でのカウンターパートとして位置づけられるべきものなのではないかということである。

 ただ、この点については、拙稿では、必ずしも十分な展開をおこなうことができず、単なる示唆にとどまるものでしかなかった。それ故、「ポスト・モダニズムと丸山真男」と題された本稿においては、この後者の論点を正面から取扱い、ポスト・モダニズムとの関係をも含んだ思想家・丸山真男の再評価の動きに対して、日本の「ポスト・モダニスト」たちからの「丸山批判論」の問題設定とは異質な視点からのアプローチ、すなわち、西欧のポスト・モダニズムと丸山の思想とのある種の共鳴関係を明らかにする試みに取り組んでみたいと考える。以下の本論では、まず、先に触れた『現代思想』誌における日本の「ポスト・モダニスト」からの「丸山批判論」のいくつかを批判的に検討したうえで、「西欧」におけるポスト・モダニズムの思想と「日本」における丸山のそれとのある種の共鳴関係を、(イ)第二次世界大戦という人類の残虐性が余すところなく示された事態を受けて展開されたという思想としての「同時代性」、(ロ)「自文化」の「特種性」の自覚とその「無意識的構造」の発見と克服への志向、また、(ハ)その議論の内容における「欲望」「権力」「自由」のトリアーデへの共通の関心、といった論点に即して検討してみることとしたい。  

1.日本の「ポスト・モダニスト」による「丸山批判論」  

 本節では、先に触れた『現代思想』誌の「特集」に見られる日本の「ポスト・モダニスト」による一連の「丸山批判論」の中から、いくつかの特徴的なものに注目し、その批判を通じて、本稿における筆者なりの視座を確認していくこととしたい。もっとも、同誌の特集には、十数名の論考が寄せられており、総じて丸山に対する批判的なスタンスに貫かれているものの、J・コシュマン、H・ハルトゥーニアンらの海外の論者も含め、論者たちの専門も立場も多様であって、その論点はあまりにも多岐にわたっている。それ故、本稿における同誌の「特集」の扱い方は、きわめて限定的なものにならざるを得ない。

 さて、日本の「ポスト・モダニスト」による「丸山批判論」を問題とする上で、最初に注意を払わなければならない点は、それらが何による何への批判なのかということである。

 同「特集」に「フェミニズムから見た丸山真男の『近代』」という論考を寄稿している江原由美子は、その論考のなかで、次のように論じている。 

 「しかし日本のフェミニズムにおいては、上に挙げたような「近代」への批判的観点を提起することは、奇妙なねじれを帰結してしまう。日本は西欧ではないからだ。西欧に自己を位置づける限りにおいては、ポストモダンという立場は、同時に自社会・自文化を批判的に検討することに連なっている。けれども自己を日本に位置づける限り、同じ様にはいかない。・・・・日本における「近代」とは「西欧」のことであり、その観点から見れば、「近代」の「相対化」とは、日本の「近代」の「相対化」ではなく、「西欧」の「相対化」ということになる。その意味では、「近代」を相対化することは、自社会や自文化への批判的検討にただちに連なるわけでなく、かえって日本という社会や文化を再評価し肯定する主張にもなりうるのである。」(6)  

 この問題は、たとえば竹内芳郎が『ポスト=モダンと天皇教の現在』において、「最近わが国で流行しているポスト=モダン思想の大半が欧米とりわけフランスで彼ら自身の自己批判としてうち出された思想・・・・のオウム返しでしかないこと、・・・・しかもそのことによって、彼の地では深刻な自己批判だったものがこの地ではいとも安易な自己肯定にまですっかり変質してしまい、しかもそのことに無自覚でいるということだ」(7)と激しく論難している点にほかならない(もっとも、江原がこのように論じる意図は、日本の「ポスト・モダニズム」にこのような「ねじれ」をもたらすものこそ、「丸山真男に代表される日本の『近代化論者』『市民社会論者』の『近代』という概念自体が孕む『知』のしかけ」(8)にほかならないことを批判するためだったのだが)。

 しかし、こうした江原の指摘にもかかわらず、『現代思想』誌上における日本の「ポスト・モダニスト」の「丸山批判論」の中には、「安易な自己肯定」という意味での単純な「日本主義」への傾斜ではないにしても、ある種の「ねじれ」の存在が窺われるのである。  

(1)「ポスト・モダニスト」の「近代主義」批判  

 問題は、同誌上における「丸山批判論」が、なによりも、日本の「ポスト・モダニスト」による西欧のポスト・モダニズムの論理に依拠した、「日本」「近代主義」への批判として展開されていることである。

 たとえば、子安宣邦の「『近代』主義の錯誤と陥穽」は、M・ホルクハイマーとT・アドルノの『啓蒙の弁証法』(9)と丸山の『日本政治思想史研究』(10)とを対比して、「近代啓蒙の神話への逆行を眼前に増殖する国家主義的神話にではなく、『近代』を規定する啓蒙的理性そのものに理由を求めて、理性の歴史を遡行して追求するアドルノたちに対して、丸山は増殖し猛威をふるう天皇制国家の神話に『近代』国家権力の主権性の理念をもって対しようとする。野蛮へと退行しつつある『近代』理性の立場を、啓蒙的理性そのものに理由を求めて追求するアドルノたちに対して丸山は、野蛮なファシズムの横行に『近代』に執着することで抵抗しようとするのである」(11)と論ずるところからはじまる。子安はつづけて、「『近代の超克』の主張に敵対的な言説を見て、『近代』が擁護され、『近代』が積極的に主張される。『近代』の主張とは同時に日本における『近代』の未成熟の指摘である。その際、丸山は『近代』を問うことをほとんど『近代的思惟』を問うことに還元しているのである」(12)として、丸山の「『近代』主義的言説」を「『近代の超克』的言説への抗争的ディスクールとして形成された」(13)ものと位置づけ、同時に、「『近代』への問いを、『近代的思惟』の問題に置き換え」ることで、京都学派らの「近代の超克」論が「超克」しようとした「近代」、すなわち、「近代的世界秩序」としての「近代」、そして、「総力戦を遂行している、あるいは遂行したこの近代日本国家の『近代』」を問い、告発し、分析する視角をもち得なくなったものとして批判し去ろうとするのである。

 子安における「ねじれ」は、二つの方向で現れている。それは、第一に、「西欧近代」への「他者批判」であると同時に、「日本」への「自己肯定」の論理と言説にほかならなかった「近代の超克」論の亡霊を、「西欧近代」の「自己批判」としてのアドルノらの「啓蒙的理性」に仮託して喚び出そうとしているかに見える点であり、丸山が「近代の超克」論への敵対者であったが故に、まさに「近代」主義者として批判されているように思われる点である。こうした議論の流れに竹内の言う「いとも安易な自己肯定」への危うさを見てとることは、不当だとされるであろうか。

 日本の「ポスト・モダニスト」の「近代主義」批判は、「西欧近代」の「自己批判」としての「近代」批判の論理を、「近代主義」ないしは「近代主義者」=丸山真男の「近代性」を批判する「他者批判」の論理へと横滑りさせたものにすぎない。それは、丸山の思想を「日本」への「自己批判」として−すなわち、「西欧」への「自己批判」としてのポスト・モダニズムと、「自文化」への「自己批判」という共鳴性を持つものとして−扱うのではなく、もっぱら、「近代」の擁護者、肯定者としてのみ扱うことによって、「批判」の対象とする。そして、それによって、決してストレートな「自己肯定」とはなっていないとしても、少なくとも「批判者」への「批判」という媒介された形態において、「日本」への「自己批判」という契機を否定しようとするのである。

 第二の「ねじれ」は、丸山における「近代日本国家の『近代』」への問いと告発の視角の欠如という批判の仕方にあらわれている。子安は、こうした「批判」を通して、自らを「日本近代」への「真の批判者」として描き出すとともに、丸山による「日本」への「自己批判」に対して、その無効性を宣告しようとしているのである。こうした丸山「批判」の手法は、子安だけのものではなく、同誌上の他の論者によっても採用されている。

 たとえば、中野敏男の「近代日本の躓きの石としての『啓蒙』」は、鶴見俊輔の「日本という国家宗教」の「顕教」と「密教」という議論を援用しつつ、大学とそれに並ぶ高等教育における「ヨーロッパを模範とする教育方針の採用」という「密教」の部分の存在を指摘し、「反省的に総括しなければならないのは、単に皇国史観という神話的な世界観に基づく『顕教』の部分についてだけでなはなく、むしろ、『顕教』と『密教』という構成をもった近代化のこのプロジェクト全体についてでなければなるまい」として、つづけて、「丸山真男の福沢論における日本近代化の原点への探求は、・・・・この『使い分け』の思想の問題性に無自覚であるばかりか、むしろ、この路線を正確に踏襲するもののように、われわれには思われる」(14)と非難するのである。

 しかし、「総力戦」を遂行し得たといった歴史的事実−それらが事実であるかどうかということすらがすでに問題なのであり、丸山は『現代政治の思想と行動』(15)に収録された一連の「日本ファシズム」批判こそ、それを問うものであったはずなのだが−や、当時の日本の科学技術水準なり、国家官僚や軍部幕僚たちの教育水準の高さ等をもって、当時の「日本」に「西欧近代」−それは、まさに「啓蒙的理性」への批判が「自己批判」として提起されざるを得ない「近代」だったのだが−と同等な「近代」を見いだし、そうしたものとしてこそ、「日本」を問い、告発することは、果たして可能なのであろうか。

 実は、子安らは、西欧のポスト・モダニズムが提起した「西欧近代」の普遍化の否定とその特種性の自覚という論点に反して、明らかに「普遍的近代」=「近代一般」といったものを想定してしまっているのである。そして、こうした想定こそは、西欧のポスト・モダニズムが、特種なものとしての「西欧近代」への「自己批判」であったということと、その「深刻さ」に対する感受性の欠如のあらわれにほかならないのである。そして、それは同時に、丸山による「日本」への「自己批判」の「深刻さ」をも受けとめ得ず、「日本」への「自己批判」を、「近代一般」への「批判」に安易に横滑りさせることを可能とするものでもあったのである。

 もちろん、酒井直樹が「丸山真男と忠誠」で論じるように、「批判の対象と歴史的実践の標的となるのは、『西洋』にあって『日本』にないものだけでもなければ、『西洋』になくて『日本』にあるものだけでもなく、『西洋』と『日本』が共に抱え込んでしまったもの、例えば、人種主義や帝国主義の遺制、そして排他的国民主義といったものも当然含まれなければならない」(16)ということは確かであろう。しかし、それは、「日本近代」の「近代一般」への還元によってではなく、あくまでも「日本」への「自己批判」の一環としてこそなされなければならないことなのではないのだろうか。  

(2)「日本批判」と「批判的国民主義」  

 さて、『現代思想』誌上の「丸山批判論」には、これまで論じてきた「近代主義」批判とは、異なった視角によるものも含まれている。それは、丸山を「近代主義者」としてではなく、「日本」への「批判者」として扱いつつ、こうした「日本」へのこだわりをこそ、丸山の「近代」性と見なして批判する議論である。

 先にも触れた酒井直樹の「丸山真男と忠誠」は、『朝日』の記事が取り上げた丸山を「国民主義」者と見て批判する立場をすでに明らかにした論考であるが、そこで酒井は、「しばしば丸山教授の議論は西欧近代を一般的に理想とし日本の現状を批判し啓蒙するものであるという非難がなされますが、私が読みえたかぎりでは、それは第一義的には当たっていないと言わざるを得ません。・・・・彼の知的な闘争はあらかじめ日本の国民共同体の内部に設定された視座から構想されており、日本の社会の内在的な批判として展開されています」(17)と論じる。

 しかし、酒井によれば、「感性的に内面化された権力関係の制度において、劣位にあるものが、もっとも鋭く存在被拘束性を意識できる」のであり、「存在被拘束性は常に対照項との関係で規定され、近代世界では、多くの場合参照されるのは『西洋』であった。したがって丸山教授の場合も、日本の知識人としての存在被拘束性の自覚は、・・・・もっぱら『西洋』との関係でもたらされざるを得なかった」(18)とされ、「学問を通じた歴史的実践が、彼の場合は、日本人知識人としての存在被拘束性をほとんど非合理的に引受るところから出発するように仕組まれているのです。つまり丸山教授は終始国民主義者として仕事をされてきたわけです」(19)ということとなる。そして、こうした「国民主義」こそが、彼の批判の俎上に載せられるのである。

 酒井によれば、「問題は、他である『西洋』に対照されて定立される自が全く無規定に『日本』として与えられてしまっている」(20)ことにあるという。それ故に、「『日本』を対照的に捉えるためには、対照される二つの項の間の区分を維持しなければならず、両者の重なったり連続している点を過少評価せざるを得ないという方法的要請」(21)によって、「ちょうど西洋の知識人に多く見られる『西洋』への固執を陽画とすれば、その陰画にあたる、彼(丸山)の『日本的なもの』への奇妙な固執」(22)が生ずるのだというのである。そして、こうした「奇妙な固執」は、(イ)「あくまで日本と西洋を区分し、近代的なものと前近代的なものというそもそも歴史期区分であるものを東洋と西洋と言った地政的な区分に重ね合わせようとする態度」と(ロ)「中世の西ヨーロッパの考察が現在の西ヨーロッパの考察へ、また、近世の日本の考察が現在の日本の考察に連続的に連結され、・・・・同一の民族的共同体がその同一性そのものは変えずに、連続的に自己展開するという発想」という、「日本と西洋の近代における共約性の発想を禁」ずる「二つの知的禁忌」によって支えられているのだとされ(23)、かくして酒井は、「彼(丸山)の日本社会批判が、『西洋』を日本における不在として仮設することで可能になったこと」と「日本には不在の『西洋』を提示することで、日本の主体的な自己構成が可能になってきた点」(24)から、丸山にとって「批判は批判的国民主義としてしか展開せざるを得ず、国民主義的でない批判すなわち非国民主義的批判の可能性は摘み取られてしまったのです」(25)と結論づけるのである。

 酒井は、こうした丸山の「批判的国民主義」に対して、それが「民族といった共同性の像」が「国民共同体のあるいは近代世界の成立の効果ではないかという問い」を「あらかじめ排除」していることや、「フランス革命や合州国の独立の建国神話もまた神話に過ぎないという点」、「明治憲法下の建国神話の基礎となっている連続史観そのものの近代性」などを見逃したり、無視したりする点をあげて批判する(26)とともに、さらにヨリ決定的な問題として、一九七〇年代以降、「日本の『遅れ』や後進性の感覚が霧消ししかも進歩するものとしての歴史や日本の文化的同一性という前提がそのまま温存され」るなかで展開してきた「批判意識と社会的現実に能動的に働きかける能力をもたない現在の日本の現実に単純に満足した人間」の横溢や、「不景気が二三年も続けば吹き飛んでしまうようなオポチュニスティックな自己賛美の議論の横行」、「こうした議論を許すような達成感と批判力を欠いた国民主義」に直面して、「『西洋』の理念化された先進性への信仰」に依拠する丸山の「批判的国民主義」は、もはやその批判力を喪失したのだと宣告する(27)。

 酒井が丸山の「批判的国民主義」に対置する「非国民主義的批判」がいかなるものなのかは必ずしも明かではないが、ただ、その「批判の対象と歴史的実践の標的となるのは、『西洋』にあって『日本』にないものだけでもなければ、『西洋』になくて『日本』にあるものだけでもなく、『西洋』と『日本』が共に抱え込んでしまったもの、例えば、人種主義や帝国主義の遺制、そして排他的国民主義といったものも当然含まれなければならない」(28)ということ、そして、「『西洋』や『日本』という主体が充全に自己構成することは不可能であって、『西洋人』はかならず『西洋人』になりそこない『日本人』が正真の『日本人』であることはな」いという「この不可能性にこそ歴史的実践の倫理があると考えられるべき」(29)だとされるのみである。いずれにせよ、こうした酒井の批判もまた、日本の「ポスト・モダニズム」からの「丸山批判論」の一環を構成するものと考えるべきものではあろう。

 しかし、興味深いことに、こうした酒井の「丸山批判論」もまた、前出の江原由美子の論考において論じられていた、かの「奇妙なねじれ」を体現するものにほかならないのである。江原は、あたかも酒井の議論を要約するかのように、「日本/西欧という『差異』をどう把握するかに関連」するひとつの「ポスト・モダン」的議論を提示し、それをむしろ「『普遍主義』『近代主義』に似通ってしまう」ものとして批判しているのである。すなわち、

 「ポストモダン的思想において、「差異」とは「本質的」なものではなく、様々な言語的社会的実践が「構成」されていくものである。すなわち、「差異」が存在するのではなく、「差異化の実践」が存在するのだ。ここから考えれば、日本/西欧という「差異」を生出すのは、その「差異」を強調し対立させそこに何らかの政治的意味をもたせようという実践ということになる。そうであるならば、ポストモダンという立場において「日本主義」を批判することは、日本を良しとする思想のみを批判することで足りるわけではない。たとえ日本を批判的に考察しているとしても、日本/西欧という「差異」を前提とし、その「差異」を強調し、日本/西欧という対立軸を特権化するような思想もまた、「日本主義」なのである。この立場からは、「日本的特質」を立てるような図式そのものが批判の対象になる。けれども、このような立場は、あたかも日本/西欧という「差異」が存在しないように振る舞う「普遍主義」「近代主義」に似通っている。そして、「日本的特質」を立てること自体を否定するとするならば、それは、自社会・自文化への批判的考察そのものを抑制しかねない(下線は引用者)」。(30)

 丸山の中に「あくまで日本と西洋を区分し、近代的なものと前近代的なものというそもそも歴史期区分であるものを東洋と西洋と言った地政的な区分に重ね合わせようとする態度」を見い出し、批判する酒井の議論が、「普遍主義」「近代主義」(この場合「近代主義」というよりは「近代化論」といったほうがよいであろう)に似通ったものになっていることは、もはや論ずるまでもなかろう。そして、その批判には、江原のそれを対置することで十分であろう。ただ、同じく日本における「ポスト・モダニスト」でありながら、江原と酒井を隔てるものは、西欧のポスト・モダニズムの「自己批判」としての「深刻さ」の受けとめ方の違い、そして、「日本」における「自社会・自文化への批判的考察」を求める切実さの違いなのではないか、とだけ述べておこくにとどめることにしよう。  

(3)「近代」という「『知』のしかけ」 

 最後に、江原由美子の「丸山批判論」、すなわち、「丸山真男に代表される日本の『近代化論者』『市民社会論者』の『近代』という概念自体が孕む『知』のしかけ」への批判という問題に立ち入らなくてはならないだろう。

 江原は、先に引用した部分に続けて、返す刀で、「自社会・自文化への批判的考察や『近代』そのものが孕む『重層性』の発見こそポストモダンであるとする立場」からの、日本の「ポストモダニズムには自らの文化的風土に対する対決、葛藤が欠落している。これは・・・・日本のポストモダン論者の通弊であって、彼等は既存の文化パラダイムの相対化というポストモダニズムの基本精神が分かっていない。彼等にとって、それはたんなる欧米近代への批判にすぎないのである。だが、既存の文化風土への批判的観点がないかぎり、日本流ポストモダンは反動的な観念遊戯に終わるしかない」(31)という(大越愛子の)議論を引いて、こうした立場は、「奇妙にも、『西欧近代』を理念型とし、その理念型によって日本社会の『前近代性』を指摘した丸山の『近代化論』に、似通ってしまう」(32)と批判する。江原によれば、先にみた酒井のような議論だけでなく、それに対立する大越のような議論もまた問題だとされるのである。 すでに見たように、江原は、西欧のポスト・モダニズムの「自社会・自文化」への「自己批判」性に対する受けとめにおいても、「日本」における「自社会・自文化への批判的考察」を求める切実さにおいても、子安や酒井などの他の論者とは明らかに異なっている。にもかかわらず、大越のような立場(それは、先に触れた竹内芳郎や筆者自身の立場とも通ずるのだが)をも否定するのであり、それは、後者もまた、次のような「丸山真男に代表される日本の『近代化論者』『市民社会論者』の『近代』という概念自体が孕む『知』のしかけ」に絡めとられているからだというのである。すなわち、

  「丸山政治学における「近代」は、日本において未だ不在のものを示すための枠組みであり、すなわち、それは現在の社会を否定するために用いられている枠組みなのだ。丸山における「近代」がそのような「不在」の基準点であったために、それは、「西欧近代という理念」に、純粋化・形式化されてしまう。ヨーロッパの近代社会そのものは、「非常に多面的で重層的な社会」であるのに、丸山の「近代」は、それらを捨象したところに置かれてしまう。その結果、日本社会に発見される様々な政治的言説の、抽象化された「西欧近代という理念」に不適合な要素は、「日本社会の前近代性」の表れとして、否定的に語られることになる。近代−前近代という進歩史観を前提とし、その軸に即して西欧と日本を配置することにより、「近代」という時 間軸的に後世に位置づけられる抽象化された「西欧近代という理念」が、現在の日本の政治的諸実践を否定するための「根拠」として使用されるのである。しかし、同時に日本において「未不在」である「近代」は、「日本が獲得するべき普遍性」として置かれているため、それはまた、等置されるべきものとして、位置づけられる。対立させられまた等置される「日本」と「近代」。この二重性は、「近代」が「女」に強いた二重性とまさに同じである。」(33)

 江原の言う「『知』のしかけ」とは、つまりは、「対立させられまた等置される『日本』と『近代』」という「二重性」のことなのであり、この「二重性」こそが、酒井と大越に代表されるような日本の「ポスト・モダニズム」内の対立と両者それぞれの形態における「近代主義」への接近という「奇妙なねじれ」を生み出すのだと主張されているわけである。

 しかし、江原の議論には、少なくとも次の二点について、疑問を禁じ得ない。すなわち、第一に、丸山の追求した「近代」とは、果たして江原が言うような「西洋近代という理念」であったのかという点と、第二に、江原の言う「『知』のしかけ」とは、丸山たち自身が「しかけ」たものなのではなく、むしろ、丸山たちの議論をも「変容」し「通俗化」してしまう「日本的なるもの」自体の「『知』のしかけ」ではなかったのかという点である。

 第一の点についていえば、江原は、丸山の「近代」=「西欧近代という理念」という固定観念、ステロタイプ化した丸山=「近代主義」者という構図をあいもかわらず引き継いでいるのであり、そのかぎりでは、江原と子安の隔たりは大きなものではないと言わざるを得ない。

 たしかに、子安たちがもっぱら丸山=「近代主義」者という像を描き出すためにもちいている『日本政治思想史研究』には、「いかなる磐石のような体制もそれ自身に崩壊の内在的な必然性をもつことを徳川時代について・・・・実証することは、当時の環境においてはそれ自体、大げさにいえば魂の救いであった」(34)と丸山自身が回想するような超学問的動機に基づく「徂徠学」や「宣長学」の「近代性」に対する過剰な評価や、ヘーゲルに依拠した「アジアの停滞性」の過度の強調など、後に丸山自身の「自己批判」を招くことともなる問題が含まれていた。また、丸山による「日本」への「自己批判」が、ときに「西欧近代」の「肯定」へと横滑りしがちな点も多く見いだし得ることも否定し得ないだろう。

 しかし、先にも触れた日本のドゥルーズ研究者が、「『つぎつぎとなりゆくいきほい』として定式化された歴史意識の『古層』は、一見するとドゥルーズ哲学のある面に似通っている・・・・欧米の文脈では異端であるドゥルーズ哲学は、日本の文脈では『日本的なもの』の古層と共鳴する面があるというべきであろうか。・・・・けれども、欧米に支配的な超越論的文脈から脱出するために引き合いに出された『東洋的なもの』と、日本の文脈での『東洋的なもの』は意味も機能も異なる」(35)と述べて注意を喚起しているように、西欧のポスト・モダニズムにも、丸山の「近代主義」の陰画のような「オリエンタリズム」が見られるのであり、「自社会・自文化への批判的考察」が「他者」の「肯定」に横滑りしてしまう危険性は、決して丸山のみに見られることではない。

 しかも、丸山が、「弁証法的全体主義」を以て「市民社会の制約を受けてゐる国家構造」に対置した最初期の論文「政治学に於ける国家の概念」以来一貫して追求してきた「近代」とは、まさに永続する「民主化のプロセス」にほかならないのでり、決して具体的な歴史的近代としての「西欧近代」と同一化されるべきものなどではなかったのである。そして、この点については、拙稿「近代主義の射程−丸山眞男の政治思想」で、すでに論じたところであった。

 さらに、古代以来の日本歴史の展開を「文化接触と文化変容」の歴史として描き出そうとする「開国」論文や『日本の思想』以後の方法論の転回によって、丸山は、幕末・維新期および戦後期の「開国」の歴史過程を、一方では、「西欧近代という理念」が「主旋律」としてその表層に全面的に展開されつつ、他方では、それが「つぎつぎ」と「日本」的に変容されていく過程として対象化し、日本における「自社会・自文化への批判的考察」を展開していく地平に立ったのであり、それは、もはや、「近代」と「日本」を単純に「対立」させつつ「等置」するような枠組みなどではないということは明かであろう。

 そして、第二の点は、こうした「文化接触と文化変容」という丸山の「自社会・自文化への批判的考察」の方法を前提とすれば、江原の批判する「近代−前近代という進歩史観を前提とし、その軸に即して西欧と日本を配置することにより、『近代』という時間軸的に後世に位置づけられる抽象化された『西欧近代という理念』が、現在の日本の政治的諸実践を否定するための『根拠』として使用される」というような、まさに「近代主義」と呼ぶべき思想的立場を成立させ−さらにいえば、丸山こそがあたかもその代表者であるかのように、その思想を受けとめさせ−、また、酒井の述べる「不景気が二三年も続けば吹き飛んでしまうようなオポチュニスティックな自己賛美の議論」を許すような「達成感と批判力を欠いた国民主義」を横行させるものこそ、「西欧近代という理念」の「変容」と「日本化」の過程にほかならないということもできるのではないか、という問題である。

 言い換えれば、「対立させられまた等置される『日本』と『近代』」の「二重性」という「『知』のしかけ」は、江原が言うように、丸山らによって「しかけ」られたものなどではなく、「西欧近代」との「文化接触」の中で、「日本」自体に「しかけ」られた「文化変容」と「日本化」の「『知』のしかけ」だったのではないかということであり、そして、こうした「しかけ」を見破る上でも、丸山の「自社会・自文化への批判的考察」の方法に有効性が認められるべきなのではないかということである。

 さらにいえば、西欧のポスト・モダニズムの思想が、竹内芳郎が非難するように「彼の地では深刻な自己批判だったものがこの地ではいとも安易な自己肯定にまですっかり変質してしまい、しかもそのことに無自覚でいる」ような日本の「ポスト・モダニズム」へと変質されてしまうということ自体もまた、丸山の提起した「文化接触と文化変容」の思想史という方法によって、その「受容と変容」の問題として、対象化されなければならないものでなのであろう。 

 以上、『現代思想』誌上における日本の「ポスト・モダニスト」たちによる「丸山批判論」を批判的に検討してきたが、同誌上には、この他にも、米谷匡史の「丸山真男の日本批判」をはじめ、批判的検討に価する論考がいくつか含まれている。とりわけ米谷論文は、丸山の「古層」=「執拗低音」論に対する重要な批判的論点を提示するものであって、充分な検討が必要とされよう。しかし、紙幅の都合もあり、その検討作業は他日に期したい。  

2.丸山真男とポスト・モダニズム  

 本節では、「西欧」におけるポスト・モダニズムの思想と「日本」における丸山のそれとのある種の共鳴関係を、(イ)第二次世界大戦という人類の残虐性が余すところなく示された事態を受けて展開されたという思想としての「同時代性」、(ロ)「自文化」の「特種性」の自覚とその「無意識的構造」の発見と克服への志向、また、(ハ)その議論の内容における「欲望」「権力」「自由」のトリアーデへの共通の関心、といった論点に即して探ってみたいと思う。  

(1)南京とアウシュヴィッツ  

 細見和之は、その著書『アドルノ 非同一性の哲学』(36)において、アドルノの「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」あるいは「アウシュヴィッツ以降すべての文化は、当の文化への切実な批判を含めて、ゴミ屑だ」(『否定弁証法』)という激烈な言葉を引いて、「アドルノがその半生をあげて戦うことになる『敵』の正体」が「アウシュヴィッツ」に象徴されるものにほかならなかったことを明らかにし、しかも、「もちろん、ユダヤ人や同性愛者、『障害者』、ロム・・・・、小数民族ら数百万人が殺戮されたという事実の衝撃は圧倒的である。しかしアドルノにとって決定的だったのは、その殺戮のたんなる『野蛮さ』ではなく、そのプロセスに体現されている『合理性』だった。あるいはもっと正確には、その合理性と野蛮の結託ぶりだった」(37)と論じた。

 「死の工場」あるいは「死のベルトコンベアー」とも呼ぶべき絶滅収容所において合理的な計算に基づき、組織的、計画的に遂行されたナチのホロコーストこそ、アメリカによる広島・長崎への原爆投下とともに、「高度な知によって媒介された」(38)二〇世紀の大量殺戮の悲惨さと野蛮さを体現するものだったのであり、−実際にはこれらの事実が明らかになる以前にすでに仕上げられていた−『啓蒙の弁証法』における「何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態に落ち込んでいくのか」(39)というアドルノらの「問い」の重さを「途方もない規模で確証」し(40)、アドルノらの後半生を「西欧的理性」ないしは「近代的合理性」への「自己批判」へと駆り立てていったのである。

 アドルノだけでなく他の西欧のポスト・モダニズムの思想家たちにとっても、ナチズムないしはファシズムの経験と第二次世界大戦の経験が、その思想展開において決定的な契機となったことは言うまでもない。バタイユは、反ファシスト的な革命的知識人の同盟「コントル・アタック」の結成(一九三五年)など実践的な抵抗を試みる一方で、「同質性」と「異質性」という概念と、異質的エレメントを抑制、同化、排除によって形成される「社会の同質性」の維持のための最大の力としての「至高であるかのごとく信じられる審級」という概念を駆使しながら、「近代市民革命によっていったん衰退したかに見えた〈至高であるかのごとき審級を頭部に戴く制度〉への信仰が、鋭く再活性化した運動」として、ファシズムの(コミンテルン的な「共産主義」にも共通する)「その独特の心的構造」を解明し、その総体を理解しようとする論考「ファシズムの心理構造」(一九三四年)を著しており、この論考は、「時代の動向にバタイユがどう対峙しようとしたかを知るうえでも、また以後の彼の思想的展開を理解するうえでも、きわめて重要」なものだとされている(41)。

 また、戦時中、ユダヤ人やジプシー(と呼ばれた人々)の強制収容所のあったポワティエの町で少年時代を送ったというフーコーもまた、戦争という「歴史的な大事件によって、その子供時代の基盤を固められている」と述べるとともに、「それは、私たちの個人的な生への脅威だったのです。私が、歴史と、私たちが巻き込まれている出来事や個人的な経験との関係に魅了されているのは、おそらくこうした理由からでしょう。私は思うのですが、そこにこそ理論的欲求の核となる部分があるのですよ」と回想するのである(42)。

 西欧のポスト・モダニズムの思想は、「西欧近代」の「近代的理性」や「近代的合理性」、さらには「理性的」で「自己同一的」な「主体性」等への、そして、そうした「理性的な主体」によって構成される「同質的」な「近代市民社会」なるものへの徹底した「自己批判」として展開されるのだが、こうした「自己批判」の背景にあるのは、アドルノやホルクハイマーらの思想の展開に最も典型的に示されているように、「アウシュヴィッツ」に象徴される歴史的経験によって「西欧近代」に突きつけられた「近代合理性」の恐るべき「野蛮さ」への転化、あるいは「近代合理性」そのものに内包された恐るべき「野蛮さ」という問題への自覚にほかならなかったのである。

 ところで、興味深いことに、ファシズムが「近代市民社会」の産物にほかならないのではないかという認識は、実は、すでに弱冠二二才の学生・丸山にも存在していたのだった。丸山の「政治学に於ける国家の概念」は、「今や全体主義国家の観念は世界を風靡してゐる。しかし、その核心を極めればそれはそれが表面上排撃しつつある個人主義的国家観の究極の発展形態にほかならない。・・・・個人は国家を媒介としてのみ具体的定立をえつつ、しかも絶えず国家に対して否定的独立を保持するごとき関係に立たねばならぬ。しかもさうした関係は市民社会の制約を受けてゐる国家構造からは到底生じえないのである。そこに弁証法的な全体主義を今日の全体主義から区別する必要が生じてくる」(43)という言明によって締められている。丸山もまた、アドルノらのそれとは比較すべくもないにしても、ファシズム批判を、「西欧近代」批判、もしくは「個人主義的国家観」批判として、さらに展開していく可能性をも秘めていたのである。

 しかし、丸山が、その一〇年後、「超国家主義の論理と心理」によって批判したものは、もはや「個人主義的国家観」の「究極の発展形態」としてのファシズムではなく、まさに「南京大虐殺」に象徴される−その時点で丸山が「南京」の歴史的事実をどこまで正確に把握し得ていたかは別にして−日本軍の大量殺戮行為を生み出した「超国家主義」の「精神構造」にほかならなかった。そして、この「南京」に象徴される「日本」の残虐性と「野蛮さ」は、あたかも「アウシュヴィッツ」の陰画のように、非合理的で、非計画的で、非組織的な大量殺戮のそれだったのである。 

 「上海から南京までの約三〇〇キロの道のりを、後方補給をまったく無視して急進した日本軍は、その間食糧のほとんどを現地での徴発でまかなった。徴発とはいうものの、それは行くさきざきの部落を荒らして、略奪することであった。略奪には、暴行・強姦・殺害をともなった。上海での激戦の経験で血に狂い、飢えた日本軍が荒しまわった上海・南京間のひろい地域は、イナゴの大群が通りすぎた跡のような惨状をしめした。一 二月一三日、日本軍は南京を占領し、ひきつづいて城内を掃討した。この間に大量の捕虜を集団虐殺したのをはじめ、一般市民の殺害、婦女の強姦、放火、略奪などの残虐行為がくりかえされ、その“狂宴”は占領後二ヵ月間もつづけられた。・・・・こうした略奪・強姦・虐殺をつづけてきた軍隊が、南京に殺到したため、混乱をおそれた中支那方面軍司令部は一二月七日、南京城攻略要項を示達し、入城はとくに選抜した部隊のみによることとした。ところが、実際には統制がとれず、命令されていない部隊までもが市内に乱入し、無抵抗の一般市民にたいして暴行・虐殺のかぎりをつくした。」(44)  

 歴史学者が描くこうした「南京アトロシティーズ」の現実は、同時代の「洋」の東西において展開された大量殺戮でありながら、アドルノに「その合理性と野蛮の結託」において決定的な衝撃をあたえた「アウシュヴィッツ」とは、かくも異質なものだったのである。丸山が直面し、その批判的考察の対象としたものは、−彼自身が被爆している以上、もちろん「ヒロシマ」でもあり得たのだが−なによりも、こうした「南京」に象徴される残虐と野蛮をもたらした「超国家主義」でなければならなかったのであり、また、「超国家主義」を現出させた「日本」でなければならなかったのである。論文「超国家主義の論理と心理」が描き出した、「倫理と権力の相互移入」、「権力(者)の矮小性」、「独善意識とセクショナリズム」、「無責任の体系」、「抑圧委譲による精神的均衡」といった病理的な「心理構造」の解明と、「自由なる主体的意識」=「内面的規範」の欠如という「日本」の歴史的な問題性の指摘が、こうした課題にこそ応えようとするものであったことは、もはや周知のこととして、論ずる必要もないであろう。

 ただ、筆者がここで確認しておきたかったことは、西欧のポスト・モダニズムの思想家たちと日本における丸山とは、「洋」の東西において、ファシズムと世界大戦、大量殺戮に象徴されるような、まさに同時代を生き、そして、その時代が「西欧近代」と「日本」に突きつけた問題に直面したが故に、「西欧近代」の「自己批判」と「日本」の「自己批判」という別々の思想的課題を引き受けなければならなかったということなのであり、そこに両者の「差異」を見いだし、ポスト・モダニズムの「高み」から丸山の「近代性」を−丸山が求める「内面的規範」こそは、他方では西欧のポスト・モダニストの批判する「近代的主体」にほかならないとして−批判する以上に、両者の思想的「かまえ」の間に響く共鳴性に耳を傾けるべきなのではないかということなのである。 

(2)「無意識的構造」の自覚化とそこから離脱  

 「西欧近代」の「近代的合理性」あるいは「啓蒙的理性」への「自己批判」としてアドルノらによって開始された西欧のポスト・モダニズムは、レヴィ=ストロースらの「構造主義」と「構造主義人類学」から、(イ)社会制度や文化の基底において、それらを「無意識のレベル」で秩序づける「組織原理」としての「構造」−それはヨリ抽象的には、「要素と要素間の関係とからなる全体であって、この関係は一連の変形過程を通じて不変の特性を保持する」とも定義されるのだが(45)−への注目と、(ロ)「他者」=「異文化」の理解と評価を試みる「構造主義人類学」の「文化相対主義」の立場から導かれた「自文化」=「西欧近代」の「非特権化」と「相対化」という視点を継承することによって、いわゆる「ポスト構造主義」の思想へと展開していくこととなる。

 バタイユ、アルチュセール、フーコー、ドゥルーズ、デリダ等多彩な思想家たちによって担われてきた「ポスト構造主義」の思想的展開の特質を簡単に表現することはほとんど不可能なことだと思われるのだか、過度な単純化を恐れずにあえて一言でいえば、それは、「相対化」され「非特権化」された「西欧近代」における「自文化」の「特種」な「無意識的構造」を自覚化し、こうした自覚化による「自文化」の「構造」からの離脱ないしは解放を求める思想であるということができよう。「ポスト構造主義」者たちは、「西欧近代」の「構造」を自覚化するために、ニーチェによる「キリスト教道徳」や「近代合理性」への批判や、ハイデカーによるアリストテレス以来の「形而上学」批判をはじめとする思想的先駆者たちの思索にも依拠しながら、「西欧近代」の「合理性」や「近代的理性」、あるいは、私の「同一性」や「主体性」といった諸要素を導き出す「構造」を明らかにし、そこからの離脱と解放の可能性をさまざまに探ろうとしてきたのである。

 たとえば、フーコーは、「近代的理性」のつむぎだす「権力構造」をつぎつぎと暴露することを通じて、こうした課題に取り組んできた。彼は、『狂気の歴史』(46)において、「近代社会」が「非理性的なもの」を「狂気」としての排除することによってはじめて成立し得たことを明らかにするとともに、「狂気」を「精神病」とみなして治療の対象とし、隔離しようとする「精神医学」のあり方に「知=権力」の「構造」を見いだしたのにつづいて、『監獄の誕生』(47)において、犯罪者を「監視」し「規律化」する「近代」の「監獄」のあり方とその「一望監視システム」(パノプティコン)の解明を通じて、学校、工場、病院など社会全体において展開する「監視の社会」の「権力の自動化」と「規律=権力」の「構造」を明らかにした。そして、さらに、『性の歴史』では、その第一巻『知への意志』(48)において、「性的欲望」(セクシャリテ)を自己制御し自己規律する「近代的主体」にこそ「権力」を見いだすとともに、「性的欲望」を「権力装置」として作動させる「性科学」の「知=権力」や、「告悔」を通じて行使される「牧人司祭権力」を伴って展開する「主体(=臣下)=権力」の「構造」を解明し、第二巻以降(49)では、「主体(=臣下)=権力」という「近代的主体」とは異質な「主体」の可能性を探るために、古代ギリシャや古代ローマにおける「性的禁欲」の世界へと没入して行ったのである。

 さて、西欧のポスト・モダニズムの展開における「ポスト構造主義」の意義をこのようなものとしてとらえたとき、「日本」における丸山の思想との間に、どのような共鳴関係を聞き取ることができるのであろうか。

 「日本国民を永きにわたつて隷属的境涯に押しつけ、また世界に対して今次の戦争を駆りたてたところのイデオロギー的要因は・・・・その実体はどのようなものであるかという事についてはまだ十分に究明されていないようである。いま主として問題になつているのはそうした超国家主義の社会的・経済的背景であつて、超国家主義の思想構造乃至心理的基盤の分析は我が国でも外国でも本格的に取り上げられていないかに見える」(50)と説き起こされた論文「超国家主義の論理と心理」が、すでに、先に触れたバタイユの「ファシズムの心理構造」と共通した問題意識によって導かれていることは見やすいことである。丸山による「日本」への「自己批判」の作業は、こうした「思想構造」ないしは「心理構造」の分析という手法によって開始されたのだった。

 しかし、この時点の丸山にとって、「超国家主義の論理と心理」における「思想構造」の分析から導き出された「内面的規範の欠如」という問題は、「問題は決して単なる大衆の感覚的解放ではなくして、どこまでも新らしき規範意識をいかに大衆が獲得するかということにかかつている」とされた「民主主義革命の完遂という課題」(51)の達成によって直接的に克服され得るものと考えられていたことは否定できないように思われる。実際、敗戦直後から「六〇年安保闘争」に至るまでの丸山の言論活動と政治的実践は、「民主主義革命の完遂」という課題の達成に正面から取り組んだものだったといってもよいであろう。

 しかし、その一方で、五〇年代半ばから開始された高度経済成長の中で、「民主主義革命」が、「大衆」による「新らしき規範意識」の獲得ではなく、まさに「単なる大衆の感覚的解放」にとどまる形で「挫折」しようとしていたことも事実なのであって、こうした「挫折への予感」が、丸山をして、「日本」の「自社会・自文化」に対する新たな「構造」分析へと向かわせたのだと思われる。そして、これこそが、論文「日本の思想」(一九五七年)と論文「開国」(一九五七年)とによってはじめられた「日本の思想的過去の構造化」の試みと「文化接触と文化変容」という契機の思想史の方法への導入という丸山の方法論の転回だったのである。

 もっとも、丸山の「構造」分析が、レヴィ=ストロースの「神話分析」の手法を「記紀神話」の分析に応用した大林太良の『日本神話の構造』(52)や古田敦彦の『日本神話の特色』(53)、またF.マセの『古事記神話の構造』(54)−筆者の見るかぎり、特にマセの分析は非常に興味深いものだと思われるのだが−等の試みや、あるいは、「構造主義人類学」によるアフリカ社会分析を「日本」に応用しようとする山口昌男らの試みとは、まったく異質なものであったことは言うまでもあるまい。

 それは、まず「日本の思想的過去」を「日本にいろいろな個別的思想の座標軸の役割を果たすような思想的伝統が形成されなかったという問題と、およそ千年をへだてる昔から現代にいたるまでの世界の重要な思想的産物は、ほとんど日本思想史のなかにストックとしてあるという事実」(55)によって示される「無構造の『伝統』」として「構造」的に把握しようとすることからはじまり、さらに進んで、「全体構造としての日本精神史における『個体性』」を、「外来文化の圧倒的な影響」と「いわゆる『日本的なもの』の執拗な残存」という「矛盾した二つの要素の統一」として把握し(56)、「日本における多少とも体系的な思想や教義を内容的に構成」する外来思想が、日本に入ってきたときに「かなり大幅な『修正』」という形で受ける「一定の変容」のパターンの「おどろくほど共通した特徴」(57)に着目するものへと展開していったのである。

 かくして、丸山は、論文「歴史意識の『古層』」(58)において、この「文化変容」の「執拗に繰り返されるパターン」をもたらすものを「日本神話」から「消去法」によって抽出しようとする作業を試み、「歴史意識(あるいはコスモスの意識)」における「つぎつぎ なりゆく いきほひ」という「古層」=「執拗低音」を抽出して見せるとともに、さらに「倫理意識」における「キヨキココロ アカキココロ」、「政治意識」における「ツカヘマツル」等、他の領域における「古層」=「執拗低音」の存在をも示唆したのである。

 さて、こうした「古層」=「執拗低音」について、丸山は、「(こうした)諸範疇はどの時代でも歴史的思考の主旋律をなしてはいなかった。むしろ支配的な主旋律として前面に出てきたのは、−歴史的思考だけでなく、他の世界像一般についてもそうであるが−儒・仏・老荘など大陸渡来の諸観念であり、また維新以降は西欧世界からの輸入思想であった。ただ、右のような基底範疇は、こうして『つぎつぎ』と摂取された諸観念に微妙な修飾をあたえ、ときには、ほとんどわれわれの意識をこえて、旋律全体のひびきを『日本的』に変容させてしまう。そこに執拗低音としての役割があった」(59)と特徴づけたのだが、筆者には、こうした「古層」=「執拗低音」の存在と、それによる「文化変容」の「執拗に繰り返されるパターン」こそが、「社会制度や文化の基底において、それらを『無意識のレベル』で秩序づける『組織原理』」であるとともに、「要素と要素間の関係とからなる全体であって、この関係は一連の変形過程を通じて不変の特性を保持する」ものとして、独特の「文化接触」と「文化変容」の歴史を重ねてきた「日本」における「構造」そのものだったのではないかと思われるのである。

 丸山は、こうした「構造」を、「構造主義人類学」が試みたように、「異文化」のそれ−あるいは、「異文化」としての「過去」のそれ−として理解しようとしたのではなく、まさに「自文化」としての「日本」の「個体性」の問題として「自覚化」しようとしたのだといえよう。しかも、『日本の思想』の「あとがき」において、「私自身としてはこうして現在からして日本の思想的過去の構造化を試みたことで、はじめて従来より『身軽』になり、これまでいわば背中にズルズルとひきずっていた『伝統』を前に引き据えて、将来に向っての可能性をそのなかから『自由』に探って行ける地点に立ったように思われた」(60)と述べられているように、この「自覚化」は、「無意識的なものの自覚化」によるその統御と克服を求める丸山の戦略的意図(61)によるものにほかならなかったのである。

 筆者には、こうした点にこそ、西欧のポスト・モダニズムの思想と丸山のそれとの共鳴関係を見いだすべきなのではないかと思われるのである。  

(3)「欲望」「権力」「自由」のトリアーデ  

 最後に、西欧のポスト・モダニズムの思想と丸山のそれとの内容上の共鳴関係を、両者がともに「欲望」「権力」「自由」のトリアーデというテーマをめぐって、あたかも陽画と陰画のごとき関係で議論を展開している点に求めてみたい。

 筆者は、すでに拙稿「『欲望』『権力』『自由』の近代思想史」(62)において、西欧近代政治思想史の展開を「欲望」「権力」「自由」のトリアーデという視点から素描する試みを行った。すなわち、西欧近代政治思想は、共同体からの諸個人の解放と、それに伴う諸個人の「欲望」の解放という事態と向き合うことからはじまり、「欲望」の解放によってもたらされる「万人の万人に対する戦争状態」と、この「戦争状態」の回避のために人々を外在的に威圧する「権力」=「リヴァイアサン」との双方から逃れる道として、(イ)「自己規律」と「自己統治」による「欲望」の制御によって、「国家権力」の介入し得ない領域を確保し、拡大しようとする「国家からの自由」(=「ロック的自由」)と、(ロ)自発的・自覚的な「共同性」の再構築によって「欲望」に駆られる諸個人を支配し、「欲望」からの解放を実現しようとする「欲望からの自由」(=「ルソー的自由」)という二つの「自由の系譜」を生みだし、この両者の交錯によって展開してきたというものである。

 拙稿でも若干触れたように、西欧のポスト・モダニズムが真正面から「自己批判」の対象としているものは、とりわけ(イ)の「自己規律」による「欲望」の制御としての「自由」の系譜なのであり、「近代的理性」によって「欲望」を「自己規律」し「制御」する「合理的」で「自由」な「近代的主体性」こそが、彼らの「解体」しようとする最大の標的なのである。

 こうした「理性的な主体」は、ヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において描き出したように絶対的な「超越神」と各人が一対一で向き合うという、「西欧」の特種な信仰形態によって課せられたものともいえようが、西欧のポスト・モダニストたちは、それ以外にも、あるいはデカルト的なコギトの明証性に、あるいはアリストテレス以来の「形而上学」と「存在」論にと、さまざまにその端源をさぐりつつ、それらを解体し、そこからの離脱をはかろうとするのである。

 なぜならば、フーコーが論ずるように、こうした「近代的」で「理性的」な「主体」こそが、「非理性」をはじめとする「異質性」=「他者」を排除し、「監視」を「内面化」し、「自動化」された「権力」そのものにほかならないからであり、また、こうした「内面」における「抑圧」こそが、逆に「権力装置」としての「欲望」を際限なく生産するからなのである。そしてまた、アドルノが論じるように「理性」による自らの「内」なる「自然」(=「欲望」)の支配は、同時に、「外」なる「自然」(「自然環境」だけでなく「異質性」をもった「他者」をも含んだ)の(暴力的な)「支配」と一体不可分だからである。

 しかし、逆に「内面的規範」による「欲望」の「自己規律」という契機を「解体」しさえすれば、果たして問題は解決され得るのであろうか。丸山の「日本」への「自己批判」は、実は、こうした陰画のような問いにこそ向けられていたのである。

 丸山が論文「超国家主義の論理と心理」で描き出そうとしたものは、「内容的価値の実体たることにどこまでも自己の支配根拠」を置き「倫理的実体として価値内容の独占的決定者」たろうとする「国家」と、「滅私奉公」の名のもとに諸個人の「主観的内面性」が否定され、「『私事』の倫理性が内部に存せずして、国家的なるものとの合一化に存する」ような「自由な主体的意識」の欠如とによって「構造化」された「超国家主義」の論理と心理であった。そして、そこに展開したものは、「私事」=「悪」という「オモテ」の論理とは裏腹に、「国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に侵入する」ことによってもたらされるグロテスクな病理現象の数々なのであった。すでに触れた「南京大虐殺」に象徴される「日本軍の暴虐な振舞」もまた、こうした病理現象、とりわけ「抑圧移譲」の原理によるものだったのである。

 「国内では『卑しい』人民であり、営内では二等兵でも一たび外地に赴けば、皇軍として究極的価値と連なることによつて限りなき優越的地位に立つ。市民生活に於てまた軍隊生活に於て、圧迫を移譲すべき場所を持たない大衆が、一たび優位的地位に立つとき、己れにのしかかつていた全重圧から一挙に解放されんと爆発的な衝動に駆り立てられたのは怪しむに足りない。彼らの蛮行はそうした乱舞の悲しい記念碑ではなかつたか」(63)という叙述において、そのクライマックスを迎える「超国家主義」の「心理構造」の分析は、「内面的規範」の欠如が、一方では、「滅私奉公」の論理によって「私的」な「欲望」の追求を徹底的に禁じつつも、他方で、ひとたび「国家」の名において行為し得る機会が与えられれば、そうした「私的」な「欲望」を何者にも制限されることなく爆発させることを許す、という恐るべき「構造」をもたらすのだということを明らかにしたのである。

 しかも、こうした「超国家主義」の「心理構造」は、まさに「古層」=「執拗低音」による「文化変容」によって、「日本の思想的過去」において繰り返し現れる(イ)諸個人の「内面性」に媒介されぬ「外在的」な「公的=政治的規範」と、(ロ)人間の「自然的心情」の解放としての規範なき「内面性」との「分裂」から帰結した病理にほかならなかったのである。そして、「古層」=「執拗低音」論の提起に至るまでの丸山が、さまざまな主題を通して析出していたものは、実は、こうした「分裂」の「執拗に繰り返えされるパターン」だったのである。

 すなわち、『日本政治思想史研究』が描き出した「朱子学的思惟様式」の崩壊過程は、実は、−丸山の「超学問的動機」による「近代性」への過剰なバイアスを差し引いて読めば−「前期的」な「近代的意識」の展開であったというよりは、むしろ朱子学という「外来思想」の「変容」の過程だったのであり、それは、(イ)一方において、「自然の理」=「天道」から切断され、「聖人たる先王の治国平天下の道」として「聖人」の「作為」とされた「政道」を、「公的=政治的」なものとして昇華して、「個人道徳」に立ち入ることのないものとして外在化した「徂徠学」と、(ロ)他方において、こうした「道」の外在化によって「私的内面的生活」をリゴリズムから解放し、人間の「自然的性情」を容認した「徂徠学」を、「道の内容を全く異にしながら道の根拠づけにおいて同じ思惟方法をと」りつつ、「思惟の体系化の中心」を私的領域たる内面的心情におくという形で「転倒的に継承」し、一切の規範なきところにこそ「道」を見いだした「宣長学」との「分裂」をもたらすものだったと読むことができるのである。

 そして、同様の「分裂」の過程は、幕末・維新期の「開国」過程における「西欧近代」との「文化接触」と「文化変容」の過程にもあらわれる。すなわち、この過程は、論文「明治国家の思想」においては、「政治的な底辺への拡がりによつて、下から支えられたところのナショナリズムが、上からの官僚的な国家主義によつて吸収されてしまうということになると、国民を国民として内面から把握するところの思想というものは最早ない訳であります。したがつて国民思想は一方には個人的内面性に媒介されないところの国家主義と、他方には全く非政治的な、つまり星や菫花を詠い、感覚的本能的生活の解放に向かうところの個人主義という二者に分裂して相互が無媒介に併存する様になる」(64)と描き出され、また、後の論文「開国」においては、「上からの法律革命の下降現象」と「自由の名による官能性のアナーキー」との「分裂」として描き出されたのである。また、『日本の思想』が描き出した「理論信仰」と「実感信仰」との対立も、こうした「分裂」の一つのバリエーションであったと言えよう。

 だからこそ、丸山は、後に「第三の開国」と位置づけられることになる戦後期の「民主主義革命」の課題を「単なる大衆の感覚的解放ではなくして、どこまでも新しき規範意識をいかに大衆が獲得するかということにかかつている」(65)と見なしたのであり、そして、戦後「民主主義革命」の過程が、まさに、「高度経済成長」による「単なる大衆の感覚的解放」に終わろうとしていたからこそ、こうした「執拗に繰り返されるパターン」への注目と、それをもたらす「つぎつぎ なりゆく いきほひ」、「キヨキココロ アカキココロ」という「古層」=「執拗低音」の自覚化、そして、その「自覚化」による制御と克服を求めていくこととなったのである。

 丸山が、「古層」=「執拗低音」を本居宣長に依拠しながら抽出したことも、−子安宣邦や米谷匡史らはそれを激しく非難するのだが(66)−故なしとすべきではないのであって、それは、一切の規範なきところにこそ「道」を見いだし、人間の「自然的性情」を肯定する「宣長学」こそが、「古層」=「執拗低音」の極めて明確な「隆起」を表現していると考えられたからにほかならなかったのであろう。

 いずれにせよ、丸山が、その方法論の転回にもかかわらず、終始一貫として問題にし続けたものは、西欧のポスト・モダニストたちが、その「解体」を求めようとした「欲望」を「自己規律」する「内面的規範」の、「日本」における「欠如」だったのである。その「欠如」は、人間の「欲望」を「自然的性情」として肯定し、「感覚的本能的生活の解放」や「自由の名による官能性のアナーキー」をもたらすだけでなく、その病理的極限において、「超国家主義」の「心理構造」をも現出させるものなのであり、そして、この「欠如」をもたらすものこそ、「古層」=「執拗低音」にほかならなかったのである。

 西欧のポスト・モダニズムと丸山とのこうした対比は、一方がその「解体」を求めているものを、他方がその「欠如」をこそ問題としているという点で、日本の「ポスト・モダニスト」の「近代主義」批判を正当化するように見えるかもしれない。しかし、西欧のポスト・モダニズムに対して、「自己規律的な主体」の「解体」による「欲望」の全面的解放を求める「官能性のアナーキズム」ではないかとする「批判」−残念ながら、こうした「批判」の仕方が存在することも確かだが−を行うことが、まったく不当であるように、西欧のポスト・モダニストと丸山とを対立の構図において捉えるのではなく、むしろ、「欲望」「権力」「自由」のトリアーデという共通の問題をめぐる陽画と陰画のような相互補完的な議論として、その共鳴関係を重視するほうがヨリ生産的なのでないかと、筆者には思われるのである。

 さらに、『性の歴史』において「主体(=臣下)=権力」としての「近代的主体」とは異質な「禁欲的主体」を、古代ギリシャや古代ローマの貴族たちの「生存の美学」に探ろうとしていたように見える最晩年のフーコー(67)と、笹倉秀夫が論ずるように「(現代における)『生の非合理性』にとって外在的なものではない合理性をつくり出すこと」を求め、「たとえ規範的なもの・形式が『内部』にあっても、それが・・・・高みにあって行為を命ずる(抑圧的)理性」であってはならず、「規範的なもの・形式が『しっかり内部に』根ざすこと、つまり『型』となり性格をかたちづくること」が必要だとして、むしろ「型をみがき洗練すること」により「全体の文化体系をあれほどに完成した社会」として「江戸時代」を高く評価した丸山(68)や、あるいは「現代日本の知的世界に切実に不足し、もっとも要求されるのは、ラディカル(根底的)な精神的貴族主義がラディカルな民主主義と内面的にむすびつくことではないか」(69)として、あえて「精神的貴族主義」による「自立化」を主張した丸山との間に、「西欧」と「日本」の「構造」を離脱しようとする方向においてさえも一定の共鳴関係を見いだすこともまた、決して不当ではないことのように思われるのである。 

むすびにかえて  

 本稿では、西欧のポスト・モダニズムの思想と丸山真男のそれとのある種の共鳴関係を聞き取る作業を行ってきたが、その主旨は、決してこの両者を同質の思想として描き出すことではなかった。むしろ、両者は、「西欧」と「日本」という「洋」の東西において、同時代的な問題に直面しつつ、「自社会・自文化」への「自己批判的考察」を展開した思想として、しかも、ある面では陽画と陰画のごとき関係にさえ立っているものとして、その相互補完的な関係においてこそ位置づけられるべきだと思われるのである。

 それ故、一方を他方の「高み」から批判することは、−それが丸山への「近代主義」批判であろうと、西欧のポスト・モダニズムへの「オリエンタリズム」批判であろうと−決して生産的なことではなく、むしろ、両者の「自己批判的考察」に耳を傾けつつ、これらを「西欧近代的なるもの」でも「日本的なるもの」(あるいは「アジア的なるもの」)でもない、真に「開かれた社会」への「道」を探るための糧として真摯に受けとめていくことが必要なのだと思われる。

 七〇年代の丸山は、「眼を『西欧的』世界に転ずると、『神は死んだ』とニーチェがくちばしってから一世紀たって、そこでの様相はどうやら右のような日本の情景にますます似て来ているように見える。もしかすると、われわれの歴史意識を特徴づける『変化持続』は、その面においても、現代日本を世界の最先進国に位置づける要因になっているかもしれない。このパラドックスを世界史における『理性の狡知』のもう一つの現われとみるべきか、それとも、それは急速に終幕に向かっているコメディアなのか」(70)と、その論文「歴史意識の『古層』」を締めくくったが、「西欧」は、この四半世紀の間に、西欧ポスト・モダニズムによる「自己批判」を受けながら、エコロジカルな価値の確実な定着や、「欧州統合」の動きにもまして、国境を越えて行動するNGOの活動にも示される「国民国家」の相対化など、「新たな道」を実践的にも探り始めているように思われる。

 しかし、「日本」に眼を転ずれば、藤田省三が「現代日本の精神」(71)で指摘したような「自己批判能力」の決定的な欠如のもとで、奇しくも酒井直樹が提示したあの「批判意識と社会的現実に能動的に働きかける能力をもたない現在の日本の現実に単純に満足した人間」の横溢や、「不景気が二三年も続けば吹き飛んでしまうようなオポチュニスティックな自己賛美の議論の横行」、そして「こうした議論を許すような達成感と批判力を欠いた国民主義」が舞い踊った「バブル」の時代を経験し、そして、その崩壊後のいま、「自由な競争」を激しく喚起する叫びの喧噪と、藤田によって「『安楽』への全体主義」(72)と呼ばれたもののさらなる蔓延とシステム化が、ある種の堪えがたい「閉塞感」を醸し出し続けている。

 丸山が生涯を通じて展開しようとした「日本」への「自己批判的考察」は、「未完のプロジェクト」として、現代の「日本」に生きる我々にいまなお課せられ続けているのではないかと、筆者には思われるのである。 

注 

(1)田口富久治・中谷義和編『[講座]現代の政治学第3巻 現代政治の理論と思想』青木書店、一九九四年、所収。

(2)笹倉、みすず書房、一九八八年。

(3)拙稿、関西学院大学法政学会『法と政治』第四五巻第二号−第三号、一九九四年六月−九月。

(4)田口富久治・中谷義和編『現代の政治理論家たち』法律文化社、一九九七年、所収。

(5)宇野邦一編『ドゥルーズ横断』河出書房新社、一九九四年、二七四頁。

(6)『現代思想』第二二巻一号、二一二頁。

(7)竹内、筑摩書房、一九八九年、一〇九頁。

(8)前掲『現代思想』、二一四頁。

(9)ホルクハイマー・アドルノ、邦訳『啓蒙の弁証法−哲学的断章−』徳永恂訳、岩波書店、一九九〇年。

(10)丸山、東京大学出版会、一九五二年。

(11)前掲『現代思想』、八二−八三頁。

(12)同、八四頁。

(13)同、八九頁。

(14)同、一〇一頁。

(15)丸山、未来社、一九六四年。

(16)前掲『現代思想』、一八九頁。

(17)同、一八三−一八四頁。

(18)同、一八四頁。

(19)同上。

(20)同上。

(21)同、一八五頁。

(22)同、一八七頁。

(23)同上。

(24)同、一八八頁。

(25)同、一八九頁。

(26)同、一八五頁。

(27)同、一八八頁。

(28)同、一八九頁。

(29)同上。

(30)同、二一三頁。

(31)同上。

(32)同上。

(33)同、二一四−二一五頁。

(34)丸山『日本政治思想史研究』、三七二頁。

(35)宇野編前掲書、二七五頁。

(36)細見、講談社、一九九六年。

(37)同、二七頁。

(38)同、一三四頁。

(39)ホルクハイマー・アドルノ、前掲邦訳書、ix頁。

(40)細見前掲書、一三三頁。

(41)湯浅博雄『バタイユ 消尽』講談社、一九九七年、一八−一九頁。

(42)桜井哲夫『フーコー 知と権力』講談社、一九九六年、三六−三七頁。

(43)丸山『戦中と戦後の間』みすず書房、一九七六年、三二頁。

(44)藤原彰『新版 南京大虐殺』岩波書店、一九八九年、八−九頁、四二頁。

(45)渡辺公三『レヴィ=ストロース 構造』講談社、一九九六年、一二頁。

(46)フーコー、邦訳『狂気の歴史−古典主義時代における−』田村俶訳、新潮社、一九七五年。

(47)同、邦訳『監獄の誕生−監視と処罰−』田村俶訳、新潮社、一九七七年。

(48)同、邦訳『性の歴史T 知への意志』渡辺守章訳、新潮社、一九八六年。

(49)同、邦訳『性の歴史U 快楽の活用』田村俶訳、新潮社、一九八七年、及び『性の歴史V 自己への配慮』田村俶訳、新潮社、一九八七年。

(50)丸山『現代政治の思想と行動』、一一頁。

(51)同『戦中と戦後の間』、三〇五頁。

(52)大林、弘文堂、一九七五年。

(53)古田、青土社、一九八九年。

(54)フランソワ・マセ、中央公論社、一九八九年。

(55)丸山『日本の思想』岩波書店、一九六一年、一八七頁。

(56)丸山「原型・古層・執拗低音−日本思想史方法論についての私の歩み」、 武田清子編『日本文化のかくれた形』岩波書店、一九八四年、一二九−一三〇頁。

(57)同、一三九頁。

(58)丸山『忠誠と反逆』筑摩書房、一九九二年、所収。

(59)同、三三四頁。

(60)同『日本の思想』、一八七頁。

(61)笹倉前掲書、二六〇−二六一頁。

(62)拙稿、冨田宏治・神谷章生編『〈自由−社会〉主義の政治学』晃洋書房、 一九九七年、所収。

(63)丸山『現代政治の思想と行動』、二六頁。

(64)同『戦中と戦後の間』、二三四−二三五頁。

(65)同、三〇五頁。

(66)子安宣邦「『古層』論への懐疑」、『現代の理論』一九八六年七月号、及び米谷「丸山真男の日本批判」、前掲『現代思想』、一五四頁以下。

(67)フーコーの「生存の美学」に関しては、宮原浩二郎『貴人論−思想の現在あるいは源氏物語』新曜社、一九九二年、参照。

(68)笹倉前掲書、二九二頁。

(69)丸山『日本の思想』、一七九頁。

(70)同『忠誠と反逆』、三五一頁。

(71)藤田『全体主義の時代経験』みすず書房、一九九五年。

(72)同上。