● 武田信玄(たけだしんげん)と「諏訪法性(すわほっしょう)」
武田信玄(たけだしんげん)といえば誰しも袈裟(けさ)を着て床机に腰掛(こしか)け、金の獅噛を付けた見事な白熊の兜をかぶった姿を想像されるかと思います。
ではこの白熊の兜が有名な「諏訪法性(すわほっしょう)」なのでしょうか。
「諏訪法性(すわほっしょう)」について私もいろいろと調べてみましたが、どうも我々が想像する白熊の兜は江戸時代に書かれた信玄像や、歌舞伎(かぶき)や浄瑠璃(じょうるり)で演じられる「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)」の八重垣姫(やえがきひめ)が手にする兜の影響(えいきょう)によるものと思われます。
現在、信玄所用と言われる兜で私が存じているのは、
@:土井家伝来「伝:諏訪法性の兜」
A:相模寒川神社 信玄奉納兜
B:諏訪大社上社本宮「伝:諏訪法性の兜」
C:戸沢家伝来「伝:諏訪法性の兜」
D:諏訪湖博物館「伝:諏訪法性の兜」
E:頼岳寺「伝:諏訪法性の兜」
F:高野山持明院 信玄兜
G:南部家伝来「伝:諏訪法性の兜」
H:長岳寺「伝:信玄兜の前立」
ですが、A・F・Hは特に「諏訪法性(すわほっしょう)」とは言われていないようです。
BとCは見たことがありませんが、それ以外の兜で多くの場合共通しているのは、
@:明珍信家(みょうちんのぶいえ)作とされる筋兜である。
A:筋兜の各筋に神仏の名前が書かれている。
B:諏訪明神(すわみょうじん)に関係する立物が付いている。
ということくらいでしょうか。
1572年の三方ヶ原(みかたがはら)合戦で討ち取られた徳川方の武将の兜に付いていたヤクの毛を、武田勝頼(たけだかつより)が非常に珍しがって家臣から取り上げてしまったと言われているようですから、父である信玄が白熊の兜をかぶっていた可能性は低い、と甲冑研究家の山上八郎氏も述べられています。
また藤本正行氏はその著書「鎧をまとう人々」(吉川弘文館)で、東京浄真寺蔵の武者絵(むしゃえ)に描かれ、これまで吉良頼康(きらよりやす)だと言われてきた人物こそ武田逍遥軒(たけだしょうようけん)の手によって描かれた兄:信玄の像であると指摘されております。
この武者絵(むしゃえ)自体は江戸時代に原本(げんぽん)を複製(ふくせい=コピー)した物のようですが、その絵には三鍬形の前立を付けた金覆輪の筋兜が書かれています。
この兜には白熊は付いていません。
あるいはこれが「諏訪法性(すわほっしょう)」の兜なのかもしれません。
なお「諏訪法性(すわほっしょう)」の兜は1575年の長篠(ながしの)合戦に武田軍が負けて逃げ帰る途中、家臣の初鹿野伝衛門(はじかのでんえもん)が勝頼の許しを得て破棄(はき)したとも、棄(す)てられていたのをこれも武田家家臣の小山田弥助(おやまだもすけ)なる人物が拾い上げて甲府(こうふ)に持ち帰ったとも伝えられているようです。
(原文は2003年11月20日「近世こもんじょ館」に投稿、2005年2月24日加筆修正)
● 喉輪(のどわ)の着け方
喉輪は本来(ほんらい)、脇曳と同じように胴の内側に着けるのが正しい、もしくは内側に着けても良いのではないか、という掲示板でのご質問について調べた結果を書き留めておきたいと思います。
胴の内側に喉輪を着けている例としては、
@:細川澄元(ほそかわすみもと)画像(1507年、永青文庫蔵)
A:胴丸着用手順(出典は不明、「すぐわかる日本の甲冑・武具」に掲載)
B:甲冑着用手順書(1801年、書籍名不明)
C:伝:足利尊氏(あしかがたかうじ)小具足出装画像(年代不明、長母寺蔵)
などがあります。
Cの小具足出装は、兜と胴を着けるだけで完全武装(かんぜんぶそう)となる状態ですから、その状態で喉輪を着けているのは胴の内側に喉輪を着けるからで、もし胴の外側に喉輪を着けるのだとすると、この時点で喉輪を着けているのはやや不自然(ふしぜん)に思えます。
また、胴の外側に喉輪を着けている例としては、
D:大内義興(おおうちよしおき)画像(年代不明、山口県立山口博物館蔵)
E:足利尊氏(あしかがたかうじ)画像(年代不明、神奈川県立歴史博物館蔵)
F:伝:吉良頼康(きらよりやす)画像模本(もほん)(年代不明、浄真寺蔵)
G:斎藤正義(さいとうまさよし)画像(1539年、浄音寺蔵)
などがあります。
結果としては内側・外側いずれの場合も見受(みう)けられましたが、個人的には喉輪が胸元(むなもと)の隙間(すきま)を守るためのものだとすると、めくれ上がったりずれたりする可能性がある胴の外側よりは、胴の内側に着ける方が良いのではないかと感じます。
なお「出典・書籍名・年代不明」と書いてあるものは、私の持っている資料からでは情報が得られなかったという意味です。
(2005年9月23日)