甲冑 鎧 兜 具足を紹介するサイト

甲冑・鎧・兜・当世具足・戦国武将フィギュアのサイト


甲冑の画像

甲冑画像 No.1

甲冑画像 No.2

甲冑画像 No.3

甲冑画像 No.4

甲冑画像 No.5

甲冑画像 No.6

甲冑画像 No.7

甲冑画像 No.8

甲冑画像 No.9

甲冑画像 No.10

甲冑画像 No.11

甲冑画像 No.12

その他の武具、軍装品

他武具 No.1

他武具 No.2

他武具 No.3

他武具 No.4

他武具 No.5

他武具 No.6

他武具 No.7

甲冑の知識

具足構成

用語辞典

甲冑紀行

展示情報

書籍紹介

甲冑の話題

武将フィギュア

甲冑随想

評定の間

リンク集

リンクについて

ご感想



甲冑 鎧 兜 具足を紹介するサイト

〜 具足櫓 〜

甲冑・鎧・兜・具足・
戦国武将フィギュアのページ

本ページの文章・画像を
許可なく転載・複製・引用する
ことは一切禁止いたします。

© All rights reserved.


ここでは甲冑について良くご質問を頂く内容や、その他の様々な項目についての私的な見解を記載しております。

内容は基本的には掲示板の過去ログの抜粋・修正版です。
書き込みが増えると過去ログを参照して頂くのもなかなか大変ですので、こちらに別頁を設けさせて頂きました。

なお、内容はあくまでも私個人の見解ですのでご了承願います。

許可なく画像・文章を転載、複製、引用する事は禁止します。



● 山本勘助(やまもとかんすけ)の兜

● 直江兼続(なおえかねつぐ)と「愛」前立

● 箙(えびら)からの矢の抜き方

● 武田信玄(たけだしんげん)と「諏訪法性(すわほっしょう)」

● 喉輪(のどわ)の着け方





● 山本勘助(やまもとかんすけ)の兜

以前はその存在自体が疑問視(ぎもんし)されていた山本勘助(やまもとかんすけ)ですが、武田信玄(たけだしんげん)が信濃(しなの=長野県)の豪族(ごうぞく):市河氏に送った手紙の中に、「山本菅介」と名前が記されていたことが分かっています。

山本勘助(やまもとかんすけ)の兜と言うと、桃形兜に水牛脇立を思い出す方もいらっしゃるかもしれませんが、どうもこれは井上靖氏原作の映画「風林火山(ふうりんかざん)」で使われたのが始まりのようです。

私がこれまで目にした「伝:山本勘助」の兜は2点あります。

1点目は肉色塗にされた三枚張(さんまいばり)の頭形兜で、正面やや上方に付眉庇を備え、打眉見上皺打出し兜鉢の両側には耳を付けた変わり兜面頬付き)です。

もう1点は長野県立博物館に展示されていた投頭巾形兜で、頭巾(ずきん)には縦筋(たてすじ)が何本も入っていました。

いずれも「山本勘助の兜」と表記がありましたが、詳細(しょうさい)は不明です。

実際にどのような兜をかぶっていたのかは、主君(しゅくん):武田信玄(たけだしんげん)の「諏訪法性(すわほっしょう)」の兜と同じく謎のまま、と言ったところでしょうか。

(2004年9月9日)





● 直江兼続(なおえかねつぐ)と「愛」前立

直江兼続(なおえかねつぐ)の「愛」字前立の意味についてよくご質問を頂きますので、ここで検討してみたいと思います。

まず問題の前立を見てみますと、中央の「愛」の字とその土台によって構成されていることが分かります。
さらにその土台の部分に注目するとそれが「雲」であることが分かりますが、これと同じ「雲」の土台を使った前立が「伝:上杉景勝(うえすぎかげかつ)」や「伝:上杉憲政(うえすぎのりまさ)」の甲冑にも見られます。
この2領ではいずれも土台の「雲」の上に神仏が乗っている点、また両方とも上杉家に縁(ゆかり)と言われている甲冑である点から考えて、兼続の場合も「雲」の上の「愛」は神仏を表すものと見るのが自然ではないでしょうか。

従ってよく言われる「愛民(あいみん=民を愛す)」の「愛」のように、我々が現代使うところの「愛(あい=LOVE)」の意味ではないと思います。
個人的にはその時代に「愛(あい=LOVE)」という概念(がいねん)はまだなかったのではないか、また仮にあったとしても「愛」の字を充てることはしなかったのではないかと思います。

では「愛」の字が表す神仏とは何でしょうか。
「愛」が表す神仏としては、

 @:「愛宕権現
 A:「愛染明王

が思いつきますが、私は下記の理由から「愛宕権現」の方がより適切(てきせつ)ではないかと思います。

 @:戦勝の神として武将の信仰が厚かったこと。
 A:特に東北地方で信仰が盛んだったこと。
 B:他にも前立に使われている例があること。
 C:「雲」に乗っていること。

 @:愛宕権現は「勝軍地蔵」とされ、戦国武将の信仰が厚かったようです。
   明智光秀(あけちみつひで)が「本能寺の変」の直前に参拝したり、
   徳川家康(とくがわいえやす)なども領地を寄進(きしん)しています。
 A:兼続が仕(つか)えた上杉氏の領地である東北地方では、それ以前より
   最上氏の愛宕権現信仰が厚かった影響で特に盛んであったようです。
 B:前出の「伝:上杉憲政(うえすぎのりまさ)」の前立、同じ東北の伊達家臣
   「伝:片倉重綱(かたくらしげつな)」の前立や旗指物などにも愛宕権現
   が使われています。
   また直江兼続(なおえかねつぐ)所用の伝来を持つ別の甲冑の前立には
   「普賢菩薩(ふげんぼさつ)」を表す梵字が使われているのですが、この
   「普賢菩薩(ふげんぼさつ)」も愛宕権現の生まれ変わりとされる仏だそうです。
 C:これは本当に個人的な意見ですが、神仏が(愛染)明王だとすると土台は「雲」
   よりも「火炎」の方が良いのではないでしょうか。

とはいえ愛染明王も敵を調伏(ちょうぶく)する神として特に鎌倉時代には盛んに信仰され、片倉氏と同じ伊達家中の遺物に愛染明王旗指物が残されていますし、愛染明王を写した変わり兜総面があるのも事実です。

(2005年1月10日)





● 箙(えびら)からの矢の抜き方

某食品玩具のフィギュアでから矢を抜くのに右手を右肩にまわし、右肩越しに矢を抜こうとしている姿が造形(ぞうけい)されていましたが、このように右肩越しに矢を抜く作法(さほう)は下記の理由からも間違いであると思います。

 @:右腰にを付けた場合、つかむべき矢の端(はし)は左肩の後に来てしまう。
 A:動くから矢をつかむのは難しい。
 B:矢を取るのに兜のシコロが邪魔(じゃま)になる。
 C:矢を抜く時にを傷付ける。

従って矢を抜く時には右手を右腰に持って行き、方立からに近い部分をつかんでそのまま右腕の下を通して前に抜きます。
そのあと矢は弓と一緒に左手で中ほどを持ち、離した右手で矢の後ろを持ち直して前に送り番(つが)えます。

馬に乗って走りながら的(まと)を射る、日本古来の流鏑馬(やぶさめ)の様子を見てもこのような作法(さほう)でから矢を抜き、番(つが)えています。

(2005年2月20日)





● 武田信玄(たけだしんげん)と「諏訪法性(すわほっしょう)」

武田信玄(たけだしんげん)といえば誰しも袈裟(けさ)を着て床机に腰掛(こしか)け、金の獅噛を付けた見事な白熊の兜をかぶった姿を想像されるかと思います。
ではこの白熊の兜が有名な「諏訪法性(すわほっしょう)」なのでしょうか。

「諏訪法性(すわほっしょう)」について私もいろいろと調べてみましたが、どうも我々が想像する白熊の兜は江戸時代に書かれた信玄像や、歌舞伎(かぶき)や浄瑠璃(じょうるり)で演じられる「本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)」の八重垣姫(やえがきひめ)が手にする兜の影響(えいきょう)によるものと思われます。

現在、信玄所用と言われる兜で私が存じているのは、

 @:土井家伝来「伝:諏訪法性の兜」
 A:相模寒川神社 信玄奉納兜
 B:諏訪大社上社本宮「伝:諏訪法性の兜」
 C:戸沢家伝来「伝:諏訪法性の兜」
 D:諏訪湖博物館「伝:諏訪法性の兜」
 E:頼岳寺「伝:諏訪法性の兜」
 F:高野山持明院 信玄兜
 G:南部家伝来「伝:諏訪法性の兜」
 H:長岳寺「伝:信玄兜の前立」

ですが、A・F・Hは特に「諏訪法性(すわほっしょう)」とは言われていないようです。
BとCは見たことがありませんが、それ以外の兜で多くの場合共通しているのは、

 @:明珍信家(みょうちんのぶいえ)作とされる筋兜である。
 A:筋兜の各筋に神仏の名前が書かれている。
 B:諏訪明神(すわみょうじん)に関係する立物が付いている。

ということくらいでしょうか。

1572年の三方ヶ原(みかたがはら)合戦で討ち取られた徳川方の武将の兜に付いていたヤクの毛を、武田勝頼(たけだかつより)が非常に珍しがって家臣から取り上げてしまったと言われているようですから、父である信玄が白熊の兜をかぶっていた可能性は低い、と甲冑研究家の山上八郎氏も述べられています。

また藤本正行氏はその著書「鎧をまとう人々」(吉川弘文館)で、東京浄真寺蔵の武者絵(むしゃえ)に描かれ、これまで吉良頼康(きらよりやす)だと言われてきた人物こそ武田逍遥軒(たけだしょうようけん)の手によって描かれた兄:信玄の像であると指摘されております。

この武者絵(むしゃえ)自体は江戸時代に原本(げんぽん)を複製(ふくせい=コピー)した物のようですが、その絵には三鍬形前立を付けた金覆輪筋兜が書かれています。
この兜には白熊は付いていません。
あるいはこれが「諏訪法性(すわほっしょう)」の兜なのかもしれません。

なお「諏訪法性(すわほっしょう)」の兜は1575年の長篠(ながしの)合戦に武田軍が負けて逃げ帰る途中、家臣の初鹿野伝衛門(はじかのでんえもん)が勝頼の許しを得て破棄(はき)したとも、棄(す)てられていたのをこれも武田家家臣の小山田弥助(おやまだもすけ)なる人物が拾い上げて甲府(こうふ)に持ち帰ったとも伝えられているようです。

(原文は2003年11月20日「近世こもんじょ館」に投稿、2005年2月24日加筆修正)





● 喉輪(のどわ)の着け方

喉輪は本来(ほんらい)、脇曳と同じようにの内側に着けるのが正しい、もしくは内側に着けても良いのではないか、という掲示板でのご質問について調べた結果を書き留めておきたいと思います。

の内側に喉輪を着けている例としては、

 @:細川澄元(ほそかわすみもと)画像(1507年、永青文庫蔵)
 A:胴丸着用手順(出典は不明、「すぐわかる日本の甲冑・武具」に掲載)
 B:甲冑着用手順書(1801年、書籍名不明)
 C:伝:足利尊氏(あしかがたかうじ)小具足出装画像(年代不明、長母寺蔵)

などがあります。

Cの小具足出装は、兜とを着けるだけで完全武装(かんぜんぶそう)となる状態ですから、その状態で喉輪を着けているのはの内側に喉輪を着けるからで、もしの外側に喉輪を着けるのだとすると、この時点で喉輪を着けているのはやや不自然(ふしぜん)に思えます。

また、の外側に喉輪を着けている例としては、

 D:大内義興(おおうちよしおき)画像(年代不明、山口県立山口博物館蔵)
 E:足利尊氏(あしかがたかうじ)画像(年代不明、神奈川県立歴史博物館蔵)
 F:伝:吉良頼康(きらよりやす)画像模本(もほん)(年代不明、浄真寺蔵)
 G:斎藤正義(さいとうまさよし)画像(1539年、浄音寺蔵)

などがあります。

結果としては内側・外側いずれの場合も見受(みう)けられましたが、個人的には喉輪が胸元(むなもと)の隙間(すきま)を守るためのものだとすると、めくれ上がったりずれたりする可能性があるの外側よりは、の内側に着ける方が良いのではないかと感じます。

なお「出典・書籍名・年代不明」と書いてあるものは、私の持っている資料からでは情報が得られなかったという意味です。

(2005年9月23日)




上へ戻る


| 甲冑画像No.1 | 甲冑画像No.2 | 甲冑画像No.3 | 甲冑画像No.4 | 甲冑画像No.5 |
| 甲冑画像No.6 | 甲冑画像No.7 | 甲冑画像No.8 | 甲冑画像No.9 | 甲冑画像No.10 |
| 甲冑画像No.11 | 甲冑画像No.12 |
| 他武具No.1 | 他武具No.2 | 他武具No.3 | 他武具No.4 | 他武具No.5 |
| 他武具No.6 | 他武具No.7 |
| 具足構成 | 用語辞典 | 甲冑紀行 | 展示情報 | 書籍紹介 | 武将フィギュア |
| 甲冑随想 | 評定の間 | リンク集 | リンクについて | ご感想 |

甲冑 TOPページへ


© All rights reserved.