アーティリカは、もう何も感じることが出来なかった。
 憂いを帯びた黒い瞳は焦点がぼやけ、城下町の中心にある大広場に集まった群衆たちの姿も、色褪せた絵画ように現実味がなく、ざわめきは遥か遠くにあった。
 腰まで伸びる艶やかな長く真っ直ぐな黒髪、すっきりとした細い顎、筋の通った鼻、十六歳のまだ少女らしい美しさは、以前と何も変わっていない。
 ただ、血色の良かった薄い唇は今はやや紫がかり、大きく愛らしい眼は半開きで、それはここにあって目の前の現実ではなく、今はもう遠い夢の中にしか存在しない愛しい人の姿ばかりを追っていた。
 しかし、それはアーティリカにとっては幸いなことであった。何故なら彼女は後ろ手に縛られ、一糸まとわぬ姿で公衆の面前に晒されていたからだ。
 華奢といえるほど細い体、透き通るような、しかし歳相応の健康さを醸す白い肌、胸はまだ小さく、秘部の陰りは申し訳程度でどうにか女性の重要な部分を隠してはいるが、それは大人として全く未成熟であることを如実に示していた。
 それでも腰のくびれや引き締まった尻、長く細い脚と腕は例え彼女が、皇女、そして女王、その立場にあらずとも羨望と好意の対象となったであろうことは想像に難くない。
 そんな若い娘が自分の裸体をこうして住民たちの前に曝け出さなければならないことにどうして堪えられようか。だからこそ、彼女の体を巡る毒が生命という灯火の周囲で旋風(つむじかぜ)となっていたことはまさに神から与えられた恩赦に他ならなかった。
 彼女の朦朧とする意識では、処刑のために作られた一際高い櫓の上でも、恐怖や不安は去来しない。それは彼女の背後にいる、背の高い無精髭の平服の男や、厳めしいくすんだ銀の鎧を身にまとい、その手に円卓と長剣を握って仁王立ちする二人の兵士に対しても同様だった。
 ざわめきは延々と続いていて止む気配はない。
 アーティリカのいる櫓は、大広場の北側、ちょうど凱旋門の正面にあった。周囲には高い三角屋根が遠くまで連なっていて、南には海へと抜けるための街道が一直線に伸びている。以前なら凱旋門からそれを眺めると如何にこの街が美しいかを実感できた。
 しかし、今は革命という名の戦いによってところどころに無残な傷跡があった。そしてかつては笑い声に満ちていた大広場は、まるで難民のように疲弊し、しかし時代の変革を目の前にして興奮を隠しきれない民衆によって埋めつくされていた。
 振り返れば、凱旋門の背後に巨大な純白の城が高く聳えているのが見えるはずである。かつてはアーティリカの、そして歴代の王たちの居城として、誰もが相応しいと疑いもしなかった。
 だが今のアーティリカにとっては、その意識と同様にまるで夢の中にしか存在しないような色褪た城で、櫓に登らされる時に一瞥したが、それはアーティリカを過去へと埋没させる一助になったに過ぎなかった。
 そんなアーティリカの直ぐ横には、彼女にとってもっとも忌むべきものがあった。太い木の枠が細長くそそり立っていて、その底には丸く穴が開けられた上下に割れる板が、そして天辺には巨大な鉄の塊があって、その先端は斜めに鋭く刃をきらめかせている。鉄の刃を固定している縄は平服の男の足元まで伸びて、近くの楔に止められていた。
 アーティリカは、斬首台と呼ばれるそれと肩を並べて、長く民衆の眼前に晒されていたのである。
 それが数刻ほど過ぎて、ようやく男が動きだした。もう充分だ、と二人の兵士に号令を発し、アーティリカの側に立つ。彼は背丈はアーティリカよりも頭ひとつ高く、整えられた茶色の毛髪は豊かだが、頬はこけ、目はギロギロしていて、その額には汗の玉がびっしりと浮きでている。黒のズボンと白いブラウス、その上の黒のチョッキと、全身を黒でまとめた如何にも上流階級の人間らしい最先端の服装であるが、見た目こそパリッとしているものの、良くみればいたるところが擦り切れて、それより大きな破れを幾つも繕われていることが判るはずだ。
 しかし、アーティリカにとってはもはや何も気にかかることのない男であった。彼女の意識は細い生糸の一本だけで肉体と繋がれているに過ぎなかった。
 男が両手を上げて群衆を制した。ざわめきは途端に静かになった。大きな咳払いをひとつした後、息を吸い込んで大声を張り上げる。
「自由を尊ぶ、我等が同志たちよ!」
 ざわめきは起きない。これだけの人間がひと所にいて、響いてくるのは僅かな呼吸の音や靴が石畳を擦る音だけ。それはある意味、異様な光景であった。
 だが、男はそれを満足げに頷いた後、もう一度息を吸い込んで続けた。
「今ここに我等が願いは成就した! ウォールスウェルは王族一党の支配から脱却し、我等市民の市民による市民のための国へと生まれ変わる! 見よ!」
 男の手がアーティリカを指し示す。同時に大きなどよめきが櫓を揺さぶり、続いてさらに大きな歓声と怒号が、まるで突風でも巻き起こったかのようにアーティリカを襲った。それでも彼女の反応は微々たるものだった。
「昨夜まで、このアーティリカ・エーシェリール・ウォールスウェルは女王としてこの国に君臨していた! そして賢明なる女王は今日、王位、全ての権力と富を我等市民へと返上した! かつての王族が所有していたあらゆるものは我等市民から搾取したものである! 我等が民主主義に従い、女王は身につけていた衣服さえも手放し、王族一党の罪を一身に受ける覚悟をなされた! これ以上の血を流すことは我等の本意ではないが、女王の断罪を持ってウォールスウェルを歪んだ王族支配から、市民の国へと生まれ変わらせる最後の通過儀礼とする! 私は長くこの戦いに身を置いてきたが、今ここで我が手によって女王を断罪し、賢明なる女王と同じく、その罪を我が身に甘んじて受けよう! アーティリカ・エーシェリール・ウォールスウェル女王、そして私、フィリップ・メトニーがこの世から消え去ることによって、ウォールスウェルは真の市民の国へと生まれ変わるのである!」
 朗々と謳う様に演説し、最後には声が裏返って震え、天に両手を差し上げるその姿はさながら神の啓示を受ける司祭、或いはこの世ならざるものと会話する精霊使いのようであった。
 余りにも芝居がかったそれは、しかし群衆を熱狂させた。その場にいた皆が拳を振り上げ、気勢を張り上げ、新しい自分たちの国の誕生の瞬間を待ち望んだ。
 その時はついにやってきた。
 男がアーティリカを斬首台へと寄せてそこにしゃがませると、円形の穴の空いた板の上部を持ち上げた。真っ二つに別れた穴に、アーティリカの髪の毛を掴んで首をかけさせ、板を戻して固定する。アーティリカは縮こまった蛙のような格好で、首だけを向こうに出していた。
 それでもアーティリカの意識は夢の中を彷徨っていた。足元から立ち上る地鳴りのような怒号は遥かに遠く、その中に混じる自分の名や、皇女、女王、昔の字(あざな)で呼ぶ声を聞いても、何一つ思いは至らなかった。
 男が数歩下がり腕を振り上げる。その手に握られている小さなナイフがキラリと陽光を一瞬だけ反射した。
「市民たちよ! 見よ! 我等の国の誕生を! 聞け! 我等が時代の産声を!」
 振り降ろしたナイフが、ピンと貼ったロープを両断する。その瞬間、巨大な鉄の刃がアーティリカの首に打ち下ろされた。
 最期の瞬間、アーティリカは一言、お兄様、と呟いた。


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