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オリンピックを見る唯一の(もちろん個人的な)理由は、世界最高レベルのスポーツ選手が一堂に集まり、最高のパフォーマンスを披露する場面を一気に見られるからである。そういう視点から言えば、観光旅行に行くわけでもない自分にとっては、開催地がどこであろうがどうでもいい。
オリンピックに付きまとう政治的側面は、その招致活動で見られるように、IOC委員や候補地同士の裏取引に始まり、国威発揚、国力誇示、外貨獲得、政治家の実績作りなどなど、とにかく欲望の権化でしかないのだから、そもそも、「あの国はけしからん」とか、「取引しやがった」とか、当事者たちが言うのはギャグでしかない。
言い換えれば、そういう裏側があるからこそ、「南米初」だとかなんだとかいう表向きの理由付けは好都合なのだろう。
そういう中にどっぷり浸かる前提にありながら、「核兵器廃絶」というスローガンさえ持ち込めば、すべてが浄化されるとでもいわんばかりの広島と長崎のオリンピック招致構想には腰が砕ける。
プラハでちょいと演説しただけで、実際には「核廃絶」に具体的な実践を何一つしていないオバマ大統領が(ホワイトハウス自体が仰天するような)ノーベル平和賞を受賞したとたんに、その権威に乗じてオリンピック招致に「核兵器廃絶」を利用するのだから呆れてしまう(マザー・テレサのような聖人も受賞すれば、佐藤栄作のようなのでも受賞するのがノーベル平和賞)。
核兵器を持つ国が参加しないオリンピックがありえない現代において、その招致をしながら、いったい誰(どこ)に向かって、「核廃絶」をアピールするというのだろうか。
なんにしても、こういういかがわしい権威と一体となることを盲目的に「良」とする反核平和運動のあり方は、第二次大戦における広島と長崎の“日本人被爆者”だけが、“唯一の被害者”として特権的に「反核」をアピールする姿を増幅させていて、なんとも空虚としかいいようがない。
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