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高橋 信次氏 創作 「愛は憎しみを越えて」 (昭和48年発行)
本書は、当方の尊敬・研究する故人 高橋信次氏が、わずか4日間で創作したといわれる創作小説です。 それをここに再編集・連結し掲載をするものです。 (当方は、高橋信次氏の著書を推奨しているだけで、いかなる団体への関与、営利的関係は一切ありません。) 出版元はこちら(オンラインでも購入できます) |
p.7-49 p.50-99 p.100-149 p.150-199 p.200-249 p.250-299 p.300-359
↓p.7〜p.49↓
-第一章 冷血漢 無い守銭奴(p.7)- 朝の日射しが、庭一面に広がり、様々な樹木に、柔らかい光が反射し、陽炎が立っていた。玄関の両袖を彩る沈丁花が、春の足音を忍ぱせるように、小さな花を、 幾つも咲かせている。玄関から門へ、夜露に濡れた敷石が光り、その両側に、手入れの届いた、各種の草木が、大きた庭石と調和を保って、植えられている。 庭との区分は、真竹の小枝を、しゅろ縄で東ねた垣根が真新しく、如何にもこの家の裕福さを、物語っている。門柱は、見上げるような、白の御影石が、立っている。 向って右に、分厚い檜の板に、墨で書かれた三田村商事株式会社の文字が見え、左はこの家の主人三田村清の表札が、かかっている。 三田村清の家は、都心から少し離れた池上線、長原駅から南に、歩いて十分、上池上の屋敷町の中にあった。敷地六百坪、建坪八十五坪、家も、庭も、賛を尽 した構えである。 清は、この屋敷の中で、金融と不動産の二枚石板を持って、正式な金融機関から借人れの出来ない商店、小工場主を相手に、商売をしていた。 四季の緑に囲まれた豪壮な屋敷も、十日に一割という暴利が、支えていたのであった。 このような土地も、建物も、商売上の信用を得るために必要な、道具でしかなかった。そして住む家を取られた者、あるいは自殺に追い込まれた人々にとっては、 悪魔の洞穴のような屋敷だっただろう。 家族は、内妻の田村恵子との二人だけである。山口という青年が、事務員として通って来る以外は、使用人もいなかった。 恵子は、秘書役兼事務員として勤め、忠実に働いてくれている。清の父は、郡馬県伊勢崎の出身で、母は台湾に住んでいた中国人である。恵子の入籍がまださ れていない理由は、こうした事実を、恵子に知られるのを、恐れたためでもあった。 彼は、恵子を嫌いではなかった。むしろ、いつでも正妻に迎えたかった。しかし母親が台湾人であることが、恵子に知れたら、彼女は白分の元を去って行くにちが いないと思い・それが溝には、こわかったのである。 そんな一面のある一方、清は、金にはきたたかった。一日の必要経費だけしか恵子に渡さなかった。買物も、領収書を持ってこさせ、余った金は、全部取り上げ てしまう。勿論、恵子への小遣いなど、一銭もやらない。 清の片腕である事務員の山口 伸は、戦時中、爆弾の破片で片腕を失っている男である。このため勤め先が見つからず、戦後しぱらく闇屋で糊口をったぎ、同じ 仲問の清と知り合って、貸付対象者の財産状態調査員として、働くようになったのである。貧しい山口には、妻と二人の子供がいた。給料が安い上に目給制なの で、目々の手当では足りず、清から金を借り、その利息分を・毎晩遅くまで残業し、返済に当てていた。 三田村商事には、出張所があった。場所は、伊勢崎市である。清は、この町で小、中学校を終えている。本店の上池上は三人だが、ここには支店長の山本垣男 、事務の荒木充がいた。二人は言わば、やくざ者だが、不良貸付で返済出来ない債務者がいると脅迫し、強引に担保を取り、損害金を巻き上げる冷血漢達である。 二人は清の指示に従って、何処へでも取り立てに行き、その歩合によって生活していた。 清はこうした環境の中で、朝早くから、夜遅くまで、金を追いかげていた。生活も不規則であり、顔色も悪く、体力は、もう限界に達していた。 この朝も六時に起き、貸付台帳に目を通すと、担保物件の士地の処分に、思いを巡らせた。清は七時半に出勤して来た山口と、債務老調査のことで、打ち合わせ た。打ち合わせの途中、彼はトィレに立った。廊下伝いに歩いたとき、急にめまいがした。廊下の柱に体を預け、気分を落ちつかせたが、そのまま崩れるように倒れ た。その時清は二十八歳だった。 (p.10-11) 恵子は廊下の物音に気づき、すぐにその場に駆けつけた。倒れている清を抱き起こそうとしたが、男の体は意外に重かった。彼女は、大声で、 「社長、社長、清さん、清さん」と呼び、 「山口さん。来て頂戴。社長が、社長が大変………」もう気は動転していた。 山口は、恵子のただならぬ叫びに、玄関と壁一つ隔てた事務室から、血相を変えて、飛んで来た。彼は清の頭に手を当てると、心臓に耳を当てた。彼も、どうしてい いかわからなかった。 恵子は、しばらく立ちすくんでいたが、気がついて事務室に駆け戻ると、一一九番に電話した。 救急サイレンが、朝の屋敷町の静寂を破って走った。清を乗せた救急車は、第二京浜国道を抜け、池上の救急病院で停まった。 彼は、四階の個室に運ばれると、宿直の医師の診察を受けたが、身嗜みをする問もたかった恵子は、緊張で青ざめ、人事不省に陥っている清の容態を、部屋の隅に 立ったまま、じっとみつめていた。 生と死の谷間-絶対安静、看護の苦悶 病院の窓を通して柔らかい春の日射しが、清のベツトを包むかのように、意識不明のままの清を、暖かく包んでいる。そして片腕には点滴の針が、しっかりとぼん そうこうで固定され、リンゲルの容器が吊されて静かに減ってゆく姿は、清の病状を教えているかのようだ。 枕元には、恵子が生けた白百合の細長い白い花びらが、清の病状を心配しているかのように、無表情な清の方をのぞいている。 守銭奴に徹していたがめつい清、無慈悲な清も、病気には勝てなかったようだ。今は意識不明である。 そして「死にたくない、死にたくない」と、うわごとをいって、何かにおびえているようだ。 医者は脈はくを取りたがら、懐中時計の秒針を追っている。そばにいる人々の心の中は騒いでいても、あたりは秒を刻む時計の音だけが耳に響いて来る。 そのまま暗いドームの中を、エレベーターのようなもので、どんどん下に下がって行くようだ 地下鉄の中で電車に乗っている時と同じような、ごおーという連続音に変っていった。 これは死んでしまうんだな。 しまった。まだ死にたくはないーまだ死にたくはない-と思った。 やがてごおーという音は止まり、清は、体をひざにつけ、頭をかかえたまま、じいっと様子をうかがっていた。 誰もいない真暗な世界。静かだ。僕はどうしてこんなところに来たんだろうか。 清は、勇気を振るって頭をかかえていた手を放し、ひざから頭を上げて前を見た。真暗だ。左右にゆっくり顔をまわして見た。真暗だ。一寸先も見えない。 しかし先程と違って、気分はすっかり良くなっていた。つい先程までは、あれだげ気持が悪かったのに。 どんた事になってLまったのだろうか。そして清は、心の中を冷静にしようと努めた。 急に今迄の事務所のことを思い出した。そうだ。恵子はどこにいるのだろうか。山口は! と、自分の身近かな者達のことを思い出す のだった。そうすると、清の目の前に霧のようなものが白く湧き出して来た。そしてぼんやりした霧のような中に、四人ぐらいの男女が、何かのまわりを取りかこんで、 心配そうに立っている。 白い壁の都屋:…・。だんだんと白い霧が晴れて、はっきりと見えて来た。 誰かベットに寝ている。ああ、恵子が泣いている。山口もいる。そしてベットの足の方に立っている見知らない男女が、白衣を着けて、ベッドに横になっている老の手 を持って何かしていた。 なぜ、恵子や山口があんな所に来ているのだろうか。夢を見ているのだろうか。清は不安だった。 清はこのようなことも、考える余裕が出て来た。 相変らず暗いド-ムの様な、洞穴のようなわけのわからたい場所だ。清は、恵子と山口が、なぜあんな部屋にいるのかわからない。 何とかそばに行ってみたい-と思った。 しかし距離は離れている。ドームの中から出られない。 今度はだんだんと近くに見えて来た。寝ているのは誰だろう。よく見ると、白衣を着ているのは医者と看護婦であった。 ここは病院か-。寝ているのは誰だろう。 ああ-。僕だ-。僕はここにいるのに。 なぜ.ベットに寝ているのだろう。 こんこんと眠っている。 いつも鏡に映る自分の顔とまったく違って、まっさおだ。くちびるも色を失っている。寝ている自分は、死んだように動かたい。しかしもう一人の自分は、別にどこも悪く はたい。ただドームの暗い中にいるだけだ。清は大声をあげた。 「恵子!恵子!助けてくれー」 恵子は、涙を流しながら、ベットの僕を見て何かしゃべっている。清はそれを見ているが通じたい。不思議なことがあるものだ。 清は心を落ちつけて考えてみるのだった。 その時、病室の中では、清が無意識のまま腹の底から「恵子1恵子!助けてくれー」と、うわごとをいい出した。 恵子は涙を流し、清の顔をみつめながら、 「社長!社長!しっかり、しっかりして下さい!」と、声を出して泣いていた。 山口も、清の足元で、ベットに手をついたまま、社長!社長!死んではいけません-がんぱってください-。神様どうぞ社長を救ってて下さい!」 と、目に涙をいっぱいためて祈っていた。 この時、恵子や山口のなかにあるものは、今での厳しい無慈悲な、がめつい清の姿で無く自分達の親しみのある、上司としての、尊敬の心だけしかなかった。 これが人間として、本来の愛の姿なのかも知れない。 医者と看護婦は、冷静に、渚の容態を見守っているだけだった。 重苦しい空気が、病室の中に満ちて来た。白百合の花だけが、表情を崩さないで・美しく開いた細長い花弁で、清の枕辺を飾っていた。 人の力ではもはやなすすべもない清の容態であった。 それは一身以外には知る由もないのだ。このように一度無常な風が吹き荒れれぱ・どん芝貯えた財産も、地位や名誉も、欲望も、総てのものから見離され、 生まれた時の裸の姿で、元の世界に帰らたくてはならないのだ。 人はこのような瞬間的な人生を、欲望に雲ことを忘れ、無意窪苦しみをつくり一生終えて行く。誠に哀れという外はない。 生と死の境を、さまよっている、病床の清の姿を是時、物質欲望の・むなしさを知るだろう (p.18-19)- うo 肉体から抜げ出した、ドームの中の、もう一人の清は、「もう駄目なのかも知れない。僕は今迄お金の奴隷だった。恵子にも、山口にも、僕は何をしてやっただろうか。 そして多くの人々を泣かせ、苦しませて来た僕だ。僕はこの人々の幸福を奪ってしまった。その罪滅ぼしのためにも、もう一度生きかえりたい-。 迷惑をかけて来た多くの人々の笑顔を見るまでは、死にたくない」 肉体から抜け出したもう一人の清には、正しい善の心が芽生えて来たのだ。 正しく物を見ることが出来るようになったのだ。正しく聞くことも、語ることもできるようになり、神の子としての道理に目覚めて来たのだ。 今ここに寝ている清の体を、あやつっていた悪魔のような無慈悲の行為をさせた魂は、過ぎ去った今迄の清であり、生と死の境をさまよって、暗いドームの中で、 反省しているもう一人の清は、神の子としての自覚に、目覚めようとしている、善なる魂なのである。 悪の魂は過ぎ去り、善の魂のいぶきが、清の体につながって、うわごとをいわしているのだ。 ベットの中に、横たわって動かない肉体は、三次元の物質界における、魂の修行のための舟であって、無常なものだ。肉体舟はいつの日か自然に還元されてし まうからだ。 肉体舟から抜け出して、ドームの中にいるもう一人の清こそ、永遠に変らない本当の清であり、魂なのである。 ドームは、三次元と四次元以降の世界、即ちこの世とあの砦結ぶ通路であり、清は、その通路の途中で、人生で体験した諸問題を、反省しているのである。 もう一人の清の言葉が、ドームを通して、横たわっている肉体舟の、口を通して、うわごととなつて現われているのだ。うわごともまた肉体舟のそばで、姦している 恵子や山口の言葉も一方通行で終わっている。このようにして次元が違うために、ドームの清とは・意志が通い合わないのである。 ドームは、三次元と四次元以降の世界、即ちこの世とあの砦結ぶ通路であり・清は・その通路の途中で、人生で体験した諸問題を、反省しているのである。 もう一人の清の言葉が、ドームを通して、横たわっている肉体舟の、口を通して、うわごととなって現われているのだ。うわごともまた肉体舟のそばで、看護している 恵子や山口の言葉も、一方通行で終わっている。このようにして次元が違うために、ドームの清とは・意志が通い合わないのである。 清は、三次元より高い次元から、自分の肉体を見ているが、その肉体舟の支配が出来ない状態にあるのだ。 このドームから出てしまうと、完全な死であり、二度と三次元の肉休の舟に戻ることは出来ない。 ドームの広さは、その人の心の調和度によって、変っているといえよう。 広い心の人々は、広大な光明に満たされたドームであり、清のように、欲望に足ることを忘れ去った者達のドームは、狭くて暗いドームなのだ。 総てが、人それぞれ善悪の心の状態が、つくり出している厳しい世界だといえよう。 (p20-21)- ドームの中の清は、余りにも暗い世界のために、心の中が混乱するのだった。生への執着、死への恐怖。 清は、どんな人間も信じられないような、無情な男であったため、神の存在たど信じるはずがなかった。 しかし自分の肉体舟に戻れないドームの限られた世界に置かれて、初めて、これは大変だ-何かあるのではないだろうか-と、現実の死の世界の存在を、否定 出来なくなったのである。 渚は、このようた暗い世界にいるということは、自分の心の中につくり出して来た、無慈悲で、欲望の泥沼の生活に問題があったのだと思う。善なる心が、反省 の機会を与えるのだった。 そして-清は洞穴のドームの中で、 「神様、私にもう一度チャンスをお与え下さい。私にはやり残して来た仕事が残っています。慈愛を施す偉大な仕事が・・・・・・」、 清は大声をあげて、神に祈った。 大粒の涙は、清の顔をくしゃくしゃにし、そして今迄犯した罪の許しを乞うのであった。 病室の清は、又うわごとをいっている。 うわごとも、一方通行で、恵子や山口の言葉は通じない。無声映画のようだ。そして何かに祈っているようだった。 医者はいった。「生死の境をさまよっている時には、よく幻覚的な症状が現われて来るものです。生への執着と死の恐怖の中で、いずれを選ぶか迷っているので しょう。」と、多くの人々の生と死を、見守って来た体験を、医者はこう説明するのだった。 恵子は、余りの緊張が続いたのか、ベットのそぱにあった、付添用の腰掛に腰を下ろして、清の容態を気遣っている。ポットに入れた熱い湯のせいか、ポコンポコ ンと、ポットが鳴っている。そのたびに恵子も、山口も、はっ!!としてそのポットに視線をやる。息がつまるような緊張の時間が過ぎて行った。 -(p22-23)- -第二章 天使の声-不思議な世界- 一方肉体から抜げ出して、ドームのような洞穴の中で、神にもう一度のチャンスを祈っていた清の耳に、上の方から響き渡るような大声が、飛びこんで来た。 「わかったかあ、清、金で人の心は買えないのだ。」 姿の見えない逢か天上の方から、清の心をゆさぷる天使の声だ。 清は、おどろき、暫らく声の方向を見つめていた。 「金で人の心は買えないのだ」 そして、渚は、心の中で繰り返して今の言葉を考えて見た。 今迄清の持っていた金の力に、いい年輩の人々でも、清にぺコペコ頭を下げていったのにー。 なぜ人の心が金で自由にならないのであろうか。 なぜだろう。 しかし今の天上からの声が、清の心の中に焼きついたように消えない。 そして暖かい気持になって、死への恐怖が消え去ったようだ。 あれは神様の声なのだろうか。壮厳に響き渡る、安らぎのある声。 清はしぱらく考えて見ても、その意味がわからたかった。又天上の方から、 「清!お前にはその意味がわからぬのか。いつからそんな馬鹿者になったのだ-。」 清は、ひざを立てて頭をつけて座っていたが、正座になおして、頭を地べたにつけ、真暗な 洞穴の中で、手を合掌して、 (p24-25)- 清には、どうしたらよいかわからぬまま、時間がたった。そして天子の声 「まだわからぬのか。自分を振り返って見れぱわかるのだ-」 清は、正座して、伏し拝んでいる体を起こし、暗い洞穴の後を振り返って見たが、何もなかった。 「馬鹿者め-自分の後を振り返ってわかる奴があるか-。お前のようなまぬけだから、真暗な洞穴の中に、閉じこめられているのだ。もっとしっかりと考えろ。 お前の心の中には、誰も入れぬのだ。心の王国の支配者は、清!お前自身だ。誰でもない-、お前自身だ。」 清はますます理解出来なくなってしまった。どうしたら良いのだろうか-と、思案するのであった。 『僕のような、悪どい金もうけを、生き甲斐にして来た者が、このようた暗い洞穴の中に落されるのだろうが、天涯孤独な三田村清の、たよりにたるものは、 金以外にはないではないか。何をたよりにすれぱいいんだ。 小さい時に父に死なれ、少年時代に、もっともたよりにしていた母にも死別、何の財産もなく、しかも厳しい差別された社会で、何がたよりにたるのだ。や はりお金以外にたよれるものはないでしょう。 神様、そんな無茶なことをいっても、無理です。生きていけないではありませんか、どうすれば…』 清は、又泣き出してしまった。 「一人で生きてゆくのに-、何をたよりにすれば良いので……」その時だった。 「たよりにたるものは、自分の心だ。正しい心の柱なのだ-。心の物差しだ。もう少し苦しめ。いつからそんなに馬鹿老になったのだ。 「神様、わかりません。教えて下さい」と、心の中からお願いした。その時だった。 「教えるわけにはいかないのだ。それ人生の修行であり、課題なのだ。」 -(p26-27)- あとを振り向いて、よく考えろ」天上からの声は、厳しくなっていった。 病床の清は、すやすやと無意識のまま眠っている。医者が鼻から食道に管を通しても、わからぬまま、深い眠りに入っていた。管は栄養を胃に送るためだった。 「恵子さん。僕、事務所に行っているから、社長をたのんだよ。 交替で看病したいと、体がもたないからなあ。今晩は、僕の妻に交替してもらうよ。妻にもよくたのんで見るから-。 先生。仕事をやりっぱなしで来ましたので、整理に行って来ます。よろしくお願いします」 その時、先生と看護婦も立ち上がり、「何か容態がおかしくなったら、このブザーのポタンを押して下さい」と、恵子に看護婦がいった。 山口は会社に帰り、恵子は黙って清を見守った。 恵子は、人形のように自分の意志を持たない清の顔を見たがら、悲しく、清の額に頭をっげて、「神様」私の大事な人を救って下さい。お母ちゃん、お父ちゃん、私 の大事な清さんです。どうか清さんを救って下さい-」 と、溺れる者は、わらをもつかむ思いで祈るのであった。清の額が、恵子の涙でぬれていった。 すやすやと眠っている鼻息だけが、清の生きている証拠にしか過ぎなかった。 恵子は、「神様、私の寿命を清さんにあげますから、どうか清さんをお救い下さいー」と、胸の中から湧き出して来る声と、鳴咽の中で、愛する清への祈りを捧るの であった。そして孤独な清さん。可哀想な清さん。それだけに恵子は淋しかった。恵子も今迄何度死のうと忠ったかわからない 。愛しても、愛しても通じなかった清の心を。ある時は憎くもあった。それは自分が清の妻であるのか、事務員であるのか、はっきりとしない存在にあったし、そん なことに清は、むとんじゃくだったからだ。といっても他の女に心を奪われたこともなく、一切身の廻りの世話は、今迄も恵子は見て来ているのだった。 それにしても、「恵子!!お前を愛しているよー」 と、優しい言葉も聞かぬ問に、四年が過ぎ、恵子は、二十五才になっていた。 金だけが生き甲斐だった清を捨て、新しい道を歩もうと思ったことも、たびたびだった。しかし孤独な清を捨て、誰がこの人を見るのだろう。 この男のめんどうをみる老は白分以外にはないと、自分にいい聞かせ、励ましながら、恵子は -(p28-29)- 今迄しんぼうして来たのだった。 その結果がこの始末- 恵子は、どんなに泣いても、悲しんでも、足りなかった。不運な女性だった。 恵子も、清と同じような、気の毒な女であった、戦災で両親兄弟を失い、孤独な人であった。 会社では事務員、家庭においては、夫婦同様の生活をしていたことは、山口をはじめとして、公然の秘密であり、山口も、この男女を見ていて、いつも歯がゆ く思っていた。 当人同志のことだけに、山口が口を挾むわけには行かなかった。特に清は上司であり、むつかしい人間であったからだ。 この事実は、山本も、荒木も知っていたが、見て見ぬ振りをていた。何年か前のこと、清に、山本が入社した最初の頃、「社長恵子さんを、私の嫁さんにもらいた いんですが」 と、その関係を知らないで相談した時、 「恵予が、うんというかなあ。僕は、恵子にはいえないから、山本、直接聞いて見たら良いよ。僕は人の心の中までわからないからなあ」 山本は先輩格である山口に相談することなく、直接、恵子にこのことを、申し込んでLまった。 その時、恵子は、「私、前から好きな人がいるの。その人が『うん』というまで待っているの。一生『うん』といわないかも知れたいげど、私ば一生待っているの。 その人がよその女と結婚した時は、私はこの世の中には生きていたいわ。 だから貴方とは、結婚出来ないのよ。わかった?」帳簿をつけながら、恵子は山本の顔を見ないで、淡々と清への執着心の強さを語るのであった。 山本は、これだけの女性に、ほれられている男は、幸せ者だーと心の中で思いながら、「恵子ちゃん 僕の今お願いしたことは、忘れて下さい。あきらめます。 貴女の夢の叶う目が一日も早く来ることを祈ります」といって、それ以後、山本も独身のまま現在まで過して来ている。それ以来、山本は、恵子の清に対する 態度を見てたが、恵子の思い続ける人とは、清であることがわかったのであった。 金だけを命のように思って、他を振り向かない清を愛している恵子の心を、他のまわりの人々は、そのひたむきな愛を知っているだけに、皆いつも同清するの だった。恵子は、これも、白分に与えられた人生の試練なのかも知れないと思っていた。清は突然うわごとを、又いい出した。 「お母さん、お母さん、僕だー」 恵子は、清の汗を、軽くタオルで拭き、以前清から聞いたことのある、今は亡き優しかったお -(30p-31)- 母さんのことだろうかと思った。 「きれいなお母さんだったぞー」 という清の言葉を思い出したが、恵子は何か不吉な予感がした。 「死んだ人の名前を呼ぶときは、もうだめだ」ということを、友達から聞いたことがあるからだ。 恵子はあわてて、清の枕元のブザーのボタんを押した。看護婦が、 「どうかしましたか」 と、体温計とグラフをかかえて入って来た。 「実は亡くなったお母さんを、呼んでいるんです。大丈夫でしょうか」 「意識がもうろうとしているときには、よくあることですよ。先生は、ここ二、三日が、いずれにしても、山だろうといっていました。恵子さんも頑張って下さい。御主 人は必ず良くなりますよ。恵子さんの暖かい愛情でね」といって外に出て行った。 「主人!」恵子は顔が赤くなった。 堂々と表面に出られない女、これが本当の妻かしら。人前をはばからないで、「私の主人」といえる妻になりたかった。 いつも、お客が来ても、おどおどとして、清の顔色をうかがいながら生活をして来た恵子にとって、それは女として淋しい人生であった。 それだけに、何か胸がどきどきして来た。嬉しいような、はずかしいような気持であった。 山口さんや、山口の奥さん達が、看護婦さんに、私のことを、しゃべってしまわないかしら-と、不安な気持が横切った。 何と思われても、何といわれても、清さんが、元気になってくれれぱいいんだ。 恵子の今考えていることは、それだげだった。それにしても、今のうわごとは心配だった。 どんなに恵子が清の名を呼んでも、反応がない。 山彦でさえこたえてくれるのにーと、恵子は思った。 恵子は自分の心の中を振り返って見た。 清が倒れて、救急車に乗せて来る途中の心と、入院して診察していた時の心と、今の白分の心とを、いろいろ分析してみるのだった。 「倒れた時は、夢中で、どうしようか。どうすればよいのだろう。山口さん、山口さん、早く来て、 (p32-p33)- 社長が、社長がー」 あの時は、自分であって、自分ではなかった。あわてふためいた自分の姿-。 救急車に乗せても、意識不明。早く病院に。その時問の長かったこと、 社長しっかりして下さい-。しっかりして下さい。と呼んだこと。救急車の乗務員が、「そんなに大声を出しても仕方ないでしょう。 早く病院に入れなくてはだめですよ。このような時にこそ、正しい判断が大事ですよ」と、戒められたこと-。 そしてやっとたどりついた病院の玄関。病室へ担架で運んだ時、そして医者の診察。心は動転しっぱなしだった。 そして安心と不安が同盾して、心の中から去らなかった。こんなことなら、自分が病気になった方が気が楽だ。本当に身替りに なってやりたい。このような体験は二度と繰り返したくないものだと、恵子は思った。 今は、思ったより冷静だ。人問は、いざという苦しい時、悲しい時に、本当の価値が現われるものだ。 普段の生活の中では、真実茂ものをっかむことは、むずかしいのかも知れない。 今後において、どんなことが起ころうとも、冷静さを失ってはならない・ということを・恵子は、自分の心にいい聞かすのだった。 清の場合に、このような冷静さを欠いたということは、本当に清を愛している証拠かもしれないし、他の人が、たとえ倒れたか らといつて、こんなにあわてることは・恐らくないと思うのだった。 特に関係の深い人でない限り、あのような心の状態にはならないだろう。 恵子は自分が清を愛している度合を、自分の心と行ないの姿を見て計一ていた。 愛といものは、本当に不思議なものだと、恵子は思い出して、ひとりで笑っていたそして苦しいものだということも。 転生の謎-転生のあかし清繕い洞穴の中で、。振り向いて考えろ」といわれた天上の声の意味がわかり・小さい時からのことを思い出していた。 その時、洞穴の上の明るい方に、母の笑顔が出て来たので、思いきり大声で、お母さんと呼ぶのだった。 しかし消えてしまった。 それと同時に、清の体が、何か浮き上がって行くような感じがした。 それと共に、いくらか光明が、清の頭の上に射して来た。 これは不思議だ。そしてまっさおな紺ぺきの空が、洞穴の上に展開 されている。 その時又大声が更に大きく響き、 「振り向いて、自分の心を探せ-。本当の正しい心を探せー。 わしは、お前の後に立っているのだ。 お前は、わしを忘れてしまったのか-。 お前はあの世(現世)に生まれて二十八年。このわしまで忘れてしま ったのか-、よくわしを見るがよい。」 清は、今度は振り向いて見た。洞穴の外に、べ-ルのような霧に囲 まれ、それを通してうっすらと、お坊さんの姿をし衣方が、頭の回りか らカブセルをかぶったような柔らかい光を出して、こちらに近づいて来た。 清は「仏様かなあ-」と思った。いや違う。衣は黒で、首から何かかけて いる。ひざから下は、白いきゃはんで、わらじを履いていた。手には、 手甲をはめ、下着は白く、小ざっぱりとした姿だった。 「あなたは、仏様ですか、神様ですか」 と手を合わせたがら、聞いて見た。 「人間のつくった金のとりこになっているお前には、わしがわかるまい。 お前をあの世(現世)に送ってから、わしは、お前の心の美しい時には、 そぱで、欲望の泥沼にいる時は、遠くから、お前を見守って来た老だ。 仏様とは、一切の執着から解脱して、生と死の区分を超越され、 宇宙即我を悟られた聖者をいうのだ。お前も神の子じゃ」 「はい……。私を守護して下さっている神様ですか」 「わしは、神ではないー-、人間の上(かみ)だ」
初版の挿絵p35 「人間のうえですか。その上なのですね」 「言だ。お前のような人間を守るのは苦労するわ」早く目覚めろ。お前はここまで連れ てこなければ、目覚めないだろう。しっかりと自分をよく眺めて見ろ。欲望の奴隷め-」 「はい。今私の母が、ちょっと見えましたが」 清は、母の姿を見た時、不思議だった。 「そうだ。母に対する愛があっても、人に対する愛があったか」天使は清に厳しかった。 「はい、申訳ありません」 清は確かに生きるために、自分のことしか考えていなかった。 それはいげないことだ。 清は一切のものを捨てて、自分の本性を見つけ出そうと決心するのだった。 清の心の中の不調和な霧が、少しずつ、晴れて行った。 霧が晴れて行くから光明が僅かなりとも、射して来るのだ。 清は、白分の心が、外に向いていたことを知り、内に向げようと努めて見た。 後の方に立っていたお坊さんも、だんだんとはっきり姿が見えて来た。 清は「僕に似たお坊さんだなあ」と.瞬問思った。と同時に声がした。 「そうだ。お前の思っている通りだ-」 清は自分の思っている心の中が、全部見通されていることに気がつくのだった。 「なぜだろう。なぜだろう」と、考えていると、 「お前のようた馬鹿老が、頭で考えただげで、何がわかる。心の中に記憶されて来た知恵を出 せ--・知恵だ。知恵だ。頭で知った知識など、大したことはないわ。あらゆる欲望に、足ることを忘れた、大馬鹿者め-、浅い知識だげで、ものの判断をするのではない。 大怪我のもとだ。もう一度、人生をやりたおせ。その中に、絶対に変らない何ものかがあるのだ。心を忘れた知識が、お前を狂わせたのだ。心を外に向げた知識が、 お前を金の奴隷にしたのだ。まだわからぬだろう!」清は、又考えるのだった。 「もう一度、人生をやりなおせ-」天使は清に云った。 清はこの言葉に疑問を持つのだった。 生れて来る前の自分があったのか。そうすると、もう一度人生をやりたおせ、ということは、 学校時代の落第と同じことか。 又、そのように思った途端、 「その通りだ。もう一度人生をやりたおせ」と、同じ言葉が返って来た。 「人生をやり直せとは-意味がわからない。その時だった。 下さる、本当に人問の出来た人々だ、と恵子は思った。このままで行げぱ、清も、今の状態を、持ち続けるだろう。 「山口さん、何から何まで、御心配して頂き、申し訳ありません。後をよろしくお願いします。」 といって、清の顔をもう一度、しっかりと見て、病室を後にした。 今晩おそくなってから、電話で容態を聞こうと思いながら、重い足どりで恵子は帰った。 (p42-p43) 山口の奥さんが、清の部屋を、すっかりきれいに整理してあった。家を出る時は、整理する暇がたかったので、ちらかしっぱなしだった。 恵子は、山口夫妻に心から感謝するのだった。そして清が、元気な姿でこの家に帰れるよう、心を調和して神に祈るのだった。 又逆に清が不幸なことにたったら、一緒に生活したこの家は、どうなるのだろう。同居はしているものの、法律的に夫婦ではないから、どうすることも 出来ないのではないだろうか。清を供養してやることも、出来なくなってしまうだろう。恵子の心の中は、複雑だった。 一目の書類を整理し終わったのが十一時を回っていた。病院に電話をしようと思い、立ち上った。途端に電話のベル-。恵子はどきっとした。 もしもの事があったのではないだろうかー-、受話器を取ると、山口であった。 「恵子さん僕です。まだすやすや眠っていますよ。前と変りありません。今晩は妻と交替で看護していますから、安心してお休み下さい。何かあったら電話をします」 「どうもすみません。よろしくお願いします」恵子はそういって、短い電話を切った。 一方清は、両親との縁が、どのように結ぱれたのか、その縁に何らかの秘密が隠されているのではないだろうかと思い、肉体に魂の宿る前世を、知りたいと、一生 懸命に念じ、自分の心を調和して行った。今、清のいるドームは、地球上ではないということは、わかって来た。 先程病室に入って、ベッドに横たわっているのは、問違いたく、自分の肉体舟だということも確認しているし、そぱにいた恵子にも、山口にも、自分の言葉が通じない ということで、それははっきりしていた。肉体舟と清が、ドームのようたもので、つながっているということも、はっきりとわかったし、こちらから話しかげても、相手にわか らない。恵子達の話していることは、全部聞こえて来た。となると、肉体舟を支配して生活していた時、映画のスクリーンに映っている人物に語りかけても、通じないと 同じようたもので、スクリーンの中でしゃべっていることは、全部理解することが出来たはずだ。地球上は、三次元の世界ということになるし、その理由は、立体の世 界で、空間がある。映像のスクリーンは、平面の二次元として映っている。そのような相違が、今、清のいるドームと三次元との違いにあるようだ。 (p44-p47) 続く清は、いろいろと心の中で考えるのだった。 そうすると、清は、四次元以降の世界にいるのだ。 このままでは、肉体に帰ることは出来ない。これが死ということになるのだろう-。 しかし自分は、正しく肉体を持っている。この肉体は、どこか精妙で、光の粒子によって出来ているのだろう。 そうすると、病院のベッドに寝ている肉体は、原子細胞の肉体ということになる。 先に、清の後方にいて、守護してくれていたお坊さんは、体から柔らかい光が出ていたはずだ。頭の周囲は、特に淡い金色の丸い光の玉のようにたっており、その 中に、頭があった。やはり次元の違いがあるということだ。 今いる四次元以降からの投映によって、各低次元の世界が存在しているようだ。 三次元は、四次元の投映だろう。清が今体験している世界は、このように考えなくては、説明がつかたかった。 すると、魂は、三次元物質界と、四次元以降4次元の世界を、転生していることにたる。 そうなると、生まれる前の生命が存在するだろう。 そうだ。仏像の後光がそうだ。 それは人間が、肉体から出ている後光と同じで、一般の人々には見えない後光が、溝の持っている今の肉体ということになろう。 後光の光の量は、その肉体舟と船頭さんが、片寄らない正しい生活の積み重ねによって、心の丸い広さがつくり出され、心の中に不調和な曇りがないから、太陽の ように、神の光に満たされているのだろう。 このように、暗いドームの中にいるということは、清が、今迄の人生において、心の曇りが多かったので、神の光をさえぎり、そのために、ドームが暗いんだろうなあー と、清は落ちついて考えられるようになった。 さて、自分の前生は、どのようにしていたのだろうか。 清は、白分の眼で確かめたかった。その時だ。又ドームの上の方から、「それは、お前の意識の中にあるのだ。 心の中の窓を開けぼ、お前は、わしのこともわかるだろう。それには順序があるのだ。人生で体験して来た一切は心の中に記録されている。その記録をひもとくこと が大事だろう。先走ってはならない。順序を、しっかりと踏んで行け-」 と、清の心の中で守護している坊さんの声 清は、「はいわかりました。」 「わかったたら、言ってみろー」 「自分の生まれた時から、現在までの、思ったこと、行たったことを、一つ、一つ正しい心の物差しで計り、足りぬ所を足し、曇った所の原因を除いて、反省すること です」 清がそうこたえた途端、ドームの外に、しかも明るい所で、清の小さな頃のことがドラマのように始まっていた。 それは、清の心の中で、体験された人生ドラマが投映され、その主役が、清であり、母であり父であり、又その取り巻きの人々であった。 清には、芝居でも見ているように思えた。そのドラマ」は、立体的で、天然色であった。 清の今の心が動揺すると、現象化されている芝居まで揺れてしまう。霧のようなものに包まれてしまう不思議なものだ。 丁度、投映機のレンズが、曇ったり、きれいにたったりして、スクリーンに投映されているのと同じような原理に思えるのであった。 清の母も、父も、ドームの明るい光明に輝いている場所で、二人で何か話をしている。又他の光に満たされている人々も、多く、そのドラマを見ていた。 かし清は、ドームからは出られない。ドームから出てしまうと、病院に横たわっている原子細胞の肉体舟に帰ることが出来ないということを、守護しているお坊さん からいわれていたのでもしかすれば、生きかえるかもしれないという、淡い気持があった。 その時だった。 「おまえの心掛け次第だししつかりと自分の過ぎ去った、暗い霧を、晴らすことだ!」 といわれ、清は、そうだ、それからしっかりと修正しようと、思うのだった。 両親も、ドームの外で、清を見て手を振っていた。 そしてドラマが始まった。 愛のめばえ-愛は国境を越えて 清の父、次郎の実家は、上州・伊勢崎の郊外で、三田村家という旧家であった。 そして三田村次郎の父は、製糸工場をやる一方、農業も正業としていた。次郎は三田村家の次男として一八九四年六月十日、恵まれた環境で生まれ、弟思いの 兄の英一と共に、少年時代をここで過ごした。「かかあ天下とからっ風」といわれている上州育ちの実母は、殊のほか、男まさりで、多くの (p48-p49) 従業員を使って、製糸工場を、夫と共に経営していた。 次郎は小学校の成績も良く、又健康な少年であった。向学心にもえて六年を修了すると、地元の県立中学へ進んだ。 この頃の田舎の中学校は、次π町村から二、三人位しか入れないで、主に良家の子息が多く、経済的に恵まれている 環境の者達ばかりだった。 実母は、次郎を製糸工場の跡取りとして考えていたが、中学の高学年になるに従って、人生の希望を、海外に求めるようになって行った。 当時の人々の多くは、小学校六年を修了して、小僧や製糸丁場に勤めに行ったり、よくて高等小学校の高等科を卒業して、就職する者達が多かった。 その頃、実母は再三、再四、家に残ることを希望したが、次郎は、しばらく外で勉強をして来たいという考えを、変えなかった。 両親は仕方なく、二人しかいない男子であったが、次郎の希望を許すのであった。 こうして次郎は中学校を卒業すると、自分から知人をたよって、台湾へ出発するのだった。 永い船旅の末、台湾に着いた。そして台中の製糖会杜に勤めている友人、小林秋人を訪ね、同じ会社に紹介されて、経理課に就職するのであった。 次郎は勤勉で、努力家だったので、三年目くらいまでに、会従の経理を二人前くらいやれるようになり、上司からも可愛がられて引き立てられ、他の同期 生より早く係長に姥鶴されて行った。おとなしくて、謙虚で、同じ職場の人々からも、親しまれていた。 二十五歳の時に、既に中堅幹部として、社宅を持つようになっていた。 しかし故郷の実母からは、製糸工場の経営を継ぐため、、早く帰るように、度々手紙で催促され、次郎も迷っていた。 一方、その頃の台湾在住の目本人の待遇は、本州とは違って非常に良かった。又自然の産物である泉物や、他の食料も豊當であり、気侯も常に温暖で あるから、生活の上では・日本の上州とは比較にたらなかった。そして一年中、夏服で過ごせるからだ。しかしいつかは上州に帰らなくてはならないと思っ ていた。その頃、台湾人で、同じ会社に勤めていた李 春順という同年輩の友人がおり、家庭での交際が続いていた。 |