先日日野宿本陣文書検討会の多摩史跡探訪ツアーに参加させていただき、新選組をはじめ、天然理心流/八王子千人同心/そのルーツである武田家/北条氏などの関連スポットなどを巡りました。その中で新選組関連のものを少しだけUPさせていただきます…
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天然理心流の創始者 近藤内蔵之助長裕/宗家二代目 近藤三助方昌のお墓があるお寺
向かって右隅の小さい墓石が内蔵之助、右の大きいほうが三助のもの(写真▼)
どちらも新政府軍の追及をかわすために一時埋められたのだけど、三助さんの墓石は大きかったために、粉々にして隠したそうな…(現在は掘り起こされてご覧のように修復済み) 墓石の継ぎ目からその異常さと当時の恐怖、焦りのすさまじさが伝わって来るような
三助さんの実家、戸吹村名主の坂本家のお墓もすぐ裏に
▲写真にポインタを乗せてみてください
内蔵之助さんのお墓はここを入れて3箇所にあるそうな。ここにあるものは側面に「天然理心流元祖 近藤長裕先生 文化四年十月十六日」と刻まれています
前庭には近藤處士碑(近藤三助についての記述)と松崎則榮翁碑(松崎和多五郎/後述)が建っていて(ポインタを置いた写真▲右)、天然理心流と縁の深いお寺です
(お寺のパンフレットと共に、天然理心流についての小冊子もいただけました)
二度目に訪ねたときには奥の墓地にある上記 松崎家の墓地(写真▲中央)もお参り。「戸吹の小天狗」と言われた 松崎正作さんとその息子・松崎則榮こと 松崎和多五郎さんは千人同心の家柄で、ここ戸吹で60年も天然理心流道場を開いていたとか
後述のように多くの門弟を育てたそうな
駐車場脇には(たぶん)日露戦争戦死者の慰霊碑?(同▲右)が建っているのですが、これはどうやら 本田覚庵さんの息子・ 本田定年さんの筆によるもののよう
[ 戸吹/秋川周辺地図↓ ]
■2 秋川神明社(日吉山王大権現/あきる野市牛沼)
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滝山街道を北上、秋川を越えたところにある 秋川神明社(旧・日吉山王大権現)には上記、戸吹で道場を開いていた 松崎和多五郎さんらを願主とした 天然理心流扁額(写真▼)が奉納されています。師範の名前として和多五郎さんをはじめ、この地域では三代目と目される 増田蔵六、その直弟子の 山本満次郎(後述)の名前も。奉納されたのは安政7年(1860年)3月ということで、「桜田門外の変」とほぼ同じころ。屋内にあるため保存状態が良く、大部分が判読可能(一部直射日光が当たる部分などは脱色) ←ふだんは非公開
▲写真にポインタを乗せてみてください
このおよそ半年後の9月30日に近藤周助/勇父子が府中の 六所宮(現・大國魂神社)に奉納した扁額(行方知れず)もおそらくこれと似たものだったのでは…とよく引き合いに出されています。ただこの地域では周助先生は宗家三代目とは認められていなかったようで、この額には試衛館関係の名前は無いもよう
比較的なじみのあるものとしては?、浪士組に参加し(清河八郎とともに東帰)、後に甲陽鎮撫隊にも参加した千人同心・ 佐藤房次郎延和や、同じく千人同心で井上松五郎さんらとともに将軍御供で上京した 日野信蔵義光(義順?)、小仏関所守で後に一橋家に仕えた 川村恵十郎光豁、同じく小仏関所守で後に相楽総三と行動をともにした 落合源一郎直亮などの名前が見られます
(この額について小島政孝さんの研究詳細が「幕末史研究 No.41」に掲載されています)
ここには他にも沢山の武術/流派の扁額が奉納されているのだけど、屋外にあるものはごらんのように文字がきれいさっぱり消え去っています…中には雹に当たってぼこぼこになっているものも(同▲)
西へ進み、日の出町へ少し入った大久野には慶応4年(1868年)甲州戦争後、新政府軍に追われた 佐藤彦五郎/のぶさん夫妻がかくまわれた 羽生家があります
まず一家は多摩川沿いに平町(当時小宮村北平)の 大蔵院へ。ここにも追手が迫ったため裏山伝いに逃亡、そのとき遠目から白足袋がちらちら見えた、という「聞きがき新選組」の記述は有名。その後二宮村(下記)を経て、一家はようやく夜中にこちらへ逃げ延びたとのこと(写真▼)
車でもかなり大変な距離なのに、よくこんなところまで…
山間部を南へ下り、八王子の西寄り・ 下恩方。このあたりは室町時代から北条氏と縁の深かった 武州下原刀(したはらとう)を作る「下原鍛冶」と呼ばれた 山本一族(十家)が住んでいた場所だそうです(現在でもご子孫が)
そして北条氏が滅び江戸時代に入ると徳川家の庇護下に…(下原刀については平野勝さん著「多摩・新選組紀聞」にも詳しい記述が)
近藤の「虎徹」も、実は下原刀だったのでは、という話もあり?
北浅川沿いに山本家がずらっと並び、庭先にはそれぞれの家の由来の碑が建っています(写真下)
昔は庭先に道場を備えた家もあったもよう。少し離れた 辺名にある 下原刀鍛冶発祥の地の碑(写真▲左)付近は現在圏央道の延長工事真っ只中で、別名「ダンプ街道」と呼ばれているそうな…
■5 中島登出生地/観栖寺・中島家墓所(八王子市西寺方町)
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「中島登覚書」や「戦友姿絵」を描いたことで有名な新選組隊士・ 中島登の生家跡(写真▼右から2枚目/今は古着のリサイクルショップ)と先祖の墓所・ 観栖寺(同▼左)もそのすぐ近くに。
中島家も千人同心の家柄だったそうな
ご存知のとうり中島登は箱館まで土方らと共に戦い、弁天台場で降伏、その後静岡へ。自身のお墓は浜松にあるとのこと
下原鍛冶・山本一族の墓所。天然理心流3代目宗家の最有力候補だった 増田蔵六(結果的に3代目は 近藤周助に落着いたわけですが…)の直弟子である 山本満次郎のお墓もここに(同▲右) 満次郎さんは中島登の師匠にあたるそうな
[ 下恩方周辺地図↓ ]
あきる野市の東のはずれ 二宮には上記、松崎和多五郎の門弟・ 井上才市則清の道場・ 心武館がありました。現在は 井上才市翁表徳碑(写真▼左)が建ち、跡地脇にはいまだに御子孫が…流派が分裂していた天然理心流ですが、井上才市は近藤勇の婿/5代宗家・ 近藤勇五郎とも交わりがあったとのこと。現在心武館と9代目宗家は協力して技の存続を図っているとか
[ 二宮周辺地図↓ ]
また聞き書き新選組によると、佐藤彦五郎さんのぶさん夫妻は慶応4年(1868年)3月、新政府軍に追われ上記・大久野の羽生家へ向かう前、ここ二宮の茂平氏宅に立ち寄って案内してもらったそうな
二宮の南東、 拝島大師には上記・ 井上才市が願主となり大正2年?に奉納した天然理心流扁額(写真▲中央/右)が。こちらは屋外の軒下にあるためか、多少墨の色はあせてきているようですが、交流があったという 近藤勇五郎さんの名前も見えます
広い境内は正月のだるま市で有名だそうな
[ 拝島周辺地図↓ ]
前述の羽生家がある大久野の南、五日市の 阿伎留神社には明治41年(1908年)5月5日に 酒井直治やその門人によって奉納された 神道無念流の扁額(写真▼)があります。ここも屋内にあるため保存状態は良好。揮毫は自由民権運動を通じて親交があったという 本田退庵(定年)さん。やはりこちらも交流があったのか、「客人」の欄には 近藤勇五郎さんの名前が
▲写真にポインタを乗せてみてください
そこから北に少し離れた斜面を登るとナツツバキが名物の開光院。ここの山門右脇にある長屋門(ポインタを置いた写真▲右)に酒井直治の道場があったそうな。その長屋門前広場には直治の碑(同▲左)が建てられています
[ 五日市周辺地図↓ ]
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