さて、私もついに先日3日間にわたり、念願の京都(新選組関連スポット)へ行ってまいりましたっ!!!(遅っ)…ということで、まずは新選組(浪士組)の最初の屯所となった壬生のリポートから
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ご存知 山南さんら隊士や関係者28人が眠る 光縁寺(写真▼) ここをお参りすることが京都行きの主目的だったと言っても過言ではない…?
平日の朝ということもあってかほかに訪ねて来る人もなく、ご住職さんにじっくりとお話を伺ったり質問したりもできて大感激、大満足
こちらでは当時近くに新選組の馬屋があったことや、お寺の紋が山南さんの家紋と同じ 丸に右離れ三つ葉立ち葵(ポインタを置いた写真▼中央)であったことから縁ができ、隊士たちの供養や埋葬がされるようになったとのこと
▲写真にポインタを乗せてみてください
隊士たちの墓石は本堂の裏側、いちばん奥に(写真▼) 中でも山南さんの墓石(ポインタを置いた写真▲左)は傷みが激しく、表面が剥離したのを接着したような跡も…ああ、なんとか文字が読めるうちに来られてよかった?
有名な話ではあるけれど、もともと隊士たちの墓石は、今より北側の現・京福線線路あたりにあったもののうちいくつかをこちらに移築したそう…というわけで、遺骸は今もそのまま線路の下に…?(同▲右)
ううう合掌
お墓は意外に開けた明るい場所にあり(もっと鬱蒼とした場所を想像していた)、すぐ後ろには普通の民家が…真上のベランダではちょうど洗濯物を干しているところで、降って来たりしたらどうしようかと思ってしまった…(笑)
▲写真にポインタを乗せてみてください
墓石にはそれぞれ複数の名前が刻まれ、おなじみのところでは 松原忠司/河合耆三郎/茨木司/佐野七五三之助/中村五郎/冨川十郎などなど(ポインタを置いた写真▲中央) 戒名でないのは、おそらく宗派がわからなかったので付けようがなかったからだろう、とのこと
右脇には 沖田氏縁者のお墓(写真▲右) ←ご住職は「明里説」のようです
ちなみに山南さんの葬儀については、過去帖に「 経料金子二百匹〜」とあるので、お経代が発生しているということは永倉が言っているように「神式」ではないだろう、とも言われていましたが
しかし今でこそこんなふうに訪ねて来る人も多いお墓だけれど、新選組との関わりのせいで戊辰以後はかなり辛い日々だったことがご住職の言葉の端々から感じられました
本堂には先代のご住職が作られたという隊士たちの 位牌が(ポインタを置いた写真▲左) そして新旧新選組関連本や、以前研究家の方が残されて行ったという古い資料写真もどっさりとそろえられていて…う〜ん正直、1日いても飽きなさそう(…というわけで?二日連続で出掛けてしまったのだけど(笑))
ちなみに本堂は文政2年(1819年)に建てられたもので築186年、当然新選組が出入りしていた当時のままとのこと
山南さんファンにはたまらない?「丸に右離れ三つ葉立ち葵」紋付きおせんべい(同▲右)もお土産用に?売られていたりします(笑)
ううっありがたくて食べられない…
[ 壬生周辺地図 ]
後ろ髪を引かれつつ、綾小路通を西へしばらく歩くとご存知 前川邸(写真▼)が。浪士組が発展するにつれ、はじめに落着いた 八木邸が手狭になりこちらにも進出。非公開ですが、門の中の広場?には1部50円の説明書が置かれていてそこまで入ることができます(ポインタを置いた写真▼中央)
この長屋門脇の小部屋で野口健司が切腹したとか
▲写真にポインタを乗せてみてください
坊城通をずっと行った先には山南さんが切腹した部屋あたり、 出窓があったあたりが見えます(写真▲右/ポインタを置いた写真▲左) 今は板壁。その出窓跡あたりを通りすぎると当時向かいの八木邸との往来に使われていたという裏口跡へ(ポインタを置いた写真▲右)
奥のほうにちらっと見える屋根が、 古高俊太郎を拷問にかけたという蔵だそう
周辺の雰囲気の中ではこの一角だけ際立って武骨で、いまだ外部に対する堅い守りの空気が…
[ 情報: 前川邸 ] ←「山南忌」情報も
(写真▼左)は 綾小路通・光縁寺前から見た前川邸方面の風景。このあたりを隊士たちが頻繁に往来していたのでありましょう…(▼中央)は同じく綾小路通・前川邸前。奥のほうに長屋門。この前の畑(当時)で霧の中、原田が楠小十郎を倒したという話も…
(▼右)は 坊城通・八木邸前から前川邸・出窓跡方面を見たところ
前川邸と坊城通を挟んで真向かいには最初の駐屯地・ 八木邸(写真▼) 現在は門の前に現八木家ご当主経営の和菓子屋さんが。当時はこの店舗裏側あたりに離れがあり、近藤一派はそちらで寝起きしていたそうな(芹沢派が母屋使用)
門は築200年前後とのこと
ここは屋内の写真撮影NG。ガイドさんが25分くらいかけて八木家に伝わる話などを説明してくれます。その後は自由に内部を見ることが出来るのだけど、どうしたはずみか一瞬だけ、家の中にひとりで取り残されるという瞬間があり…縁側で山南さんが袂のほつれをぼーっといじっていた、という話を思い出し、庭先でじんわり
芹沢が倒されたときついたという刀傷には防護用のプラスチックの覆いが…(しかし画鋲で止めてあるのは体裁としていかがなものか?(笑)) 最期につまづいて倒れたという文机も子供部屋?にあっけらかんと置かれていて…思ったより質素なしつらえ。今の子供がやるのと同じような削り傷が一面に
しかし、離れの規模がどのくらいのものだったのかよくわからないけど、あらためて、昔の日本家屋って限りなくプライバシーゼロ…むさくるしい?男たちが13人も居座ったのじゃ、さぞかし大変な思いだっただろうなあ…(笑)
見学が終わると前のお店でお抹茶と「屯所餅」がいただけます。これも合わせて見学料1000円。お店には各種新選組グッズも
[ 情報: 八木家 ]
八木家を出て右(南)へ坊城通を進むと左側に 新徳寺(写真▼左)が。文久3年2月23日、到着した夜に 清河八郎が浪士組を前に演説をぶったところ。また、近藤や芹沢一派が江戸へ帰ることを拒否した場所。非公開
さらに進むと右側に 壬生寺(写真▲中央)が。近藤たちが壬生大相撲を開いたり、沖田が境内で子供たちと遊んでいたというエピソードは有名…屯所が西本願寺へ移った後もここで調練などをしたので大迷惑だったという話ですが、たしかにこれだけの広さがあれば、調練にはもってこいだったかも…
門を入って右側には新選組関係の墓石や碑を集めた 壬生塚が(入場100円) 近藤の胸像(写真▲右)や 芹沢鴨/平山五郎の墓石、 田中伊織(新見?)/野口健司/葛山武八郎らの名前が刻まれた墓石、そして 河合耆三郎の墓、近藤の 遺髪塔(遺髪が納められている?)などがあります(同▲向かって左から)
河合のお墓が意外に小さかったのにびっくり
パンフによると田中伊織らの墓石の脇に刻まれた漢詩は山南さん作だという話も…
ここにも新選組グッズや書籍がたくさん。なぜか山崎グッズが充実?
[ 情報: 壬生寺 ]
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