「新選組!」のおと
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壬生探訪 10/31, 11/01/2005 他 Mibu, Kyoto


さて、私もついに先日3日間にわたり、念願の京都(新選組関連スポット)へ行ってまいりましたっ!!!(遅っ)…ということで、まずは新選組(浪士組)の最初の屯所となった壬生のリポートから


▼▼▼▼▼

■1 光縁寺

ご存知山南さんら隊士や関係者28人が眠る光縁寺(写真▼) ここをお参りすることが京都行きの主目的だったと言っても過言ではない…?
平日の朝ということもあってかほかに訪ねて来る人もなく、ご住職さんにじっくりとお話を伺ったり質問したりもできて大感激、大満足

こちらでは当時近くに新選組の馬屋があったことや、お寺の紋が山南さんの家紋と同じ丸に右離れ三つ葉立ち葵(ポインタを置いた写真▼中央)であったことから縁ができ、隊士たちの供養や埋葬がされるようになったとのこと

光縁寺1
写真にポインタを乗せてみてください

隊士たちの墓石は本堂の裏側、いちばん奥に(写真▼) 中でも山南さんの墓石(ポインタを置いた写真▲左)は傷みが激しく、表面が剥離したのを接着したような跡も…ああ、なんとか文字が読めるうちに来られてよかった?

有名な話ではあるけれど、もともと隊士たちの墓石は、今より北側の現・京福線線路あたりにあったもののうちいくつかをこちらに移築したそう…というわけで、遺骸は今もそのまま線路の下に…?(同▲右) ううう合掌

お墓は意外に開けた明るい場所にあり(もっと鬱蒼とした場所を想像していた)、すぐ後ろには普通の民家が…真上のベランダではちょうど洗濯物を干しているところで、降って来たりしたらどうしようかと思ってしまった…(笑)

光縁寺2
写真にポインタを乗せてみてください

墓石にはそれぞれ複数の名前が刻まれ、おなじみのところでは松原忠司/河合耆三郎/茨木司/佐野七五三之助/中村五郎/冨川十郎などなど(ポインタを置いた写真▲中央) 戒名でないのは、おそらく宗派がわからなかったので付けようがなかったからだろう、とのこと

右脇には沖田氏縁者のお墓(写真▲右) ←ご住職は「明里説」のようです
ちなみに山南さんの葬儀については、過去帖に「経料金子二百匹〜」とあるので、お経代が発生しているということは永倉が言っているように「神式」ではないだろう、とも言われていましたが

しかし今でこそこんなふうに訪ねて来る人も多いお墓だけれど、新選組との関わりのせいで戊辰以後はかなり辛い日々だったことがご住職の言葉の端々から感じられました

本堂には先代のご住職が作られたという隊士たちの位牌が(ポインタを置いた写真▲左) そして新旧新選組関連本や、以前研究家の方が残されて行ったという古い資料写真もどっさりとそろえられていて…う〜ん正直、1日いても飽きなさそう(…というわけで?二日連続で出掛けてしまったのだけど(笑))

ちなみに本堂は文政2年(1819年)に建てられたもので築186年、当然新選組が出入りしていた当時のままとのこと

山南さんファンにはたまらない?「丸に右離れ三つ葉立ち葵」紋付きおせんべい(同▲右)もお土産用に?売られていたりします(笑) ううっありがたくて食べられない…

[ 壬生周辺地図 ]
壬生地図


■2 前川邸

後ろ髪を引かれつつ、綾小路通を西へしばらく歩くとご存知前川邸(写真▼)が。浪士組が発展するにつれ、はじめに落着いた八木邸が手狭になりこちらにも進出。非公開ですが、門の中の広場?には1部50円の説明書が置かれていてそこまで入ることができます(ポインタを置いた写真▼中央) この長屋門脇の小部屋で野口健司が切腹したとか

前川邸
写真にポインタを乗せてみてください

坊城通をずっと行った先には山南さんが切腹した部屋あたり、出窓があったあたりが見えます(写真▲右/ポインタを置いた写真▲左) 今は板壁。その出窓跡あたりを通りすぎると当時向かいの八木邸との往来に使われていたという裏口跡へ(ポインタを置いた写真▲右) 奥のほうにちらっと見える屋根が、古高俊太郎を拷問にかけたという蔵だそう

周辺の雰囲気の中ではこの一角だけ際立って武骨で、いまだ外部に対する堅い守りの空気が…

[ 情報: 前川邸 ] ←「山南忌」情報も


■3 綾小路通/坊城通

(写真▼左)は綾小路通・光縁寺前から見た前川邸方面の風景。このあたりを隊士たちが頻繁に往来していたのでありましょう…(▼中央)は同じく綾小路通・前川邸前。奥のほうに長屋門。この前の畑(当時)で霧の中、原田が楠小十郎を倒したという話も…
(▼右)は坊城通・八木邸前から前川邸・出窓跡方面を見たところ

壬生

■4 八木邸

前川邸と坊城通を挟んで真向かいには最初の駐屯地・八木邸(写真▼) 現在は門の前に現八木家ご当主経営の和菓子屋さんが。当時はこの店舗裏側あたりに離れがあり、近藤一派はそちらで寝起きしていたそうな(芹沢派が母屋使用)
門は築200年前後とのこと

ここは屋内の写真撮影NG。ガイドさんが25分くらいかけて八木家に伝わる話などを説明してくれます。その後は自由に内部を見ることが出来るのだけど、どうしたはずみか一瞬だけ、家の中にひとりで取り残されるという瞬間があり…縁側で山南さんが袂のほつれをぼーっといじっていた、という話を思い出し、庭先でじんわり

八木邸

芹沢が倒されたときついたという刀傷には防護用のプラスチックの覆いが…(しかし画鋲で止めてあるのは体裁としていかがなものか?(笑)) 最期につまづいて倒れたという文机も子供部屋?にあっけらかんと置かれていて…思ったより質素なしつらえ。今の子供がやるのと同じような削り傷が一面に

しかし、離れの規模がどのくらいのものだったのかよくわからないけど、あらためて、昔の日本家屋って限りなくプライバシーゼロ…むさくるしい?男たちが13人も居座ったのじゃ、さぞかし大変な思いだっただろうなあ…(笑)

見学が終わると前のお店でお抹茶と「屯所餅」がいただけます。これも合わせて見学料1000円。お店には各種新選組グッズも

[ 情報: 八木家 ]


■5 新徳寺

八木家を出て右(南)へ坊城通を進むと左側に新徳寺(写真▼左)が。文久3年2月23日、到着した夜に清河八郎が浪士組を前に演説をぶったところ。また、近藤や芹沢一派が江戸へ帰ることを拒否した場所。非公開

新徳寺/壬生寺

■6 壬生寺

さらに進むと右側に壬生寺(写真▲中央)が。近藤たちが壬生大相撲を開いたり、沖田が境内で子供たちと遊んでいたというエピソードは有名…屯所が西本願寺へ移った後もここで調練などをしたので大迷惑だったという話ですが、たしかにこれだけの広さがあれば、調練にはもってこいだったかも…

壬生寺

門を入って右側には新選組関係の墓石や碑を集めた壬生塚が(入場100円) 近藤の胸像(写真▲右)や芹沢鴨/平山五郎の墓石、田中伊織(新見?)/野口健司/葛山武八郎らの名前が刻まれた墓石、そして河合耆三郎の墓、近藤の遺髪塔(遺髪が納められている?)などがあります(同▲向かって左から)
河合のお墓が意外に小さかったのにびっくり

パンフによると田中伊織らの墓石の脇に刻まれた漢詩は山南さん作だという話も…

ここにも新選組グッズや書籍がたくさん。なぜか山崎グッズが充実?

[ 情報: 壬生寺 ]




油小路探訪 11/01/2005 Shimogyo-ku, Kyoto


■7 西本願寺

第二の屯所となった西本願寺(写真▼) 長州シンパだったこのお寺へのけん制といやがらせ?も兼ね、元治2年(1865年)3月10日、手狭になった壬生から移転。太鼓楼は当時のままとのこと。太鼓楼裏側にあったという屯所・北集会所はご存知のように姫路の亀山御坊本徳寺に移築されており、面影はなし

西本願寺

■8 天満屋跡

そして堀川通を挟んで真向かいのあたり(正面は油小路側)には天満屋跡が…時間はだいぶ飛びますが、慶応3年(1867年)12月7日、紀州藩士・三浦休太郎を坂本龍馬の仇と誤解した陸奥宗光ら土佐藩士たちがここを襲い、三浦の護衛についていた斎藤一ら新選組と乱闘になった天満屋事件の舞台。結果、十津川郷士・中井庄五郎や新選組隊士で近藤の従弟・宮川信吉がここで死亡

現在はビルの前のゴミ捨て場?の前にちんまりとお社と碑が残るのみ…(写真▲右)
碑文もなぜか「天満屋」の名前は無く、中井正(庄)五郎殉難の地となっています

[ 油小路周辺地図 ]

油小路地図1


■9 不動堂村

新選組の乱暴狼藉?に辟易した西本願寺の全負担で作られたという不動堂村屯所
敷地は一町四方もあったということで、一辺約109メートル(京都の町の尺だと400尺、約120メートル?)、1万平方メートル以上…そんな広大な場所なのに、その位置についてはいまだ諸説あって、少なくとも3箇所に碑が建っているようですが…(笑) とりあえず、リーガロイヤルホテル(ポインタを置いた写真▼中央/右)のあたりではないらしい?

不動堂
写真にポインタを乗せてみてください

この明王院不動堂(写真▲)周辺がその名のとおり旧不動堂村らしいので、やはりこの辺(ポインタを置いた写真▲左)があやしいのかも? (軒下にはご覧のように「まぼろしの屯所」の提灯も…)
いまのところ全然不勉強なので、このあたりについては今後の課題に

■10 油小路/本光寺

慶応3年(1867年)11月18日の夜、新選組から分離し御陵衛士となった伊東甲子太郎が、七条醒ヶ井にあったという近藤の妾宅から徒歩で帰宅途中、大石鍬次郎たちに襲われた木津屋橋通油小路の辻(写真▼右・南から北を望む)
妾宅の位置については、これも諸説あるようですが…

そこからすぐのところに伊東絶命地点の本光寺(写真▼左) 門前に説明板と碑が。お願いすれば1部100円?の説明文もいただけるらしく、ちょうど女の子たちが呼び鈴を鳴らしていましたが、このときは応答がなかったようです

油小路
写真にポインタを乗せてみてください

■11 油小路七条の辻

絶命した伊東の遺体を移し、それを囮に御陵衛士・高台寺党の面々を待ち伏せたという七条油小路の辻(ポインタを置いた写真▲左・南から北側/右・北から南側を望む)
極寒の月明かりの下、藤堂平助/服部武雄/毛内監物(有之助)の3人がここで討死、残党をおびき寄せるため、遺体はそのまま4日間ここに晒されたという凄惨な現場なのだけど…いまは交通量も多く、ごく普通の交差点風景

加納鷲雄/三木三郎/篠原泰之進/富山弥兵衛の4人はそれぞれ堀川通などに沿って脱出、相前後して今出川の薩摩藩邸に逃げ込み、のちのち近藤に引導を渡すことに
(逃走ルートは加納の後日談に依り)

[ 油小路周辺詳細地図 ]

油小路地図2




東山探訪 10/30/2005 Higashiyama, Kyoto


■12 高台寺月真院

慶応3年(1867年)3月20日に新選組から分離した伊東甲子太郎ら御陵衛士の屯所。高台寺党と呼ばれる所以でもあるわけですが…門の脇に説明文と碑が(写真▼左)
ふだんは非公開だけれども、宿泊は可能らしい…!?

分離した当初はなかなか居場所が見つからなかったようで、20日夜は三条南西海子町の城安寺に1泊、21日以降は五条橋東の善立寺(移転)に逗留…6月ごろ最終的にここ高台寺月真院に落着いたそうな
慎重に分離の準備を重ねていたはずなのに、逗留場所もまともに決めていなかったなんて、なんともお間抜け…やっぱりツメが甘かったのか?
それとも本人たちもまさか分離が認められるとは思っていなかったのか…

高台寺は豊臣秀吉正室の北政所(おねね)に縁のあるお寺ということで、この前を通る道は現在「ねねの道」と言われ、両側にお土産屋や甘味屋が立並び、観光客が溢れてまともに歩くこともできないくらい…(笑) なるべく平日に行くことをオススメします

月真院/明保野亭跡

■13 明保野亭跡

元治元年6月10日に起きた明保野亭事件の舞台。新選組とともに池田屋事件の残党狩りをしていた会津藩士・柴司が誤って土佐藩士・麻田時太郎に怪我を負わせ、後に両者の切腹で決着を見たという悲劇

「明保野亭」は現在も産寧坂(三年坂)脇で営業中で、門の脇に碑(写真▲右)や説明文(「明保野亭事件」については記述無し)もあるのだけれど、当時はここより東北の位置にあったそうな。(同▲右から2枚目)は「明保野亭跡」としてよく登場する門。この南側あたりが「明保野亭」だったとも(北側という話も有り)

[ 東山周辺地図 ]
東山地図


■14 維新の道

高台寺月真院がある「ねねの道」を霊山護国神社のほうへ左に折れるとそこは維新の道(写真▼左)…途中右手には元西本願寺の別館で、攘夷派がよく集会に利用したという翠紅館跡(同▼中央)や維新の道碑(同▼右)などが

つきあたり右手にはご存知霊山歴史館があって、坂本龍馬/中岡慎太郎/桂小五郎/西郷隆盛/大久保利通/勝海舟らをはじめ、新選組などなど幕末/維新関連の資料が数多く所蔵、展示されています…幕末ファンにはたまらない場所

[ 情報: 霊山歴史館 ]


霊山1

■15 霊山護国神社/殉難志士墳墓

つきあたり反対側の左手には霊山護国神社が。その裏山は維新のために尽力した人たち1356名を奉った殉難志士墳墓があり、それぞれグループごとに墓標が西を向いて立っていて、その様子は壮観(写真▼/入場300円)

入口からの石段を登っていちばん最初に見えるのが坂本龍馬/中岡慎太郎の墓(写真▼左)で、さすがに人気が高くお参りの人が絶えない様子…慶応3年(1867年)11月15日、近江屋で襲撃されたふたりは17日夜(18日とも)にこちらへ埋葬されたとのこと(龍馬はその場で死亡、中岡は17日死去) 左脇にはやはり近江屋で犠牲になった従僕・藤吉の墓も…

霊山2

脇には古高俊太郎(写真▲右)、宮部鼎蔵/吉田稔麿/池田屋惣兵衛(同▼左)など、「池田屋事件」がらみで亡くなった人たちの墓標が。さらに奥へ進むと「禁門の変」などで死亡した長州の面々の墓標群。(同▼中央)は左から入江九市(久一)/寺嶋忠三郎/久坂義助(玄瑞)/来嶋又兵衛/高杉晋作、一群から少し離れて大村益次郎の墓標も(同▼右)

ほかにも土佐藩や天誅組などの墓標群が斜面を埋め尽くしています

霊山3
写真にポインタを乗せてみてください

そして天辺には木戸孝允(桂小五郎)の立派な墓石(ポインタを置いた写真▲左)が…こちらへの埋葬は本人の遺言とのこと。傍らには妻・松子(幾松)の墓(同▲左から2枚目)も…

ここの斜面からは京都が一望。大河でもよく使われていたカットかも?

霊山から歴史館の裏を通り、二年坂方面へ降りる坂(同▲右)は龍馬坂と呼ばれているそうです




戒光寺/泉涌寺 10/30/2005 Higashiyama-ku, Kyoto


■16 戒光寺

高台寺党・御陵衛士の墓所。そもそも御陵衛士拝命のときに尽力してくれたのがこちらの長老の方だったという縁でこちらに葬られたもよう

正面に油小路事件で落命した毛内/伊東/藤堂/服部(左から)の4人の墓石。事件直後は光縁寺に葬られていたのが翌慶応4年(1868年)3月にこちらへ改葬されたそうな
(光縁寺の過去帳には4人の名前が記載されている)
伊東の墓石の側面には建立に関わった元御陵衛士の面々の名前が

戒光寺1

そして左側には、その後戊辰戦などで命を落とした富山弥兵衛/清原清/佐原太郎(篠崎信八郎・伏見街道での近藤襲撃に参加)や御陵衛士加入ならず自刀した茨木司/佐野七五三/富川十郎/中村五郎ら7人の墓碑(写真▼右)←こちらも光縁寺に名前を刻んだ墓石有り
その奥にあるのは新井忠雄の従者(戊辰戦で死亡)のお墓とのこと

従者の人や茨木ら、正式には「御陵衛士」とはなっていない人たちまで一緒に葬られているあたり、彼らのまとまりの良さや、それだけに一層無念さが伝わって来るようでした

戒光寺2
写真にポインタを乗せてみてください

すぐお隣の即成院は今年の大河に登場した那須与一の墓所ということで、なかなか賑わっていましたが、こちらはひっそりと…入口は針金で閉じられていて一見進入禁止のように見えますが、じつは簡単に開きます(笑) ←はじめよくわからなくて、入り方を聞きに本堂との間の坂をダッシュで2往復してしまった…
ちなみに本堂は泉涌寺総門(写真▼左)を100メートルほど入った左手にあります

■17 泉涌寺

裏山に孝明天皇の墓所後月輪東山陵(同▼右)が。こちらは天皇家の葬儀を室町時代から執り行ってきた場所で、皇室との関わりが深く、「御寺(みてら)」とも言われているそうな。戒光寺や即成院もこちらの塔頭で、本堂は総門内に

境内への入口の左側の参道をしばらく上ると突き当たりが孝明天皇陵。もう少し紅葉が進んだ季節になると美しいかも。脇には后である英照皇太后の陵も
慶応3年(1867年)1月27日に大葬が執り行われ、徳川慶喜、松平容保らも随行したそうな

夕方遅い時間だったこともあり、参道を降りてきたらもう門が閉じられていて、脇の植えこみから出るハメに…(涙) というわけで泉涌寺の境内へはもう入れなかったのだけど、参道から見える屋根や装飾は荘厳でありました

泉涌寺

このすぐそばには鳥羽伏見の戦いで長州藩の本陣となったという東福寺もあり、広大な敷地に巡らされた築地塀の風景はいかにも「京都」。鳥羽伏見戦防長殉難志士の墓や碑、薩摩藩士東征戦亡碑などが境内にあるそうなのだけど、もう閉まっていて行けず…

[ 泉涌寺周辺地図 ]


泉涌寺周辺地図




島原探訪 10/31/2005 Shimabara, Kyoto


■18 島原

壬生や第二の屯所・西本願寺にも近く、新選組隊士たちが足しげく通ったという花街。揚屋(置屋から太夫や芸妓を派遣してもらう料亭)であった角屋(写真▼)は現在でも唯一残る「揚屋建築」として保存、公開されています…今回は休館日で見られず残念(2階の座敷も別料金で見学可能とのこと)

文久3年(1863年)6月ころ?ここで芹沢鴨が乱暴狼藉をはたらいた末、7日間の営業停止を言い渡したり、9月16日(18日?)にはこちらで開かれた祝宴でしたたか飲んだのち、八木邸で暗殺されたことでも有名

島原1

新選組に限らず勤王派にも頻繁に利用されていたとのことで、北東脇には久坂玄瑞の密議の角屋碑も…(写真▲左/中央) 久坂はこちらになじみの芸妓がいて、禁門の変の前日、密かに会いに来たけれども果たせなかったとも…

[ 情報: 角屋もてなしの文化美術館 ]


島原2

少し北東へ行ったところにはこちらも唯一残る置屋(太夫や芸妓を置き、揚屋などに派遣する店)・輪違屋(写真▲中央/右)が。芹沢鴨が暗殺された夜、逃亡した平間重助といっしょにいたという輪違屋糸里、浅田次郎さんの小説などでも有名ですが…(ただ「糸里」に関する史料は残っていないそうな) 中には近藤の書の屏風もあるそうなのだけど、残念ながら非公開とのこと

さらに東へ行くと、島原大門(同▲左)が。昔島原は堀に囲まれていて、客はみなここをくぐって通ったとか。角屋の少し北には後にできたという反対側の西門跡碑も

[ 島原周辺地図 ]
島原地図



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[ 「新選組!」のおと -Shinsengumi Note-/TOP ]
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