「新選組!」のおと
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市川/鴻ノ台探訪 10/22/2005, 03/25/2006 Ichikawa/Konodai


熱烈な土方ファンのYさん、Sさんとともに行ってきました。でもこのあたりについてはまだまだはっきりしていないことが多いので、おもしろくもあり苦しくもあり… 今後もまた随時追加情報など入れていくつもりです

▼▼▼▼▼

■1 小岩市川関所

市川の入口・関所跡(写真▼) 実際の関所は対岸の小岩にあったようですが。ここから道は左右に分かれ、右に行くと市川、八幡宿などを抜けながら東に向かう佐倉街道、左へ行くと鴻ノ台、松戸宿などを通過しながら北へ向かう松戸街道(水戸街道)。「南柯紀行」によると江戸を脱出した旧幕府脱走軍・大鳥圭介らは慶応4年(1868年)4月12日にここ「市川の渡船場」から市川側に渡ったものと思われます

前日やはり市川側に入った土方のルートは不明ですが、島田魁日記、中島登覚書ともに「小梅(墨田区向島あたり)」→「市川」→「鴻ノ台」というルートをとっているようなので、やはりこを渡るのが自然だろうな、と…

市川関所跡

■2 大林院/弘法寺

こちらは市川へ入った土方や大鳥圭介らが慶応4年(1868年)4月12日に軍議を開いたと言われる大林院(大林房)跡(写真▼) 前日の11日にはここ市川の鴻ノ台(国府台)に入ったと言われる土方ですが、幹部級の人々はおそらくここに滞在していたのでは、とのこと(寺院は残念ながら明治21年の火事で焼けてしまったそうな)

前々からどうして「大林院」と特定されたのかなと思っていたのですが、どうやら大元は大鳥圭介南柯紀行(平凡社版/昭和16年発行)の「駅畔なる小寺院」という箇所に挿入されている編者・山崎有信氏による注釈= 『編者曰く、小寺院は市川町大字眞間弘法寺末寺大林院なり』 のようですね…この山崎氏がどこから「大林院」と断定したのかはよくわからないのですが、いまのところこれ以上追求できません…???

大林院跡

大林院については水戸佐倉道分間延絵図に弘法寺が描かれていて、そこからだいたいの位置を推測できます(絵図では「大林房」となっている)現在は何の形跡もなく、普通の住宅地になっています
※「大林院」については別の場所だとされていることが多く、そちらも見に行ったこともあるのですが、とりあえず歴史博物館の方に教えていただいたのはこちらの「水戸佐倉道分間延絵図」のほうでありました

すぐ南側には万葉集にも歌われている、自らの美貌ために命を断ったという「手児奈」を奉った手児奈霊神

すぐ北の真間山・弘法寺(ぐほうじ)にも幕軍は駐屯したのかどうか…? 木々に覆われた急な階段(いつも濡れているという涙石がある)を登ると古い仁王門(写真▼左)が

[ 情報: 弘法寺 ]

弘法寺
写真にポインタを乗せてみてください

境内では樹齢400年以上という伏姫桜がちょうど満開。 幕軍の人たちが来たときには、残念ながらもう散ってしまったあとだったと思われますが…(ポインタを置いた写真▲左/中央)

この真間山南東の端からは市川が一望。大林院付近も真下に見下ろせます(同▲右/若干これより右寄りのあたりか?) ここで偵察などもしていたかもしれません

[ 市川周辺地図↓ ]
市川周辺地図


弘法寺から横道を通って坂を下るとすぐ松戸街道。左は市川方面(写真▼左)、右は坂下から松戸方面へ(同▼右) このあたりから上が「鴻ノ台」。ここを幕府脱走軍は北上して行ったと思われます

弘法寺の正面の参道の入口は佐倉街道側の市川にありますが(ポインタを置いた写真▲右)、遅れて来た大鳥らはおそらく渡船場から左へ曲がり、このあたりの松戸街道側から真間へ入ったのでは(上図)

松戸街道

■3 總寧寺

こちらも土方らが幕府脱走軍と合流したという話がある、市川鴻ノ台の総寧寺(写真▼) 桜の名所・里見公園の中にあります。ただごらんのようにここを訪ねた日は秋、しかもあいにくの雨で残念

歴代住職が十万石大名の格式で遇されていたというだけあって、境内は広く、なるほどここなら大勢が駐屯しても全然平気そうな…

ただ、土方や大鳥らが鴻ノ台に集まったという記述はよく目にするのだけど、総寧寺という単語にはいまのところまったく遭遇しないのですね…関連本には出典が記載されないまま、そう注釈が入っていたりしますが

総寧寺

土方と行動を共にしていたふたりが書いた中島登覚書/島田魁日記にも、ともに 『市川駅を過、鴻ノ台に一泊』 としか書かれていないし? でもいきなり3000人あまりも幕軍がやって来たわけで、この付近にも兵士は分宿していたのかもしれませんが

南柯紀行には「鴻ノ台」と「市川」という地名のみ登場。しかもほとんど同義で使われているような (←地元民でなければ、「市川」も「鴻ノ台」も区別はつかないかもしれない? そういえば弘法寺はちょうどボーダー上にあるし…)

加藤平内率いる御料兵の一団が13日、総寧寺に宿泊したという記録は残っているそうです←あとで大鳥軍に追いつき合流(「慶応兵謀秘録-脱走日誌」/ ←このほか平凡社版「南柯紀行」についてもいつもお世話になっているAさんに教えていただきました) ただ同じ13日に市川に駐屯していた官軍勢に対して地元の村から布団を供出した、という記録もあるようなので(「幕末の市川」市川歴史博物館刊)、そうなるとものすごいニアミス!?(汗)


江戸川

(写真▲左)は国府台(こうのだい)駅側から見た江戸川、右端の丘が総寧寺のある里見公園、左側が五兵衛新田のあった綾瀬方面。そして(同▲右)は里見公園西端から見たお江戸方面。雨にけぶっております。晴れた日には富士山も見えるということですが…土方さんはここから江戸を見たのかどうか?

ともあれ旧幕脱走軍はこのあたりから三軍に分かれ、松戸/小金方面へ北上




松戸探訪 03/25/2006 Matsudo


■4 松戸宿

12日に土方ら前軍が通過し、大鳥ら中軍が宿泊した松戸宿(ポインタを置いた写真▼右/北(小金)方面を望む) ここで松戸街道と水戸街道が合流。それそれ分宿したようでどのあたりに泊まったかははっきりしませんが、このあたりが本陣跡(写真▼中央/右)と脇本陣跡(同▼左) 本陣は2004年の夏に取り壊されてしまったそうです…がーん

松戸宿本陣/下横町渡船場
写真にポインタを乗せてみてください

水戸街道沿いに対岸の金町松戸関所(現東京都葛飾区金町あたり/ポインタを置いた写真▲中央)から渡しを超えて来た場合の宿の玄関口・下横町渡船場(同▲左)には「番兵を出」したようです。現在は是より御料松戸宿の碑が立っています

このあたりには古い店舗などもちらほらと残っていて、昔懐かしい雰囲気が…(写真▼左) 地元のYさんご推薦の老舗のお蕎麦屋さんでいただいた「鴨せいろう」も美味で満足でごさいました(笑)

宝光院

直接には関係ないですが、北辰一刀流創始者・千葉周作の父上と言われている千葉忠左衛門こと浦山寿貞が眠る宝光院もここに(写真▲中央/右) ものすごく端っこの分かり難い場所にあったので、みんなで探しまくってようやく発見。千葉周作が修行したという小野派一刀流・浅利道場もすぐ脇にあったそうですが、そのあたりは守備範囲外なので今回はこれまで…

近くには徳川昭武さん(慶喜弟・最後の水戸藩主)の別邸跡という戸定歴史館などもあり、またゆっくり訪ねてみたいところです

[ 松戸周辺地図↓ ]
松戸周辺地図




小金探訪 10/22/2005, 03/25/2006 Kogane, Matsudo


さてさて10月に訪ねたときにはここから新選組流山隊の隊長さんと合流。案内をお願いしてしまいました。でも当時はまだまったく不勉強だったため半分も理解できたかどうか?(笑) いまここに書いていることと隊長さんのお話とはかなりのズレがあるかもです…?(汗)

■5 小金宿

4月12日に土方らの前軍が宿泊したという水戸街道・小金宿。当時の旅篭・玉屋(写真▼左)が今でも街道沿いに残っています(中は非公開) 本陣は井筒屋という屋号だったという大塚家。説明の道標がわき道にひっそりと立っています(同▼右)

小金宿
写真にポインタを乗せてみてください

■6 東漸寺

さらに北に進んだところには参道が奥へ奥へと続く東漸寺(とうぜんじ)。前夜松戸に泊まった大鳥ら中軍が13日、昼食をとったといわれる場所(写真▼/「南柯紀行」に書かれた「大禅寺」←同じく山崎有信氏注釈によると 『編者曰く、浄土宗東漸寺』 )

※前軍と行動を共にしていたと思われる人物の記録、谷口四郎兵衛日記によると12日、土方ら前軍も 『東泉寺に泊陣』 )とのこと (元桑名藩士・谷口四郎兵衛さん本人が書いたものではないらしい? ←本人はこのとき藩主・松平定敬に従い柏崎に滞在中)

今回(3月)再び訪ねた日にはちょうどこちらの樹齢320年といわれる枝垂れ桜も満開、こんなピークにかち合うとは予想していなかったのでラッキーでした(ポインタを置いた写真▲左/中央)

[ 情報: 東漸寺 ]

東漸寺
写真にポインタを乗せてみてください

ここの境内には小金宿出身の志士・竹内廉之助/哲次郎兄弟の碑もあります(ポインタを置いた写真▲右) ふたりとも元治元年(1864年)の天狗党挙兵に参加、弟の哲次郎はその折に自刀。兄の廉之助はその後相楽総三とともに赤報隊を組織、しかし「偽官軍」の汚名を着せられ、やはり非業の死をとげたとのこと

安政5年(1858年)、水戸藩にいわゆる戊午の密勅が下った後、また翌年家老の安藤帯刀らが逮捕された後には、幕府のしめつけに怒った水戸藩士/郷士らが江戸へ上ろうと大挙して押し掛け、驚いた藩上層部がここ小金宿で一同を差し止めたためしばらくの間宿全体が沸騰状態だった、などという事件もあったそうですが

小金宿分岐

街道は宿の北の外れで右に直角に折れます(写真▲右) 角には今も道標が(同▲左) 逆に左方向に行くと流山。4月3日、流山で近藤が新政府軍に出頭した後(4日とも6日とも)、会津を目指して逃走した田村銀之助ら新選組隊士たちはここを抜けて東の利根川方面へ向かったそうな。たださすがにここで休んでいる間はなかったかも?(その後、布佐から船で利根川を下る)

大鳥軍はこのあと土方ら前軍と別ルートをとり、関宿通(日光東往還)を進んだとのことなので、現南柏駅の東あたりで左に曲がり北上したと思われます…次の山崎宿までは三里二十七町、でも小金宿で流山方面から官軍が近づいているとの誤報があり出発に手間取ったために、この日は山崎まで辿りつけず「途中の農家に宿」したとのこと

(↑どうやら桑名藩御用商人・長岡三郎兵衛宅にいた藩の会計方から軍資金を受け取るため、前軍から分かれて流山へ向かった町田老之丞ら桑名軍を「官軍」と間違えたらしい?/ 石井勇次郎「戊辰戦争見聞略記」より)

[ 小金周辺地図↓ ]
小金周辺地図



ちなみに北小金駅南口のマツモトキヨシはここが1号店、発祥の地だそうな(笑)




布施/船戸探訪 10/22/2005, 04/02/2006 Fuse/Funato, Kashiwa


■7 布施弁天(東海寺)/七里ヶ渡し

水戸街道は我孫子(安彦)宿を経て利根川を渡り水戸方面へ向かいますが、途中で逸れて北へ向かうとここ布施へ。水街道方面へ向かった土方ら前軍はこの前の七里ヶ渡しから利根川を超えて北上したものと思われます…河岸の丘には雰囲気溢れる布施弁天(写真▼)が。ここで船を待つなり対岸を眺めたりしたかもしれません?(写真▼右)

※前述「谷口四郎兵衛日記」によると、『13日、布施弁天駅泊陣/14日、滞陣』 とのこと。増水でもして足止めにあったんでしょうか

布施弁天
写真にポインタを乗せてみてください

いまはこんなにひっそりとしていますが、ここは江戸時代物資流通の中継点・布施河岸としてたいへん栄えた渡船場だったそうです。新大利根橋のたもとのスズカケの大木の下にはここの渡しで起きた水難事故の供養塔が残っていると聞き、後日ふたたびここを訪ねて来ました(写真▼) この石碑も土方ら前軍が通るのを見送っていたのかも(真中のものは「水神宮」となっています)

今回もどんより天気…どうもこちら方面に来るときは天候に恵まれません(涙)

七里ヶ渡し

ちなみに大鳥が市川を出発する際に目撃したという、山中孝司率いる誠忠隊は15日夜半ここに到着したそうな。土方ら前軍からは約2日も遅れているわけですが (その後なぜか水海道のほうへは向かわずに岩井方面へ北上、20日に官軍とぶつかりいわゆる「岩井戦争」で敗北、ふたたび流山/千住方面へ南下)

[ 布施周辺地図↓ ]
布施地図


■8 船戸

こちらはそのすぐ北にある船戸。大鳥ら中軍/後軍は「小金宿」→「山崎宿」を経て14日にここに泊まったといわれています(平凡社版「大鳥圭介南柯紀行」では「舟渡村」となっており、ふたたび山崎有信氏注釈によると 『編者曰く、舟戸村ならん』 )

翌15日、ここから出立し利根川を超えたということで、たぶんこのあたりが渡しだったであろう、という場所へ昨年連れて行っていただいたりしたのですが、でも「南柯紀行」本文には『舟渡村出立 莚打の渡船場を越ゆ』 となっているのですね

莚打(むしろうち)というのは山崎宿から北へ直進したあたり、ここからまだだいぶ北のほうにある地名で、じつはすぐそばに船形という場所があります(新人物往来社版「南柯紀行」では「舟渡村」に「船形」と注釈が入っている)

[ 旧幕脱走軍行軍ルート地図↓ ]

旧幕脱走軍行軍ルート地図

[ 別表 ] ←タイムテーブル

この場合、山崎宿からこの船戸、そして莚打という動線ではずいぶんと大回りになってしまって、時間的にもかなり苦しいような。「南柯紀行」を見るかぎり、特に迂回しなければならないような理由も見当たらないし…やはり船形のほうが可能性大なのでは…?
※ちなみに作者不明の野奥戦争日記にも『十四日中軍は船方と申村に一泊し』となっています(ふたたびAさん情報)

次の通過ポイントである岩井、そして宿泊地である諸川(茨城県古河市)へ向かうのなら、「山崎」→「(船形)莚打」→「岩井」→「諸川」というコースをとればほぼ直線で自然だし…それに「船形」は大鳥軍が進んだ「関宿通」沿いにあるし (ちなみに平凡社版に載っている 『岩井宿昼食』 の部分がなぜか新人物往来社版では抜けていますね)

▲前出の、鴻ノ台総寧寺に泊まった加藤平内率いる「御料兵」の一団も「慶応兵謀秘録-脱走日誌」によるとこちらも「舟渡」から乗船したと書かれているとのこと(←みたびAさん情報) うーん…? しかしこの前見たある古地図では、渡しのある場所はすべて「船渡」となっていたし

ともかくも「南柯紀行」によると加藤平内さん、御料兵のみなさんも預かったお金や弾薬を抱えて諸川で追いついたもよう

▲Sさんからも前軍に属していたという桑名藩兵のことについて教えていただき、いろいろ調べてみたところ、石井勇次郎「戊辰戦争見聞略記」/「立見大将伝」/そして町田老之丞の手記を元にしたと思われる「桑名藩戊辰戦記」など桑名藩関係の記録ではどれも「13日(市川)出発、(前軍は)小金泊」となっている…??? そして前述のとおり、半数ほどが軍資金受取りのため流山に廻り(←それを13日昼に中軍の大鳥軍が官軍と間違えたのだから、やはり1日ずれているのでは…)、翌14日山崎泊とのこと(←これも流山でよっぽど手間取ったのでなければ13日…?)

そしてこちらは天満宮(写真▼) 先日ふたたびこのあたりを巡ったついでに寄ってきました。ちょうど本殿が建て替ったばかりで姫宮神社とは真逆、情緒もへったくれもありません…(涙) 昔はこのあたりに代官所があったそうです。(同▼中央)は姫宮神社方面、(同▼右)は河原へ向かう道

船戸天満宮

ちなみにこのあたりは流山で新選組が陥とそうとしていたと言われる田中陣屋のあった加村(現流山市加)と同じく、遠江田中藩本多家(すでに官軍に恭順)の飛び地だったそうな。しかし元代官だった須藤力五郎(慶応元年(1865年)10月以前に離任)は佐幕で、流山へやって来た新選組らとも接触を持ち、官軍と戦い続けたとのこと (後に藩によって斬首、お墓は流山の光照寺に/「新編・新撰組流山始末」・他より)




山崎/船形/莚打探訪 04/02/2006 Yamazaki/Funagata/Mushirouchi, Noda


さてさてこうなったら大鳥軍の「直進コース」も確かめてみたいということで、今回は関宿通沿いにさらに北のほうまで足をのばして来ました

■9 山崎

4月14日、大鳥軍が昼食をとったという山崎宿(写真▼) そして新選組離脱後、靖共隊に属して脱走軍を追いかけていた永倉新八/原田左之助が袂を分かった場所 (ご存知のように、原田はその後江戸にとって返し彰義隊に参加して戦死したとも、大陸に渡って馬賊になったとも言われていますが…) そのまま進んだ永倉らは16日諸川で後軍・第七聯隊に合流したそうな(でも永倉の「新撰組顛末記」によると、ずっと後の鹿沼宿で大鳥軍と出くわしたことになっている…?)

山崎宿
写真にポインタを乗せてみてください

ここ山崎は関宿道(日光東往還)最初の宿場で江戸時代には30軒ほどの集落だったとか。当時のものは残っていないという話ですが、立派なお屋敷や庚申塚などもちらほらと…道端にぽつんと復元された常夜灯が立っています

※14日(13日?)ここへ泊まったという桑名藩兵の一団は、このあと大鳥軍ではなく前軍のほうを追って15日(14日?)利根川を越え水海道へ。やはり大きな船の無い地元の人しか使わない渡し場だったということなので、途中を突っ切ったのか、それとも大鳥軍と同じ莚打(下記↓)あたりを渡り、水海道へ向かったのか…?

[ 山崎周辺地図↓ ]

山崎周辺地図


■10 船形

さて、大鳥軍はここへ来たのかどうか。こちらは船形にある船形香取神社(写真▼)、「御社擅御膳献上式」(オビシャ)という行事で有名だそうな。燈篭などはかなり古びていて、ひび割れが激しく近寄らないように注意書きがしてあるほど。塀一枚隔てて左隣は富蔵院。こちらは昭和に建てかえられたもよう

船形香取神社

そして道沿いにある古いお屋敷。大勢が立ち寄るとしたらこのあたりでしょうか…?
(写真▼左)は北(関宿)方面、(同▼右)は南(山崎)方面

船形

■11 莚打

大鳥軍が15日朝に越えたという莚打(むしろうち)。「南柯紀行」によると地元の人だけが使う小さな渡船場だったようです。「莚打」という地名は利根川を挟んで千葉県野田市と茨城県岩井市両側にあり、こちらは千葉県側土手から船形方面(写真▼右)、そして15日昼食をとったという対岸の岩井方面(同▼左)を望む

莚打

[ 船形/莚打周辺地図↓ ]
莚打/船形周辺地図



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