熱烈な土方ファンのYさん、Sさんとともに行ってきました。でもこのあたりについてはまだまだはっきりしていないことが多いので、おもしろくもあり苦しくもあり…
今後もまた随時追加情報など入れていくつもりです
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市川の入口・関所跡(写真▼) 実際の関所は対岸の小岩にあったようですが。ここから道は左右に分かれ、右に行くと市川、八幡宿などを抜けながら東に向かう 佐倉街道、左へ行くと鴻ノ台、松戸宿などを通過しながら北へ向かう 松戸街道(水戸街道)。「南柯紀行」によると江戸を脱出した旧幕府脱走軍・ 大鳥圭介らは慶応4年(1868年)4月12日にここ「市川の渡船場」から市川側に渡ったものと思われます
前日やはり市川側に入った 土方のルートは不明ですが、島田魁日記、中島登覚書ともに「 小梅(墨田区向島あたり)」→「市川」→「鴻ノ台」というルートをとっているようなので、やはりこを渡るのが自然だろうな、と…
こちらは市川へ入った土方や大鳥圭介らが慶応4年(1868年)4月12日に軍議を開いたと言われる 大林院(大林房)跡(写真▼) 前日の11日にはここ市川の 鴻ノ台(国府台)に入ったと言われる土方ですが、幹部級の人々はおそらくここに滞在していたのでは、とのこと(寺院は残念ながら明治21年の火事で焼けてしまったそうな)
前々からどうして「大林院」と特定されたのかなと思っていたのですが、どうやら大元は 大鳥圭介南柯紀行(平凡社版/昭和16年発行)の「 駅畔なる小寺院」という箇所に挿入されている編者・山崎有信氏による注釈= 『編者曰く、 小寺院は市川町大字眞間弘法寺末寺大林院なり』 のようですね…この山崎氏がどこから「大林院」と断定したのかはよくわからないのですが、いまのところこれ以上追求できません…???
大林院については 水戸佐倉道分間延絵図に弘法寺が描かれていて、そこからだいたいの位置を推測できます(絵図では「大林房」となっている)現在は何の形跡もなく、普通の住宅地になっています
※「大林院」については別の場所だとされていることが多く、そちらも見に行ったこともあるのですが、とりあえず歴史博物館の方に教えていただいたのはこちらの「水戸佐倉道分間延絵図」のほうでありました
すぐ南側には万葉集にも歌われている、自らの美貌ために命を断ったという「手児奈」を奉った 手児奈霊神が
すぐ北の真間山・ 弘法寺(ぐほうじ)にも幕軍は駐屯したのかどうか…? 木々に覆われた急な階段(いつも濡れているという 涙石がある)を登ると古い仁王門(写真▼左)が
[ 情報: 弘法寺 ]
▲写真にポインタを乗せてみてください
境内では樹齢400年以上という 伏姫桜がちょうど満開。 幕軍の人たちが来たときには、残念ながらもう散ってしまったあとだったと思われますが…(ポインタを置いた写真▲左/中央)
この真間山南東の端からは市川が一望。大林院付近も真下に見下ろせます(同▲右/若干これより右寄りのあたりか?)
ここで偵察などもしていたかもしれません
[ 市川周辺地図↓ ]
弘法寺から横道を通って坂を下るとすぐ 松戸街道。左は市川方面(写真▼左)、右は坂下から松戸方面へ(同▼右) このあたりから上が「鴻ノ台」。ここを幕府脱走軍は北上して行ったと思われます
弘法寺の正面の参道の入口は佐倉街道側の市川にありますが(ポインタを置いた写真▲右)、遅れて来た大鳥らはおそらく渡船場から左へ曲がり、このあたりの松戸街道側から真間へ入ったのでは(上図)
こちらも土方らが幕府脱走軍と合流したという話がある、市川鴻ノ台の 総寧寺(写真▼) 桜の名所・里見公園の中にあります。ただごらんのようにここを訪ねた日は秋、しかもあいにくの雨で残念
歴代住職が十万石大名の格式で遇されていたというだけあって、境内は広く、なるほどここなら大勢が駐屯しても全然平気そうな…
ただ、土方や大鳥らが 鴻ノ台に集まったという記述はよく目にするのだけど、 総寧寺という単語にはいまのところまったく遭遇しないのですね…関連本には出典が記載されないまま、そう注釈が入っていたりしますが
土方と行動を共にしていたふたりが書いた中島登覚書/島田魁日記にも、ともに 『市川駅を過、鴻ノ台に一泊』 としか書かれていないし? でもいきなり3000人あまりも幕軍がやって来たわけで、この付近にも兵士は分宿していたのかもしれませんが
▲南柯紀行には「鴻ノ台」と「市川」という地名のみ登場。しかもほとんど同義で使われているような
(←地元民でなければ、「市川」も「鴻ノ台」も区別はつかないかもしれない?
そういえば弘法寺はちょうどボーダー上にあるし…)
▲加藤平内率いる御料兵の一団が13日、総寧寺に宿泊したという記録は残っているそうです←あとで大鳥軍に追いつき合流(「慶応兵謀秘録-脱走日誌」/
←このほか平凡社版「南柯紀行」についてもいつもお世話になっているAさんに教えていただきました)
ただ同じ13日に市川に駐屯していた官軍勢に対して地元の村から布団を供出した、という記録もあるようなので(「幕末の市川」市川歴史博物館刊)、そうなるとものすごいニアミス!?(汗)
(写真▲左)は国府台(こうのだい)駅側から見た江戸川、右端の丘が総寧寺のある里見公園、左側が五兵衛新田のあった綾瀬方面。そして(同▲右)は里見公園西端から見たお江戸方面。雨にけぶっております。晴れた日には富士山も見えるということですが…土方さんはここから江戸を見たのかどうか?
ともあれ旧幕脱走軍はこのあたりから三軍に分かれ、松戸/小金方面へ北上
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