赤池の東、伏見の北端に位置する 悟真寺。こちらにも東軍戦死者が(計64人とか)埋葬されています。門前には 明治元戊辰年伏見鳥羽戦役東軍戦死者埋骨所碑(写真▼左/中央)が立ち、中庭にも榎本武揚揮毫による比較的大きな 戊辰役東軍戦死者之碑も(ポインタを置いた写真▼右2枚)
▲写真にポインタを乗せてみてください
お寺の方に埋骨地について伺ったところ、「ああ、あそこに埋まってはります」と言われ、いきなり戊辰戦の現実感が百倍くらいになって迫ってきた感じ…本堂裏の墓地には2ヶ所に 戊辰役東軍戦死者埋骨地の墓標が立っています(写真▲右/ポインタを置いた写真▲左2枚) 傍らにもいくつかの個人名の墓標が
さらに東へと進み、こちらは伏見の北東のはずれ、 伏見街道(現京町通)と 丹波橋通の交差するあたり(写真▼左) 慶応3年(1867年)12月18日、二条城からの帰り道に近藤が御陵衛士残党の阿部十郎、篠原泰之進、加納鷲雄らに銃撃された場所は、従来もう少し北の 墨染近く、藤森神社付近ということになっていたようですが(おそらく「新撰組始末記」による?)、市居浩一さんの「新選組高台寺党」によるとここ「丹波橋付近」と書いた薩摩軍の記録「戊辰役実録」などもあり、おそらくこのあたりではとのこと
たしかにこのあたりなら彼等が避難していた薩摩藩伏見藩邸からも近いし…
(阿部十郎の証言からすると、もう少し北寄り(写真▼右)?)
肩に重傷を負った近藤はそれでも馬を飛ばして南の伏見奉行所方面へ
伏見街道の位置が不安だったので、通りかかった地元の方何人かに聞いてみたら誰も「伏見街道」について知らない…!?
ちょうど古いお宅から出てきたおじいさんも
「『伏見街道』…? 聞いたことないねえ」(えええ〜っ!?)
「でもとにかく(東に国道ができるまでは)昔からここがメインストリートだったよ」
…とのこと
※あとから調べたところ、いちおう京都の五条から 本町通を南下し、現墨染駅の南あたりで西へ折れ、この 京町通へ入るという道筋がいわゆる「旧伏見街道」らしいです(それにしても本ではよく見かける名称なのに地元の人になじみがないなんて〜)
[ 伏見周辺地図↓ ]
そして伏見の中央に位置する 御香宮(写真▼) 敷地も広く、本殿の装飾も素晴らしい…ここに薩摩軍が布陣し、やや低い南側の伏見奉行所などに陣取っていた東軍に向かって砲弾を撃ち込んだそうな
境内には佐藤栄作元首相揮毫の明治維新伏見戦跡碑が(写真▲中央) なぜ佐藤元首相が?…と思ったら、山口県出身の方だったのですね
ここにも鳥羽伏見戦についての説明板があるのだけど、秋の山の説明板といい、どうも官軍びいきが明瞭すぎてちょっと複雑?
本殿の脇からは名水百選にも選ばれているという 御香水が湧き出していて(写真▲左)、空のペットボトルを何本も抱えて来ている人たちがいっぱい…この付近の岩盤から湧き出しているそうで、アトピーなどに良く効くそうな。まろやかで柔らかい味でした
こちらも薩摩藩の大山巌が陣取って東軍に砲撃を加えたという 龍雲寺(写真▼)御香宮よりもさらに高台にあり、ここから撃たれたら確かにひとたまりも無いという感じ
幕軍が敗走したあとの伏見奉行所跡に置かれた伏見錬兵所出身で、戊辰戦など明治4年ころまでの戦いで死亡した 伏見親兵隊の人たちの墓がこちらに(写真▲中央)
その成り立ちから、十津川郷士出身の人が多いそうです
慶応3年(1867年)12月16日、新選組は伝習隊などとともにここ 伏見奉行所(写真▼)に布陣。以後周辺で薩摩兵などと小競り合いを繰り返していたもよう
1月3日、小枝橋で戦闘が始まったと同時にこちらにも御香宮方面の薩摩軍からの砲撃が開始されたそうな(御香宮との間はたった1丁(109メートル)!!)
永倉の「浪士文久報国記事」によると新選組は「裏手」に配備され、大砲をぶっ放したりしたようですが。ここで襲撃に出た永倉を島田魁が塀の上から引き上げたエピソードは有名。激戦の末、結局3日深夜、薩摩軍の攻撃により炎上。幕軍は淀方面に退却することに
このあたりの全体の流れは中公新書の「幕末歩兵隊」に詳しいようです
奉行所の北辺、最前線では会津藩の林権助率いる大砲隊が奮闘空しく大損害を出した(隊長の林権助も重傷、後日死亡)ということですが、後出の会津本陣でなく、なぜこちらにいたのか…?
どうもこのあたりの位置取りがよくわからない?
※敷地内の碑は許可をいただいて撮影しています
奉行所跡の碑は団地入口と桃陵中学校グランド内の2ヶ所に(写真▲中央) 桃陵中学校正門内には 維新戦跡碑もあります(同▲左)
あまりにも有名な、戊辰戦の弾痕が生々しい料亭・ 魚三楼(うおさぶろう/写真▼) たしかにこのあたりは最前線真っ只中…ううむおそろしや。新選組隊士らも弾丸の中この前を行き交っていたのでしょうか…さぞかし壮絶な光景が展開されていたのだろうなあ
そこから少し西には1月2日に会津藩が本陣としたという 東本願寺伏見別院(写真▼)が。山門は現在も幼稚園の門として使われていますが、中は一帯が駐車場に…そして片隅にちいさな「別院」のプレハブが建っています
ここで会津藩は旧式武装のまま北側の長州藩と戦闘状態に突入し、多くの死傷者を出したとか
山門前の角は 四ッ辻の四ッ当たりといういわゆる「遠見遮断」の構造になっていて、伏見奉行所に対してこういう道筋になったとも言われているようですが
見通しがきかないのに車の往来が激しく、歩くのにはなかなか気疲れが
言わずと知れた坂本龍馬の定宿・船宿 寺田屋(写真▼) 現在も現役で営業中(素泊まり6500円) 慶応2年(1866年)1月21日、伏見奉行所配下に包囲された折、お龍さんが駆け上がったという階段(下段写真▼左から2枚目)や、龍馬が泊まっていたという梅の間も健在。ただここは伏見戦のときに焼失し、当時の建物ではないと聞いたこともあるのだけど、真偽はいかに?
ここは文久2年(1862年)4月23日に起こった薩摩藩の内紛、寺田屋騒動の舞台としても有名。討幕の挙兵を計画していた急進派の藩士・有馬新七らと、藩主父・島津久光の命令で鎮撫のため派遣された同じ薩摩藩士らが結果的に斬り合うことに
中庭には龍馬の像や碑のほかに、この寺田屋騒動で亡くなった9人を記念した 薩摩九烈士遺蹟碑(写真▲右から2枚目)も建てられています
その寺田屋の女将・ お登勢さんの墓所、 松林院墓地(写真▼左) 五輪塔の右からふたり目がお登勢さんの法名だそうな。歴代の寺田屋ご主人のお墓もここに
▲写真にポインタを乗せてみてください
通りを挟んですぐ前には別名薩摩寺とも言われる 大黒寺(写真▲中央)が。紋も島津家と同じ丸に十文字。ここには上記寺田屋騒動で亡くなった有馬新七ら9人の墓があります(ポインタを置いた写真▲中央)
前庭には西郷隆盛揮毫による 伏見義挙殉難士之墓地碑が(同▲左)
墓地には宝暦3年(1753)年の木曽川治水工事の責任者・ 平田靱負の墓も(同▲左)
伏見の南西のはずれ、寺田屋の少し南の竹田街道沿いには 長州藩伏見藩邸(写真▼左)があったそうです。元治元年(1864年)の禁門の変の折、家老の福原越後隊がここから進軍したものの失敗、山崎に敗走。こちらはそのときに炎上したもよう
そしてその北、伏見の北西の外れ、下板橋通突き当りには 薩摩藩伏見藩邸跡(写真▲右)が。油小路で伊東甲子太郎が殺害されたのち、御陵衛士らが保護されたところ
また寺田屋で奉行所配下に襲撃された折に、龍馬もここに避難
こちらは伏見とは言ってもかなり北、京都の十条近くにある 伏見稲荷大社(写真▼)
新選組と直接関係があるかどうかはわからないのですが、大河のタイトルバックに使用されて印象深かった鳥居の回廊があるところ
奥の稲荷山にはさらにさらに回廊が巡っているようなのですが、時間がなかったのでほんのさわりだけ…夕方になるとかなり神秘的な威圧感がただよっているような
[ 稲荷周辺地図↓ ]
伏見稲荷から少し西にある 勧進橋、別名 銭取橋(写真▼)慶応3年(1867年)6月22日、武田観柳斎が篠原泰之進つきそいのもと、近藤の命令を受けた斎藤一によってここで斬殺されたという話も(これも「新撰組始末記」?)
ただこの時期には斎藤は御陵衛士とともに近藤のもとを去っているので、それはありえないだろう、ということはだいぶ前から言われているようですが
また元治元年(1864年)の禁門の変の折、新選組は会津藩や桑名藩などとともにこのあたりに布陣したとのこと
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