「新選組!」のおと
[ 向島/本所 ][ 丸の内 ][ 愛宕 ][ 小石川 ]

向島/本所探訪 08/31/2006 Mukojima/Honjyo, Tokyo


先日「ひとり水戸藩関連史跡ツアー」を決行して来ました。と言いつつ微妙に新選組がらみ…?

▼▼▼▼▼

■1 水戸藩下屋敷跡(小梅邸)

現在は隅田公園となっている水戸藩下屋敷(小梅邸)跡(写真▼左) 元禄6年8月5日、3代藩主・綱条公に下賜され、主に鷹狩りの折りの宿泊所や水戸からの物資を荷揚げする蔵屋敷として使われていたそうな

幕末、井伊大老の圧政に不満をもつ水戸藩士や領民らが大挙して江戸を目指すようになり、苦慮した藩側は小金宿などで足止めしようとしたものの、それをかいくぐって江戸へ潜入して来る藩士らも多く、そういう輩はここに収容されたとか

向島1

幕府に睨まれ隠居謹慎させられた9代藩主・斉昭に連座し謹慎した藤田東湖は弘化2〜4年(1845〜47年)にかけてここに幽閉され、その間にも「弘道館記述義」などを著していたそうな。やはりそのころに詠んだという漢詩・正気歌の碑が公園内に建っているはず…なのだけど写真撮れず…(ううっ)

幕末にはは23000坪ほどもあったそうなのだけど、明治維新後はもとの敷地の西半分、現隅田公園のあたりが水戸徳川家の本邸となり、最後の藩主だった徳川昭武はこの地で58歳で亡くなったとか…
その後大正12年(1923年)には関東大震災であたり一帯が消失、以後この場所は売却され隅田公園となったそうな

■2 小倉庵跡

慶応4年(1868年)4月の江戸開城を受け、旧幕軍関係者は中島登覚書/島田魁日記/戊辰戦争見聞略記など、どの記録を見てもまずここ小梅村へ立ち寄ってから市川を目指しているようなのですが、大鳥圭介の南柯紀行には 『 東(吾妻)橋を過ぎ同志の輩と豫(かね)て約せし所の向島なる小倉庵の傍らに至り衆人の聚屯所を訊ぬれども 』 、野奥戦争日記(著者不明)にも『 小梅小倉庵にて勢並致し 』と具体的な記述が

向島2

江戸時代、このあたりは西葛西小梅村と言われ、鯉料理などを出す料亭や茶屋などが点在していたとか。北十間川(写真▲右/▼左)に面した小倉庵は中でもかなり有名だったようで、幕末の書籍に評判の店として取り上げられたりしていたもよう…
(※大正11年に出版されたという高砂屋浦舟の「江戸の夕栄」によると幕末の小倉庵主人・長次郎は強盗団の一味で、後に捕らえられ獄死したとか…??? フィクションなのか本当なのか)

近くのすみだ郷土文化資料館で伺ったところ、小倉庵は幕末ころに開店した、当時は新興の料亭だったそうな。どちらかというと明治になってから繁盛したらしい(ということは強盗団の話はやっぱりウソ?)

ただこの「小梅村」が幕軍にとってどういう場所だったのか、「小倉庵の傍ら」という集合場所はどこだったのかなどは不明 (切り絵図には隣に「常泉寺」などの名前もありますがそれ以外周囲には小梅邸と「田地」のみ…)

小倉庵があったと思われる場所(同▲右/▼左)の真上には現在東武線が走っていて当時の情緒はまったく無しでした…

向島3

大鳥圭介がここを尋ねたのが4月11日真夜中、やはりここに立ち寄ったと思われる土方らは11日中に市川に着いているようなので、おそらく半日くらい前にここを出立していたもよう。大鳥が着いたときには歩兵4、5人しか残っておらず、大鳥はすぐさま次の兵士集合場所・報(法)恩寺へ。たぶん最短コースの横川沿い(ポインタを置いた写真▲右)を南下したのでは…前日から雨天で道がぬかるんで大変な思いをしたらしい

[ 向島/本所周辺地図↓ ]
向島/本所周辺地図


■3 霊山寺

新選組を離脱した永倉/原田らが属した靖共隊が、歩兵第七聯隊とともに江戸開城前日の4月10日に移転して来たところ(これ以前は江戸城和田倉門内の旧会津藩邸を屯所としていたそうな) ただ江戸脱出についての意見統一が遅れ、すぐ南に隣接する法恩寺(後述)から出立した大鳥軍には同道せず、永倉らは12日夜までここに留まったもよう
(後に山崎で脱走軍に追いつく)

このあたりは震災や空襲でたびたび焼けているので当時の面影はまったく無く、お寺の敷地も当時よりはかなり狭いものに…(写真▼左)

霊山寺/法恩寺

■4 法恩寺

南柯紀行によると 『 士官兵士の聚屯所 』 だった報(法)恩寺(写真▲右/同▼)
もともとは江戸城の城内鎮護のため太田道灌によって開かれたお寺で(なるほど旧幕軍が集まるのにふさわしい?)、元禄時代には20もの寺院が集まっていたらしい…現在は敷地もだいぶ縮小されてしまったけれども、まだ4つの寺院が残り、長い参道(ポインタを置いた写真▼左/中央)が多少当時の面影を残しているような?

大鳥らは一晩をここで過ごし、集まっていた士官/歩兵ら500人ほど(伝習第二大隊?)とともに12日早朝、市川に向け出発。 『 堅川通りを経て葛西の渡しを越え 』 たもよう

法恩寺/室賀邸
写真にポインタを乗せてみてください

■5 室賀美作守邸跡

今話題の?三井文庫/新選組金談一件で土方さんの父上が用人をつとめていた?と書かれていた室賀美作守の屋敷跡が近くだったので寄って来ました。と言っても何の情緒も無し…(ポインタを置いた写真▲右) 江戸時代にはこの前の道沿いに南割下水が流れていたらしい

室賀美作守兵庫正発さんは中村藩相馬家から養子に入った人で、室賀家は5500石の大身の旗本。新選組が京都に赴いた文久3年(1863年)には隠居していますが、跡を継いだ息子の熊太郎正容さんは翌元治元年(1864年)の長州征伐では将軍のお供を、慶応2年(1866年)からは「御側御用取次」として大坂にいたようなので、土方や新選組と接触はあったかも? でもそもそも天領であったはずの石田村住人であった土方家が「旗本の用人」というのもよくわからないし…単に土方が「吹いた」だけなのか…???




丸の内探訪 08/31, 09/24/2006 Marunouchi, Tokyo


さて話はふたたび水戸藩に戻り、こちらは桜田門外の変発生現場の皇居お堀端。新選組には直接関係なしですが、大河でも若者たちに多大な影響を与えた事件として登場
広岡子之次郎さんとのふれあいも描かれていました


▼▼▼▼▼

安政の大獄で大老・井伊掃部頭直弼から集中的に締め付けにあっていた水戸藩士らの怨みは深く、安政7年(1860年)3月3日朝、水戸脱藩17名と薩摩脱藩1名の計18名がここ桜田門外(写真▼)で登城途中の大老の行列を待ち伏せ、暗殺

彦根藩邸
写真にポインタを乗せてみてください

■6 彦根藩邸跡

現国会議事堂前にあった井伊家彦根藩邸(写真▲) 現在は庭園内に標高の基準となる日本水準原点(標高24.4140メートル)が置かれています。桜田門側から見たときには気づかなかったのですが、ここはかなりな高台で、北側斜面からはお堀と江戸城(皇居)が一望、さすがに大老を多く輩出した親藩だけあっていい場所を占めていたのだなと改めて変な感心を…

内堀通に面した桜の井脇に井伊家の史標が立てられています(同▲左)この井戸はもともと井伊家表門前(現内堀通国会前交差点あたり/写真▼左)にあったものがこちらへ移築されたそうな

サイカチ河岸

■7 外桜田門/ サイカチ河岸

大雪の中、彦根藩邸(写真▲左/奥の木立部分)からサイカチ河岸(同▲右/▼左)を外桜田門(同▼右)へ向かって来た行列に、まず辻番所脇から森五六郎が直訴をする振りをしながら斬り込み、短銃の発砲を合図に駕籠の両側から一斉に襲撃。稲田重蔵/広岡子之次郎/佐野竹之介らが駕籠に斬りつけ、ただひとり薩摩藩から参加していた有村次左衛門が大老の首を挙げたとのこと
(当初は大老暗殺に呼応して薩摩藩が京で挙兵することになっていた)

大雪のため刀にかけていた柄袋などのせいで井伊家側の反撃は遅れたものの、稲田はその場で斬り捨てられ、大老の首を抱えて日比谷方面へ逃走しようとしていた有村も現祝田橋(当時は無し)あたりで小河原秀之丞に後ろから斬りつけられ、致命傷を負ったそうな(すでに重傷を負っていた小河原はここでさらに広岡に斬られ、翌日死亡)

桜田門

■8 八代洲河岸/ 脇坂中務大輔邸跡/ 細川越中守邸跡

その後各人は自然といくつかのグループに分かれて日比谷御門から左へ折れ、堀沿いの八代洲河岸(写真▼左)を北上。重傷の山口辰之介/鯉渕要人は増山河内守邸脇(同▼右)を西へ曲がり、織田兵部少輔邸脇の塀前で力尽き、自刃

同じく重傷だった斎藤監物/佐野竹之介/黒澤忠三郎/蓮田市五郎は馬場先御門内の月番老中・内藤紀伊守邸に「斬奸趣意書」を提出しようとしたものの、事件発生を受け門が閉じられていたため中に入れずそのまま北上、老中・脇坂中務大輔(播州諸野藩)邸(ポインタを置いた写真▼左)へ自訴し「斬奸趣意書」を提出。佐野はここでそのまま絶命。5日後の8日には斎藤も傷が悪化し死亡、黒澤は7月12日に預けられていた九鬼長門守家にて病死

丸の内1
写真にポインタを乗せてみてください

比較的軽傷だった大関和七郎/森五六郎/杉山弥一郎/森山繁之介はさらに先の細川越中守(熊本藩)邸(ポインタを置いた写真▲右)へ。いったん脇坂邸に入った斎藤らも後にこちらに移送されたそうな

[ 丸の内周辺地図↓ ]
丸の内周辺地図


■9 遠藤但馬守邸跡/ 酒井雅楽頭邸跡

大老の首を抱えた重傷の有村次左衛門はさらに北上、やはり閉じられていた和田倉御門(ポインタを置いた写真▼左)や辰之口を越え、若年寄・遠藤但馬守(近江三上藩)邸(写真▼左)前へ。力尽き自害しようとしたもののなかなか死ねず、藩邸前の辻番所に運び込まれた後死亡。大老の首は遠藤邸に収容され、後に井伊家家臣・加田九郎太のものとして井伊家に引き渡されたとのこと(その時点ではまだ大老の死は伏せられていた) ←たびたびの井伊家からの要求に対し、遠藤家側が意地悪してなかなか渡さなかったとの話も…?

地図上では近いように見えますが、体力無しとは言えいちおう健康体の私の足でも現場からここまで30分以上の距離…瀕死の重傷を負った身で、しかも首を抱えて大雪のなか、よくここまで辿りついたものだとため息

丸の内2
写真にポインタを乗せてみてください

やはり重傷の広岡子之次郎はさらに北へ。酒井雅楽頭(姫路藩)邸前(同▲右あたり)まで辿り着き、自刃

ちなみにこの酒井雅楽頭邸の中庭だったあたりには現在平将門にまつわる将門塚(ポインタを置いた写真▲/オカルトポイントとして有名?)があります

有村や広岡と辰之口まで一緒だった海後磋磯之介は自訴するつもりだったものが果たせず、やはりさ迷っていた増子金八とともにそのまま逃亡することに

結局襲撃した水戸側では負傷や自刃などで7名が死亡。後に捕らえられた検視見届役・岡部三十郎と残った自訴組6名は文久元年(1861年)7月26日に日本橋小伝馬町にて斬首。現場の指揮官だった関鉄之介も潜伏していた越後湯沢で捕らえられ翌文久2年(1862年)5月11日に斬首、逃亡していた広木松之介は同文久2年3月3日、鎌倉にて自害。実行隊のうち明治まで生き延びたのは増子金八/海後磋磯之介の2名のみだったそうな

対する井伊側では大老のほか家臣8名が死亡、怪我人多数。大老の死は翌閏3月末まで約2ヶ月間伏せられ(もっとも白昼堂々の事件だったため目撃者も多く、世間にはバレバレだったらしい)、もろもろの相続手続きを踏んだ後、4月9日にようやく菩提寺である世田谷豪徳寺に葬られたとのこと
供についていた者のうち、無傷で帰還したものは後に斬罪となったそうな

参考: 「桜田義挙録」など

丸の内3

■10 会津藩邸跡

江戸城和田倉御門内にあった会津藩上屋敷/中屋敷跡(写真=2002年ころ▲) 現在は皇居前広場となりまったく面影なし… (同▲右は藩邸跡から桜田門方面を望む)

慶応4年(1868年)正月の鳥羽伏見戦後、藩主松平容保は2月15日に江戸へ敗走してきた全将兵千数百人をここに集め、将軍慶喜とともに大坂城から脱出し藩士らを置き去りにして江戸へ帰ったことを詫びたそうな。帰国を命じられていた容保は翌16日に会津へ出立。藩士らが去った跡は上記のように永倉/原田らの靖共隊歩兵第七聯隊の屯所とされたとか

東帰後の新選組屯所となったという鍛冶橋御門内・秋月右京亮邸についてはいまだよくわからず…三菱銀行本店のあるところだとはよく聞きますが。切り絵図では「秋月家」は見当たらないし、松平右京亮邸がそうなのかと思っていたのだけど、この松平家は高崎藩主、秋月家は日向高鍋藩主らしいのでまったく別物…秋月家は明治になってから鍛冶橋御門内に屋敷を拝領したとも聞くので、後に秋月家となった場所に新選組屯所があった、ということなのだろうか…?

ちなみに新選組を脱退して伊東甲子太郎らとともに御陵衛士となった新井忠雄は伊東の死後、戊辰戦で新政府軍越後口派遣軍に配属され、この日向高鍋藩兵の指揮をとり新潟や庄内でかなりの戦果をあげたそうな




愛宕探訪 09/24/2006 Atago, Tokyo


■11 愛宕神社

安政7年(1860年)3月3日朝、上記桜田門外の変を引き起こした水戸浪士らの集合場所となった愛宕神社(写真▼) 江戸の火伏せの神様だそうな

愛宕神社1

愛宕神社といえば、この急な階段・男坂(出世の階段)(同▲左から2枚目)が有名。昔三代将軍・家光公が「馬に乗ったまま山頂の梅を取って来い」というご無体な命令を発したところ、ただひとり曲垣平九郎という人が騎馬のままここを駆け上り、見事梅を持ち帰ったことで大いにお褒めにあずかった、ということから「出世の階段」と言われているそうな。山頂の境内には今もその平九郎手折りの将軍梅(写真▼中央)が。以前別件でここを登ったことがあったのだけど、三分の一くらいで挫折〜でも今回はなんとか無事に山頂までたどり着きました…(帰りがさらに怖い!! 傾斜角が40度を超えているような?)

前夜品川宿の引手茶屋・稲葉屋(因幡屋?)などに泊まった浪士らは怪しまれないよう三々五々出立し、男坂の86段の階段を上り、山頂で集合。現在境内には事件の顛末詳細を記した桜田烈士愛宕山遺蹟碑が (境内はかなり狭いので、大雪の早朝こんなところに大の男たちが大勢登ってきたらかなり怪しかったのでは…)

愛宕神社2

集まった面々は絵馬堂の軒下を借りて身支度をして行ったとか。このあたりも度重なる災害や戦災で焼けているそうなのですが、絵馬堂は現在の水屋(同▲左)のあたりにあったとのこと。その後浪士たちはふたたび坂を下りて北上、いよいよ桜田門

ここは当時江戸を一望できる名所で、勝海舟と西郷隆盛がこの上から江戸を眺め話し合ったことで、江戸城無血開城という決着を見たとも…

[ 愛宕周辺地図↓ ]
愛宕周辺地図




小石川探訪 08/31, 11/17/2006 Koishikawa, Tokyo


こここそまったく新選組には関係なさそうですが?(笑) 水戸系の人々は出入りしていただろうし、道場や家が近いということで山南さんや斎藤一あたりも周りをうろうろしていたかも…?

▼▼▼▼▼

■12 小石川後楽園/ 水戸藩上屋敷(小石川邸)跡

今では後楽園と言えば「遊園地」と「東京ドーム」ですが、江戸時代、この一帯には87783坪の敷地を誇る水戸藩上屋敷がありました。現在はドームの脇にひっそりと?残る小石川後楽園(写真▼)にのみ当時の面影が…

寛永7年(1629年)、水戸徳川家初代藩主・頼房のときこの土地が下賜され、それから2代藩主・光圀のころまでに庭園の基礎が造られたとか。「後楽園」の名前をつけたのは、光圀が招いていた明国の学者・朱舜水だそうな。今も園内に残る円月橋(同▼左)も舜水の設計によるものとのこと

後楽園1

中央には大泉水(同▲右)が配置され、その周りをさまざまな風景を切り取りながら周回路が巡っているという廻遊式構造。ゆっくり歩くと1時間ほどの道のり。当時は園内に引き入れた神田上水から水源をとっていたそうだけど、上水が廃止された現在は地下水をくみ上げて利用しているとのこと

当初はかなり起伏の激しい深山を思わせるような趣きだったものが、度重なる震災や火災、戦災などにより、当初の設計とはまったく別物になってしまっているそうな…(でも現在でもアップダウンはかなり激しい) 園内の木造建築などは戦災でほとんどが焼けてしまっていて、せっかく道を辿って行っても土台しか残っていないものが多くとっても残念。でも周囲をビル群に囲まれているのにもかかわらず、木々がうまく配置されているおかげでかなり壁際まで行っても外の気配がほとんど感じられないのがすばらしい

後楽園2

そもそもは水道橋駅に近い正門側から入り、唐門(戦災で焼失)をくぐって中を巡る、というコース取りが設計意図にかなっているらしいのだけど、そちらは現在閉鎖され、反対側の最も駅から遠いところから入園しなければならない…のは何故???

園内には由緒のある石造物なども多いのだけど、敷地の片隅にはなぜかパンフレットにも由来が書かれていない赤門(←通用門だったという話も)と錦春稲荷(ポインタを置いた写真▲)がひっそりと…(中国風に整えられた園内に較べて、ここがいちばん鄙びた昔の雰囲気をかもし出していたかも?(笑))

後楽園3

水戸藩主は代々参勤交代を免除され江戸常駐という特権を与えられており、余程のことがない限り水戸へは帰らなかったとか。後の15代将軍・徳川慶喜は天保8年(1837年)、ここ小石川邸で水戸藩9代藩主・徳川斉昭の七男として誕生

ちなみに新選組と縁の深い会津藩9代藩主・松平容保や桑名藩主・松平定敬の祖父、高須藩9代藩主・松平義和は水戸藩6代藩主・徳川治保の次男であり、ここ小石川邸で生まれ、高須藩主となった後もここに住んだとか。というわけで義和の息子で容保/定敬兄弟の実父である高須藩10代藩主・義建(正室は徳川斉昭の妹)やその弟、会津藩8代藩主でのちに容保の養父となる松平容敬もここ小石川邸で生まれたそうな

安政2年(1855年)の大震災のとき、水戸学者で全国の志士に影響を与えていた藤田東湖は母親をかばい、ここ上屋敷の南東の長屋で梁の下敷きになり死亡。園内には藤田東湖護母致命之処碑(写真▲左)と藤田東湖先生遺蹟(同▲中央)の塔が…「致命之処碑」はもともと圧死現場である現白山通のあたり(同▲右)に立っていたのだけど、道の拡張工事のためにこちらへ移築されたとか(つまり「現場」は現在白山通の下敷きに…ううっ)

東湖とともに「水戸の両田」と言われていた戸田忠太夫もやはりこのときにこの地で死亡、この二人が生きていれば幕末の藩内の混乱も押さえられたのではとも…
地震で被害を受けた庭園も、その後混乱のなかで修復される余裕は無く、荒れるに任せたとか(その後数々の変遷を経て昭和13年、一般開放に至る)

[ 後楽園周辺地図↓ ]
後楽園周辺地図


[ 情報: 小石川後楽園 ]


■13 小石川

そして水戸藩上屋敷の少し北、永倉新八が明治23年(1890年)ころ?〜33年(1900年)ころに住んでいたという界隈も歩いてきました

松前藩に復籍後、杉村家の養子となり杉村義衛となっていた永倉は明治19年(1886年)に北海道から上京、4年ほど浅草、千住などに住んでから24年11月にここ小石川掃除町36番地(現小石川1丁目/写真▼付近)に移って来たとのこと

小石川柳町/掃除町
写真にポインタを乗せてみてください

その後は明治32年ころ、ふたたび北海道へ戻るまでの間に柳町24番地(現小石川1丁目)→丸山新町28番地(現白山1丁目)→指ヶ谷町46番地(現白山2丁目)と現白山通り沿い(当時は現在のような直線の大通りではなかった)に行ったり来たり。よく言われているように、このあたりは藤田家(斎藤)のあった本郷真砂町とは歩いてすぐの距離。やはりそういうつながりからここに住んだのか…? はたしてふたりの間にはそんな密な行き来はあったんでしょうか

[ 小石川周辺地図↓ ]

小石川周辺地図




参考図書: [Books]のページをごらんください
[ 「新選組!」のおと -Shinsengumi Note-/TOP ]
© 2004-2008 tomato/ Shinsengumi Note