さて話はふたたび水戸藩に戻り、こちらは桜田門外の変発生現場の皇居お堀端。新選組には直接関係なしですが、大河でも若者たちに多大な影響を与えた事件として登場
広岡子之次郎さんとのふれあいも描かれていました
▼▼▼▼▼
安政の大獄で大老・井伊掃部頭直弼から集中的に締め付けにあっていた水戸藩士らの怨みは深く、安政7年(1860年)3月3日朝、水戸脱藩17名と薩摩脱藩1名の計18名がここ桜田門外(写真▼)で登城途中の大老の行列を待ち伏せ、暗殺
▲写真にポインタを乗せてみてください
現国会議事堂前にあった 井伊家彦根藩邸(写真▲) 現在は庭園内に標高の基準となる日本水準原点(標高24.4140メートル)が置かれています。桜田門側から見たときには気づかなかったのですが、ここはかなりな高台で、北側斜面からはお堀と江戸城(皇居)が一望、さすがに大老を多く輩出した親藩だけあっていい場所を占めていたのだなと改めて変な感心を…
内堀通に面した 桜の井脇に井伊家の史標が立てられています(同▲左)この井戸はもともと井伊家表門前(現内堀通国会前交差点あたり/写真▼左)にあったものがこちらへ移築されたそうな
大雪の中、 彦根藩邸(写真▲左/奥の木立部分)から サイカチ河岸(同▲右/▼左)を 外桜田門(同▼右)へ向かって来た行列に、まず辻番所脇から 森五六郎が直訴をする振りをしながら斬り込み、短銃の発砲を合図に駕籠の両側から一斉に襲撃。 稲田重蔵/広岡子之次郎/佐野竹之介らが駕籠に斬りつけ、ただひとり薩摩藩から参加していた 有村次左衛門が大老の首を挙げたとのこと
(当初は大老暗殺に呼応して薩摩藩が京で挙兵することになっていた)
大雪のため刀にかけていた柄袋などのせいで井伊家側の反撃は遅れたものの、 稲田はその場で斬り捨てられ、大老の首を抱えて日比谷方面へ逃走しようとしていた 有村も現祝田橋(当時は無し)あたりで 小河原秀之丞に後ろから斬りつけられ、致命傷を負ったそうな(すでに重傷を負っていた小河原はここでさらに広岡に斬られ、翌日死亡)
■8 八代洲河岸/ 脇坂中務大輔邸跡/ 細川越中守邸跡
|
その後各人は自然といくつかのグループに分かれて日比谷御門から左へ折れ、堀沿いの 八代洲河岸(写真▼左)を北上。重傷の 山口辰之介/鯉渕要人は増山河内守邸脇(同▼右)を西へ曲がり、織田兵部少輔邸脇の塀前で力尽き、自刃
同じく重傷だった 斎藤監物/佐野竹之介/黒澤忠三郎/蓮田市五郎は馬場先御門内の月番老中・ 内藤紀伊守邸に「斬奸趣意書」を提出しようとしたものの、事件発生を受け門が閉じられていたため中に入れずそのまま北上、老中・ 脇坂中務大輔(播州諸野藩)邸(ポインタを置いた写真▼左)へ自訴し「斬奸趣意書」を提出。佐野はここでそのまま絶命。5日後の8日には斎藤も傷が悪化し死亡、黒澤は7月12日に預けられていた九鬼長門守家にて病死
▲写真にポインタを乗せてみてください
比較的軽傷だった大関和七郎/森五六郎/杉山弥一郎/森山繁之介はさらに先の細川越中守(熊本藩)邸(ポインタを置いた写真▲右)へ。いったん脇坂邸に入った斎藤らも後にこちらに移送されたそうな
[ 丸の内周辺地図↓ ]
大老の首を抱えた重傷の 有村次左衛門はさらに北上、やはり閉じられていた 和田倉御門(ポインタを置いた写真▼左)や辰之口を越え、若年寄・ 遠藤但馬守(近江三上藩)邸(写真▼左)前へ。力尽き自害しようとしたもののなかなか死ねず、藩邸前の辻番所に運び込まれた後死亡。大老の首は遠藤邸に収容され、後に井伊家家臣・加田九郎太のものとして井伊家に引き渡されたとのこと(その時点ではまだ大老の死は伏せられていた) ←たびたびの井伊家からの要求に対し、遠藤家側が意地悪してなかなか渡さなかったとの話も…?
地図上では近いように見えますが、体力無しとは言えいちおう健康体の私の足でも現場からここまで30分以上の距離…瀕死の重傷を負った身で、しかも首を抱えて大雪のなか、よくここまで辿りついたものだとため息
▲写真にポインタを乗せてみてください
やはり重傷の広岡子之次郎はさらに北へ。酒井雅楽頭(姫路藩)邸前(同▲右あたり)まで辿り着き、自刃
ちなみにこの酒井雅楽頭邸の中庭だったあたりには現在平将門にまつわる将門塚(ポインタを置いた写真▲/オカルトポイントとして有名?)があります
有村や広岡と辰之口まで一緒だった海後磋磯之介は自訴するつもりだったものが果たせず、やはりさ迷っていた増子金八とともにそのまま逃亡することに
結局襲撃した水戸側では負傷や自刃などで7名が死亡。後に捕らえられた検視見届役・岡部三十郎と残った自訴組6名は文久元年(1861年)7月26日に日本橋小伝馬町にて斬首。現場の指揮官だった関鉄之介も潜伏していた越後湯沢で捕らえられ翌文久2年(1862年)5月11日に斬首、逃亡していた広木松之介は同文久2年3月3日、鎌倉にて自害。実行隊のうち明治まで生き延びたのは増子金八/海後磋磯之介の2名のみだったそうな
対する井伊側では大老のほか家臣8名が死亡、怪我人多数。大老の死は翌閏3月末まで約2ヶ月間伏せられ(もっとも白昼堂々の事件だったため目撃者も多く、世間にはバレバレだったらしい)、もろもろの相続手続きを踏んだ後、4月9日にようやく菩提寺である世田谷豪徳寺に葬られたとのこと
供についていた者のうち、無傷で帰還したものは後に斬罪となったそうな
参考: 「桜田義挙録」など
江戸城和田倉御門内にあった 会津藩上屋敷/中屋敷跡(写真=2002年ころ▲) 現在は皇居前広場となりまったく面影なし… (同▲右は藩邸跡から桜田門方面を望む)
慶応4年(1868年)正月の鳥羽伏見戦後、藩主 松平容保は2月15日に江戸へ敗走してきた全将兵千数百人をここに集め、将軍慶喜とともに大坂城から脱出し藩士らを置き去りにして江戸へ帰ったことを詫びたそうな。帰国を命じられていた容保は翌16日に会津へ出立。藩士らが去った跡は上記のように永倉/原田らの 靖共隊や 歩兵第七聯隊の屯所とされたとか
東帰後の新選組屯所となったという 鍛冶橋御門内・秋月右京亮邸についてはいまだよくわからず…三菱銀行本店のあるところだとはよく聞きますが。切り絵図では「秋月家」は見当たらないし、 松平右京亮邸がそうなのかと思っていたのだけど、この松平家は高崎藩主、秋月家は日向 高鍋藩主らしいのでまったく別物…秋月家は明治になってから鍛冶橋御門内に屋敷を拝領したとも聞くので、後に秋月家となった場所に新選組屯所があった、ということなのだろうか…?
ちなみに新選組を脱退して伊東甲子太郎らとともに御陵衛士となった 新井忠雄は伊東の死後、戊辰戦で新政府軍越後口派遣軍に配属され、この 日向高鍋藩兵の指揮をとり新潟や庄内でかなりの戦果をあげたそうな
|