東山道を江戸に向かって進軍中の板垣退助率いる新政府軍に対して甲府城の守りにつくため、慶応4年(1868年)3月2日晴天、前夜泊の 府中宿を出発した 近藤(大久保剛)/土方(内藤隼人)ら 甲陽鎮撫隊(総勢150人〜200人とも)は日野宿/八王子宿を経て 小仏峠を越え、 与瀬宿(現神奈川県相模原市)まで至ったそうな
[ 高尾周辺地図↓ ]
今回は日野宿本陣文書検討会主催のツアーでその 甲陽鎮撫隊が進軍した旧 甲州道中を辿り、高尾から与瀬宿跡まで歩いて来ました。まずは高尾駅からバスで西へ少し移動。現在甲州街道は国道20号線として南の大垂水峠を通っていますが、旧 甲州道中は 小名路で分岐し小仏峠を越えるこちらのコース(ただ今回は時間や交通の関係から、残念ながら途中の 駒木野/小仏関所跡は通過。また次回に…)
ちなみに八王子宿からここ 駒木野宿までは1里27町(6872.6メートル)の距離。旅籠は無く、本陣と脇本陣が1件ずつあったとのこと。次の 小仏宿までは26町(2836.3メートル)
この付近を道に沿って流れる小仏川には 牛額草の自生も見られました
小仏宿があったと思われるあたり、小仏バス停や宝珠寺、 小仏滝(写真▼左)を過ぎるといよいよ舗装も途切れ、上り坂に。しばらく行くとつづら折れ。そこから急激に傾斜がきつくなり、道幅も狭まって木々の間を抜けて行きます(同▼)
30分くらい登り続け、山頂(写真▼)へ。ここは甲州道中だけでなく、南の大垂水峠方面から北の景信山方面へ抜ける山道などとも交差するポイントになっていて、広場の脇には道標(同▼右/寛政7年(1795年)建立)や道中安全祈願のためのお地蔵さま、庚申塔なども残っています(ポインタを置いた写真▼左) これらは300年くらい前のものとのことで、行商をする土方さんや甲陽鎮撫隊の往来も見ていたのかも
昔はここに八王子千人同心らが守る小仏関所があったのだけど、江戸時代初期に上記の高尾近くの駒木野に移されたのだとか。小仏宿からここまで26町(約2836.3メートル)、ここから小原宿まで32町(約3491メートル)
▲写真にポインタを乗せてみてください
山頂南側には明治天皇が明治13年(1880年)の山梨巡幸の折ここに立ち寄ったことを記念する明治天皇小佛峠御小休所阯及御野立所碑や、太政大臣・三条実美(「八・一八政変」のときに「七卿落ち」で長州に落ちのびた人)がそのとき命じられて高尾山薬王院へ詣で詠んだという歌の碑なども立っています(ポインタを置いた写真▲中央)
ここから一気に下り坂(写真▼)、下りのほうがなだらかなイメージを持っていたのだけど、甘かった…足元が湿っていて滑りやすかったというのもあるけれど、かなりな傾斜で肩と腰にダイレクトに衝撃がかかり、ふだん鍛えていない身にはものすごいダメージが
ここは高島藩/高遠藩/飯田藩の大名3家も参勤交代で通過していたはずだけど、いったいこんな狭い急な道を大人数でどうやって通っていたのやら…甲陽鎮撫隊も大砲(6門?)などを抱えていたそうだけど、こういう場合の小荷駄方だけはいやかも(笑)
かなりバテながら約4、50分ほどで神奈川側の底沢へ着きほっとひと息。(写真▲右)は中央本線越しに小原宿方面を望む
[ 小仏峠周辺地図↓ ]
ここから小原宿にかけての旧甲州道中は中央自動車道(写真▼左)や中央本線などで分断され、通行は不可。昔は底沢川に架かる板橋を渡り、今も中央道の橋脚下に残る馬頭観世音碑(同▼中央)の脇を抜けて南下したそうな
(同▼右)は中央本線越しに振り返った小仏峠
20分ほど平地を歩き 小原宿へ。ここと次の 与瀬宿はいわゆる 片継宿場で、小原宿では江戸から来た人や荷物を与瀬を通り越して次の 吉野宿へ継立て(引継ぎ)、反対に与瀬では吉野宿から来たものを小原を通り越して 小仏宿へ継立てていたとのこと(←なんだかこれでは与瀬宿のほうが一方的にタイヘンだったのでは…)
甲陽鎮撫隊は江戸からやって来てここを素通り、与瀬に宿泊したわけだけど、宿泊の場合はどちら方面から来ても可能だったのだろうか…???
現地でいただいた(かなり荒い)資料を見ると、旧甲州道中は 本陣(写真▼)の東側から現国道20号線に合流したと書かれているものと、本陣裏側の道を通り西側から合流としているものがあってはっきりしないのだけど、街道が本陣前を通っていないというのはあまり考えられないような気がするし…? 展示されていた江戸時代の 小原宿絵図でも街道は本陣前を通っていたもよう
▲写真にポインタを乗せてみてください
その小原宿本陣(清水家)(写真▲)は神奈川県下に唯一残る本陣建築で、おおよそ200年前に建てられたものだそうな。兜造りという様式で、このあたりの民家特有の構造らしい? ちょうど本陣祭に重なり、見学者が多かったためか2階の養蚕室への立ち入りはできなかったので残念
本陣ということで家屋正面にはりっぱな式台(玄関/写真▲左)、その奥には大名などの宿泊に使われた上段の間(ポインタを置いた写真▲左)があり、そして表に面しては高札場(同▲右)も
本陣前ではちょうど本陣祭のハイライト?、大名行列のパフォーマンスが行われていました(写真▲左) 小原宿には本陣のほかにもまだ江戸当時の趣を残す民家が散見されます。往時は2町半(約273メートル)の長さに渡り、脇本陣と旅籠も7件あったとか
与瀬宿方面へ向かう途中には 南無阿弥陀仏碑(同▲右)なども
そしていよいよ甲陽鎮撫隊が宿泊した 与瀬宿へ。小原宿からは17町(約1854.5メートル)の距離。「佐藤彦五郎日記」によると3月2日、日野を後発した彦五郎さんらいわゆる 春日隊(総勢25名)は小仏峠あたりから日が暮れ、夜半にこちらに到着、合流したそうな
[ 小原/与瀬周辺地図↓ ]
小原宿からの途中、旧甲州道中は平野バス停付近で現甲州街道(国道20号線)から北側に逸れていたそうなのだけど、このあたりも中央本線と交錯しています…旧道中はえんどう坂(写真▼左)を抜けて国道20号線上に直角に合流、このあたりから本陣前までが与瀬宿だったそうな
ここ与瀬宿は6町50間(約745メートル)に渡っていたとのこと。西端にあった本陣は建て替わっていてもう残っていませんが、門柱にのみ名残が…(写真▲右から2枚目) ここの庭先にも明治天皇與瀬御小休所阯碑が建てられています(同▲右)
小原宿のほうには本陣建築も残り、「本陣祭り」などで「宿」としての観光イメージを盛り上げているのに対して、往時はこちらのほうが規模が大きかったようなのに、現在はその面影はほとんど無し(写真▼)
近藤/土方らはどのあたりに宿陣したのか…
旧甲州道中は本陣脇でふたたび国道20号線から北側へ逸れ、与瀬神社の二の鳥居前(写真▼左)を通って次の吉野宿方面へ向かったそうな
与瀬神社(同▼)は「与瀬の権現さま」とも呼ばれているそうで、「虫封じ」で有名とのこと。甲陽鎮撫隊の面々はたぶんここへお参りしている余裕はなかっただろうと思われますが、平時には甲州道中を往来する人たちの多くが参拝したとか。現在参道は中央自動車道で分断され、中央道に架かったとんでもない高さの歩道橋を越えなければお参りできないという状況に…しかも歩道橋を渡った先には慈眼寺に並んでさらに急な石段(45度以上!?)が控えていて、もしかしたら小仏越え並に体力を消耗したかも(笑)
▲写真にポインタを乗せてみてください
でも大変だった分、山の上から見おろす相模湖と与瀬宿(ポインタを置いた写真▲右)は最高でありました(相模湖は古来ここに流れていた相模川が1947年に完成した相模ダムによって堰き止められ出来上がった人造湖なので、江戸末期の風景とは全然違っているわけですが)
甲陽鎮撫隊は翌3日、雨のなか(雪とも)この前を通り出立、次の宿泊地猿橋宿へ…
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