「新選組!」のおと
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調布探訪 07/23/2005 Chohu, Tokyo


■1 龍源寺

調布/府中方面へ、お知り合いのYさん/Sさんと行って来ました(ただし初訪問は私だけ) 三鷹駅から朝日町行きのバスに乗り、近藤勇墓所・龍源寺前で下車。お寺前の駐車場には近藤の胸像や記念の碑などが(写真▼中央) そして境内へ歩くと本堂の前には銀杏の大木が2本並んでいて(ポインタを置いた写真▼右)、これは近藤が植えたという言い伝えもあるとのこと?

裏の墓地に廻ると入口すぐのところに近藤家の墓所(写真▼右) 右から2つ目が近藤勇のお墓。真中が斬首された近藤の胴体を板橋からここまで運んで葬ったと言われている、娘婿・五代目天然理心流宗家勇五郎さんのもの。近藤の奥さん・つねさんや娘の瓊(たま)さんはいちばん右側の「先祖代々之墓」に眠っている…という話もあるようだけど未確認

調布1
写真にポインタを乗せてみてください

墓所の中には近藤の辞世の詩を刻んだ碑も(ポインタを置いた写真▲中央) 周りには実家の宮川家のお墓もたくさん…新選組隊士で天満屋事件で亡くなった宮川信吉のお墓も隣の区画にあるとのこと

■2 近藤勇生家/撥雲館

そして人見街道に戻り、少し西へ行くと近藤生家・旧宮川家跡(写真▼)
もともとは7000平方メートルもの広さだったそうだけど、調布飛行場の離着陸コースにあたるため昭和18年に取り壊され、今は井戸が残るのみ…
稲荷は昭和の初めころ建てられたものだそうな

調布2

さらに進むと道を挟んで南側に勇五郎さんの天然理心流道場・撥雲館(はつうんかん)が(写真▼左) ただし建物自体は昭和7年に建て替えられたものらしい…こちらも人見街道の拡幅工事などによって何度か移転を繰り返しているもよう。一般公開はされていないけど、門から外観だけ眺めることが出来ます

調布3

龍源寺の脇には野川(同▲中央/右)が流れ、近藤がまだ幼かったころ、宮川勝五郎だったころにここで遊んでいたとも言われていますが…いまでも子供たちがザリガニ採りをしていました。川沿いには古い水車小屋農家・旧峯岸家が萱葺き屋根もそのままに残っていて、土/日曜には内部を見学することも可能

[ 野水周辺地図↓ ]

野水地図


■3 西光寺

そして次は人見街道をそのまま多磨駅まで歩き(バスも有り)、駅前から調布駅行きのバスで上石原へ。そばには旧甲州街道沿いに近藤の坐像のある西光寺が(写真▼)。甲陽鎮撫隊を率いてやって来たとき、近藤はこのあたりから上石原若宮八幡の方角に戦勝祈願をしたとのこと…その後西光寺境内で休んだとも

古い門はどちらも貫禄。(真中の門は仁王門でもあり、鐘楼門でもあるめずらしいものらしい…/写真▼右) 坐像自体は2001年に建てられたかなり新しいもの

調布1

■4 上石原若宮八幡神社

そしてこちらは近藤が拝んだと言うその上石原若宮八幡神社(写真▼)、仁徳天皇を祭っているとのこと。上石原一帯の鎮守さまだそうですが、ひっそりとして一瞬現代とは思えないような懐かしい雰囲気の場所でした

調布4
写真にポインタを乗せてみてください

そのまま坂を降り、川沿いの道を郷土博物館へ。途中の道沿いには保護樹林もあり、散策にはオススメコース。博物館エントランスホールの中央には近藤生家の復元模型が(ポインタを置いた写真▲)…ここにはほかに地元調布の宿の歴史などが詳しくわかる展示も

[ 上石原周辺地図↓ ]

上石原地図




府中探訪 07/23, 11/06/2005, 05/05/2007 Fuchu, Tokyo


■5 大國魂神社

甲州街道をさらに西に進むと、府中駅へと続くけやき並木と大國魂神社(旧六所宮/武蔵総社)(写真▼)が。ここは毎年5月に燃えよ剣冒頭でもおなじみのくらやみ祭りが行なわれるところ

万延元年(1860年)9月30日、近藤周助/勇・父子らがここに天然理心流扁額を奉納(額は戊辰戦争の折失われ、片方の台座とされている金剛力士像だけが現存)
また、文久元年(1861年)8月27日には、ここで近藤勇の天然理心流四代目宗家襲名披露野試合を開催

襲名披露野試合での役どころ

近藤勇 本陣/総大将
土方歳三 東之方/赤/旗本衛士
山南敬助 東之方/赤/中軍/後陣/玄武戦士
沖田総司 本陣/太鼓
井上源三郎 本陣/鉦役
佐藤彦五郎 西之方/白之大将
沖田林太郎 本陣/軍奉行

大國魂神社
写真にポインタを乗せてみてください

野試合が行なわれた場所は、佐藤彦五郎さんの書簡では「六所宮東の方広場にて」とのこと
※「比留間家日記」に書かれていたかも、と聞き調べてみたけど、ちょうどこの前後2、3日分が抜けていてがっくり…(額奉納の時の詳細記述は有り)

[ 府中宿周辺地図↓ ]

府中宿周辺地図


日吉神社/天神社
写真にポインタを乗せてみてください

先日の日野宿本陣文書検討会主催ツアーでは、大國魂神社東側にある日吉神社/天神社(写真▲)のある天神山との間付近が野試合の舞台だったのでは、とのこと。文化年間(1800年代初め)の絵図と見較べると、「広場」といえる場所はこのあたり…? (▲上記地図 ←ただこの件についてはまだまだ要研究?)
※日吉神社はもっと南にあったものが、競馬場建設にともない昭和初めに天神社のあるここ天神山へ移転してきたそうな

■6 松本屋

そして旧甲州街道を挟んで斜め前には旧松本屋(写真▼左/中央・現松本旅館)が。上記万延元年の奉額の儀式のあと、一同こちらへ移って会食(宿泊?)
「本田覚庵日記」や「佐藤彦五郎日記」によると、奉納額についての事前打ち合わせやギャラ?の精算などにもここ「松本屋」が利用されたもよう

ふだんの彦五郎さんも、江戸からの帰路ここに立ち寄ったという記事が日記に散見

ちなみにこのあたりの名物は「蕎麦」「御茶漬」「玉川鮎乃糀漬け」などだったそうで

松本屋/府中宿

甲州街道を挟んで斜め前、大國魂神社の西隣角(写真▲右)「アブラヤ」では当時石田散薬などが販売されていたそうな

ちなみに府中宿は東から新宿(しんしゅく)/番場/本町(ほんまち)の3つの町で構成され、高札場は今でも当時の姿をとどめています

■7 関田家

少し調布へ戻ったあたり、旧常久村には関田家が。屋号はこちらも「油屋」で、当時は品川街道あたりまでいったいが敷地だったらしい? 近藤が出稽古に訪れた折にはここの離れに逗留したとか…慶応元年7月4日付、沖田の宮川音五郎さん宛書簡にも「関田君(=関田庄太郎)」と名前が登場

慶応4年(1868年)、甲陽鎮撫隊の出兵の折には、ここで負傷者などを受け入れ、後方の避難所の役割を果たすことになっていたそうな。日野まで同行し、途中で江戸へ帰ることになった沖田が、しばらくここで養生したとも (↑この項については聞き書き)

■8 観音院

さらに調布寄りの旧下染谷(屋)村には土方の実兄・糟谷良循(土方大作)さんの養家・糟谷家の菩提寺観音院(写真▼)が。糟谷家は代々医者を営む家柄で、文久元年(1861年)の土方「大病」の折にも良循さんが治療にあたったとのこと

向かっていちばん左の墓石(写真▼右)は良循さんの息子でやはり医者の良甫さんのもの。明治初期、この北多摩地域の医療発展にたいそう貢献された方だそうな
(良循さんの墓石がどちらだったかはうっかり失念…また確認に行きたいと思います)
糟谷家の紋は土方家と同じ「左三つ巴」のもよう

観音院

■9 本田覚庵邸

大國魂神社(旧六所宮)から甲州街道をさらに西に進んだところにある旧谷保村名主の本田家宗家と薬医門。このあたりは郷土史研究家の方ご案内のツアーで訪問。昔は下谷保と呼ばれた地域で、甲州街道に沿って現在でも3軒の「本田家」が残り、西から通称「医者本田」「新屋(中の本田)」「本家」と呼ばれているそうな

11代目の覚庵(孫三郎定脩)さんはもともと分家である「新屋」の生まれで「本家」に養子に入ったとか。本田家歴代当主の例にもれず漢方医/書家としても有名で、今は失われてしまった六所宮の天然理心流奉納額はこの人の筆によるもの。米庵流の書を上記の土方実兄・糟谷良循さんに教え、土方自身も習っていたとも

「本田覚庵日記」によると、近藤や土方、佐藤彦五郎さんや小島鹿之助さんも頻繁にこちらを訪れていたもよう。ほかにも土方為二郎さんはじめ土方家や佐藤家の人々、井上松五郎さんや近藤周助先生の名前などがたびたび登場。六所宮の神主だった国学者の猿渡容盛さんとも交流が盛んだったとのこと

もともと本田家の6代目・重禮さんは石田村・土方家からの養子で、さらに覚庵さんの義母であるチカ(キン)さんは歳三の叔母(父の妹)、覚庵さん自身の妻・ギンさんも土方家からの養女、娘のトマさんは佐藤彦五郎さんの息子・源之助さんに嫁ぎ、孫娘は土方家(歳三の又甥)に、もうひとりの孫娘も佐藤家に嫁ぎ、糟谷家からも嫁をとるなど、土方/佐藤両家との血のつながりがものすごく濃いお家だそうで…

ここの母屋は「喰違形六間型」と言われる江戸中期の建物とのことだけど、外からは門しか拝めず…門から少し西には、文久3年(1863年)4月建立の下谷保の常夜燈(秋葉燈)が。「常夜燈」はもともと火災除けの意味があり、各村の「油屋」のあたりに建てたものとのこと

※最近薬医門は新しく修繕されたようです

さらに西へ進み、石田の渡しのほうへ南下した所にあるくにたち郷土文化館ではこのあたりの出土品や史料などが数多く展示されていて一見の価値あり。「本田覚庵日記」などはここで購入可能

ここから多摩川を挟んですぐ向かい側が土方家などのある旧石田村。石田方面の方々は少し上流の万願寺の渡しから多摩川を越えて往来していたと思われますが…(「石田の渡し」は1600年代半ばに「万願寺の渡し」が出来る以前に使われていたそうな。ここよりさらに下流(東側)だったと書かれている本も)

■10 松本家

本田家の少し手前、府中寄りには大河の「滝本捨助」のモデルと言われる松本捨助さんの実家が

文久3年(1863年)11月付の土方書簡によると、捨助氏は前月21日に上京したものの追い返され、(長男だったという理由で?)新選組には入隊ならず。その後土方の甥・錠之助さんが松本家に養子に入り跡継ぎ問題は解決、4年後の慶応3年に入隊を果たしたそうな。戊辰戦では仙台で離脱したと言われ、大正7年4月6日、74歳で歿。お墓はすぐ近くの本宿共同墓地

ちなみに捨助さんの奥さんは井上松五郎さんの娘・モトさん(源さんの姪)、そしてモトさんの妹・ハナさんは沖田林太郎/ミツ夫妻の息子(総司の甥)・芳次郎さんに嫁いでいるという間柄とのこと

今回歩いてみて、あらためて多摩の方々の血のつながりやネットワークの強さ、距離感を実感できました

正光院

■11 正光院/分倍橋

さてこちらは"史実"ではないですが燃えよ剣前半で、土方と沖田が七里研之助との決闘に向かう前に作戦を練った正光院(写真▲)と決闘現場とされた分倍橋(ポインタを置いた写真▼左)
先日の日野宿本陣文書検討会主催ツアーで訪問してきました

ふたりはまず正光院の墓地で、箸で地面に地図など描きながら打ち合わせ、沖田は川上から、土方は川下から分倍橋で待ち受ける七里ら一味を迫撃。何人かを斬り伏せた後ふたたび正光院へ戻り、用意してあった着物に着替えてそれぞれ江戸へ戻った、という筋立てでありました。橋の脇には本編中に登場した、橋の北詰にあったというケヤキ?らしき大木も…

分倍橋/分倍河原
写真にポインタを乗せてみてください

この分倍橋のあたり(写真▲)は鎌倉幕府滅亡の決定打となった元弘3年(1333年)の分倍河原の戦いでも有名なところ。分倍橋のすぐ脇には古戦場跡の碑(ポインタを置いた写真▲中央/右)も建てられています

正光院のほうは、中央自動車道が通る以前はもっと南のほうまで広がっていたそうな。建物も最近建て替わってしまったとか

[ 分倍河原周辺地図↓ ]

分倍河原周辺地図




甲州街道(甲州道中)



多摩地図


■ 甲州街道(甲州道中)

五街道のひとつで、内藤新宿(現新宿あたり)を起点に下諏訪で中山道に合流。現調布付近の布田五宿は内藤新宿から高井戸宿(下高井戸/上高井戸)を経てふたつ目、府中が3つ目、日野が4つ目の宿。特に府中は南北へ抜ける川越道/相州道なども交差するところでたいそう賑わっていたもよう

ただここを参勤交替で利用する大名は高遠/飯田/諏訪の三家のみということで、自然交通量は東海道や中山道に較べて少なく、継立て(隣の宿から輸送されて来た物品を次の宿へ送る)用に常備しておく人馬は25人/25疋だったとのこと(東海道は100人/100疋、中山道は50人/50疋) その「継立て」などの宿場業務も、布田五宿では国領/下布田/上布田/下石原/上石原の宿がそれぞれ月6日ずつ、府中宿では本町/新宿/番場がそれぞれ月10日ずつの回り持ちだったそうな

大名行列は基本的に府中や八王子で宿泊するというパターンだったようで、日野宿は多摩川の増水などによる川留のとき以外は休憩にのみ利用されたもよう
(ただ昔の日野のあたりの多摩川は、今の開けたイメージとは違い渓谷の面影を残していて、江戸時代末〜明治期には江戸近郊からの観光客で賑わっていたという話も)

江戸時代以前の甲州街道は、旧街道よりさらに南側を通っていたらしい(府中宿では現在の大國魂神社を横切るあたり)


◆各宿間の距離 =甲陽鎮撫隊昼食/宿泊地)

[ 内藤新宿 ] 3/1出立↓

2里2丁(約8.07Km)

[ 下高井戸宿 ←11丁(約1.12Km)→ 上高井戸宿 ]

1里23丁(約6.44Km)


[ 布田五宿 ] (全長約30丁(約3.27Km)/ 東より 国領/下布田/上布田/下石原/上石原)

1里23丁 (約6.44Km/ 上飛田給-下染屋(糟谷家)-車返-上染屋-常久(関田家)-八幡)

[ 府中宿 ] (東より 新宿/本町/番場)3/1泊↓

2里8丁 (約8.73Km/ 本宿(松本家)-下谷保(本田家)-上谷保-青柳-柴崎)

[ 日野宿 ] (東より 下宿/中宿(佐藤家)/上宿)3/2休↓/ 3/6土方↑/ 3/8日春日隊

1里27丁49間(約7Km)

[ 八王子宿 ] (東より 八木/八幡/八日市/横山)3/2昼↓/ 3/6土方↑/ 3/8土方↓

1里27丁(約6.87Km)

[ 駒木野宿 ] (小仏関所)3/2↓/ 3/7↑/ 3/8近藤↑

26丁(約2.84Km)

[ 小仏宿 ]

1里22丁(約6.33Km/ 小仏峠まで26丁(約2.84Km))

[ 小原宿 ]

17丁(約1.85Km)

[ 与瀬宿 ] 3/2泊↓

34丁28間(約3.76Km)

[ 吉野宿 ]

26丁(約2.84Km)

[ 関野宿 ]

34丁(約3.71Km/ 境川関所)

[ 上野原宿 ] 3/3昼↓

18丁(約1.96Km)

[ 鶴川宿 ]

1里5丁(約4.47Km)

[ 野田尻宿 ]

31丁(約3.38Km)

[ 犬目宿 ]

1里6丁(約4.58Km)

[ 下鳥沢宿 ←5丁(約0.55Km)→ 鳥沢宿 ] 3/6春日隊↑

26丁(約2.84Km)

[ 猿橋宿 ] 3/3泊↓

22丁(約2.4Km)

[ 駒橋宿 ]

16丁(約1.75Km)

[ 大月宿 ] (▼3/3先鋒泊?↓) 3/5春日隊泊↑

13丁(約1.42Km)

[ 下花咲宿 ←3丁(約0.33Km)→ 上花咲宿 ] 3/4昼↓ 新政府軍甲府入城の報

1里(約3.93Km)

[ 下初狩宿 ←8丁(約0.87Km)→ 中初狩宿 ]

1里(約3.93Km)

[ 白野宿 ]

26丁(約2.84Km)

[ 阿弥陀海道 ]

10丁(約1.09Km)

[ 黒野田宿 ]

2里8丁(約8.73Km/ 笹子峠)

[ 駒飼宿 ] 3/4泊↓/ 3/5土方江戸へ↑/春日隊大月へ↑

18丁(約1.96Km/ 鶴瀬関所)

[ 鶴瀬宿 ] 3/5近藤出張↓

1里3丁(約4.25Km/ 柏尾)3/6柏尾戦

[ 勝沼宿 ]

30丁(約3.27Km)

[ 栗原宿 ]

1里21丁(約6.22Km)

[ 石和宿 ] (代官陣屋)

1里19丁(約6Km)

[ 甲府 ] (江戸から約36里(約141.38Km)) ▲3/3新政府軍入城


慶応4年(1868年)3月1日、甲陽鎮撫隊として江戸を出発した大久保大和(近藤)と内藤隼人(土方)らは同日府中宿泊、佐藤彦五郎さんや井上松五郎さんなどが宿へ出かけ、援軍の人数についての打ち合わせなどをしたもよう。2日、日野宿佐藤彦五郎家で休憩、八王子で昼食、そして小仏峠を越えた4つ先の与瀬宿泊。さらに3日には3つ先の上野原宿にて昼食、9つ先の猿橋宿泊…ということで、以前よく言われていたように「故郷に錦を飾るため、このあたりで長逗留のうえ豪遊した」…ということはもちろんナシ


「日野市史」「府中市史」「府中宿」「甲州街道」「佐藤彦五郎日記」などより
※1丁=109.09メートルで計算しています




小仏峠/小原/与瀬探訪 11/03/2006 Kobotoke, Tokyo/ Obara-Yose, Kanagawa


東山道を江戸に向かって進軍中の板垣退助率いる新政府軍に対して甲府城の守りにつくため、慶応4年(1868年)3月2日晴天、前夜泊の府中宿を出発した近藤(大久保剛)/土方(内藤隼人)甲陽鎮撫隊(総勢150人〜200人とも)は日野宿/八王子宿を経て小仏峠を越え、与瀬宿(現神奈川県相模原市)まで至ったそうな

[ 高尾周辺地図↓ ]

高尾周辺地図


今回は日野宿本陣文書検討会主催のツアーでその甲陽鎮撫隊が進軍した旧甲州道中を辿り、高尾から与瀬宿跡まで歩いて来ました。まずは高尾駅からバスで西へ少し移動。現在甲州街道は国道20号線として南の大垂水峠を通っていますが、旧甲州道中小名路で分岐し小仏峠を越えるこちらのコース(ただ今回は時間や交通の関係から、残念ながら途中の駒木野/小仏関所跡は通過。また次回に…)

ちなみに八王子宿からここ駒木野宿までは1里27町(6872.6メートル)の距離。旅籠は無く、本陣と脇本陣が1件ずつあったとのこと。次の小仏宿までは26町(2836.3メートル)

この付近を道に沿って流れる小仏川には牛額草の自生も見られました

■12 小仏峠

小仏宿があったと思われるあたり、小仏バス停や宝珠寺、小仏滝(写真▼左)を過ぎるといよいよ舗装も途切れ、上り坂に。しばらく行くとつづら折れ。そこから急激に傾斜がきつくなり、道幅も狭まって木々の間を抜けて行きます(同▼)

小仏峠1

30分くらい登り続け、山頂(写真▼)へ。ここは甲州道中だけでなく、南の大垂水峠方面から北の景信山方面へ抜ける山道などとも交差するポイントになっていて、広場の脇には道標(同▼右/寛政7年(1795年)建立)や道中安全祈願のためのお地蔵さま庚申塔なども残っています(ポインタを置いた写真▼左) これらは300年くらい前のものとのことで、行商をする土方さんや甲陽鎮撫隊の往来も見ていたのかも

昔はここに八王子千人同心らが守る小仏関所があったのだけど、江戸時代初期に上記の高尾近くの駒木野に移されたのだとか。小仏宿からここまで26町(約2836.3メートル)、ここから小原宿まで32町(約3491メートル)

小仏峠2
写真にポインタを乗せてみてください

山頂南側には明治天皇が明治13年(1880年)の山梨巡幸の折ここに立ち寄ったことを記念する明治天皇小佛峠御小休所阯及御野立所碑や、太政大臣・三条実美(「八・一八政変」のときに「七卿落ち」で長州に落ちのびた人)がそのとき命じられて高尾山薬王院へ詣で詠んだという歌の碑なども立っています(ポインタを置いた写真▲中央)

ここから一気に下り坂(写真▼)、下りのほうがなだらかなイメージを持っていたのだけど、甘かった…足元が湿っていて滑りやすかったというのもあるけれど、かなりな傾斜で肩と腰にダイレクトに衝撃がかかり、ふだん鍛えていない身にはものすごいダメージが

小仏峠3

ここは高島藩/高遠藩/飯田藩の大名3家も参勤交代で通過していたはずだけど、いったいこんな狭い急な道を大人数でどうやって通っていたのやら…甲陽鎮撫隊も大砲(6門?)などを抱えていたそうだけど、こういう場合の小荷駄方だけはいやかも(笑)

かなりバテながら約4、50分ほどで神奈川側の底沢へ着きほっとひと息。(写真▲右)は中央本線越しに小原宿方面を望む

[ 小仏峠周辺地図↓ ]
小仏峠周辺地図

ここから小原宿にかけての旧甲州道中は中央自動車道(写真▼左)や中央本線などで分断され、通行は不可。昔は底沢川に架かる板橋を渡り、今も中央道の橋脚下に残る馬頭観世音碑(同▼中央)の脇を抜けて南下したそうな

(同▼右)は中央本線越しに振り返った小仏峠

底沢

■13 小原宿

20分ほど平地を歩き小原宿へ。ここと次の与瀬宿はいわゆる片継宿場で、小原宿では江戸から来た人や荷物を与瀬を通り越して次の吉野宿へ継立て(引継ぎ)、反対に与瀬では吉野宿から来たものを小原を通り越して小仏宿へ継立てていたとのこと(←なんだかこれでは与瀬宿のほうが一方的にタイヘンだったのでは…)

甲陽鎮撫隊は江戸からやって来てここを素通り、与瀬に宿泊したわけだけど、宿泊の場合はどちら方面から来ても可能だったのだろうか…???

現地でいただいた(かなり荒い)資料を見ると、旧甲州道中は本陣(写真▼)の東側から現国道20号線に合流したと書かれているものと、本陣裏側の道を通り西側から合流としているものがあってはっきりしないのだけど、街道が本陣前を通っていないというのはあまり考えられないような気がするし…? 展示されていた江戸時代の小原宿絵図でも街道は本陣前を通っていたもよう

小原宿本陣
写真にポインタを乗せてみてください

その小原宿本陣(清水家)(写真▲)は神奈川県下に唯一残る本陣建築で、おおよそ200年前に建てられたものだそうな。兜造りという様式で、このあたりの民家特有の構造らしい? ちょうど本陣祭に重なり、見学者が多かったためか2階の養蚕室への立ち入りはできなかったので残念

本陣ということで家屋正面にはりっぱな式台(玄関/写真▲左)、その奥には大名などの宿泊に使われた上段の間(ポインタを置いた写真▲左)があり、そして表に面しては高札場(同▲右)も

小原宿

本陣前ではちょうど本陣祭のハイライト?、大名行列のパフォーマンスが行われていました(写真▲左) 小原宿には本陣のほかにもまだ江戸当時の趣を残す民家が散見されます。往時は2町半(約273メートル)の長さに渡り、脇本陣と旅籠も7件あったとか

与瀬宿方面へ向かう途中には南無阿弥陀仏碑(同▲右)なども

■14 与瀬宿/慈眼寺/与瀬神社

そしていよいよ甲陽鎮撫隊が宿泊した与瀬宿へ。小原宿からは17町(約1854.5メートル)の距離。「佐藤彦五郎日記」によると3月2日、日野を後発した彦五郎さんらいわゆる春日隊(総勢25名)は小仏峠あたりから日が暮れ、夜半にこちらに到着、合流したそうな

[ 小原/与瀬周辺地図↓ ]
小原/与瀬周辺地図


小原宿からの途中、旧甲州道中は平野バス停付近で現甲州街道(国道20号線)から北側に逸れていたそうなのだけど、このあたりも中央本線と交錯しています…旧道中はえんどう坂(写真▼左)を抜けて国道20号線上に直角に合流、このあたりから本陣前までが与瀬宿だったそうな

与瀬宿1

ここ与瀬宿は6町50間(約745メートル)に渡っていたとのこと。西端にあった本陣は建て替わっていてもう残っていませんが、門柱にのみ名残が…(写真▲右から2枚目) ここの庭先にも明治天皇與瀬御小休所阯碑が建てられています(同▲右)

小原宿のほうには本陣建築も残り、「本陣祭り」などで「宿」としての観光イメージを盛り上げているのに対して、往時はこちらのほうが規模が大きかったようなのに、現在はその面影はほとんど無し(写真▼)
近藤/土方らはどのあたりに宿陣したのか…

与瀬宿2

旧甲州道中は本陣脇でふたたび国道20号線から北側へ逸れ、与瀬神社の二の鳥居前(写真▼左)を通って次の吉野宿方面へ向かったそうな

与瀬神社(同▼)は「与瀬の権現さま」とも呼ばれているそうで、「虫封じ」で有名とのこと。甲陽鎮撫隊の面々はたぶんここへお参りしている余裕はなかっただろうと思われますが、平時には甲州道中を往来する人たちの多くが参拝したとか。現在参道は中央自動車道で分断され、中央道に架かったとんでもない高さの歩道橋を越えなければお参りできないという状況に…しかも歩道橋を渡った先には慈眼寺に並んでさらに急な石段(45度以上!?)が控えていて、もしかしたら小仏越え並に体力を消耗したかも(笑)

与瀬神社
写真にポインタを乗せてみてください

でも大変だった分、山の上から見おろす相模湖と与瀬宿(ポインタを置いた写真▲右)は最高でありました(相模湖は古来ここに流れていた相模川が1947年に完成した相模ダムによって堰き止められ出来上がった人造湖なので、江戸末期の風景とは全然違っているわけですが)

甲陽鎮撫隊は翌3日、雨のなか(雪とも)この前を通り出立、次の宿泊地猿橋宿へ…



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