「新選組!」のおと
[ 千駄ヶ谷/新宿 ][ 品川 ]

千駄ヶ谷/新宿探訪 08/04/2006 daikyocho/ shinjyuku, Tokyo


■1 植木屋平五郎宅跡

なかなか行く機会の無かった沖田総司終焉の地と言われる植木屋平五郎さん宅跡へ遅まきながら寄ってきました

「幕末史研究 No.34」や「新選組宝典」、そして先日の沖田ツアーには残念ながら参加できませんでしたが、それに先立って行われた日野宿本陣文書検討会対談でのあさくらゆうさんのお話などから察するに、脇の玉川上水支流跡と道に挟まれた、オレンジ色のマンションとその後方のあたり一帯がそうらしい?(▼)

千駄ヶ谷1

明治初めころの平五郎さん宅(柴田家)の地番はここにあたるとのこと。文久2年(1862)ころの「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」にも水路にかかる橋のたもとに「植木屋」が見られます
池尻橋と言われるこの橋の欄干もかなり年季が入っていそうな…水路脇の柵ともども、古い資料写真に写っているそのままの姿でなんとなく感激(▼左) 水路跡には現在水の痕跡はまったく無く、子供たちのための公園になっている…ようなのだけど、階段の鉄柵が壊れ危険なためか立ち入り禁止のもよう(▼中央/右) でもそれ以前にここはちょっと薄暗くてあまり遊びたい雰囲気でもないかも…?(笑)

慶応4年(1868)5月30日、ここで息をひきとったといわれる沖田の墓は麻布専称寺

千駄ヶ谷2

■2 多武峯内藤神社/ 駿馬塚

すぐ前を走る外苑西通を挟んで向かいには新宿御苑(旧高遠藩主・内藤駿河守家下屋敷跡)が広がり、当時のままと思われる大木群がうっそうと生い茂っています。新選組には直接の関係はありませんが、近接の住宅地にある多武峯内藤神社の一角には駿馬(しゅんめ)塚(▼左/中央)が置かれ、塚の脇の祠にはかわいらしい馬の像も…

徳川家康に「馬でひと息にまわれるだけの土地をやる」と言われた内藤家のご先祖・内藤清成は、千駄ヶ谷→代々木→大久保→四谷にわたる地域を思いっきり走り回り、結果このあたり一帯の広大な土地が内藤家に拝領されたとか…でも乗っていた馬は疲れ果てて死んでしまい(涙)、それを祭ったのがこの塚とのこと(明治初めにここに移築) つまり現在の新宿御苑の領域はこのえらい馬に由来するわけですな〜

新宿1

■3 四谷大木戸跡/ 玉川上水水番所跡

多武峯内藤神社の脇をぐるっとまわり、(▲右)は四谷大木戸近くの玉川上水分岐点跡付近から、南側の古川または新堀と呼ばれた支流跡を見たところ。いまだにこんなに痕跡をとどめているのがうれしい…このずっと先に平五郎さん宅脇の池尻橋があるわけですが (もしかしたら平五郎さん宅脇を通っていたのは上水ではなく、もう1本西側の天龍寺の池からの流れかも)

[ 千駄ヶ谷/新宿周辺地図↓ ]

千駄ヶ谷/新宿周辺地図

西からずっと流れて来た玉川上水(現在の新宿御苑北辺を走る道筋)はこの四谷大木戸脇から暗渠になり、江戸中心部へ飲料水を供給。ここには水番所が置かれ水の管理をしていたそうな。このあたりは現在道に覆われてしまってはいるものの、地下にはいまだ水が流れているらしい

大木戸があったと言われる四谷4丁目交差点(▼左から2枚目)は日本橋から7キロ地点。そこから少し西のビルのふもとに大木戸跡碑(▼左)と玉川上水を記念した水道碑記(いしぶみ)(▼右2枚)が並び立っています。「水道碑記」のてっぺんの篆字は徳川宗家16代当主・徳川家達によるものとのこと

新宿2

■4 内藤新宿/追分

大木戸から西は甲州街道の起点・内藤新宿(▼左) 品川/千住/板橋とともに「江戸四宿」と言われ、江戸の西の入り口になっていました。東側から順に下町/仲町/上町で全長約1200メートル、「内藤」はもちろん前述の「内藤駿河守」に由来

元禄のころこの宿を立ち上げた後、代々名主/問屋を務めていたのは高松家(ポインタを置いた写真▼中央あたり) 同じ甲州街道の宿どうしということでよく通達書の行き来などもあったらしく、日野の佐藤彦五郎さん日記にも頻繁に高松喜六さんの名前が登場します

聞き書き新選組にも慶応3年(1867年)春に東帰していた土方が、彦五郎さんの息子・源之助(俊宣)氏を同伴し、この付近の親戚、「新町」の大和屋清兵衛方に立ち寄ったり、無礼のあった関所の役人を恫喝したというエピソードが…

新宿3
写真にポインタを乗せてみてください

宿は現在の伊勢丹前にあたる追分(▲右)まで続き、そこから青梅街道(直進)と甲州街道(左へ)に分岐、現在歩道の角には追分跡を示す敷石が…(▲中央)
ちなみにここの角にはいまでも「追分だんご」のお店があります

京へ行くずっと以前から試衛館関係者はここを通り日野/多摩方面に出かけていたものと思われますが、慶応4年(1868)3月1日、甲陽鎮撫隊と名前を変えた新選組はこのなじみの場所から甲府に向けて出発

(この先の甲州街道については「Report10」をご覧ください)




品川探訪 09/24/2006 Shinagawa, Tokyo


ひきつづき江戸四宿のひとつ、江戸の南の入口品川へ行って来ました。日曜だからすいているかと思いきや、なんと「宿場まつり」の真っ只中…!! 人波やテントなどのすき間から、とりあえず水戸藩/新選組などの関係スポットをメインにチェック…

▼▼▼▼▼

品川駅の南、八ツ山橋を渡ったところから東海道最初の宿・旧品川宿(▼)が始まります。いちばん北のあたりから順に歩行(かち)新宿/北品川宿/南品川宿、全長19町40間(約2145m)あったとのこと。このあたりは道幅が江戸時代のまま、さらには当時すぐ東側まで迫っていたという浜へ降りる傾斜(▼右)もそのまま残っているそうな

※ちなみにこの「八ツ山橋」はゴジラが最初に日本に上陸した地点らしい?(笑)

歩行新宿

■5 相模屋(土蔵相模)跡/ 稲葉屋(因幡屋?)跡

安政7年(1860年)3月2日、翌日桜田門外の変を決行することになる水戸浪士たちは、歩行新宿の引手茶屋・いなばや(稲葉屋/因幡屋?)に集合、その後妓楼・相模屋で最後の宴を楽しんだとのこと。前面がナマコ壁だったため、「土蔵相模」と呼ばれていたそうな。昭和57年まで営業していたそうなのだけど、今は残念ながら?ご覧のようなマンションに(▼左)

※ちなみに妓楼には直接お金は持ち込まず、稲葉屋のような「引手茶屋」もしくは「仲宿」でお代やチップの支払いをして案内してもらうシステムだったらしい…嘉永元年「品川細見」によると、「いなばや」は相模屋の4軒ほど隣(同▼右あたり? )にあったもよう

その後浪士たちはふたたび稲葉屋へ戻り一泊。翌朝大雪の中、一同はいくつかのグループに分かれてここを出立し、集合場所の愛宕神社

相模屋(土蔵相模)跡/ 稲葉屋跡

相模屋は後の文久2年(1862年)12月12日夜半、高杉晋作ら長州藩士が完成間近の御殿山イギリス公使館を焼き討ちした際、やはり集合場所としたところでもあります

少しはなれたところにある品川歴史館には相模屋の復元模型が展示されています(▼) 海側に向かって土地が低くなっているため、表側(2階建て)の1階部分から少し下がったレベルに奥の座敷が作られていたとか
(歴史館にはほかにも宿の町並みの一部を再現した模型なども展示されています)

[ 情報: 品川歴史館 ]

相模屋復元模型

■6 御殿山イギリス公使館跡

相模屋に集まった長州藩士・高杉晋作/久坂玄瑞/井上聞多(馨)/伊藤俊輔(博文)/赤禰武人らが焼き討ちした御殿山のイギリス公使館跡(▼左/中央) 歩いてみたら相模屋からあまりに近くてびっくり。第一京浜を渡るとすぐ登り坂になり、ここから上が御殿山。すぐ左手の階段を登りきったところの高台にほぼ完成間近の公使館が建っていたとのこと。引き続きアメリカ/フランス/オランダの公使館も順次建設予定だったものが、この事件のおかげでたち切れになったとか

御殿山イギリス公使館跡

公使館敷地の北側は品川台場(後述)造営のための土を掘削したため、大きな窪地になってしまったそうな(▲右あたり?)

[ 品川周辺(全体)地図↓ ]

品川周辺地図


■7 御殿山下台場(陸台場)跡

現在は台場小学校となっている、安政元年(1854年)12月完成の御殿山下台場跡(▼) 現在は周りもすべて埋め立てられていますが、台場の五角形の外郭がそのまま道路の形となって残っているそうな。校門前には明治になってから第二台場に建てられていたという灯台のレプリカが

御殿山下台場(陸台場)跡

嘉永6年(1853年)のペリー来航後、伊豆韮山代官・江川太郎左衛門(英龍)さんを中心に品川沖に防衛ラインとして台場建築が開始されたのだけど、当初11基の予定だったものが財政難などのため第一/第二/第三/第五/第六の5つのみ完成し、頓挫。その後不足分を補うため、海に突出する形でこの御殿山下台場が建築されたのだそうな。ここは陸続きだったため、陸(おか)台場と呼ばれたとか

しかしせっかく造ったものの「夷敵」にはあまり脅威とはならなかったもよう? そしていちども使用されることはなく維新に至る…でもとっさにこれだけのものを造っていまだに原形をとどめているというのはかなりすごいことでは…↓

(※もともと江川英龍さんはもっと沖合に大規模な台場を築くつもりだったのが、却下されて大幅に規模縮小したものを作らされたらしく、さらにそれが財政難で予定の半分しか完成しなかったとはさぞ不本意だったことでありましょう?)

台場
写真にポインタを乗せてみてください

ちなみに現存するのは第三と第六台場。ご存知のとおり第三台場は「お台場」と陸続きの公園となっています。(▲)はその第三台場(右)と隣の第六台場(左奥)、(ポインタを置いた写真▲)は第三台場の船着場?と石垣など(2000年ころ撮影)
第六台場、行ってみたいなあ…

※ほぼ完成間近で建設中止になった第四台場跡は現在天王洲アイルの、第一/第五は品川埠頭の下敷に

■8 品川浦舟だまり/ 利田(かがた)神社/鯨塚跡

現在屋形船などが多数係留されている品川浦舟だまり(▼左)は幕末当時、目黒川の河口だったとか。小船に乗り換えたペリーの船の乗組員たちが、ここから内陸奥まで遡ったという話もあるらしい?

品川浦舟だまり/利田神社/鯨塚

東海道から台場小へ向かう台場横町から少し舟溜まり寄りにある利田(かがた)神社(▲中央)の脇には鯨塚(▲右)が。寛政10年(1798年)5月1日に品川に大鯨が打ち上がり、当時たいそうな騒ぎになったそうな。結局鯨は死んでしまったのだけど、その骨がここに埋葬されているとのこと。切絵図を見ると、江戸時代にはこのあたりが目黒川河口に突き出した形になっていたもよう

■9 一心寺/ 本陣跡/ 石垣

東海道に戻り少し南下したところにある一心寺(▼左)は、安政2年(1855年)、国家安泰を祈って井伊大老により開山されたそうな。大老襲撃のため水戸浪士が集まった場所のすぐ近くにこんなものがあるというのもなんだか皮肉な感じ?
ここは品川宿で唯一海側にあるお寺とのこと

さらに旧北品川宿2丁目あたりまで南下すると、左手(東側)に「聖蹟公園」(明治天皇が滞在した)となっている本陣跡(▼中央)が見えます…(「品川宿図」によると煮うりや庄助さんというところ) けれど今回は「宿場まつり」真っ只中だったため、公園内は人で溢れかえり、説明板前にもゴミ箱などが…ううう

ここから目黒川沿い、山手側奥に文久3年(1863年)2月13日、上洛途中の将軍家茂公が休んだという東海寺があるそうなのだけど、今回は寄らず(ここは沢庵和尚が開山したお寺で、「沢庵漬け」発祥の地でもあるそうな)

一心寺/本陣跡/石垣

そこから少し南、目黒川にかかる品川橋までが北品川宿、橋を越えると南品川宿。品川橋は江戸時代、境橋と呼ばれ、橋の北側のたもとには高札場、南側には脇本陣・百足屋治平衛さん方があったそうな。南下しながら東側へ道を1本入ると、当時海に面していたという石垣が当時のまま残っていたりします(▲右)

「品川宿図」によると、このあたりに文久元年(1861年)5月28日の第一次東禅寺事件(当時の英国公使館だった東禅寺を襲撃)を引き起こした水戸浪士たちが宿泊していたという食売旅籠・虎屋らしきお店が見えるのだけど?、今回は人波に負け(笑)確認に至らず…また次回

慶応3年(1867年)12月25日の庄内藩などによる三田・薩摩藩邸焼き討ち事件の折には、焼け出された伊牟田尚平/相楽総三/落合源一郎ら約30名がここ南品川宿に火をつけながら逃亡、大井町から小船で沖に停泊していた薩摩藩所有の翔鳳丸に渡り、大阪方面へ逃れたとか。この放火のため南品川宿一帯が焼失、続に「薩摩火事」と言われているそうな

■10 品川寺(ほんせんじ)

南品川宿を過ぎると品川寺門前町(当時)、右手に大きな銀杏(▼)が見えて来ます。樹齢400年とも600年とも…
品川寺は大同年間(806〜810年)開山だそうで、品川で最古のお寺とのこと。入口左手には江戸六地蔵(江戸の入口の宿にひとつずつ置かれた)の一番目である青銅のお地蔵さまが東海道のほうを向いて座っています

ちょうど境内では山伏さんたちの柴灯大護摩/火渡り荒行の儀式(同▼右から2枚目)が行われていて見物客で溢れかえっておりました

品川寺/釜屋跡

■11 釜屋跡

この参道正面海側に、立場茶屋・釜屋があったとのこと。慶応3年(1867年)10月21日、新規募集した隊士を引き連れ京へ向かう途中の土方歳三/井上源さんらはここで昼食をとったそうな(食事代は合計七貫九百文だったという記録があったそうなのだけど、現在は行方不明らしい?) このときいわゆる「最後の新選組隊士」と言われる稗田利八田村銀之助らも一行の中に

※「立場茶屋」とは宿と宿の間、もしくは宿の入口付近の風光明媚なところにあった休憩用の茶屋…らしい

そしてわずか3ヶ月後、慶応4年(1868年)1月に鳥羽伏見から敗走、品川へ上陸した新選組がここに滞在したことはあまりにも有名
佐藤彦五郎日記には、新選組が1月12日/15日に品川へ上陸し「かま屋」に滞在していることや、彦五郎さんが当時滞在していた柴井町和泉屋へ土方大石鍬次郎らが訪ねて来たこと、また彦五郎/大作(土方実兄・糟谷良循)/橋本道助(小野路村)の3人が22日に釜屋の土方を訪ね一泊したこと、翌23日に新選組が「鍛冶橋御門内御役屋敷」へ移動したことなどの記載が

現在はマンションの1階に説明板(▲右)が置かれていますが、「利田家文書」の絵図によると「釜屋」は参道より南側にあったようなので、場所が少しずれているのでは…?

ちなみにここ釜屋には文久2年(1862年)8月21日、生麦事件を引き起こす直前の薩摩藩行列も立ち寄り、島津久光が休息をとったとか。もともと大名家は本陣で休んだり泊まったりすることになっていたのだけど、費用がかさむので時代が下るにつれ多くの大名家が宿はずれのここ釜屋を利用するようになり、本陣が次第に衰えて問題になったりもしたそうな

幕末には幕府の役人が頻繁に品川を通過したり滞在するようになり、釜屋はよくその御用宿も務めていたとのこと

■[ 主な新選組関係品川宿通行歴 (↑上り/↓下り) ]
文久3年(1863)2月13日 井上松五郎 三河屋にて昼食 100文 ↑
文久3年(1863)7月2日 井上松五郎 鈴ヶ森/浜川通過/歩行新宿福原屋にて中食 ↓
文久4年(1864)1月3日 富澤政恕 釜屋源右衛門方にて昼食/鈴ヶ森通過 ↑
元治元年(1864)5月7日 富澤政恕 昼食 ↓
元治元年(1864)9月上旬? 藤堂
元治元年(1864)9月9日 近藤/永倉/武田/尾形
元治元年(1864)10月15日 近藤/伊東ら ↑(10月27日京着)
元治2年(1865) 4月5日 土方/伊東/斎藤
慶応元年(1865) 4月27日 土方/伊東/斎藤/藤堂ら ↑(5月10日京着)
慶応2年(1866) 3月29日 大石鍬次郎
慶応3年(1867) 9月24日 土方/井上(源)
慶応3年(1867) 10月21日 土方/井上(源)ら 釜屋にて昼食 ↑(※上記)
慶応4年(1868) 1月12/15-23日 新選組 釜屋滞在 ↓(※上記)
慶応4年(1868) 1月22日 佐藤(彦)/糟谷/橋本 釜屋泊 ↑(※上記/翌日川崎へ)


[ 品川周辺(全体)地図↓ ]

品川周辺(全体)地図


■12 浜川橋(涙橋)/ 浜川砲台跡

その後バスで移動し品川歴史館へ立ち寄ったりしていたため間はすっ飛ばし、ここはかなり南へ下った立会川にかかっている浜川橋(涙橋) (▼左) この先の鈴ヶ森刑場へ送られる罪人と家族が、ここで涙の別れをしたそうな。そしてその東側には浜川砲台跡が…あったはずなのだけど、それらしき説明板も何も無し?(▼中央)

浜川橋(涙橋)/浜川砲台跡

この付近に土佐藩下屋敷があり(現大井公園にあったものとは別らしい)、ここ浜川砲台の警備に当時江戸にいた若き日の坂本龍馬 も駆り出されたそうなのだけど? (そのあたりあまり詳しくないので今後要勉強) …というわけでか、近くの立会川駅前には龍馬の像が置かれています… ←移動用滑車付

そういえば堤防脇に、唐突に大きな岩がいくつかごろごろ転がっていたのだけど、どうやらあれが砲台跡から出たものだった…らしい?

(▲右)は鈴ヶ森刑場跡付近の旧東海道

鈴ヶ森刑場

■13 鈴ヶ森刑場跡

さらに一気に南下、現第一京浜との合流地点にはかの有名な鈴ヶ森刑場跡が。供養塔がこれでもかとぎっしり立ち並んでいます。一角には処刑に使われたという磔台(磔にしたときの柱の土台)や火炙台(火あぶりにしたときの柱の土台)も…(ひー) この地の最初の処刑は慶安4年(1651年)、そして明治4年(1871年)になって廃止されたとのこと

このあたりはもうかなり人里離れた寂しい場所だったのかなと思っていたら、なんと周辺には遊女町が栄えていたとか(刑場と遊女屋…すごいとりあわせ)

ここから先、旅人たちは大森村六郷の渡しなどを越え、次の川崎宿へ…



参考図書: [Books]のページをごらんください
[ 「新選組!」のおと -Shinsengumi Note-/TOP ]
© 2004-2008 tomato/ Shinsengumi Note