ひきつづき江戸四宿のひとつ、江戸の南の入口品川へ行って来ました。日曜だからすいているかと思いきや、なんと「宿場まつり」の真っ只中…!! 人波やテントなどのすき間から、とりあえず水戸藩/新選組などの関係スポットをメインにチェック…
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品川駅の南、八ツ山橋を渡ったところから東海道最初の宿・旧品川宿(▼)が始まります。いちばん北のあたりから順に歩行(かち)新宿/北品川宿/南品川宿、全長19町40間(約2145m)あったとのこと。このあたりは道幅が江戸時代のまま、さらには当時すぐ東側まで迫っていたという浜へ降りる傾斜(▼右)もそのまま残っているそうな
※ちなみにこの「八ツ山橋」はゴジラが最初に日本に上陸した地点らしい?(笑)
■5 相模屋(土蔵相模)跡/ 稲葉屋(因幡屋?)跡
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安政7年(1860年)3月2日、翌日 桜田門外の変を決行することになる水戸浪士たちは、歩行新宿の引手茶屋・ いなばや(稲葉屋/因幡屋?)に集合、その後妓楼・ 相模屋で最後の宴を楽しんだとのこと。前面がナマコ壁だったため、「土蔵相模」と呼ばれていたそうな。昭和57年まで営業していたそうなのだけど、今は残念ながら?ご覧のようなマンションに(▼左)
※ちなみに妓楼には直接お金は持ち込まず、稲葉屋のような「引手茶屋」もしくは「仲宿」でお代やチップの支払いをして案内してもらうシステムだったらしい…嘉永元年「品川細見」によると、「いなばや」は相模屋の4軒ほど隣(同▼右あたり? )にあったもよう
その後浪士たちはふたたび稲葉屋へ戻り一泊。翌朝大雪の中、一同はいくつかのグループに分かれてここを出立し、集合場所の 愛宕神社へ
相模屋は後の文久2年(1862年)12月12日夜半、高杉晋作ら長州藩士が完成間近の 御殿山イギリス公使館を焼き討ちした際、やはり集合場所としたところでもあります
少しはなれたところにある 品川歴史館には相模屋の復元模型が展示されています(▼) 海側に向かって土地が低くなっているため、表側(2階建て)の1階部分から少し下がったレベルに奥の座敷が作られていたとか
(歴史館にはほかにも宿の町並みの一部を再現した模型なども展示されています)
[ 情報: 品川歴史館 ]
相模屋に集まった長州藩士・ 高杉晋作/久坂玄瑞/井上聞多(馨)/伊藤俊輔(博文)/赤禰武人らが焼き討ちした御殿山の イギリス公使館跡(▼左/中央) 歩いてみたら相模屋からあまりに近くてびっくり。第一京浜を渡るとすぐ登り坂になり、ここから上が御殿山。すぐ左手の階段を登りきったところの高台にほぼ完成間近の公使館が建っていたとのこと。引き続きアメリカ/フランス/オランダの公使館も順次建設予定だったものが、この事件のおかげでたち切れになったとか
公使館敷地の北側は品川台場(後述)造営のための土を掘削したため、大きな窪地になってしまったそうな(▲右あたり?)
[ 品川周辺(全体)地図↓ ]
現在は台場小学校となっている、安政元年(1854年)12月完成の 御殿山下台場跡(▼) 現在は周りもすべて埋め立てられていますが、台場の五角形の外郭がそのまま道路の形となって残っているそうな。校門前には明治になってから第二台場に建てられていたという灯台のレプリカが
嘉永6年(1853年)のペリー来航後、伊豆韮山代官・江川太郎左衛門(英龍)さんを中心に品川沖に防衛ラインとして台場建築が開始されたのだけど、当初11基の予定だったものが財政難などのため第一/第二/第三/第五/第六の5つのみ完成し、頓挫。その後不足分を補うため、海に突出する形でこの御殿山下台場が建築されたのだそうな。ここは陸続きだったため、陸(おか)台場と呼ばれたとか
しかしせっかく造ったものの「夷敵」にはあまり脅威とはならなかったもよう? そしていちども使用されることはなく維新に至る…でもとっさにこれだけのものを造っていまだに原形をとどめているというのはかなりすごいことでは…↓
(※もともと江川英龍さんはもっと沖合に大規模な台場を築くつもりだったのが、却下されて大幅に規模縮小したものを作らされたらしく、さらにそれが財政難で予定の半分しか完成しなかったとはさぞ不本意だったことでありましょう?)
▲写真にポインタを乗せてみてください
ちなみに現存するのは第三と第六台場。ご存知のとおり 第三台場は「お台場」と陸続きの公園となっています。(▲)はその第三台場(右)と隣の 第六台場(左奥)、(ポインタを置いた写真▲)は第三台場の船着場?と石垣など(2000年ころ撮影)
第六台場、行ってみたいなあ…
※ほぼ完成間近で建設中止になった第四台場跡は現在天王洲アイルの、第一/第五は品川埠頭の下敷に
■8 品川浦舟だまり/ 利田(かがた)神社/鯨塚跡
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現在屋形船などが多数係留されている 品川浦舟だまり(▼左)は幕末当時、目黒川の河口だったとか。小船に乗り換えたペリーの船の乗組員たちが、ここから内陸奥まで遡ったという話もあるらしい?
東海道から台場小へ向かう 台場横町から少し舟溜まり寄りにある 利田(かがた)神社(▲中央)の脇には 鯨塚(▲右)が。寛政10年(1798年)5月1日に品川に大鯨が打ち上がり、当時たいそうな騒ぎになったそうな。結局鯨は死んでしまったのだけど、その骨がここに埋葬されているとのこと。切絵図を見ると、江戸時代にはこのあたりが目黒川河口に突き出した形になっていたもよう
東海道に戻り少し南下したところにある 一心寺(▼左)は、安政2年(1855年)、国家安泰を祈って 井伊大老により開山されたそうな。大老襲撃のため水戸浪士が集まった場所のすぐ近くにこんなものがあるというのもなんだか皮肉な感じ?
ここは品川宿で唯一海側にあるお寺とのこと
さらに旧北品川宿2丁目あたりまで南下すると、左手(東側)に「聖蹟公園」(明治天皇が滞在した)となっている 本陣跡(▼中央)が見えます…(「品川宿図」によると 煮うりや庄助さんというところ) けれど今回は「宿場まつり」真っ只中だったため、公園内は人で溢れかえり、説明板前にもゴミ箱などが…ううう
ここから目黒川沿い、山手側奥に文久3年(1863年)2月13日、上洛途中の将軍 家茂公が休んだという 東海寺があるそうなのだけど、今回は寄らず(ここは 沢庵和尚が開山したお寺で、「沢庵漬け」発祥の地でもあるそうな)
そこから少し南、目黒川にかかる 品川橋までが北品川宿、橋を越えると南品川宿。品川橋は江戸時代、 境橋と呼ばれ、橋の北側のたもとには高札場、南側には脇本陣・ 百足屋治平衛さん方があったそうな。南下しながら東側へ道を1本入ると、当時海に面していたという石垣が当時のまま残っていたりします(▲右)
「品川宿図」によると、このあたりに文久元年(1861年)5月28日の 第一次東禅寺事件(当時の英国公使館だった東禅寺を襲撃)を引き起こした水戸浪士たちが宿泊していたという食売旅籠・ 虎屋らしきお店が見えるのだけど?、今回は人波に負け(笑)確認に至らず…また次回
慶応3年(1867年)12月25日の庄内藩などによる三田・ 薩摩藩邸焼き討ち事件の折には、焼け出された 伊牟田尚平/相楽総三/落合源一郎ら約30名がここ南品川宿に火をつけながら逃亡、大井町から小船で沖に停泊していた薩摩藩所有の翔鳳丸に渡り、大阪方面へ逃れたとか。この放火のため南品川宿一帯が焼失、続に「薩摩火事」と言われているそうな
南品川宿を過ぎると品川寺門前町(当時)、右手に大きな銀杏(▼)が見えて来ます。樹齢400年とも600年とも… 品川寺は大同年間(806〜810年)開山だそうで、品川で最古のお寺とのこと。入口左手には 江戸六地蔵(江戸の入口の宿にひとつずつ置かれた)の一番目である青銅のお地蔵さまが東海道のほうを向いて座っています
ちょうど境内では山伏さんたちの 柴灯大護摩/火渡り荒行の儀式(同▼右から2枚目)が行われていて見物客で溢れかえっておりました
この参道正面海側に、立場茶屋・ 釜屋があったとのこと。慶応3年(1867年)10月21日、新規募集した隊士を引き連れ京へ向かう途中の 土方歳三/井上源さんらはここで昼食をとったそうな(食事代は合計七貫九百文だったという記録があったそうなのだけど、現在は行方不明らしい?) このときいわゆる「最後の新選組隊士」と言われる 稗田利八や 田村銀之助らも一行の中に
※「立場茶屋」とは宿と宿の間、もしくは宿の入口付近の風光明媚なところにあった休憩用の茶屋…らしい
そしてわずか3ヶ月後、慶応4年(1868年)1月に鳥羽伏見から敗走、品川へ上陸した新選組がここに滞在したことはあまりにも有名
佐藤彦五郎日記には、新選組が1月12日/15日に品川へ上陸し「かま屋」に滞在していることや、彦五郎さんが当時滞在していた柴井町和泉屋へ 土方や 大石鍬次郎らが訪ねて来たこと、また 彦五郎/大作(土方実兄・糟谷良循)/橋本道助(小野路村)の3人が22日に釜屋の土方を訪ね一泊したこと、翌23日に新選組が「鍛冶橋御門内御役屋敷」へ移動したことなどの記載が
現在はマンションの1階に説明板(▲右)が置かれていますが、「利田家文書」の絵図によると「釜屋」は参道より南側にあったようなので、場所が少しずれているのでは…?
ちなみにここ釜屋には文久2年(1862年)8月21日、 生麦事件を引き起こす直前の薩摩藩行列も立ち寄り、 島津久光が休息をとったとか。もともと大名家は本陣で休んだり泊まったりすることになっていたのだけど、費用がかさむので時代が下るにつれ多くの大名家が宿はずれのここ釜屋を利用するようになり、本陣が次第に衰えて問題になったりもしたそうな
幕末には幕府の役人が頻繁に品川を通過したり滞在するようになり、釜屋はよくその御用宿も務めていたとのこと
■[ 主な新選組関係品川宿通行歴 (↑上り/↓下り) ]
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文久3年(1863)2月13日 井上松五郎 三河屋にて昼食 100文 ↑
文久3年(1863)7月2日 井上松五郎 鈴ヶ森/浜川通過/歩行新宿福原屋にて中食 ↓
文久4年(1864)1月3日 富澤政恕 釜屋源右衛門方にて昼食/鈴ヶ森通過 ↑
元治元年(1864)5月7日 富澤政恕 昼食 ↓
元治元年(1864)9月上旬? 藤堂 ↓
元治元年(1864)9月9日 近藤/永倉/武田/尾形 ↓
元治元年(1864)10月15日 近藤/伊東ら ↑(10月27日京着)
元治2年(1865) 4月5日 土方/伊東/斎藤 ↓
慶応元年(1865) 4月27日 土方/伊東/斎藤/藤堂ら ↑(5月10日京着)
慶応2年(1866) 3月29日 大石鍬次郎 ↓
慶応3年(1867) 9月24日 土方/井上(源) ↓
慶応3年(1867) 10月21日 土方/井上(源)ら 釜屋にて昼食 ↑(※上記)
慶応4年(1868) 1月12/15-23日 新選組 釜屋滞在 ↓(※上記)
慶応4年(1868) 1月22日 佐藤(彦)/糟谷/橋本 釜屋泊 ↑(※上記/翌日川崎へ)
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[ 品川周辺(全体)地図↓ ]
その後バスで移動し品川歴史館へ立ち寄ったりしていたため間はすっ飛ばし、ここはかなり南へ下った立会川にかかっている 浜川橋(涙橋) (▼左) この先の鈴ヶ森刑場へ送られる罪人と家族が、ここで涙の別れをしたそうな。そしてその東側には 浜川砲台跡が…あったはずなのだけど、それらしき説明板も何も無し?(▼中央)
この付近に土佐藩下屋敷があり(現大井公園にあったものとは別らしい)、ここ浜川砲台の警備に当時江戸にいた若き日の坂本龍馬 も駆り出されたそうなのだけど? (そのあたりあまり詳しくないので今後要勉強) …というわけでか、近くの立会川駅前には龍馬の像が置かれています… ←移動用滑車付
そういえば堤防脇に、唐突に大きな岩がいくつかごろごろ転がっていたのだけど、どうやらあれが砲台跡から出たものだった…らしい?
(▲右)は鈴ヶ森刑場跡付近の旧東海道
さらに一気に南下、現第一京浜との合流地点にはかの有名な 鈴ヶ森刑場跡が。供養塔がこれでもかとぎっしり立ち並んでいます。一角には処刑に使われたという 磔台(磔にしたときの柱の土台)や 火炙台(火あぶりにしたときの柱の土台)も…(ひー) この地の最初の処刑は慶安4年(1651年)、そして明治4年(1871年)になって廃止されたとのこと
このあたりはもうかなり人里離れた寂しい場所だったのかなと思っていたら、なんと周辺には遊女町が栄えていたとか(刑場と遊女屋…すごいとりあわせ)
ここから先、旅人たちは 大森村や 六郷の渡しなどを越え、次の 川崎宿へ…
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