ここもファンにはすっかりおなじみの場所だと思いますが、板橋駅東口前の 寿徳寺境外墓地(▼中央)です。駅前にどーんと開けているものかと思っていたら、けっこう隅の日当たりの悪い場所にちんまりと…
中央に高さ3.6メートルの 新選組供養碑(写真下右)、それに 永倉の墓(分骨/▼左)などがあります。刑場(別の場所/諸説あり)で斬首された近藤の胴がここに埋葬されたと言われています(三鷹・龍源寺に運ばれたとも?)
供養碑の向かって右側足元には小さい近藤個人の墓石がありますが、こちらはいつ建立されたものかはっきりしないようです(昭和4年の墓地改修前にはなかったとの話も?…諸説あり)
▲写真にポインタを乗せてみてください
他にも墓地の改修をした時の記念碑(ポインタを置いた写真▲中央)や小さい近藤の像(同▲右)、ファンの書いたノートを収める百葉箱のようなものも設置されていました。寿徳寺自体はかなり北に離れた場所にあります(下記/こちらでも新選組関連の文集を販売しているようです)
新選組供養碑は明治9年(1876年)に永倉や松本良順(斎藤も?)の尽力で建立されたそうですが、かなり剥落が激しいです…(写真▼)
正面には近藤と土方の名前が並んで刻まれていますが、近藤の諱が「昌宜」でなくなぜか「¥ケ」となっているのは有名なナゾ?(ポインタを置いた写真▼右) そして背面には発起人の永倉の名前(「旧新選組長倉新八改
瘻コ義○」)がかすかに読めます(▼右から2枚目)
▲写真にポインタを乗せてみてください
両側面にはその他の隊士の名前がギッシリと。左側面の最上段には山南/沖田/平山/野口/伊藤(伊東)/藤堂/服部など、おなじみの名前が並んでいます(▲左) でも山南さんの名前(「山南敬介」)もかなり判別しにくくなっているし、その右隣の2名の名前はもうほとんど読めません(たぶん芹沢と新見?)
その下段には谷長兄/佐伯又三郎/茨木/佐野/富川/中村/阿比留/安藤早太郎など、さらに下のほうには河合の名前も…(▲右) この左側面の名前は何らかの理由(粛清など)で非業の死を遂げた人たちのリストだと聞きますが…
右側面の下のほうには大石の名前が見えました
ここ滝野川の商店街も新選組啓蒙活動?がいまだにさかんなようです(ポインタを置いた写真▲中央) でも、まだ賊軍イメージが強かった時期にこれだけの碑を築いていままで維持されてきたというのは、本当に大変なことだったのではないかと思いますが…
4月にはまた墓前供養祭も行なわれるもようです
[ ↓後日 ]
5月に入って再びこの墓地及び板橋宿を訪問。墓地はこんもりと青葉に覆われ、碑の上のほうの文字は隠されてしまっているほど。先日行なわれた墓前供養の名残か、花がたくさんそなえられて華やかになっていました(写真▲)
そしてこの墓地の北隣の喫茶店で前述の史料集 新選組と近藤勇文集が売られているのを見つけ、購入(2000円)。それによるともともとこの墓地は、近藤が最後の夜を過ごした 石山家の方々が近藤の胴体を引き取り、埋葬した場所を檀那寺である 寿徳寺に寄進したものとのこと。その後実家の宮川家の人々らに掘り起こされ、菩提寺の三鷹・ 竜源寺に埋葬されたという近藤の胴体ですが、ここに伝わる話では慰霊碑の右隣にある近藤の小さな墓石(▲左)の下に今も眠っているそうな…
山南さんの右隣のふたりは、やはり芹沢と新見のもよう。大石の名前はなぜか両側にダブって刻まれているようです
※2007年の近藤勇140回忌を前に、供養塔と墓地一帯の修繕工事が行われるとのこと
境外墓地から徒歩10分強の 寿徳寺本体?(写真▲)にも足をのばしてみました。ここの門前にも、墓地にあるのと同じ近藤のレリーフと碑が
[ 情報: 寿徳寺 ]
[ 板橋宿周辺地図↓ ]
中山道最初の宿場である板橋。今は表通りから1本入った昔懐かしい商店街、といった雰囲気です(▼左)
文久3年(1863年)2月8日に京都へ旅だった浪士組一行もまずここを通ったはず。向かって江戸側から順に 平尾宿/中宿/上宿…中宿と上宿の間を流れる石神井川には名前の由来となった 板橋(▼右)が…
流山から連行された近藤は、慶応4年(1868年)4月4日、まず東山道軍総督府本営となっていた中宿の本陣・飯田家(▼左)に入り(ここで加納鷲雄に正体を見破られたとも)、その後平尾村脇本陣・豊田家(▼中央/右)に留め置かれたそうです
どちらの家も、今は碑が残るのみ…
当時の豊田家の屋敷は約109坪、平尾の玄関(式台があったため)と呼ばれていたそうな。代々名主の家柄で名字帯刀御免、砲術家の高島秋帆とも交流があり、明治初めには西郷隆盛もここに立ち寄ったことがあるとか。この裏手から石神井川をまたいだ一帯には加賀藩の下屋敷があったそうで、現在でも「加賀」という地名が残っています
4月24日、近藤はさらに江戸寄りの滝野川村三軒家にある 石山家(▼付近?)に移送され、翌25日、近くの 馬捨て場で斬首。首はその後京都へ…胴体はいったん処刑場に埋められた後、石山家の人々によって当時石山家の地所だった現在の 寿徳寺境外墓地の場所に埋葬し直されたとのこと(その後の近藤の遺体については 上記のとおり)
「馬捨て場」はJR踏切から約60m東側付近にあった?とのことですが、「一里塚」は場所が確定されていないようです(境外墓地の真北あたりという説があるようですが、板橋宿の絵図などから推測してみてもその付近があやしい???)
※処刑場や埋葬場所については諸説あり、確定されていないというのが一般的なようですが、上記の説は寿徳寺文庫新選組と近藤勇文集収録の石山家子孫・石山亀ニ氏寄稿文/インタビューによります(文集は境外墓地北隣の喫茶店や寿徳寺にて購入可能)
さらに情報がないか板橋区立郷土資料館にも足をのばしてみましたが、こちらは板橋区のほぼ反対側の端の赤塚(西高島平駅から徒歩15分ほど)にあるせいか、新選組に対する熱はかなり低めという感じ。ただ豊田家や飯田家の史料は豊富に所蔵されているもよう(「板橋」駅前とは言っても、線路を挟んでここ滝野川は「北区」内にあり、いろいろコトが複雑に…)
※このあたりのことが詳しく書かれたあさくらゆうさん著・慶応四年新撰組近藤勇始末も先日出版されています
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