「新選組!」のおと
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板橋探訪 03/01, 05/05/2005 Itabashi/Takinogawa, Tokyo


■1 寿徳寺境外墓地

ここもファンにはすっかりおなじみの場所だと思いますが、板橋駅東口前の寿徳寺境外墓地(▼中央)です。駅前にどーんと開けているものかと思っていたら、けっこう隅の日当たりの悪い場所にちんまりと…

中央に高さ3.6メートルの新選組供養碑(写真下右)、それに永倉の墓(分骨/▼左)などがあります。刑場(別の場所/諸説あり)で斬首された近藤の胴がここに埋葬されたと言われています(三鷹・龍源寺に運ばれたとも?) 供養碑の向かって右側足元には小さい近藤個人の墓石がありますが、こちらはいつ建立されたものかはっきりしないようです(昭和4年の墓地改修前にはなかったとの話も?…諸説あり)

板橋1
写真にポインタを乗せてみてください

他にも墓地の改修をした時の記念碑(ポインタを置いた写真▲中央)や小さい近藤の像(同▲右)、ファンの書いたノートを収める百葉箱のようなものも設置されていました。寿徳寺自体はかなり北に離れた場所にあります(下記/こちらでも新選組関連の文集を販売しているようです)

新選組供養碑は明治9年(1876年)に永倉や松本良順(斎藤も?)の尽力で建立されたそうですが、かなり剥落が激しいです…(写真▼) 正面には近藤と土方の名前が並んで刻まれていますが、近藤の諱が「昌宜」でなくなぜか「¥ケ」となっているのは有名なナゾ?(ポインタを置いた写真▼右) そして背面には発起人の永倉の名前(「旧新選組長倉新八改 瘻コ義○」)がかすかに読めます(▼右から2枚目)

板橋2
写真にポインタを乗せてみてください

両側面にはその他の隊士の名前がギッシリと。左側面の最上段には山南/沖田/平山/野口/伊藤(伊東)/藤堂/服部など、おなじみの名前が並んでいます(▲左) でも山南さんの名前(「山南敬介」)もかなり判別しにくくなっているし、その右隣の2名の名前はもうほとんど読めません(たぶん芹沢と新見?)

その下段には谷長兄/佐伯又三郎/茨木/佐野/富川/中村/阿比留/安藤早太郎など、さらに下のほうには河合の名前も…(▲右) この左側面の名前は何らかの理由(粛清など)で非業の死を遂げた人たちのリストだと聞きますが…
右側面の下のほうには大石の名前が見えました

ここ滝野川の商店街も新選組啓蒙活動?がいまだにさかんなようです(ポインタを置いた写真▲中央) でも、まだ賊軍イメージが強かった時期にこれだけの碑を築いていままで維持されてきたというのは、本当に大変なことだったのではないかと思いますが…
4月にはまた墓前供養祭も行なわれるもようです

板橋3

[ ↓後日 ]
5月に入って再びこの墓地及び板橋宿を訪問。墓地はこんもりと青葉に覆われ、碑の上のほうの文字は隠されてしまっているほど。先日行なわれた墓前供養の名残か、花がたくさんそなえられて華やかになっていました(写真▲)

そしてこの墓地の北隣の喫茶店で前述の史料集新選組と近藤勇文集が売られているのを見つけ、購入(2000円)。それによるともともとこの墓地は、近藤が最後の夜を過ごした石山家の方々が近藤の胴体を引き取り、埋葬した場所を檀那寺である寿徳寺に寄進したものとのこと。その後実家の宮川家の人々らに掘り起こされ、菩提寺の三鷹・竜源寺に埋葬されたという近藤の胴体ですが、ここに伝わる話では慰霊碑の右隣にある近藤の小さな墓石(▲左)の下に今も眠っているそうな…

山南さんの右隣のふたりは、やはり芹沢と新見のもよう。大石の名前はなぜか両側にダブって刻まれているようです

※2007年の近藤勇140回忌を前に、供養塔と墓地一帯の修繕工事が行われるとのこと

寿徳寺

■2 寿徳寺

境外墓地から徒歩10分強の寿徳寺本体?(写真▲)にも足をのばしてみました。ここの門前にも、墓地にあるのと同じ近藤のレリーフと碑が

[ 情報: 寿徳寺 ]

[ 板橋宿周辺地図↓ ]

板橋宿周辺地図


■3 板橋宿

中山道最初の宿場である板橋。今は表通りから1本入った昔懐かしい商店街、といった雰囲気です(▼左) 文久3年(1863年)2月8日に京都へ旅だった浪士組一行もまずここを通ったはず。向かって江戸側から順に平尾宿/中宿/上宿…中宿と上宿の間を流れる石神井川には名前の由来となった板橋(▼右)が…

板橋宿1

流山から連行された近藤は、慶応4年(1868年)4月4日、まず東山道軍総督府本営となっていた中宿の本陣・飯田家(▼左)に入り(ここで加納鷲雄に正体を見破られたとも)、その後平尾村脇本陣・豊田家(▼中央/右)に留め置かれたそうです
どちらの家も、今は碑が残るのみ…

当時の豊田家の屋敷は約109坪、平尾の玄関(式台があったため)と呼ばれていたそうな。代々名主の家柄で名字帯刀御免、砲術家の高島秋帆とも交流があり、明治初めには西郷隆盛もここに立ち寄ったことがあるとか。この裏手から石神井川をまたいだ一帯には加賀藩の下屋敷があったそうで、現在でも「加賀」という地名が残っています

板橋宿2

4月24日、近藤はさらに江戸寄りの滝野川村三軒家にある石山家(▼付近?)に移送され、翌25日、近くの馬捨て場で斬首。首はその後京都へ…胴体はいったん処刑場に埋められた後、石山家の人々によって当時石山家の地所だった現在の寿徳寺境外墓地の場所に埋葬し直されたとのこと(その後の近藤の遺体については上記のとおり)

「馬捨て場」はJR踏切から約60m東側付近にあった?とのことですが、「一里塚」は場所が確定されていないようです(境外墓地の真北あたりという説があるようですが、板橋宿の絵図などから推測してみてもその付近があやしい???)

※処刑場や埋葬場所については諸説あり、確定されていないというのが一般的なようですが、上記の説は寿徳寺文庫新選組と近藤勇文集収録の石山家子孫・石山亀ニ氏寄稿文/インタビューによります(文集は境外墓地北隣の喫茶店や寿徳寺にて購入可能)

板橋宿3

さらに情報がないか板橋区立郷土資料館にも足をのばしてみましたが、こちらは板橋区のほぼ反対側の端の赤塚(西高島平駅から徒歩15分ほど)にあるせいか、新選組に対する熱はかなり低めという感じ。ただ豊田家や飯田家の史料は豊富に所蔵されているもよう(「板橋」駅前とは言っても、線路を挟んでここ滝野川は「北区」内にあり、いろいろコトが複雑に…)


※このあたりのことが詳しく書かれたあさくらゆうさん著・慶応四年新撰組近藤勇始末も先日出版されています




松井八十五郎家探訪 02/17, 09/19/2005 Fujimi, Tokyo


ツネさんの実家、御三家清水家家臣松井八十五郎家跡。嘉永3年(1850年)版の江戸切絵図に名前が見えます(ただし「八十三郎」となっている) 入れ替わりの激しい地域だったようで、婚礼の安政7年(1860年)までここにいたのかは確認できていないのですが…文久3年(1963年=浪士組が京都へ旅立った年)版ではすでに移転しているもよう? (両隣に吸収され、家の区画自体がなくなっている)

松井家跡

主家の清水家(田安御門内/現武道館)へは徒歩7、8分の距離
ここからだと試衛館へは神楽坂をずっと上って行ったんでしょうか

※この場所については斎藤一史跡探訪「Report_06」も合わせてご覧ください


[ 松井家周辺地図↓ ]
富士見町地図




勝海舟邸探訪 02/17/2005 Hikawa, Akasaka, Tokyo


新選組に直接関係はないですが、勝海舟邸跡です(▼下記地図「勝邸(2)」)
安政6年(1859年)7月、軍艦操練所教授方頭取のころから陸軍総裁となった明治元年(1868年)の10月までずっとここに居住
文久2年(1862年)11月、坂本龍馬が勝を斬りに行って逆に「感化」されたと言われているのはこの場所。慶応4年(1868年)4月4日に「土方歳三来、流山顛末を云」ったというのもここではないかと思われますが

※余談ながら、同じ4月4日、元浪士組の村上俊五郎もここを訪問。翌々日6日には石坂周造

4月14日には近藤の門人・福田平馬が訪れ「大久保大和之事頼ミ置由」

勝海舟邸1

白い建物(写真▲)からずーっと奥の氷川神社崖下までの細長い敷地が勝邸跡。南側を遮られているので陽当たりはそんなに良くなさそうな…?

脇のかなり急な本氷川坂(もとひかわざか)を上ると氷川神社(▼中央) あたりはどんどんおしゃれな低層マンションに建て替わっていますが、この坂の形状は幕末のころのままのようで、ひっそり落着いています
このあたりは赤穂浪士に縁の深い地域でもあるようです

海舟さんは明治元年に慶喜に従って静岡へ、その後明治5年(1872年)に帰京してからはすぐ近くの広大な敷地に移り、明治32年(1899年)に77歳で亡くなるまでそこに住んでいたとのこと(旧氷川小学校跡/▼下記地図「勝邸(3)」)

氷川神社/勝海舟邸2

そちらの敷地内には「勝安芳邸阯」の立派な碑が…(同▲右)
さぞかし立派な大邸宅が建っていたのだろう…と思っていたのだけど、明治20年末にここを訪ねた依田学海さんの学海日録によると、「いと古びて質素なる家なり」「玄関いと小さく〜」「貧士の住居に似たり」…という様子だったもよう

海舟さんは安政6年(1859年)に本氷川坂下(▼「勝邸(2)」)に移り住む前も、弘化3年(1846年)からずっと少し東の赤坂田町(▼「勝邸(1)」)に住んでいたそうなので、よほどこの地域に思い入れがあったのですね

[ 赤坂/氷川周辺地図↓ ]
赤坂/氷川周辺地図




青山霊園探訪 02/17/2005 Aoyama, Tokyo


御陵衛士篠原泰之進(秦林親)/加納鷲雄(通廣)のお墓です
ふたりのお墓はかなり離れた場所に位置していて、あの世でもまさかお互い同じ墓地に葬られたとは気づいていないのでは…?
(ちなみに大久保一蔵(利通)や秋月悌次郎、大鳥圭介らのお墓もここにあります)

秦林親(篠原)は戊辰戦争で会津攻めなどに参加したあと久留米藩に登用され、その後大蔵省に勤め、明治6年以降は大阪や京都などで事業を展開、明治25年東京へ移住し明治44年6月13日に青山で亡くなったそうです(享年84)

加納鷲雄も近藤との面会後会津攻めに参加し、戦後は薩摩藩に登用され、明治4年ごろからは開拓使で、その後も北海道関係の部署で働き、明治35年10月27日に麻布区永坂町で亡くなったとのこと(享年64)
※どちらの経歴も市居浩一さん著「新選組 高台寺党」より

青山墓地
写真にポインタを乗せてみてください

秦林親のお墓は「小さいからうっかりすると見過ごす」と聞いてはいたのですが、本当に淋しい一画にひっそりと(▲左) 家族の墓所という感じでもなく、墓碑も個人の名前になっています…晩年はキリスト教に入信していたと聞きますが、宗教色も皆無
家族に囲まれた写真のイメージが強いのに、どういう事情でこうなっているのだろう?

対して加納家は鷲雄夫妻の立派な墓石が中央正面に立ち、かなり管理が行き届いている様子(▲右中央)
息子さんの関連か、周りは海軍関係の方のお墓が多いようですが

でも多くの修羅場をくぐった方々のお墓の前に実際立つとなんだか身がすくみます…

[ 青山霊園地図↓ ]
青山霊園地図




金地院/安蓮社探訪 09/19/2005 Shiba, Tokyo


近藤勇養父・天然理心流三代目宗家近藤周斎(周助)先生のお墓(▼左)がある、芝公園金地院。東京タワーの真下です。「佐藤彦五郎日記」によると慶応3年(1967年)10月28日に死去した周斎先生のお葬式は、霜月朔日(11月1日)愛宕下金地院寺中二玄庵にて執り行われたとのこと(彦五郎さんは牛込廿騎町近藤家にて見送り?)

当時京都にいた近藤はもちろん出席できず…でも墓石は「近藤勇」の名前で建てられているもよう(墓石正面左下に名前が)

周斎先生の実家嶋崎家の菩提寺だったことから、この場所に葬られたのだそうな

金地院

その嶋崎家のお墓も横に…(▲左から2枚目) 以前はもっと周斎藤先生のお墓の側にあってちゃんと見える状態だったらしいのだけど、今はこんな隅の茂みの中に突っ込まれている…(見えているのは正面ではなく側面) こ、これだけなぜこんな目に…
いや、周りに何の緑もない周斎先生のお墓もかなり殺風景だけど…

井上馨のお墓もこの墓地のどこかにあるらしい?

[ 金地院周辺地図↓ ]
芝地図


そしてこちらはそのすぐ近くにある安蓮社。ビルの下の吹き抜けを通りぬけて入っていくような墓地なので、ちょっとびっくりなのですが。ここには慶応2年(1966年)第二次長州征伐の際戦死した幕府軍兵士51名のモニュメント・海陸軍士戦死者之墓(写真▼)があります

安蓮社

正面の文字は陸軍奉行並丹後守竹中重固(ドラマ中では鳥羽伏見で土方/永倉と意見がぶつかり、しまいには逃げ出してしまった幕軍大将ですね ←さんざんなイメージの重固さんですがいろいろ異説も有り)、裏面の追悼文は勝海舟の筆によるもの

そして側面から土台にまで、戦死者全員の名前がぎっしりと…(下のほうには姓が無く名前のみの人も)

写真だとわかりにくいですが、とにかく大きい…2、3メートルはありそうな。しかし、もう少し哀愁を誘うシェイプにできなかったものか…?


※この項も先日のあさくらゆうさん主催ツアーにて訪問


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