「新選組!」のおと
京都4[ ][ 橋本/楠葉 ]
淀探訪 04/14/2006 Yodo, Kyoto


■15 淀城跡

大政奉還後の慶応3年(1867年)末、徳川慶喜に従って大坂へ下っていた旧幕軍、会津、桑名軍らは江戸で起こった薩摩藩邸焼き討ちなどに勢いを得て慶応4年(1868年)1月2日、京都へ向けて進軍を開始、3日にここ(▼)に本営を置き鳥羽街道/伏見街道の2方向へ進発したそうな。その後の小枝橋での開戦については「Report16」に

淀城跡
写真にポインタを乗せてみてください

淀藩藩主は春日局の子孫稲葉家で譜代中の譜代。当時の淀は桂川/宇治川/木津川の合流点に浮かぶ島のような町だったようですが、現在はすっかり川の流れも変わり、淀城内堀の一部(ポインタを置いた写真▲右)が残るのみ…淀城址は公園となっていますが、入口はいまや淀駅前の自転車置き場と化していて、中に入るのが困難なほど

1月5日、鳥羽/伏見方面から後退してきた幕軍に対して淀藩家臣らは入城を拒否(当時藩主の稲葉正邦は江戸に)し、裏切られた幕軍は淀小橋と淀大橋を焼いてさらに大坂寄りの橋本(後述)へ撤退するはめに…戊辰戦で幕軍勘定方を務めた坂本柳佐の談話によると、新選組はほぼ殿(しんがり)となっていたもよう
(ポインタを置いた写真▲右)は淀城跡より、幕軍が敗走した旧淀大橋方面を望む

納所

■16 納所

淀城の北、当時の淀小橋を渡ったあたりが納所(のうそ/のっそ)、北側の桂川沿いを鳥羽街道(現千本通/▲左から2枚目)が走っています。分岐近くには今でも道標(▲左)が。少し北、小川の手前の細い道を右へ行くと納所会館の庭先に戊辰役戦場跡碑(▲右2枚)が立っています。もともとは愛宕茶屋の近くにあったそうで、左右の側面にはそれぞれ岩清水八幡宮と城南宮までの距離が書かれ、道標も兼ねていたもよう

[ 淀周辺地図↓ ]
淀周辺地図


■17 妙教寺

水路を渡ってすぐ右へ曲がると突き当たりが妙教寺(▼) このあたり一帯に秀吉が淀殿のために建てたという旧淀城があったそうで、庭先には淀古城史跡碑も建っています(▼左から2枚目)

妙教寺

同じく庭先には榎本武揚揮毫の戊辰之役東軍戦死者之碑(▲中央)が。たぶん伏見の悟真寺にあるものと同じもの? ここは戊辰戦の折に被弾した砲弾の跡を保存されていることで有名ですが、偶然お寺の方がいらして拝見させていただくことができました(普段は原則非公開のもよう)

なぜか官軍の砲弾という先入観があったのですが、じつは南側(東軍側)から壁と柱を貫通、さらに方向を変えて壇の下の羽目板を割り、中で不発のまま転がっていたそうな
(↓こんなカンジ?)
妙教寺概略図


現在はすぐ南側に川を挟んで納所小学校があり、そちらのほうから発射されたもよう?

■18 愛宕茶屋

さらに桂川沿いの土手の上など歩きながら北へ行くと愛宕茶屋(▼) こちらにも東軍戦死者埋骨地碑(▼中央)が。1月4〜5日、この少し北の富の森からこのあたりにかけて(▼左)の激戦でも、死傷者がたくさん出たそうな。当時の鳥羽街道も伏見街道も、こんなふうに土手の上を走る細い道だったそうですが…現在は住宅が密集していて、当然のことながら「激戦地」を連想させるものは皆無

愛宕茶屋

■19 八番楳木戦場跡

こちらは東側、伏見街道沿いの八番楳木(うめのき)戦場跡(▼)。少し北の千両松からこのあたりにかけてが伏見街道最大の激戦地で、会津藩/新選組ともに多くの死傷者を出したそうな

1月5日、このあたりで源さんこと井上源三郎が戦死し、一緒にいた甥の井上泰助がなんとか首を運ぼうとしたけれども、重過ぎて果たせず途中のお寺の門前に埋めた、という話は有名

[ "埋葬地"新情報など: 井上源三郎資料館 ]

他にも山崎烝がここで重傷を負い(後に死亡/負傷したのはここではなく橋本との説も)、新選組は14人(21人とも)が死亡したとのこと

八番楳木戦場跡1

すぐ脇に京都競馬場(▼右)があり、建設の際の碑の移転にからんではいろいろ怪談めいた話もあったもよう?(そのせいか結局元どおりの位置に戻されたそうな)
(▼左)は碑の前から、千両松方面を望む

八番楳木戦場跡2

現在旧街道2本のちょうど間を走る旧京阪国道沿いにも、比較的新しい戊辰役戦没者供養塔(▼左)が。そして旧国道沿いに、やはり激戦地だった北の横大路/下鳥羽方面を望む(▼左から2枚目)

1月4日、横大路を抜かれた鳥羽街道方面の幕軍は富の森、そして5日には納所まで撤退。上記伏見街道側からも大挙して敗走兵が押し寄せ、淀城付近は「人が歩けないような」収拾のつかない状態だったもよう

■20 淀小橋跡/光明寺跡

そして納所から淀城下へ渡るたった1本の橋、淀小橋跡(▼右から2枚目) 入城を拒否され敗走する幕軍はここへ火を放ち、橋本へ南下

淀小橋跡/光明寺跡

当時の城下町に位置するお寺には東軍の戦死者が大勢葬られているとのこと。賊軍ということで放置されていたのを、地元の方々が見かねて荼毘に伏し埋葬したのだとか

そのうちのひとつ、光明寺跡地(▲右) お寺自体はなくなってしまったものの、いまでも空地脇に埋骨地碑が残っています(墓石は長円寺に移されたそうな)

大専寺

■21 大専寺/文相寺/長円寺/東運寺

そのまま南へ進むと左側に大専寺(▲)、文相寺(▼左)などが。こちらにもそれぞれ埋骨地の墓標が立っています

さらに南の用水路ぎわ、長円寺門前には妙教寺や悟真寺などと同じ榎本揮毫による戊辰之役東軍戦死者之碑(▼中央)が建ち、墓所と前庭にもそれぞれ1基ずつ埋骨地の碑が(▼右2枚) 1基は光明寺から移されたもの?
前の通り沿い、用水の土手の桜はちょうど満開でありました

文相寺/長円寺/東運寺
写真にポインタを乗せてみてください

同じ水路沿い、すぐ隣の東運寺(ポインタを置いた写真▲)にも埋骨地の墓標が。墓地の真中、大きな切り株のそばにあり、もともとは大木に覆われていたようです。古い写真を見ると後方にも木が茂っていたようですが、墓地の造成中なのか?緑は取り払われていまはすっかり拓けた風景に


■ 鳥羽伏見戦行軍図


鳥羽伏見戦行軍図




橋本/楠葉探訪 04/14/2006, 03/11/2007 Hashimoto, Kyoto/ Kuzuha, Osaka


■22 橋本渡し跡/橋本宿 [※この項のみ2007年3月11日再訪時]

東軍の最後の抵抗の地、橋本。もともと京街道の宿場、遊郭として栄え、大昔には対岸の山崎と橋でつながっていたためこの名前になったとか。幕末には橋はなく、渡しで行き来をしていたもよう…(▼右2枚)は渡し跡碑、裏表(昭和37年まで渡しは続いていたそうな)

このあたりは淀川の両側に山が迫り天然の要害となっていることから、幕末には砲台や陣屋などが置かれていたようです

1月6日の戦闘で、見廻組の佐々木只三郎は対岸の山崎に渡ろうとしていたところを「堤下」から来た薩摩軍に銃撃されたということなので、被弾の地はこの碑の付近? (←後日和歌山で死亡)
"現場"は「山下(男山?)の間道」という話もあり

橋本渡し/橋本宿
写真にポインタを乗せてみてください

(▲左)は宿の入口の角にある道標。「左リ 八幡、いせ…?」
今でも古い民家が立ち並び、当時の様子を彷彿とさせます(▲中央) それぞれの家のディテールも凝っていて独特の雰囲気

ちなみに映画「壬生義士伝」で吉村貫一郎が最後に硝煙の中に消えたのはここ橋本宿でありました

天王山/山崎

(▲)は渡し跡付近の土手上より対岸の天王山/山崎方面を一望…

■23 久修園院

淀から敗走してきた幕軍は橋本宿の南に位置するこの久修園院(▼)に本陣を置いたとのこと。中には式台のようなものを備えた建物も見え(ポインタを置いた写真▼左)、たしかに格式が高そうな
(▼右)は久修園院越しに山崎方面を望む

久修園院
写真にポインタを乗せてみてください

6日朝、新政府軍は橋本へ攻撃を開始。山崎関門を守っていた津・藤堂藩は新政府軍からの使者の説得(脅し?)により内通し、昼ころ同じく津藩が配備されていた高浜砲台からこちらにむけて一斉砲撃を開始。これが決定打となり、ついに幕軍は総崩れ、一気に大坂へ敗走することに

[ 橋本周辺地図↓ ]

橋本周辺地図


■24 橋本(楠葉)砲台場跡碑

久修園院から畑の中の一本道を少し南下したところには橋本砲台跡碑(▼)が。当時は高浜砲台と同じくカノン砲4門が置かれ、小浜藩酒井家が守っていたそうです。寝返った津藩により対岸の高浜砲台からいきなり攻撃を受け、結局こちらも砲弾を撃ち尽くした末、砲を破壊して撤退したそうな。意識は全部北側の新政府軍に集中していただろうし、そこをいきなり左後方から撃たれたら、それはもう驚愕!!!無念!!以外の何物でもなかっただろうと思いますが

実際の台場は久修園院南西(▼右)あたりにあったもよう。このあぜ道が当時の土塁跡とも?(反対側の土塁は、鉄道開通工事に伴い壊されてしまったらしい) 2008年2月23日の京都新聞/産經新聞に堀跡が出土したとの記事が

橋本砲台場跡碑

ここはちょうど京都府八幡市橋本と大阪府枚方市楠葉との府境?上にあたり、久修園院のすぐ北東からこちら側が厳密に言うと楠葉…というわけで別名楠葉砲台とも
(▲右)は砲台跡碑から山崎方面を望む(右端は久修園院)
高浜砲台跡は(▲左)の桜並木の向こう側あたりの対岸だと思われますが、いまは線路や高架に遮られて見えず

永倉の「浪士文久報国記事」によると、八幡(男山?)中腹で戦っていた永倉と斎藤は撤退を知らず、敵中に取り残されやっとのことで活路を開いて橋本陣屋へ戻ったとのこと

「橋本陣屋」についてはよくわからないのですが、久修園院のことを指すのか…? でも撤退する場所にしては手前にありすぎるような気がするし? これも今後要勉強

西遊寺
※敷地内の写真は許可をいただいて撮影しています

■25 西遊寺

こちらは京阪本線橋本駅出口真向かいにある西遊寺(▲) ここには久修園院にあったという幕軍の弾薬庫(▲右)が移築されています。思いがけず西洋風?でほかではあまり見たことのないタイプかも

今回は残念ながら対岸の山崎や高浜砲台へは行かれませんでしたが、また次回チャレンジしたいと思います



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