大政奉還後の慶応3年(1867年)末、徳川慶喜に従って大坂へ下っていた旧幕軍、会津、桑名軍らは江戸で起こった薩摩藩邸焼き討ちなどに勢いを得て慶応4年(1868年)1月2日、京都へ向けて進軍を開始、3日にここ 淀(▼)に本営を置き 鳥羽街道/伏見街道の2方向へ進発したそうな。その後の小枝橋での開戦については「Report16」に
▲写真にポインタを乗せてみてください
淀藩藩主は春日局の子孫稲葉家で譜代中の譜代。当時の淀は桂川/宇治川/木津川の合流点に浮かぶ島のような町だったようですが、現在はすっかり川の流れも変わり、淀城内堀の一部(ポインタを置いた写真▲右)が残るのみ…淀城址は公園となっていますが、入口はいまや淀駅前の自転車置き場と化していて、中に入るのが困難なほど
1月5日、鳥羽/伏見方面から後退してきた幕軍に対して淀藩家臣らは入城を拒否(当時藩主の稲葉正邦は江戸に)し、裏切られた幕軍は淀小橋と淀大橋を焼いてさらに大坂寄りの橋本(後述)へ撤退するはめに…戊辰戦で幕軍勘定方を務めた坂本柳佐の談話によると、新選組はほぼ殿(しんがり)となっていたもよう
(ポインタを置いた写真▲右)は淀城跡より、幕軍が敗走した旧淀大橋方面を望む
淀城の北、当時の淀小橋を渡ったあたりが 納所(のうそ/のっそ)、北側の桂川沿いを 鳥羽街道(現千本通/▲左から2枚目)が走っています。分岐近くには今でも道標(▲左)が。少し北、小川の手前の細い道を右へ行くと納所会館の庭先に 戊辰役戦場跡碑(▲右2枚)が立っています。もともとは愛宕茶屋の近くにあったそうで、左右の側面にはそれぞれ岩清水八幡宮と城南宮までの距離が書かれ、道標も兼ねていたもよう
[ 淀周辺地図↓ ]
水路を渡ってすぐ右へ曲がると突き当たりが 妙教寺(▼) このあたり一帯に秀吉が淀殿のために建てたという 旧淀城があったそうで、庭先には淀古城史跡碑も建っています(▼左から2枚目)
同じく庭先には榎本武揚揮毫の 戊辰之役東軍戦死者之碑(▲中央)が。たぶん伏見の悟真寺にあるものと同じもの? ここは戊辰戦の折に被弾した砲弾の跡を保存されていることで有名ですが、偶然お寺の方がいらして拝見させていただくことができました(普段は原則非公開のもよう)
なぜか官軍の砲弾という先入観があったのですが、じつは南側(東軍側)から壁と柱を貫通、さらに方向を変えて壇の下の羽目板を割り、中で不発のまま転がっていたそうな
(↓こんなカンジ?)
現在はすぐ南側に川を挟んで納所小学校があり、そちらのほうから発射されたもよう?
さらに桂川沿いの土手の上など歩きながら北へ行くと 愛宕茶屋(▼) こちらにも 東軍戦死者埋骨地碑(▼中央)が。1月4〜5日、この少し北の 富の森からこのあたりにかけて(▼左)の激戦でも、死傷者がたくさん出たそうな。当時の鳥羽街道も伏見街道も、こんなふうに土手の上を走る細い道だったそうですが…現在は住宅が密集していて、当然のことながら「激戦地」を連想させるものは皆無
こちらは東側、伏見街道沿いの 八番楳木(うめのき)戦場跡(▼)。少し北の 千両松からこのあたりにかけてが伏見街道最大の激戦地で、会津藩/新選組ともに多くの死傷者を出したそうな
1月5日、このあたりで源さんこと 井上源三郎が戦死し、一緒にいた甥の井上泰助がなんとか首を運ぼうとしたけれども、重過ぎて果たせず途中のお寺の門前に埋めた、という話は有名
[ "埋葬地"新情報など: 井上源三郎資料館 ]
他にも 山崎烝がここで重傷を負い(後に死亡/負傷したのはここではなく橋本との説も)、新選組は14人(21人とも)が死亡したとのこと
すぐ脇に京都競馬場(▼右)があり、建設の際の碑の移転にからんではいろいろ怪談めいた話もあったもよう?(そのせいか結局元どおりの位置に戻されたそうな)
(▼左)は碑の前から、千両松方面を望む
現在旧街道2本のちょうど間を走る旧京阪国道沿いにも、比較的新しい戊辰役戦没者供養塔(▼左)が。そして旧国道沿いに、やはり激戦地だった北の 横大路/下鳥羽方面を望む(▼左から2枚目)
1月4日、 横大路を抜かれた鳥羽街道方面の幕軍は 富の森、そして5日には 納所まで撤退。上記伏見街道側からも大挙して敗走兵が押し寄せ、淀城付近は「人が歩けないような」収拾のつかない状態だったもよう
そして納所から淀城下へ渡るたった1本の橋、 淀小橋跡(▼右から2枚目) 入城を拒否され敗走する幕軍はここへ火を放ち、橋本へ南下
当時の城下町に位置するお寺には東軍の戦死者が大勢葬られているとのこと。賊軍ということで放置されていたのを、地元の方々が見かねて荼毘に伏し埋葬したのだとか
そのうちのひとつ、光明寺跡地(▲右) お寺自体はなくなってしまったものの、いまでも空地脇に埋骨地碑が残っています(墓石は長円寺に移されたそうな)
そのまま南へ進むと左側に 大専寺(▲)、 文相寺(▼左)などが。こちらにもそれぞれ埋骨地の墓標が立っています
さらに南の用水路ぎわ、 長円寺門前には妙教寺や悟真寺などと同じ榎本揮毫による 戊辰之役東軍戦死者之碑(▼中央)が建ち、墓所と前庭にもそれぞれ1基ずつ埋骨地の碑が(▼右2枚) 1基は光明寺から移されたもの?
前の通り沿い、用水の土手の桜はちょうど満開でありました
▲写真にポインタを乗せてみてください
同じ水路沿い、すぐ隣の 東運寺(ポインタを置いた写真▲)にも埋骨地の墓標が。墓地の真中、大きな切り株のそばにあり、もともとは大木に覆われていたようです。古い写真を見ると後方にも木が茂っていたようですが、墓地の造成中なのか?緑は取り払われていまはすっかり拓けた風景に
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