鎌倉紀行−鎌倉ハイキングと観光ガイド−


エッセイ鎌倉紀行 第11回 義経と静の物語


悲劇の武将源義経と義経の愛妾静御前(しずかごぜん)の劇的な悲恋物語はよく知られています。
今回は、義経と静の足跡を辿って、京都、鎌倉、そして奥州平泉を取材し、二人の生涯を絵物語風にまとめてみました。
なお、取材地の情報は文末にまとめてありますので参考にしてください。

それでは、ごゆっくりお楽しみください!


1.少年時代の義経


源義経は、武家の棟梁源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸といいました。兄には後に鎌倉幕府を開く頼朝がいます。
平治の乱で源氏は平家に敗れました。父義朝は死に、兄頼朝は平家によって伊豆に流されました。幼かった義経は、当代一の美女といわれた母の常盤が藤原長成(ふじわらながなり)という貴族と再婚したことから、長成に引き取られた後、京都北部の鞍馬寺に稚児として預けられ、16歳まで過ごします。やがて成長した義経は、自分が源氏の血を継ぐ者であることを知り、父の仇である平家を滅ぼすことを心に誓うのでした。

鞍馬寺仁王門
鞍馬寺仁王門(鞍馬寺・京都)

鞍馬寺は、京都市街から北へ約10キロ、都の北方鎮護を担った寺。鞍馬山という山の広い範囲にわたって建物が分散して建っており、仁王門は鞍馬山への入口となっている。

木の根道
木の根道(鞍馬寺・京都)

本殿から奥の院への途中、岩盤が堅く地下に根を張れない杉の根が奇観を織り成す「木の根道」がある。
牛若丸(義経)は、7歳から約10年をこの鞍馬の山で過ごした。鞍馬の天狗から剣術を習ったという物語もあるが、この辺りは本当に天狗が出そうな雰囲気がある。

しかし、寺院にいるということはやがて出家して僧侶になることを意味し、このままでは、平家打倒は夢に終わってしまいます。

義経が鞍馬寺を抜け出すきっかけを作ったのは奥州平泉から来た金売り吉次という商人でした。当時、奥州では莫大な黄金が産出され、これを吉次が都に運び、都を支配していた平家がこの黄金を使って中国と貿易を行っていたのです。
この金売り吉次というのはただの商人ではなく、奥州の金山を支配する大商人で、隊商を組んで毎年、奥州と都を行き来しているのでした。

中尊寺金色堂(中尊寺・平泉)
中尊寺金色堂(中尊寺・平泉)

奥州の富の象徴中尊寺金色堂は風雪から金箔を守るため鉄筋コンクリートの覆堂(おおいどう)に護られている。
金色堂は建立から160年余は雨ざらしだったが、風雪から守るため鎌倉幕府が覆堂を作った(木造の旧覆堂)。現在のコンクリートの覆堂は、昭和37年より始まった昭和の大修理の際に建てられたもの。

源氏の棟梁の血を引く義経を政治的に利用しようとする吉次の思惑と、平家の支配する都を脱出して平家を滅ぼす機会を窺いたいという義経の利害が一致し、義経は吉次一行に従い奥州平泉へ向かうことになりました。
ちなみに義経の家来として終生行動を共にした武蔵坊弁慶と五条大橋で出会ったのは、奥州に旅立つ直前のことだったようです。

義経と弁慶(五条大橋・京都)
義経と弁慶(五条大橋・京都)

義経と出会う前の弁慶は、比叡山の有名な荒法師だった。現在、五条大橋のたもとには、薙刀をふるう弁慶と、それを身軽にかわす牛若丸(義経)の出会いのシーンの彫像がある。しかし、当時の五条大橋は、現在の松原橋のあたりに架かっていた。

白河の関を越えてやってきた義経は、平泉の繁栄に目を見張りました。平泉は平安時代末期、奥州藤原氏三代(清衡、基衡、秀衡。秀衡の子で頼朝に滅ぼされた泰衡を入れると四代。頭文字をとってキ・モ・ヒ・ヤスと覚える)が黄金文化を作り上げた中心地で、義経がやってきたのは、三代秀衡の時代でした。
奥州の王者藤原秀衡は、義経を肉親のように温かく迎えます。

平泉の街並み(えさし藤原の郷・江刺)
平泉の街並み(えさし藤原の郷・江刺)

写真は、えさし藤原の郷に復元された藤原時代の平泉の町並み。
中央に見える壮大な建物は、秀衡の居館伽羅御所(きゃらのごしょ)。奥州の大地が生み出す黄金と良馬(当時、馬は貴重品であった)が富と繁栄をもたらした。奥州藤原氏は、中央政府から与えられた官位といえば秀衡の陸奥守がせいぜいで辺境伯といったところだが、実際には、白河関以北は中央の権力の及ばない独立王国のようになっていた。

こうして北の都平泉で伸びやかに過ごす義経に転機が訪れます。兄頼朝の旗揚げの知らせです。後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が発した平家追討の令旨を受けた頼朝が、治承4(1180)年、平氏を討つべく伊豆で挙兵したのでした。
一目散に兄の下へ馳せ参じようとする義経を秀衡はなんとか引きとめようとしましたが、ついに義経はわずかな郎党を引き連れて平泉を後にします。義経22歳のときのことです。


2.義経の活躍


義経が、頼朝の下に参陣したのは、富士川の戦(平家が水鳥の羽音を源氏の夜討ちと間違えて逃げ散じた戦)のときのことでした。頼朝は、初めて会う弟を涙を流して迎えたといいます。

その後の義経の活躍は、「平家物語」などでご存知の通りです。
兄頼朝のライバルで、平家を追い出しいち早く京都に進軍したものの、乱暴狼藉を働いて評判の悪かった木曽(源)義仲軍を宇治川の戦で撃破して都入りします。

義仲の都入りの直前に都落ちした平家は、しばらくは西国を流浪していましたが、義経が都入りした頃には四国の屋島を本拠とし、次第に勢力を盛り返しつつありました。

後白河法皇より平家追討の院宣を受けた義経は即座に行動を開始し、一ノ谷の合戦では山道を越えて敵の背後の崖上から攻め込むという奇襲戦法で勝利し、続いて屋島の戦、壇ノ浦の海戦と連戦連勝し、ついに平家を滅ぼします。

義経木像(高館・平泉)
義経木像(高館・平泉)

平家との戦に際し、頼朝は軍監として侍所別当(長官)梶原景時を付けた。ところが、義経と景時はそりがあわず、景時が頼朝に宛てて送った義経を讒訴する書状が、頼朝・義経兄弟の溝を深めたといわれる。


3.義経の栄光と転落−静との出会い・兄との決別−

戦を終え、都に凱旋した義経は熱狂的な歓迎を受けました。劇的な勝利で平家を滅ぼした英雄は、今でいえば大スターのような感じだったのでしょう。
義経が白拍子静と出会ったのはこの頃でした。白拍子とは、烏帽子をかぶり白の水干に緋の袴という男装で舞う妓女のことで、静はその際立った美貌と絶妙な舞で当代一の白拍子と評されていました。義経と静はやがて恋に落ちるのでした。

このようにまさに栄光の直中にいた義経ですが、都での評判が高まるのに反して、兄頼朝とは不和が次第に深まりつつありました。
というのも、頼朝が築きつつある鎌倉政権というのは北条氏や三浦氏など関東武士の寄合所帯で、頼朝自身はその上に乗っかっているにすぎません。したがって、いつも周囲の顔色を窺いながら政権運営をしなければならなかったのですが、この点、義経はそのような兄の苦心を知らず、鎌倉の意向を無視して勝手に朝廷から官位を受けたり、敵である平大納言時忠(*1)の娘を娶ったりと自己中心的な行動が目立ち、折角頼朝が作り上げた鎌倉武士団の結束を壊しかねない存在になりつつあったのです。

義経は、戦には天才的でも政治的感覚は無感覚に等しく、まさか自分が兄に邪魔者扱いされはじめているとは露ほども思わず、兄に再会した暁には大いに褒められるだろうと無邪気なまでに兄のことを慕っていたのです。

以上のいきさつから、義経が捕虜を連れて意気揚々と鎌倉に戻ってきた時、鎌倉府内には一歩も入ることを許されず、鎌倉の手前の腰越で留め置かれました。このとき、義経が頼朝に書いた書状が有名な「腰越状」です。

*1 かつて平家の全盛時代「平家にあらずんば人にあらず」と豪語した。壇ノ浦の海戦で生き残った。死罪は免れるが、能登に流され、同地で死去。

腰越状(満福寺・鎌倉)
腰越状(満福寺・鎌倉)

内容は、簡単に言えば「讒訴に惑わされること無く、私を信じて欲しい」という兄弟の情に訴えるもの。頼朝は完全にこれを無視した。
満福寺に展示されているのは、「腰越状」の下書きとのこと。「義経」の署名が見られる。

二週間待っても返事がないことを知ると、ようやく義経にも頼朝の腹が分かってきました。「鎌倉に不満のあるものはわれに従え!」と言い、憤然と京に引き返したのでした。


4.静との別れ

鎌倉ではついに義経追討の議が決せられます。
京都にいた義経は、鎌倉方が仕向けた土佐坊昌俊ら暗殺隊に居館である堀川の館を夜討されましたが、静の機転により危うく死地を脱します。

暗殺が失敗し、今度は頼朝自身が率いる義経追討軍が鎌倉を進発したことを知ると、西国に落ちるべく、義経は京を立ちます。
この時、義経は静をどこまでも連れて行くつもりでした。しかし、嵐で船が座礁するなどして九州に落ちのびる計画を断念せざるを得なくなり、義経一行は奈良吉野山から山岳地帯に入り潜伏することになりました。

雪深い山道を行くことは、義経の子を身篭っていた静には無理でした。静は雪深い吉野山で義経と泣く泣く別れます。

静との別れ(満福寺・鎌倉)
静との別れ(満福寺・鎌倉)

静 :「どうしてもお供はかないませぬか。」
義経:「静・・・わしを苦しめてくれるな。」

雪のちらつく山道を共の者とともに頼りなげに下りて行く後姿が、義経が静を見た最後であった。

やがて鎌倉方に捕われ、鎌倉へ送られてきた静は、頼朝夫人政子のたっての願いで八幡宮の神前に舞を奉納することとなります。文治2 (1186) 年4月8日のことでした。静は頼朝が期待していた関東の繁栄を寿ぐ祝儀舞に反して義経との別れの曲を舞うのでした。

   吉野山 峰の白雪踏みわけて 

   入りにし人のあとぞ恋しき

   静や静、しずのおだ巻きくり返し

   昔を今に、なすよしもがな


静の舞(鶴岡八幡宮・鎌倉)
静の舞(鶴岡八幡宮・鎌倉)

現在も毎年4月上旬の日曜日、鶴岡八幡宮舞殿で日本舞踊家による“静の舞”が奉納されている。

怒りに震える頼朝に政子は「夫を慕う本心を形にして幽玄である」と訴えたのでした。『吾妻鏡』は頼朝が卯の花襲の衣を褒美にそっと差出した事を記しています。


5.義経死す

静と別れた後、義経一行はどのような経路をとったかは定かではありませんが、懐かしい奥州平泉に落ち延びます。この時も秀衡は義経らを帰ってきた我子のように迎えました。

しかし、文治3(1187)年10月29日、秀衡が亡くなると次第に状況が変ってきます。
鎌倉から弾圧の使者が訪れるに及び、秀衡の子泰衡は、「義経を守れ」との秀衡の遺命に背き、ついに義経を殺すことを決意したのでした。

文治5年4月29日、泰衡は衣川の館の義経を襲いました。兄と仲違いし、父とも仰ぐ秀衡も死んだ今となっては何も思い残すことは無いとして、義経は自害します。享年31歳でした。この時、弁慶は義経を守るべく最後まで奮戦し、全身に矢を浴びながら立ち往生しました。


弁慶立往生(満福寺・鎌倉)
弁慶立往生(満福寺・鎌倉)

全身に矢が刺さりハリネズミのようになりながらも戦っていたが、主君の死を見届けるとついに息絶えた。

北上川と束稲山(高館・平泉)
北上川と束稲山(高館・平泉)

義経の館があったと言われるこの小高い山は平泉で景観随一といわれ、眼下に北上川の流れ、川向こうに束稲山(たばしねやま)を見ることができる。左手の義経堂には、義経の像が祀られている。

義経の死の約500年後に平泉を訪れた松尾芭蕉はここに立ち、かの有名な「夏草や 兵どもが 夢の跡」の一句を詠んだ。現在、その句碑が立てられている。

静は義経の子を出産しました。生まれてくる子が女児なら命は助けるが、男児なら、成長して父の仇討ちをするともかぎらないから殺すという約束でした。生まれてきたのは男児で、生後まもなく静の手から取り上げられ、由比ヶ浜に埋められたとも、海に投げ入れられたとも言われます。
悲嘆に暮れる静は、生まれ故郷の丹後に帰り亡くなったとも、奥州の義経を頼って旅する途上で義経の死を知り、後を追うように病死したとも言われます(*2)。

*2 埼玉県栗橋町など全国各地に「静御前の墓」なるものがある。義経・静の人気の高さをうかがい知ることが出来る。


平泉町
かつて奥州藤原氏が政治を行った中心地で、中尊寺・毛越寺などの寺院や、義経の居館跡(高館)などの史跡がある。

交 通:JR東北本線平泉駅下車(東北新幹線一ノ関駅乗換え2駅目)。

参考:奥州平泉探訪

えさし 藤原の郷(岩手県奥州市)
秀衡の居館であった伽羅御所(きゃらのごしょ)や平泉の政庁をはじめ、数々の平安時代の建物を忠実に再現したスケールの大きなテーマパークで、NHK大河ドラマ「炎立つ」や映画「陰陽師U」の撮影にも使用された。また、平成17年の大河ドラマ「義経」のメーンロケ地にもなった。

交 通:JR東北本線水沢駅下車。バス又はタクシー。
      車の場合は、東北自動車道水沢I.Cから約15分。
時 間:9〜16時
料 金:800円

●満福寺(神奈川県鎌倉市)

頼朝の怒りに触れて鎌倉入りできなかった義経が腰越状をしたためた寺。本堂のふすま絵は、鎌倉彫の技法を取り入れた漆画で、義経の歩んだ人生が描かれている。

交 通:江ノ電腰越駅下車。徒歩5分。
時 間:9〜17時
料 金:200円

●鞍馬寺(京都市左京区)
義経が幼少期を過ごした寺。
交 通:叡山電車鞍馬線「鞍馬駅」下車。本殿までは徒歩30分。
時 間:9〜16時30分
料 金:200円

●五条大橋(京都市下京区)
義経、弁慶主従出会いの場所。
交 通:京阪電車「五条駅」下車。すぐ。

参考文献:

  • 「義経 上・下」(司馬遼太郎 文春文庫)
  • 「マンガ日本の古典 吾妻鏡 上・中・下」(竹宮恵子 中公文庫)

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