鎌倉紀行−鎌倉ハイキングと観光ガイド−


エッセイ鎌倉紀行 第15回 鎌倉幕府滅亡後の鎌倉の歴史


今回は、鎌倉幕府が滅亡した後、近代に至るまでの鎌倉の歴史を俯瞰し、時代ごとの史跡を訪ねてみたいと思います。


1.南北朝期と室町時代の鎌倉


新田義貞の鎌倉攻め(1333年)により鎌倉幕府が滅びるまでのくだりは、鎌倉紀行第3回「鎌倉幕府栄枯盛衰の跡を辿る」で書きました。義貞の鎌倉攻めでは激戦が繰り広げられ、民間人も含め多くの人が亡くなりました(材木座辺りでは、今でも工事などをすると人骨が出てくるとききます)。材木座に九品寺(くほんじ)というお寺がありますが、このお寺は鎌倉攻めの際に亡くなった人々の霊を弔うために義貞が建てたお寺です。

九品寺

九品寺本堂。鎌倉唯一の義貞ゆかりの寺。九品とは極楽往生を願う人の生前の行いによって定められた九種類の往生のありさまのことを言うのだそうだ(上品・中品・下品のなかにそれぞれ上生・中生・下生がある)。
鎌倉駅から小町大路を約1.5キロ南下。材木座海岸に近い場所に建つ。

九品寺

山門と本堂に掲げられた額の文字は義貞の筆を写したものと伝わる。

さて、鎌倉幕府が滅びると、後醍醐天皇は建武の新政(建武の中興)をはじめます。

この建武の新政というのは、醍醐・村上天皇の時代の政治、すなわち天皇が自ら政治を行う天皇親政を理想とするもので、幕府打倒に活躍した武士に対しては恩賞が薄かったのですね。例えば足利尊氏が望んだ征夷大将軍の職は、後醍醐天皇の皇子である護良親王に与えてしまいました。そういうわけで武士の間に新政に対する不満が高まり、やがて朝廷(後醍醐天皇)と武士の棟梁尊氏は対立して、南北朝の動乱時代に入っていきます(*1)。

この頃の鎌倉における重要な事件として「中先代の乱」があります。北条高時(鎌倉幕府滅亡時の執権)の次男北条時行(ときゆき。乱の当時10歳前後と推測される)は、鎌倉陥落の兵火を逃れ、信濃国に潜伏していました。建武2年、この時行を担いだ勢力が北条氏再興を期して鎌倉に攻め入ります。この戦のことを「中先代の乱」と言います(*2)。
この時、鎌倉を守っていた尊氏の弟の直義は、鎌倉を脱出する際、捕虜として東光寺(現在の鎌倉宮の地)に幽閉していた護良親王を部下に命じて殺してしまいます。

*1 天皇方と離反した足利氏に対して、新田義貞が尊氏討伐に出陣するが、箱根で敗れて西走。尊氏はこれを追って上洛するが、奥州の国司北畠顕家に敗れて九州に逃れる。しかし、間もなく九州で勢力を盛り返した尊氏は、兵庫の湊川で迎撃する楠正成・新田義貞の連合軍を撃破。後醍醐天皇は奈良・吉野山に潜行(南朝)。一方、京都に入った尊氏が光明院を擁立(北朝)したことで朝廷が分裂し、南北朝の動乱となる。

*2 先代=北条政権(鎌倉幕府)、後代=足利政権(室町幕府)の中間の政権の意。この乱は東下した尊氏によってすぐに鎮圧され、北条時行の政権はわずか20数日しか続かなかった。

鎌倉宮 神苑

鎌倉宮の裏手は、「神苑」という庭園となっており(写真)一般公開されている。この一角に、後醍醐天皇の皇子護良親王が幽閉されたという土牢がある。

護良親王は武勇の誉れ高く、はじめは父帝を支えて活躍したが、後、父帝と離反、足利氏とも対立した。足利氏の捕虜となり幽閉され(本当にこの土牢に閉じ込められたわけではあるまいが)、中先代の乱のどさくさにまみれて足利直義配下の者に殺害された。

その後、京都に室町幕府が開かれると、鎌倉には東国を統治するための出先機関として鎌倉府が置かれ、その長を鎌倉公方(かまくらくぼう)とよびました。将軍のことを公方と呼んだので、鎌倉の足利氏をこのように呼んだのですね。鎌倉公方には、関東武士に対する知行権と裁判権が幕府から付与されました。鎌倉公方には京都の将軍家と血縁関係にある足利氏が就き、その執事である上杉氏を関東管領(かんとうかんれい)とよびました。
なお、鎌倉府(鎌倉公方の御所)は現在浄妙寺のある浄明寺地区にあったようです。鎌倉時代に比べて政治の中心地が随分東に移ったわけです。

鎌倉公方は、足利尊氏の第2子基氏に始まり、氏満、満兼、持氏、成氏(しげうじ)と、100年余り続きましたが、初代の基氏を除けば、ことごとく京都の将軍家と対立し、数度に亘り管領上杉氏が反乱を起こしました。この中で特筆すべきは1416(応永23)年の「上杉禅秀の乱」でしょう。上杉禅秀(氏憲)は、関東管領として足利持氏に仕え、持氏の乱れた政治に対して反旗を翻し、一時、持氏は鎌倉を追われますが、結局、禅秀は敗れて自刃しました。
そもそも室町幕府というのは軍事的・財政的基盤の脆弱な政権ですが、鎌倉の政情も一時期を除いては不安定だったようです。

上杉氏邸址の碑

写真は、杉本寺前に架かる犬懸橋を渡った先にある上杉朝宗邸址を示す石碑
碑文には、朝宗は足利氏満、満兼に仕えた関東管領で、その子氏憲(禅秀)は跡を継いで足利持氏の執事となったが、持氏と不和になり兵を起こすが、敗れて鶴岡別当坊で自殺したとある。

「上杉禅秀の乱」は、なんとか持ちこたえた持氏でしたが、その後、京都の六代将軍義教(よしのり)と対立し、幕府の後押しを受けた管領上杉憲実(のりざね)によって攻められ、自害します(永享の乱 1439)。
持氏の後を継いだ成氏も、享徳4(1455)年、ついに将軍の勘気を蒙って成氏追討の命が下され、鎌倉を脱出して古河に走ります(以後、古河公方と称した)。その後に進入した今川範忠の成氏追討軍によって鎌倉は完膚なきまでに破壊されてしまい、これ以降、鎌倉は寒村となり、以後、二度と政治の中心地となることはありませんでした。

別願寺にある足利持氏の供養塔

写真は、大町の別願寺にある足利持氏の供養塔といわれる大きな宝塔。別願寺は今でこそ小さな寺だが、室町時代鎌倉公方代々の菩提寺として栄えた。


2.戦国時代の鎌倉

ただ単に歴史の偶然なのでしょうか。三浦氏と北条氏にまつわる不思議なお話です。
鎌倉時代、鎌倉幕府創設にあたって尽力した三浦氏は相模で最大の勢力を形成するも、後に北条氏と対立して滅亡します。三浦氏滅亡後、一族の佐原氏によって三浦氏の名跡が再興されます。

時は下って戦国時代の初め、三浦道寸は長子義意(よしおき)を相模三浦半島の新井城主(現三浦市)とし、自らは岡崎城主(現平塚市)として領国の拡大を図ります。一方、小田原城を奪った北条早雲(*3)は、相模の統一を目指し、岡崎城主の道寸を追放。敗れた道寸は、鎌倉・逗子の市境にある山城住吉城にこもって抗戦しますが、奮戦むなしく破れ、新井城へ逃れました。

永正13(1516)年、北条早雲は新井城を急襲。道寸は万策尽き、自刃します。こうして、またしても三浦氏は北条氏に滅ぼされるのです。

*3 北条早雲に始まる北条氏は、鎌倉時代の執権北条氏と区別して小田原北条氏又は後北条氏などという。早雲自身は、存命中伊勢新九郎を名乗っており、北条姓は名乗っていない。鎌倉時代の北条氏とは血縁上の関係はない。


住吉神社・正覚寺

住吉城址に建つ住吉神社から海を望む。
ここに立ち、目を閉じて耳を澄ますと、沖に浮かぶ軍船が見え、武者の鬨の声が聞こえるようだ。
写真下に見えるのは正覚寺の屋根。

鎌倉駅よりバス、小坪経由新逗子行き「飯島」下車、徒歩約12分。

北条早雲の子、氏綱の時代になると、鎌倉の北の玉縄城を中心に、神社仏閣も再建され、今川範忠によって破壊された鎌倉もだいぶ復興されてきました。

こうして三浦半島が北条氏の版図に入ると、浦賀水道を隔てて対岸の房総半島に勢力を張る里見氏は脅威を感じずにはいられません。里見実堯(さねたか)は、大永5(1525)年、大永6年の二度にわたり、水軍を率いて三浦半島に攻め寄せます。この時、鎌倉まで侵攻した里見軍によって鶴岡八幡宮の建物はほとんど焼失してしまったようです。

玉縄城址

写真は、玉縄城址の山。
「玉縄城は永正九年北条早雲の築くところたり ・・・ 天正十八年小田原北条滅亡の際城主氏勝降伏し後城は徳川氏の有となり、程なく廃城となりしものなり」(碑文より)。

現在、清泉女学院の敷地内になっており、見学には許可が必要。休日は学校関係者がいないため、立ち寄りはお勧めしない。


3.江戸時代以後の鎌倉

江戸時代に入ると鎌倉は幕府の天領(直轄地)とされ、町は一農漁村となりました。やがて、江の島詣の帰途に観光客が来訪するようになります。

江戸時代の道標

江ノ電江ノ島駅から江の島に向かう途中に立つ江戸時代の道標。

この道標は管鍼術(管を用いて垂直に鍼治療をする術)の考案者、杉山検校の寄進によるものとされる。
江の島には、信者により寄進された灯篭なども無数にあり、江戸期、江の島弁財天がいかに厚く信仰されていたかが伺われる。

しかし、鎌倉の本格的復興は明治以後で、横須賀線開通(明治22)と江ノ電開通(明治43)を契機に、風光明媚な土地として移り住む人が増え、多くの洋館が建てられ、それらが今なお残ります。鎌倉に残る主な洋館をご紹介して終わりたいと思います。

旧華頂宮邸

報国寺の左わきの道を奥に進んだ谷に建つ旧華頂宮邸。昭和4年、華頂博信(ひろのぶ)侯爵邸として建設。

鎌倉文学館

現在、鎌倉文学館となっている建物は、旧加賀藩主前田侯爵家の鎌倉別邸として建てられた。現在の建物は、昭和11年に洋館に全面改築されたもの。

古我邸

鎌倉駅西口を降りた扇ヶ谷1丁目に建つ洋館。本当に「洋館」らしい洋館。
こちらは現在も個人所有。大正5年建築。

なお、鎌倉の洋館については、こちらのサイトで詳しく紹介されています。

湘南の洋館


参考文献:

  • 「乱世の鎌倉」(田辺久子著 かまくら春秋社)
  • 「鎌倉合戦物語」(笹間良彦著 雄山閣出版)
  • 「鎌倉の寺 小事典」(かまくら春秋社)

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