1 2
1
「こりゃひでえな…。いったい何の恨みがあってこんな…」
その現場に一歩踏み込んだ埼玉県警河越署の宮沢の口から、思わずそんな呻きにも似た呟きがこぼれ出た。
ワンルームの賃貸マンションの一室。そこはテレビドラマに出てくるヒロインの部屋のように小奇麗に整頓され、飾られていたが、いかんせんドラマの舞台と違うのは、空間の広さだった。板敷の六帖弱の小さな部屋。天井もやけに低い。淡い色彩の家具やAV機器、花柄のカバーが掛かっているベッド、小さな硝子製のテーブル等に囲まれて、中心に残されたのはほんのわずかのスペースだった。
今、その狭いながらも華やいだ空間には、あたかも「黒い悪意」をふり撒いたかの様に、文字通りの黒いあるものが散乱していた。そして女の死体はその散乱する「黒い悪意」の中心に仰向けに横たわっていた。デパートの床に倒れたマネキン人形のような姿で…。
宮沢は鑑識員の写真撮影が終わるのを待って死体に近付いた。
「あ、宮沢さん足元に気をつけて下さい…」
現場に先乗りしていた宮沢の相棒の堀がそこにいた。
「ああ…。しかしこりゃあ、どういうことだ…?」
「…まるで『愛と哀しみのボレロ』ですね…」
そう答えた堀は死体を痛ましい表情で見下ろした。女の死体をマネキン人形じみたものと感じさせるのは、その硬直した身体だけではなかった。虚空を見つめたままの表情で凍り付いた死体の顔は生前はかなりの美しさだったと想像されるものだったが、それ故死体に施されたその凌辱をより一層際立たせていた。
女の頭はトラ刈りのように不揃いに刈られた坊主頭になっていた。そして切り取られた毛髪は更に切り刻まれ、黒い献花で死体を飾ろうとしたかのように部屋中にばら撒かれていたのである。
2
「被害者はこの部屋の主なんだな?」
「はい、名前は坂口加奈子。独り暮らしで、二四才。都内の生保会社に勤めるOLです。故郷は栃木県足利市で、都内の短大を卒業してそのまま都内に就職したんだそうです」
「発見者は?」
「被害者の短大時代からの友人で、井沢薫という女性です。外の車で待機してもらってます。被害者と今晩会う約束をしていたのですが、連絡が取れなかったため、直接尋ねて来たんだそうです。ノックをしても返事がないのでドアを押してみたら、カギがかかってなくて開いてしまった。変に思って部屋の中を覗いてみたら被害者が死んでいた…というわけです」
「ふん、後で直接聞いてみよう。で、死因は?」
「絞殺のようですね。首に索溝が残ってますので」
宮沢はしゃがみ込んでぐいと死体の頭を持ち上げた。確かに赤黒い索溝が死体の首をぐるりと一周している。
「…なるほど。確かにそうだな。凶器は…ある程度幅のある紐のようなもの…かな」
堀がすかさず答えた。
「ベッドの上にナイトガウンの紐が放り出してありました。…あ、これです」
宮沢が顔をあげると、顔馴染みの鑑識員が歩み寄ってビニール袋に入った紐を目の前で振って宮沢に示していた。
「それだな…。さて、堀、ちょっと見ろ」
宮沢は鑑識員にうなずき返すと、手招きして堀を傍らにすわらせた。まだ刑事になって日も浅い堀に少し死体検分のやり方をレクチュアしようと思ったのだ。
「ほら、首の周囲にみごとなほどくっきりと索溝が残っている。法医学の教科書に載せたいくらいのきれいな索溝だ。で、うなじの部分でそれが交差し、そこにひっつれのような内出血が出来ているだろう。つまりだ、犯人は被害者の後ろから紐を前に回し、首の後部で交差させて締めたのだな。索溝の周りの引っ掻き傷は自損傷だ。被害者も相当抵抗したらしいな…」
宮沢は死体の頭を床に降ろすと、今度は死体の手を取って堀に示した。
「見ろ、爪が割れて血が着いている」
「犯人は男でしょうか?」
堀の問いに宮沢は立ち上がって両手を広げた。
「わからんね。まあ女性でも可能だろうな。死亡推定時刻は昨晩の一八時から二四時ってところだろう。解剖が済めばもう少し絞れると思うが…」
宮沢はそこまで言って口を閉ざした。
「…それでその…宮沢さん。この坊主頭なんですが…」
「…まあ、かなり激しい恨みをガイシャに対して抱いていた、ということだろうが…」
そう言っているところに現場指揮官となるべき捜査一課長が乗り込んできた。
「おやおや、御大は随分もったいぶったご登場ですな」
宮沢はそう小さな声で堀に囁くと、ことさら大きな声で言った。
「さて、それじゃあ、第一発見者に詳しく証言してもらおうか」
3
「え? 夕べ坂口さんから電話があったんですって?…」
河越警察署の一室。宮沢はショックのためかまたは元来が無口な性格なのか、途切れがちになる井沢薫の証言を引き出すのに苦労していた。
「はい…」
「それは何時頃のことですか?」
「…ええと、七時十五分前頃だったと思います」
「確かですね?」
「…はい、家に帰って夕飯の支度を始めようかと思ったところでしたから…」
「それでどんな話をしましたか?」
「はあ…。あの…『今から飲まない?』って…」
「ほう…」
「『ちょっとむしゃくしゃすることがあったのよ』って言って…」
「それはどこからかけた電話だったのでしょうね?」
「…はあ、池袋の駅からと言ってました…」
「池袋…。坂口さんの勤め先は池袋でしたね」
「はい」
「会社で何かトラブルでもあったのかな…? 彼女はその『むしゃくしゃすること』について何か言ってませんでしたか?」
「いいえ…それは何も」
「なるほど…ところで坂口さんは何と言いますか、かなりの美人だったようですが、その、むしゃくしゃする時など、一緒にお酒を飲んだりする男友達…ボーイフレンドですか?
そういう人はいなかったんですか?」
「はあ…それはいましたけど…」
「でも昨日はあなたに誘いの電話をくれた…」
「はあ…。佐瀬さんも最近忙しいみたいですし…」
「佐瀬さん? 佐瀬さんというのは?」
「彼女がつきあっていた人です」
「それは、この人ですか?」
宮沢は被害者の部屋にあったアルバムから抜き取って来た一枚の写真を示した。どこかの遊園地で写したらしいスナップで、被害者の坂口加奈子と眼鏡をかけた若い男が楽しそうに肩を組んで写っている。
「…はい、そうです」
「この佐瀬さんというのはどんな人ですか?」
「どんなと言われても…。私は直接会ったことありませんし…。N証券池袋支店に勤めているということくらいしか…」
「なるほど…。その佐瀬さんの他に坂口さんの男友達はいませんか?」
「さあ…。でも加奈子は意外とかたいところがありましたから…。私なんかに比べて、もてるのは確かでしたけど…」
宮沢はそう言われて、改めて井沢薫のまん丸い顔を見直した。薄茶の芯の細い癖毛があまり気を遣われている様子もなく無造作に後ろで束ねられている。
(私なんか、か…そうかもしれんな。まあ俺だって冴えないおじさんだが…)
「さて…それで? あなたは彼女のお誘いにどう答えたのですか?」
「はい、私夕べは持ち帰りの仕事があって、どうしても家を出られなかったんで『それじゃあ明日なら…』って言って、電話を切ったんです。ところが今日加奈子の会社に電話をしたら、彼女は休んでいると言われて…それで彼女の部屋に電話をしたら何回かけても留守電になっていて…私、少し心配になったので…」
井沢薫はそこまで言うと俯いて言葉を途切らせた。
「なるほど。それで訪ねてみたら、死んでいたというわけですね…」
宮沢は立ち上がって煙草に火を付け、深くその煙を吸い込んで肺臓に紫煙を行き渡らせた後、ゆっくりと吐き出すと、灰皿でそれを揉み消し、再び口を開いた。
「…それで…その、あの坂口さんの…髪のことなんですが…」
宮沢の言葉に井沢薫は弾かれたように顔を上げた。見開いた目にみるみるうちに涙があふれてくる。
「…なぜ、あんなひどいことを…」
井沢薫はそう言うと顔を伏せた。
「…ええ。確かにひどいことをしたもんです…。生前の坂口さんはかなり長く髪を伸ばしていたのですね?」
井沢薫は顔を上げ、焦点の合っていない瞳を宮沢に向けた。
「は…?」
「いや、ですから、坂口さんは髪を長く伸ばしていたのですね?」
井沢薫はうつろな眼差しのまま答えた。
「…はい。腰の上くらいまで…。加奈子の髪、つやつやでさらさらで…美容室の人なども彼女の後ろに立つと、まず溜め息をつくんです。A-誌の『美しい髪特集』でグラビアに載ったこともあるし…。加奈子もそれが自慢でした…」
井沢薫はそう言って再び顔を伏せ、嗚咽に身体を震わせながらハンカチを目にあてた。
「なるほど、自他共に認める自慢の美しい髪だったわけですね…。そうなりますと、ああやって坂口さんの髪をめちゃめちゃに切り刻んだ犯人というのは、彼女に対してかなりの恨みを抱いていたと考えられますね。どうですかね、井沢さん、誰かそういう、坂口さんに対して恨みを抱いている人間に心当りはないですか?」
「ありません」
井沢薫は泣き腫らした顔を上げてあまり考える様子もなくそう答えた。
「良く考えて下さいよ。本当にありませんか?」
井沢薫はきっぱりと言った。
「ありませんわ。あんないい子に恨みを持つ人なんて…」
宮沢は井沢薫の瞳を覗き込むように見つめたが、そこから何かを読み取ることは出来なかった。
「…分かりました。それでは今日はこの位で…」
井沢薫は立ち上がって一つ小さく御辞儀をした。部屋から出ていこうとする井沢薫に堀が歩み寄ったところに宮沢が後ろから声をかけた。
「あ、そうそう。昨日の夜なんですが、坂口さんから電話があった後、井沢さんはどうしていましたか? その…夜の十二時頃までですが…」
井沢薫は虚を突かれたような顔で振り返った。
「…どうしてって…さきほども言いましたように、持ち帰りの仕事がありましたので、ずっとそれをやって、一二時頃には寝ましたが…」
「途中誰か訪ねて来たりとか、電話がかかって来たりとかはありませんでしたか?」
「誰も訪ねては来ませんでしたが…持ち帰った仕事のことで会社の人間…係長から何回か電話がありました。それが何か?」
「いや、別に。一応参考までに聞いただけです。それでは今日は有難うございました」
井沢薫を送り出した堀が戻ってくると、宮沢は火の付いた煙草を指に挟んだまま考え込んでいた。
「宮沢さん、どうですかね、今の?」
宮沢は吾に帰って答えた。
「うーん…。どうもわからん。ありゃあ何か腹に隠してるぞ」
「そうですね」
「少なくとも、被害者に恨みを持つ者の心当りはあるとみたな」
宮沢はそう言って長く伸びた灰を灰皿に叩き落とすと、思いついたように堀に尋ねた。
「ところで堀、さっき現場でホトケさんを見た時にお前『愛と哀しみのなんとか』と言っていたな。何だ? ありゃ」
「…ああ、映画のタイトルです。『愛と哀しみのボレロ』。その中に第二次世界大戦後のフランスで、戦時中にドイツ将校と通じていた高級娼婦の女性を丸坊主にしたうえ首に看板をぶら下げて見せしめにしたという話が出てくるのですよ」
「…なるほど。丸坊主にして見せしめか…」
4
翌日、午前中の捜査会議で捜査の報告がまとめられた。
司法解剖の結果、死亡推定時刻は前々日の二○時から二四時までの間とされた。死因は絞殺で、凶器は現場のベッド上にあったナイトガウンの紐。外傷として頚部の索溝とその周辺の自損傷の他に、右の耳たぶ上部に死後付けられたと認められる切傷が認められたが、犯人が被害者の頭髪を切る際に誤ってつけたものらしい。被害者の部屋にあった被害者のネームの入った事務用はさみに血液反応が認められ、その血液型等からそのはさみが被害者の頭髪を切るのに使われたものと推定される。被害者は殺害直前に少量のワインを飲んでいた。睡眠薬等の薬物は検出されなかった。また死亡直前に性交の痕跡は無し。
指紋に関しては、被害者及び死体発見者である井沢薫の指紋以外は室内から明瞭な指紋は検出されなかった。それから髪を切るのに使ったと思われる事務用はさみからも被害者自身の指紋しか検出されなかった。犯人は指紋を残さないように細心の注意を払ったと思われる。
ドア、窓等に無理やり押し入った形跡が無いこと、犯行時刻が夜遅いこと、被害者が少量のワインを飲んでいること、台所に残された二つのワイングラスの存在…等から、被害者は犯人を自ら自室に招き入れ、ワインを飲んだりしている所で殺害された…即ち犯人は被害者の顔見知りだったのであろうというのは一致した意見だった。そしてまた、室内に物色された形跡がなく、金品等も盗まれた様子が無いこと、そして何よりも被害者の頭髪が無残にも切り刻まれていることから、犯行の動機は怨恨であろうという意見も大勢を占めた。犯人の性別についての捜査員の意見は、絞殺という手段からは男説、髪を切り刻んだという発想からは女説に分かれた。
「…犯人は、それが男にせよ女にせよ、被害者にとってはかなり親しい間柄の人間だった。しかし、犯人自身はその内面に鬱鬱たる殺意を密かに育んでいたのだな。被害者は殺意を隠したその人間を自ら部屋に招き入れ、饗応したところを不意に殺されてしまった…。一方、犯人は殺すだけでは飽き足らず、死者の自慢だった黒髪を切り刻んでいる。古来、黒髪は女の命とまで言われている。しかもこの被害者の場合は、女性雑誌のグラビアに載ったことがあるというほどの美しい髪だったそうである。それをあのように無残に切り刻んでいるのだ。これは、被害者に対する並み並みならぬ怨恨の発露に相違あるまい。捜査方針としては、ともかく、被害者の人間関係を洗うこと…特に一見被害者と親しくしていた者で、何か被害者に対する屈折した恨みを抱えていた者…そういう人間を捜すというのが、最も重要となるだろう。もちろん変質者による流しの犯行の線も捨てはせぬが…」
興奮すると話し方が幾分文語調になる捜査本部長は、そう言って会議を締めくくった。
5
その日の午後、宮沢は堀と二人で、N証券池袋支店に坂口加奈子の恋人だったという佐瀬哲也を訪ねた。
受付で来意を告げると、グレーの制服を着たそのOLは、奥まった席でコンピューターの端末に向かっていた男に声をかけた。こっちを振り向いたその男は坂口加奈子の部屋にあった写真で見たイメージよりもひ弱な印象だった。黒縁の眼鏡が色白の顔を際立たせている。
「佐瀬…ですが」
訝しげな表情で表に出て来た佐瀬に、宮沢は警察手帳を提示した。
「坂口加奈子さんのことについて少々お聞きしたいことがありまして」
「坂口加奈子…って、彼女が何か?」
佐瀬は戸惑いを隠さずにそう言った。
「おや、御存じない? ニュースなどは見ていないんですか?」
「ええ、昨日今日と忙しくて…。何かあったんですか?」
宮沢と堀は顔を見合わせた。宮沢は佐瀬に向き直って言った。
「坂口さんは何者かに殺害されました」
「殺害って…まさか」
佐瀬は絶句した。
「ちょっとお時間を取れますかな。どこかでゆっくりお話を伺いたいのですが…」
「…殺されたって…いつのことなんですか? どこで? 誰が? どうして? 教えてください…」
会社の小会議室で刑事二人に向かい合って座ると、それまで無言だった佐瀬は、絞り出すような声でそう言った。
「…ええ、一昨日の夜の八時から一二時頃の間なんですがね…自宅で…」
「…一昨日…。それじゃあ…あの後、家に帰って…」
そう呟いた佐瀬の言葉に宮沢は思わず身を乗り出した。
「え? 佐瀬さん、一昨日坂口さんにお会いになったんですか?」
「はい。夕方六時頃、この近所の喫茶店で…」
「ち、ちょっと詳しくお願いします」
「はい…。一昨日は本当は一緒に食事をする約束だったんです。僕の方から誘ったのですけど、仕事が…どうしてもやってしまわなければいけない仕事が入ってしまって…それで、会社をちょっと抜け出して一緒にお茶だけ飲んだんです…」
「それで? どのくらい一緒にいましたか?」
「はい…二十分か三十分位でしょうか…」
「その時の坂口さんはどんな様子でしたか?」
「どんなと言われても…別にいつもと変わり無いと思いましたが…」
「いや、あなたと会った後坂口さんは友達に電話をかけているんですがね、そこで『むしゃくしゃすることがあった』と言っているんですよ」
「ああ…それはたぶん僕との約束が仕事のために流れてしまったからだと…」
佐瀬はそう言うと表情を曇らせて言葉を途切らせた。
「どうしました?」
「…はい? いや、その…つまり…僕に仕事が入らずに、約束通りにしていれば、彼女は殺されるなんてことは…」
佐瀬は言葉を詰まらせながらそう答え、うつむいた。
「いやあ、そんなことを考えたらきりがないですよ…。ところで、その時どんなお話をしましたか」
「話…と言っても、別に…。この間見た映画の話とか…そんなくらいです。短い時間でしたし…」
「なるほど…。ところで…」
宮沢が坂口加奈子の死体に加えられた凌辱について説明すると、佐瀬は唖然とした顔で刑事二人を交互に見た。
「…そんな…髪を…加奈子のあの髪を…ですか…?」
「ええ。惨い話です…。そういうわけなんですが、まず単刀直入にお聞きします。あなたと坂口さんはうまくいってましたか?」
佐瀬はびっくりしたように宮沢を見た。
「なぜそんなことを? まさか刑事さん、僕が彼女を…」
宮沢は大げさな身振りで手を横に振った。
「いやいやそんなわけではありませんよ。ただね、こういった事件の常として、まず男女関係のもつれが動機としてあるのではないかと第一に考えられるのですよ。ですからまず坂口さんとお付き合いがあったあなたからそこら辺の所をお聞きしたいと思った次第で…」
「…うまくいってましたよ」
佐瀬は憮然とした表情で一言だけそう言った。
「そうですか? それではあなた御自身がどうこうというわけではなくかつて彼女が何か男女関係のトラブルに巻き込まれたことなどはなかったですかね? そういう話を彼女から聞いたことありませんか?」
「ありませんね」
にべも無い佐瀬の答えにもめげず宮沢は根気良く質問を続けた。
「いずれにしろ犯人は坂口さんに対してかなりの恨みを持っていた人間と思われます。どうでしょうか、男女関係云々は抜きにして、そんな人物に心当りはありませんかね?」
「…」
佐瀬は黙り込んだ。宮沢は口調を変えて改めて尋ねた。
「どうなんでしょう。坂口さんていうのはどういう方でしたか? 他人から恨みを買い易いような性格だったのでしょうか?」
佐瀬はようやく口を開いた。
「そんなことはありませんでしたよ。彼女は本当に可愛らしい女でした。無邪気で、悪意のかけらも無いような人間でしたから…」
「しかしですよ、いかに本人に悪意はなくとも、他人を傷付けてしまうということは多々あります。特に身近な友人などは、お互いに気をつかうことが無いですからな。いかがでしょうか?」
佐瀬は首を振った。
「そうかもしれませんが…どうでしょうか。僕も彼女の友人関係などには詳しくなかったですから…」
宮沢はなおも食い下がって質問を続けたが、佐瀬から具体的な名前などを引き出すことは出来なかった。
「…分かりました。それでは今日は仕事中失礼しました。また伺うかもしれませんがその時は宜しく…」
宮沢は冷めてしまったお茶を飲み干して立ち上がった。
「いえ…。是非とも犯人を…一日も早く…お願いします」
佐瀬は深々と頭を下げた。そこで宮沢は思いついたように尋ねた。
「ところで佐瀬さん、一昨日坂口さんと別れた後、御仕事だったそうですが、御一人で? それとも誰かと御一緒でしたか?」
佐瀬の蒼白だった表情に一瞬赤みがさした。
「アリバイですか? やはり僕が加奈子を殺したと…」
「いやいや、そんなことは言っていません。一応関係者の方には全て尋ねることになってますんで…」
佐瀬は吐き捨てるように言った。
「同じ課の同僚五人ばかりとずっと一緒でしたよ。夜の十一時過ぎまで…。何なら今から聞いて見てください」
「もちろんそうさせていただきます」
十五分後、佐瀬哲也のアリバイは確認された。
6
「それじゃあ、全く容疑者が浮かんでこないんですか?」
松本裕司は宮沢のグラスにビールを注ぎながらそう尋ねた。事件発生から七日後、宮沢は閉店後のかすみ亭で、捜査の行き詰まりを松本とおじさんに嘆いていた。
「ああ、参ったよ。簡単な事件だと思っていたんだが…」
かすみ亭は河越市の郊外にある小さな居酒屋である。初老の夫婦二人が常連客を相手にのんびりと店を開いていたのだが、数ケ月前におばさんか足を捻挫してしまい、それ以来店に出られなくなってしまっていた。そこで代役としてカウンターに入ったのが松本だった。宮沢はいつもは常連客の一人として営業時間内に来ている(刑事という身分を他の客に隠して)のだが、捜査が行き詰まったりするとわざわざ閉店後に訪れておじさんや松本に愚痴をこぼすのが常だった。松本は推理小説作家志望だったので、時に現実離れした視点から捜査の助けとなるような意見を述べることもあり、宮沢もそれを聞きたくて閉店後に訪れるようであった(本人はそれをあまり認めたくないようではあるが)。
「被害者に対して恨みを抱いている人間がいなかったのかね?」
おじさんは例によってコップ半分の酒をちびちびとすすっている。胃を悪くして以来、おばさんにきつく止められているのだ。
「いや、それがそうじゃないんだな。悪感情を持つ者は結構多いんだ。恋人の佐瀬哲也が言っていたように、確かに被害者の坂口加奈子は無邪気で可愛いい女だったらしい。しかしどうも他人に気をつかう人間じゃあなかったみたいなんだ。会社や短大時代の友人に話を聞くと、みんな口を揃えて『あの子は悪い子じゃあ無いんだけど…でも』と言うんだな」
「悪い子じゃあ無いけど…でも、ね。…ふ〜ん、つまり悪意無くして他人を傷付けてしまうことが多い人間だったんですね」
「そうらしい。ちょっとした不愉快な思いをした人間も含めたら、かなりの数の人間が被害者に対して悪感情を抱いていたと言える。しかし…」
「その中に本命はいなかったんですね」
「ああ。これはと思われる人間は皆アリバイが成立してしまった。第一発見者の井沢薫も恋人の佐瀬哲也も俺は怪しいと思ったのだが、残念無念…、確かなアリバイがあった。それにこれは意外だったのだが、坂口加奈子は外見が派手だった割に男女関係に関しては固い方だったらしい。佐瀬哲也と付き合い始めたのが一年半ほど前からなんだが、その間は佐瀬一筋で、これといった男女関係のトラブルは無かった。佐瀬哲也ともうまくいっていたみたいで、クリスマスやお互いの誕生日などには一緒に仲良く豪華な食事なんぞをしていたらしい。最近喧嘩をした様子も全くない。つまり痴情の線も消えてしまったのだ…」
「なるほど…。ところで当日の坂口さんの足取りはどれくらい調べられたのですか?」
「佐瀬哲也と会ったという喫茶店ではウエイトレスが覚えていた。確かに六時少し前頃から三十分位いたそうだ。もっとも一緒にいたのは二十分位で男の方が先に出て行ったということだが」
「よく覚えてましたね」
「ああ、やっぱり女の子だな。坂口加奈子の髪があまりにきれいだったたので印象に残ったのだそうだ」
「二人がどういう話をしていたかは聞いてなかったのですか?」
「ああ。ただ、男の方が出ていった後、残された髪の長い女の方はしゅんとしていたということしか覚えていないそうだ」
「しゅんとしていた…」
「デートを楽しみにしていたんだな。全く日本人というのは働き過ぎだよ。さて、被害者はその後池袋駅から井沢薫に電話をかけた。そして、どうやらその後すぐ電車に乗ったらしい。新川岸駅前通りのコンビニエンスストアで七時半過ぎに被害者が雑誌を買ったのを店員が覚えていた。買った雑誌は確かに被害者の部屋にあった」
「池袋から新川岸までは四十分程ですか…、六時四十五分過ぎの電車に乗ればちょうどそのくらいの時間になりますね。そこでは何か変わった様子はなかったのですか?」
「別に…。一人で店に入ってきて、二、三冊の雑誌を立ち読みした後、その内の一冊を買っていったそうだ。そしてそれが被害者の最後の目撃証言なんだ。そのコンビニエンスストアは駅と被害者のマンションの中間地点にあたる。そこからマンションまでの商店街のいきつけの食堂や美容室、書店、ビデオ屋…、くまなく聞き込みをしたが、どこでも被害者がその時間に立ち寄ったなどという証言はなかった」
「…となると、被害者と犯人はいつ遭遇したんでしょうね?」
「そこなんだが…。捜査本部では途中の店などに目撃者が無いことから被害者はコンビニエンスストアを出た後そのまま真直ぐ部屋に帰ったと見ている。そして犯人が被害者の部屋を訪ねたのはその直後だろう」
「それはどうして?」
「服だよ。被害者が殺された時に着ていた服は、その日の通勤時に着ていたものだった。もし帰宅してしばらく経ってから犯人が訪ねて来たとしたら、もう部屋着に着替えていただろうということだ」
「帰宅途中の道で会ったということも考えられますよ」
「ああ、もちろんその意見も出ている。犯人は途中で待ち伏せていて、あたかも偶然会ったかのように声をかける…。しかしいずれにしろ目撃者が誰もいないんじゃあ話にならん」
宮沢はそう言ってつまらなそうにビールをすすると、改まった様子で口を開いた。
「…実は松本君、君に影響されたというわけでは無いんだが、こうまで捜査が行き詰まってしまうと、発想の転換が必要じゃないかと思って、自分なりにいろいろ考えてみたんだ。どうもこの事件で被害者を坊主頭にしたというのは、単純に怨恨のためというわけじゃあ無いのではないかという気がしてね。何か別の思いもよらない理由があるのではないか…と。どうだい松本君、何か推理小説のトリックでヒントになりそうなものは無いかねえ?」
宮沢の言葉に松本は首をひねった。
「うーん、そうですね。有名な『木の葉はどこに隠す?』という命題がありますけど…」
「何だね? それは」
宮沢は興味深そうに身を乗り出した。
「ええ。『賢い者は小石をどこに隠す? …浜辺。木の葉はどこに隠す? …森の中。それでは小石を隠したいのに浜辺が無い時は? …浜辺を作ってしまえ。森が無い時は? 森を作ってしまえ』…チェスタートンという人が書いた推理小説に出てくるこのやりとりを元にしたトリックは、後の推理小説に繰り返し色々なバリエーションとなって出てきます」
「ふんふん。つまり隠したい物をそれと同じ多数の物の中に置くことによって逆に見えなくしてしまうという…ああ、そうか松本君、つまりこの場合、犯人は自分の髪の毛を隠すために被害者の髪の毛を切り刻んでばら撒いたというわけだな」
「…ええ。まあ、この事件に応用するとすればそうでしょうが…。散乱していた髪の毛は全て被害者のものだったんですか?」
「いやあ、それがなにぶん量が多いから、全部が全部被害者のものだとは確定されてない。鑑識の連中も根気よくやっているらしいが…。うーん、しかし松本君どうもその線はありそうだな。犯人は特徴ある髪…例えば金髪の人間だった。殺害後ふと自分の毛髪が現場に落ちているのを見つける。慌ててそれを拾うが、もしかしたら他にも落ちているかもしれない。焦った犯人は被害者の髪を切り刻んでばら撒くことによって自分の落としたかもしれない髪の毛をその中に紛らせてしまおうとした…」
「はは、金髪はよかったな。でも宮沢さんもなかなか推理小説的な思考法に毒されて来ましたね」
「ああ、いつもいつも松本君の力を借りての部長賞じゃ情けないしな」
「でもどうですかねえ…。それは何と言うか、あまりに推理小説的過ぎるような気がしますけど」
「そうか? 俺としてはいつもの松本君的な発想だと思うが」
「確かに被害者の髪の毛を切り刻んで撒き散らせば、被害者の部屋に落ちていたかもしれない自分の髪の毛は識別し辛くなるでしょう。でも逆に髪の毛に注目を集めさせることにもなってしまいます」
「確かにそうだが…」
「そんなことをすれば事件現場の重要な証拠として、切り刻まれた毛髪は一本残らず集められ、徹底的に調べられますよ。実際そうなんでしょう?」
「ああ、鑑識の連中は徹底的に分析をしている…」
「ほら、最近のベストセラーで『検屍官』シリーズっていうのがあったでしょう? あんなのを読んでいたら、素人さんだって鑑識技術に関する相当な知識を持っていると考えられます。そうしたらそんな墓穴を掘るような真似をせずに、床を這いずり回ってでも自分の落としたかもしれない髪を探した方が賢明だって考えますよ」
「そうだな…」
宮沢は肩を落とした。
「ところで松本君にはいい考えは無いのかい?」
「いやあ、話を聞いただけじゃあ…。現場を見れば何か気が付くかもしれませんけど…」
「またか? 今回は現場の管理は俺じゃあないからなあ…。現場の写真ならあるが…」
「え? それでいいですよ」
「しかし、死体も写っているぞ。大丈夫かい? はっきり言って二、三日飯が食えなくなると思うが…」
「いいんです、最近太り気味ですから…。早く見せて下さいよ」
松本に促されて「公務員には守秘義務っちゅうもんが…」などと呟きながら宮沢は鞄からミニアルバムを取り出した。
「ほら。本当にいいのか? かなり生々しいぞ」
「はいはいはい…」
松本は宮沢からミニアルバムを受け取るとカウンターに広げた。一枚目は、どこか観光地らしき場所で笑顔を浮かべている女のポートレートだった。風が女の長い髪を緩やかに翻していて、女はそれを右手で軽く押さえている。
「ふーん…なかなかの美人ですね。確かに綺麗な髪だ…」
「ああ、それは被害者のアルバムにあったものを複写したやつだな」
「見事に天使の輪っかが出来ていますねえ。僕にも幾らかキューティクルを分けて欲しいですよ…」
宮沢は松本のゴムで束ねたぼさぼさの髪をちらと見ると「ふん」と言って薄くなりかけている自分の頭頂部をぽりぽりとかいた。松本はページをめくった。
「う…」
いきなり目を見開いた死体のアップの写真があった。
「…これは…」
「だから言ったろ。大丈夫か? 無理ならいいんだぞ」
「いや、大丈夫です…」
松本は青い顔でそう答え、改めて写真に見入った。坊主頭の女。最初の写真と同一人物とは到底思えない苦悶の表情。硬直し、物質化した生命…。生と死を分かつものは何なのであろうかという感慨を抱きながら松本はページをめくった。むき出しになった首筋にぐるりと残る赤黒い索溝のアップの写真が数枚続く。
「鮮やかな痕ですね…」
「ああ、全く、法医学の教科書に載せたいくらいだよ」
「犯人は後ろから襲って紐を前に回し、首の後ろでそれを交差させて締めたのでしたね…。なるほど、首の後ろに紐が交差して捩れた痕がくっきり残っている…。ええと、左から来た痕が上になっているから…」
松本は目を閉じて実際にその動作をあれこれ自分で実行してみている。
「ははーん、犯人は右利きですね」
宮沢はつまらなそうに言った。
「ふん、そうだな。捜査本部でもそういう風に見ているよ。まあそんなくらいは警察だって推理しているさ…ん? どうした? 松本君」
見れば、松本は首を絞める動作を途中で止めたまま口をぽかんと開けている。
「松本君、どうしたんだ? 何か気が付いたのか?」
松本は呆けた表情のまま顔を宮沢に向けたが、その視線の焦点は宮沢の顔を通過して後方数十センチの空間にあった。
「…そんな…こんなはずはない…」
「おい、こんなはずって何がこんなはずなんだ?」
「…ということは、必然的に髪は…」
「髪? 何が必然的なんだ?」
「…しかし…そうだとしたら…何故坂口さんは…」
「何故って…松本君。坂口さんがどうしたんだ?」
「…そうか! 喫茶店で…」
「喫茶店? じゃあ犯人は佐瀬哲也なのか?」
「…ということはもしかしたら…」
「…」
宮沢は声をかけるのを諦めた。おじさんが宮沢のコップにビールを注いだ。
「宮ちゃん、待つことだな」
「そうみたいだね…」
「宮沢さん」
待つこと十分、いきなり松本が焦点の合った顔でそう宮沢に声をかけた。
「おお、おお松本君、帰ってきたか」
宮沢は灰が長く伸びた吸いかけの煙草を揉み消した。おじさんは空のコップを恨めしそうに眺めながらお茶を飲んでいる。松本は急いた様子で言った。
「…ああ、すいません。ところで二つだけ確かめたいことがあります」
「二つ?」
「まず監察医の…植野さんでしたよね、以前ミステリを書くために宮沢さんに紹介してもらって色々と教えていただいた…あの人と話がしたいのですが、連絡がとれますかね?」
「植野のおっさん? 今か? 運がよけりゃ病院で当直かもしれんが…そうじゃなかったら家で寝ている時間だぞ。まあちょっと待て…」
宮沢は立ち上がって店の電話から病院に電話を入れた。電話がつながり二言三言話すと、振り返って言った。
「ラッキーだな、いたよ。今呼ぶそうだ。代わるか?」
「はい」
松本は受話器を受け取り、送話口を手で押さえると宮沢に言った。
「ちょっとはずしていてもらえますか。もし僕の考えが見当違いだったら、その、恥ずかしいですから」
「ああ…」
宮沢は憮然とした表情で「今更恥ずかしいはないだろうが…もったいぶりやがって」とぶつぶつ呟きながら席に戻った。おじさんがにやにや笑っている。宮沢が席に座ってビールを飲み始めると、松本は受話器に向かって熱心に何事かを話し始めた。時々「髪が…」とか「索溝が…」とか言うのが断片的に聞こえてくる。しばらくすると松本は満足そうな様子で戻って来た。
「僕の思った通りでした。先生も『司法解剖の時どうして気が付かなかったのか』って悔しがってましたよ。まあ、現場であの髪の量を見ていないのだから無理もないですがね…」
「何一人で納得しているんだ? おい松本君、何なんだ、その手がかりというのは」
「まあ、待って下さい。確かめたいことが二つあると言ったでしょう」
「ふん、何だ、そのもう一つは」
「はい。宮沢さん、佐瀬さんから坂口さんのことについて聞いたでしょう? その時のやりとりをできるだけ詳しく知りたいんです」
「ああ、それならマイクロテープレコーダーに録音したのがあるよ」
「そりゃいい! ちょっと聞かせて下さい」
「ちょっと待て…」
宮沢は再び鞄をごそごそと探り、手のひら程の大きさのテープレコーダーと一本のマイクロテープを取り出して松本に手渡した。
「使い方はわかるよな」
「はい」
松本はいそいそとテープをセットし、再生ボタンを押した。
『…殺されたって…いつのことなんですか…』
絞り出すような佐瀬哲也の声が流れ出る。松本は真剣な顔付きでその小さなスピーカーから流れ出るやりとりに聴き入った。そして一通り聴き終わると巻き戻してもう一度最初から聴いた。そしてもう一度…。
「…わかりました」
テープレコーダーを止めて松本が言った。宮沢とおじさんは顔を見合わせた。
「わかったって…おい、松本君、犯人がか?」
「はい…いや、犯人候補ですけど…」
「何故? どうしてわかったんだ? 犯人は佐瀬哲也か? 俺の聞き込みの中にヒントがあったのか? 何だそれは? しかし奴にはアリバイが…」
「佐瀬さんじゃないですよ」
「それじゃあ誰だ? 男か? 女か? 動機は?」
「男か女かわかりません。動機もわかりません」
「そ、それじゃあ…」
松本はなおも続きそうな宮沢の質問の嵐を遮ってこう言った。
「宮沢さんは明日の朝時間を取れますか?」
「あ? ああ、署に出るのは十一時頃でいいが…」
「それじゃあ、その前に佐瀬さんに会いに行きましょう。あの人は一つ隠しごとをしています。それを確かめた後…」
「確かめた後?」
「犯人候補に会いに行きます」
7
翌日の朝、松本と宮沢はN証券池袋支店の前で佐瀬哲也を待っていた。始業時間直前のオフィス街の舗道は、無表情な顔のまませかせかと歩くサラリーマンの群れが大きな流れを作っている。その流れを傍らに見ながら宮沢は不機嫌そうに煙草をふかしていた。松本が何を聞いても「まあ後で」と答えてくれないからだ。
「…お、来たぞ」
宮沢はそう言って煙草を投げ捨て、それを踏み消した。人の流れの中を佐瀬哲也はうつむきがちにこちらに歩いて来る。
「…どうも、佐瀬さん。お早うございます」
宮沢が声をかけた。佐瀬はびっくりしたように顔を上げた。
「ああ、刑事さん…。何でしょう、こんな時間に」
「おほん、実はですね、こちらは坂口さんの従兄弟で、えー、松…じゃない、う、梅本さんという方なんですが、何やら今回の事件のことで佐瀬さんにお尋ねになりたいことがあるそうで…」
「従兄弟…はあ、初めまして…」
佐瀬は松本に向かって軽く頭を下げ、迷惑そうな様子で続けた。
「しかし、時間があまり…」
松本は佐瀬の言葉を遮って言った。
「いや、話は一分で済みます。いいですか? あの日、事件のあった日に、貴方と、えー、か、加奈ちゃんは喫茶店でお会いになりましたね」
「はい」
佐瀬の顔に一瞬緊張の影が走った。松本はさりげなく言った。
「その時、貴方は彼女に、別れを告げましたね」
佐瀬は茫然とした表情で松本を見つめた。傍らの宮沢も、あっけに取られて松本を見ている。
「どうですか? …ああ、ほら、もう一分経ってしまいますよ」
佐瀬は何かに憑かれたようにゆっくりとうなずいて言った。
「…はい。あなたの言う通りあの日僕は加奈子に別れを告げました…」
松本は満足そうにうなずいた。
「わかりました、それだけです。それではどうぞ、早くしないと遅刻になってしまいますよ」
「しかし…」
「いや、もう結構です。それからあまり自分を責めないように…」
「はあ…」
佐瀬はふらふらとした足取りで会社に入っていった。
「どういうことだ? 松本君」
宮沢がそう言って松本の肩を掴んだ。
「どういうことって、見ての通りですよ。さて、それでは犯人候補に会いにいきましょう…と、その前に…」
松本はしゃがみ込むと、最前宮沢が捨てた煙草の吸い殻を拾い上げ、それを無造作にポケットに放り込んだ。
「宮沢さん、吸い殻の投げ捨てはいけませんよ」
宮沢は真っ赤な顔で目をむいたが、松本は軽い足取りで駅に向かって歩き始めた。。
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