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1.僕はスズメからお告げを聞かされる

「疲れているんだよなあ…」
仕事帰りの電車の中で、吊革につかまった僕は思わずそう口に出してしまった。前の座席に座っていたOLらしき髪の長い若い女が、一瞬じろりと僕の顔を見上げ、わざとらしく足を組み直した後、再び顔を落として、手にしていた女性誌のページを当てつけがましくぺらぺらとめくった。どうやら僕が暗に「席を譲れ」と強要したように受け取ってしまったらしい。僕は小さく溜息をついて吊革三つ分だけ立ち位置をずらした。
 疲れている……そうに違いない。大体において最近は忙し過ぎた。一週間に六日も働いてしまったのだから。自分らしくないと思う。やはり労働は一週間に四日が限度だ。しかもこの一週間というものは某テレビゲームにはまってしまって睡眠時間も一日六時間ほどだった。やはり九時間はとらなくてはつらい。まあ、昨日であのゲームもエンディングまでいったから、今日からはゆっくり眠れるはずだ。工事現場の交通整理の仕事も明日で終わりだし、しばらくはのんびり過ごそう。
 ほんと、疲れているのだ。あんな幻覚を見るなんて……。

 ほんの一時間半ほど前、仕事を終えて世田谷の道路工事現場から駅に向かっていた時のことである。迷路のような込み入った住宅街の路地を歩いていると、後ろから誰か僕を呼び止めるものがいる。
「もしもし」
「はい」
僕は振り返った。しかし、夕暮れの路地には誰もいない。空耳か……。僕は改めて駅へ向かう道を歩き始めた。
「もしもし」
再び呼び止める声だ。僕は歩みを止めてもう一度振り返った。やはりそこには誰もいない。無人の路地。背筋に冷たいものが走った。
「あのですね…」
誰もいないはずの空間から声が聞こえてくる。僕の身体は金縛りに遭ったように動かなくなった。
「びっくりしているようですが、ご心配なく」
その声はどうも下の方から聞こえてくるようだ。僕はゆっくりと視線を落とした。すると、目が合った。小さな目だ。とても小さな丸い目。
「はいはい、そうです、私です」
それはスズメの目だった。アスファルトの路上の二メートルほど前方に一羽のスズメがちょこんと鎮座していて、僕を見上げているのだ。そのスズメの口、いや、嘴がちょこちょこと開閉して、そこから……信じがたいことだが、そのスズメの嘴から、先刻から聞こえ続けていた、あの声が発せられた。
「いやいやいや、びっくりさせてすみませんな」
びっくり? 「びっくり」というのとはちょっと違うぞ。どちらかと言えば「唖然」ないしは「呆然」だ。スズメはそんな僕の心中にはお構いなく、続けて嘴をぱくつかせた。
「今日は小野さんに折り入ってお話がありまして」
どこかで聞いたことのある口調だ、と思った。そうだ、これは一昨日アパートを尋ねてきた印鑑の訪問販売員の口調と同じではないか。つまりは、きっとろくな用件じゃないのだろうということは直感的に察せられた。
「いや、その、今日は急いでいますので、また別の日にでも、はあ…」
僕は一昨日に印鑑の訪問販売員に答えたのと全く同じ言葉をスズメに返した。「何でこんなに下手に出なくちゃならないんだ?」と、心の中で自分自身に対して舌打ちしているところまでが全く同じである。
「いや、そんなことおっしゃらずに、まあ、話だけでも聞いて下さい」
スズメの反応はやはりかの訪問販売員と全く同じものだった。そしてスズメはちょんと一歩僕の方に足を踏み出した。その一歩はほんの数センチほどのものではあったが、僕に対して大いなる圧迫感を与えるに充分な一歩だった。ここが自分のアパートだったなら、一昨日のようにとにかくドアを閉めて中からカギをかけてしまえばそれで話は済むのだが、残念なことにここは天下の公道である。閉めるドアは無い。そんなわけで、次の瞬間僕はくるりと身体を翻すと、逃げた。走った。
 しかしスズメは鳥であるからして、当たり前のことだが「飛ぶ」。十メートルも走らないうちに僕の肩の横をすいと小さな黒い影が追い抜き、そして僕の行く手を遮るように数メートル先の路上にスズメはちょんと着地した。
「まあまあ、冷静になって下さい」
無理な注文だ……と、僕は息を切らしながら思った。
「話はすぐ済みますから」
僕が息が切れて答えられないのを、了解のしるしと思ったのか、スズメは調子に乗って話を続けた。
「話というのは他でもありません、小野さんにお願いがあるのでして……」
やはり「ろくな用件ではない」ようだ。僕は他人から「お願い」されるのが何よりも苦手なのだ。自慢じゃないが僕は子供の頃から他人からお願いされた「お願い」にまともに応えられたことが無い。例えば小学生の頃、同級生の山岸にプラモデルの……。
「そのお願いというのはですな、小野さんに『船』を作って欲しいのです」
「フネ? って、そりゃ、あの、水に浮かぶ、船? ……ですか?」
「はい。その船……英語で言えばship、ですな」
「……はあ」
山岸に頼まれたプラモデルは船じゃなく戦車だったが……などと思う暇もなく、スズメは話を進める。      
「期限は一年。つまり来年の今日までに船を作り上げて欲しいのです。よろしいですかな?」
「……よろしいですかなと言われても……」
しかしスズメってのはどうも表情が読めない。それが余計に癪にさわる。
「一体何のためにその、船なんてものを僕が作らなくてはならないんですかっ」
僕の口調は自然と気色ばんだものとなる。スズメは相変わらず無表情のままで答えた。
「ああ、確かに理由もわからないのでは小野さんも納得出来ないでしょうな。これは失礼いたしました。実はですな、一年後の……来年の今日に大洪水があるのです」
「大洪水?」
「はい。地球規模の」
こいつ、頭がおかしいんじゃないか? と思った。時折駅前の広場などで手書きのビラを配りながらそんなことを通行人に向かって誰彼構わず喋っている人間を見かけるが、あれと同じだ。いや、待てよ。頭がおかしいのは自分の方か。「喋るスズメ」なんて幻覚を見ているのだから。しかし、幻覚中のキャラクターだったとしてもだ、もう少しまともなことを言って欲しいものだ。大洪水?  
「まあそんなわけでして、小野さんには、その大洪水を生き延びるためにですな、船……いわゆる『方舟』ですな……を作って欲しいと、そういうわけです。よろしいでしょうか?」
よろしくはなかった。しかし、この幻覚から逃れるには「よろしいです」と答えるしか術は無いような気がした。そこで僕は答えた。
「……よろしいです」                     
スズメは(もし表情があったならば「満足そうにうなずいて」であろう)言った。
「おわかりいただいたようで安心いたしました。それではくれぐれもよろしくお願いします。あと、わからないことがお有りでしたら、また私が参上いたしましてご説明いたしますので、その際には心の中で『神様、お教え下さい』とお念じ下さい。よろしいでしょうか?」
神様? スズメが? おいおいおいおい。しかし僕は答えた。
「……よろしいです」
スズメは(やはりもし表情があったならば「満足そうにうなずいて」であろう)言った。
「それではよろしくお願いします。では……」
そしてスズメは小刻みに羽ばたいて「ふっ」と飛び立つと、夕暮れの空高く飛び去って、消えた。
 口を「あ」の字に開いたままで空を見上げている僕の横を、長ねぎの葉が飛び出た買い物袋を下げたおばさんが怪訝そうな目つきで眺めながら通り過ぎていった。気がつけば、先刻までは全く人気の無かった路地に、どこから涌いてきたのかと思われるほどにわらわらと、買い物帰りの主婦や学校帰りの子供や夜の仕事に向かう化粧の濃い女などが往来している。不思議な気持ちがした。やはり白昼夢…いや、白夕夢だったのだろうか? 最近疲れているからなあ…。

「痛!!」
先程のOLらしき若い女が席を立って車両から降りていくついでに僕の足を踏みつけていったのだ。やれやれ、彼女も疲れて心がささくれだっているのだろうか……などと思いながら、僕はその空いた席に腰を下ろした。シートには女の尻の温もりが残っていてちょっと変な気分だ。
 しかし、スズメが話しかけてくる幻覚というのは、一体どういう意味があるのだろう。僕は別に麻薬などはやっていない。酒でさえ週に一度居酒屋でビールを二本ばかり飲んでいい気分になるくらいのものだ。物心ついてから二十数年経つが、今まで「そこに無いはずのもの」が見えたことなど一度もない。UFOだって人魂だって幽霊だって見たことがないのだ。「スズメ」に対してのトラウマにも思い当たる節は無いしスズメに祟られるような記憶も無い。居酒屋のメニューに「スズメの丸焼き」というのがあったけれど、食べたことは無い。しかもだ、「大洪水とそれを生き延びるための方舟」だって?
 いくら一般教養常識に欠ける僕だって旧約聖書の「ノアの方舟」の話くらいは知っている。確か、自分が創造した「人間達」があまりに堕落してしまったために神様が怒ってすべてを「チャラ」にしようと、大洪水を起こしたのだったっけ。その時、堕落しないで神を信じていたノアとその家族だけが事前に神から警告を与えられ、方舟を作ってこの世に存在するありとあらゆる動物の一つがいを方舟に乗せ、大洪水を乗り切った……という話だったはずだ。
 大体、この話もよくよく考えれば変な話だ。この世に存在するすべての動物って、一体何種類いるのだろう? 例えばあの上野動物園だって「すべて」の種類の何分の一……いや何十分の一……いや何百分の一……いや、昆虫とか爬虫類とか魚とか(ああ、魚は大丈夫なのか、「洪水」だから)まで考えれば何千分の一何万分の一の種類の生き物しかいないであろう。そうだ、生物図鑑のすべての項目が実体化したことを思い浮かべてみれば……これはどう考えてみても実現不可能な話だ。
 それに第一僕は「神を信じていない」し、ノアさんのように立派な人間ではない。もし自分が神様だったとしても、方舟を託す相手にはこの小野秋雄という人間はまあ選択しないだろう。ノアさんは結局神様から信心の「ご褒美」として選ばれたみたいなものなのだろうけど、僕が神様からご褒美を貰えるような理由などは何一つ無い。……ああ、一つあるか。以前長野の山奥を旅行していた時に、道端のお地蔵さんに供えられていた団子が崩れていたのを直してやったことがある。まあしかし、そんなくらいだ。まさか、あの団子のご褒美なんてことはあるまい……。
 とにかく今日はゆっくりと休もう。それが何より今の僕にとって必要なことだ。
 電車が止まり、僕は席を立った。とりあえず今日の晩飯は牛丼に生卵にサラダまでつけて食べよう。体力をつけなくては。

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