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1.池袋−飯田橋(有楽町線)

 僕達の前には一組の男女が腰かけていた。もしかしたら男は僕と同じ位の年齢だったのかもしれないのだけれども、外見だけをみれば、その男は短く刈った髪を固めのムースか何かできれいに分け、縁の無い(本物の)眼鏡をかけ、薄いブルーの「ポロシャツ」に(文字通り)折り目正しい純白の「スラックス」、まるでおろしたてのような「ヨネックスのテニスシューズ」、そしてその「スラックス」のすそと「ヨネックスのテニスシューズ」の隙間に小さい傘のマークが見え隠れしているといった装いの、ちょうど今朝の朝日新聞にはさまっていた「ファッションセンターしまむら〜しまむらは関東一円に九十七店舗」という片面カラー折り込み広告の「夏の着こなし、カジュアルにお買い得!」なるコピーの横で右四十五度の笑顔を見せながら腰に手をあてている男性モデルに似ている、きっと二十九才位だろうと他人に推測させる(もしかしたら二十一才の)男性……という、とにかくどう見ても僕ではない男だったわけで、ついでに女の方はといえば(もうこの文章に「。」をつけたいので簡単に述べるが)やはり今朝の朝日新聞にはさまっていた「まるひろ川越店〜十一日・十二日は連休いたします」という、これもやはり片面カラー折り込み広告の「軽快な装い−夏は活動的なシーンがいっぱい」なるコピーの斜め下で、左四十五度の笑顔を見せながら右手を髪に左手を腰にあてている女性モデルに似ている、きっと二十五才位だろうと他人に推測させる(もしかしたら三十二才の)女性で、その二人を僕は眺めていた。いや二人というのは不正確で実は男は腕の中に一人の赤ん坊を、いや変だな、一つの赤ん坊を、いや……だから男は「a 赤ん坊」を抱いていたので、正確には二人と「a 赤ん坊」を僕は眺めていた。
「ドッジ・ボールみたいね」
「うん、そうだね。ほんと」
いつものように、突然耳元に彼女がささやきかけてきて、会話が始まった。

 いつだったか忘れたが以前彼女に尋ねたことがある。
「君はどうしていつも突然に話を始めるのですか?」
実際初めて彼女が話しかけてきたときも、僕にとっては全くの「突然」であった。
「……すみませんが、その本、何ていう題名ですか?」
ある日僕は、何の用事だか忘れたけれど、やはり今日のように地下鉄に乗って都内をどこかに向かっていた。確か何度か乗り替えて東西線の門前仲町に降りた時のことだ。後ろからそういって僕に話しかけてきたのが彼女だった。
「はあ?」
僕は立ち止まり、振り返った。彼女はにこにこしながら僕に尋ねた。
「今、地下鉄でずっと読んでいらっしゃった本、何ていう本かなって思って……」
確かに僕は家を出てから、東武東上線、有楽町線、東西線と乗り継ぐ間ずっと一冊の本を読んでいて、今それをバッグにしまったところであった。
「え、ええとG=ガルシア=マルケスの『百年の孤独』だけど…」
僕はバッグから本を取り出し「黒田書店」のカバーを外して表紙を彼女に見せた。
「ふ〜ん。ちょっとまってね。メモっておくから」
彼女はバッグの中から小さなノートを取り出した。
「ず〜っとね、あなたの隣で盗み読みしてたんだけど……G=ガルシア=マルケスの……百年の……孤独……と……素敵なタイトルね……うん、あなたここで本をしまってしまうみたいだから、どうしても続きが読みたくって……」
彼女はあっけにとられている僕のまえでその小さなノートを閉じると、深々と頭を下げてお礼を言った。
「どうも有難うございました。これで心おきなく家に帰れます。それじゃ……」
おりから入ってきた反対方向の地下鉄の轟音が彼女の声をかき消した。ドアが開いて彼女はそれにヒラリと飛び乗った。その時、彼女の左の手首にまきついていた金属製のブレスレットが「チャリン」と音をたてた。彼女は僕に手を振りながら言った。
「ふふ、これから東武練馬まで帰らなくっちゃならないのよ…」
突然僕は思い出した。確か僕が東武東上線に乗り込んで座席に座った時、僕の右側に座っていた女の子が身体をずらそうとしてそのブレスレットの音と同じ音をさせたことを。どうやら彼女は最初から僕の隣に座っていたらしい。……やれやれ。ちなみにもし彼女が僕の乗った駅から直接家に帰ったとしたら、それは各駅停車で十四駅ぶんで乗り替えなしであるが、ここ門前仲町経由では四十九駅ぶんで乗り替え五回にもなる……・・。御苦労なことだ。
「気をつけて」
僕は心を込めて言った。帰る途中でまた面白い本を読んでいる人と隣合わせになったら大変である。下手をすると、プルーストの『失われた時を求めて』を読みながら仙台に単身赴任しようとしている某商社課長(三十八才)と隣合わせになってしまうかもしれないのだ。
「ありがとう。気をつけて帰るわ」
どういう意味にとったのかはわからないが、彼女は素直にそう答えた。そしてドアは閉まり、手を振り続ける彼女を乗せたまま地下鉄は走り去った。

 まあ、最初は当然初対面であるのだから、話しかけてきたのが突然なのであるのは、ある意味ではしかたないことであろう。それではその後彼女と再会した時のこれはどうであろうか……?
「つまりは脳幹死を脳死と認めるかどうかが問題になるわけよね」
「そういうことさ、厚生省の報告書では……」
数週間後、僕は池袋の芳林堂書店で立ち読みをしていてそんな具合に彼女に「突然」話しかけられた。僕は振り向きざまそう答えかけて、思わず彼女の顔を見つめた。いいかい、僕がその時手にしていた本は立花隆の『脳死』ではなくって、一色まことの『出直しといで!』だったのだぜ。確かに僕はちょうどその時その漫画を眺めながら実は数日前に読んでいた『脳死』について考えていたのだけど僕が立ち読みしていたのは繰り返して言うが『出直しといで!』だったのだ。僕が絶句したまま彼女をみつめていると、彼女は不思議そうに言った。
「どうしたの? 私のこと覚えていないの? ねえ、お茶でも飲みましょうよ。この間のお礼するわ……」
「う、うん……」
僕は答えた。
(あまり逆らわないようにしよう……)
そして僕達は喫茶店に入り、彼女はミルクティーを、僕はアメリカンコーヒーを飲みながら、アウレリャーノ=ブエンディーア大佐の運命と脳死の判定基準について語りあった。

 それ以来彼女は僕に会うたびにいつも突然に話を始めた。
 1−「やっぱり、ビデオじゃなくて透過光で見ないとだめね……」
 2−「そうよ、その右方向への転換がきっと命取りになるのよ……」
 3−「そうね、やっぱりナンバー8にブラインド・サイドをつかせたのが敗因ね……」
  ・
  ・
ただしまるで僕の心の中を読んだかのように話しかけてきた「芳林堂」の時とは違って、1の場合、僕はクロスワード・パズルに向かいながら、ボリス=ベッカーの荒々しい無邪気といってもいいような強引な攻撃性を思い、ジミー=コナーズの一点通過主義ともいえる綱渡り的なプレイを懐かしんでいたところだったし(彼女はどうやら映画『みつばちのささやき』の映像について言いたかったらしい。ちなみに僕はその映画を見たことはない)、2の場合、僕は自転車のパンクを修理しながら、中島みゆきの新譜を嘆いていたし(彼女はどうやら社会党の新宣言について言いたかったらしい)、3の場合僕はウーロン茶をいれながら、ウーロン茶のいれかたについて考えていたし(彼女はどうやら前日のラグビー同志社−早大戦のことを言いたかったらしい。ちなみに僕はラグビーのルールなんて何も知らない)、つまりは全く見当違いだったわけで(下図参照)、僕はそのたびに彼女の中の話を時間軸に沿って逆行させるという作業をしなければならなかった。

僕の外面
僕の内面
彼女の「突然」
結 果
「出直しといで!」を手にしている 「脳死」について考えている 「脳死」について話しかけてきた
当たり
クロスワードパズルを解いている ジミー=コナーズとボリス=ベッカーについて考えている 「みつばちのささやきという映画について話しかけてきた
はずれ
自転車のパンク修理をしている 中島みゆきの新譜について考えている 社会党の新宣言について話しかけてきた
はずれ
ウーロン茶をいれている ウーロン茶のいれ方について考えている ラグビーの同志社−早大戦について話しかけてきた
はずれ


そこである時彼女にこう聞いたのだ。
「君はどうしていつも突然に話を始めるのですか?」
別に解答があると期待して聞いたわけではなかったけれど、意外にも彼女は立派な答を僕にくれた。
「トレーニングなのよ」
「何の?」
「テレパシー」
「?」
「こうやって他人の思考の中に自然に入り込んでいこうと努力することによって、いつかは言葉無しでわかりあえるようになるかもしれないわ」
それは確かに素敵な考えに思えたが、しかし彼女のトレーニングが実を結んで僕と彼女が言葉無しでわかりあえるようになったその日のことを思い浮かべると、それはもしかしたらあまり面白くないんじゃないかとも思えた。
「……」
「…」
「………………?」
「………」
「……………………………………!」
「 」
「…………」
それでも今のところ彼女のトレーニングはなかなか実を結びそうになく、まあ一九九一年六月における長嶋一茂の打率と似たような数字をいったりきたりしていたので「その日」の心配はしばらく必要なさそうであった。

 

「ドッジ・ボールみたいね」
「うん、そうだね。ほんと」
そして今日は九日ぶりの「当りぃ」であった(ちなみにその九日前の会話の始まりは「いい天気ね」だった。僕はその時やはり「いい天気だなあ」と思っていた)。僕は前の男が抱いている赤ん坊のおしりを見ていた。紙おむつをしているのであろうそのおしりは見事なほどまんまるで、タオル地のパンツをはいたそのR=九センチメートルの球を、男のてのひらがやはりR=九センチメートルの曲面を作って大事そうに抱えていた。
「あんなに小ちゃくても同じ形をしているんだね」と彼女。
「うん、そうだね。ほんと」と僕。
これはそのまんまるなおしりの下にちょこんと見えている素足のことである。子供の頃、風呂場のすりガラスに握りこぶしの横の部分を押しあてて作った「小人の足跡」とちょうど同じ位の大きさである。親指も人指し指も中指も薬指も小指もある。ただし、土ふまずはまだ無い。
「あんなに小ちゃくてもちゃんと動くんだね」と彼女。
「うん、そうだね。ほんと」と僕。
こんどは男の「ポロシャツ」の胸にしがみついている手のことである。掌がミニシュークリームみたいで、それに朝鮮人参のような小さな親指と人指し指と中指と薬指と小指がついている。なんと、爪だってちゃんとついている。ちなみに足の方の親指と人指し指と中指と薬指と小指にもちゃんと爪はついていた。彼女の「テレパシー」は今日は異常に冴えているようである。
「あれって、買わなくても手にはいるんだね」と彼女。
「うん、そ……」
こんどは何のことかわからなかった。
「何のこと?」
「だから、あの赤ちゃん、あの二人がどこかで買ったからああやって持っていられるわけじゃないでしょ」
「そりゃ、そうだ」
「うん、だから、そうゆうのって何かすごく珍らしいんじゃないかなって、ふと思ったのよ」
「そうかな」
「うん。例えば今持っているもので『買ったもの』じゃないものってある?」
「あるよ。このバッグとジーンズは貰い物だし、ソックスはコインランドリーで拾ったものだし、Tシャツは……」
「待って。言い直すわ。例えば今持っているもので『買ったものまたはかつて誰かが買ったもの』じゃないものってある?」
「う〜ん……ちょっと待って」
僕は考えた。
買ったもの……パンツ、髪をくくっているゴム、少年サンデー、覚え書きのノート。
かつて誰かが買ったもの……バッグ、ジーンズ、ソックス、Tシャツ、スニーカー、販促用ティッシュ、ぴあ、レンズの入っていないめがね。
買ったものまたはかつて誰かが買ったものじゃないもの……えぇ〜っと…
「無い。今は」
「今は?」
「うん、部屋に帰ればもしかしたら」
「ほんとに?」
僕は考えた。
買ったもの……たくさん
かつて誰かが買ったもの……もっとたくさん
買ったものまたはかつて誰かが買ったものじゃないもの……えぇ〜っと
「わからないけど、捜してみるよ」
「うん。あなたが持っているもので『買ったものまたはかつて誰かが買ったもの』じゃないものよ」
「OK」

 気がつくと前に座っていた二人と「a 赤ん坊」はいなくなっていて、僕達も乗り替えるために地下鉄を降りた。
「でもよくよく考えると、あの赤ん坊だって『買ったものまたはかつて誰かが買ったもの』っていうものかもしれないよ」
「そうね」
そうである。あの女は『買ったものまたはかつて誰かが買ったもの』を食べ、『買ったものまたはかつて誰かが買ったもの』である病院できっと赤ん坊を生み、『買ったものまたはかつて誰かが買ったもの』である森永ミルクを赤ん坊に飲ませているのだ。
「第一、僕自身だって『買ったものまたはかつて誰かが買ったもの』のおかげで今ここに存在しているのだろうから、『僕の持っているもの』で『買ったものまたはかつて誰かが買ったもの』じゃないものっていったって、それはあるはずないよ」
「そうね」.
というわけで彼女は条件をつけた。

 一つ。「僕自身」はまあよいとする
 一つ。何かしらの価値が認められるもの

「要するに……」
彼女は言った。
「納得できるかどうかね。学校の規則じゃないんだから」
僕はふと彼女が以前「私、『トーコーキョヒジドウ』だったのよ。ふふ」と言っていたのを聞いて、何か羨ましく思ったことを思い出した。
それでは、頑張って捜してみよう。あ、その前に……
「ねえ、赤ん坊はどうやって数える?」
「ひとり、ふたりでしょ」
そうかぁ。やっぱりそうなのかなぁ。
それでは、頑張って捜してみよう。

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