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 その朝見ていた夢は、何やら随分長い夢だった。そして……。

    1日目の1

 目が覚めたら昨日に戻っていた……というお話である。

 「目が覚めたら昨日に戻っていた」といっても、もちろん目が覚めたその瞬間にすぐそうとわかったわけではない。ぬくぬくと温かい布団の中で先刻の夢の尻尾のようなものを感じる。その尻尾をつかまえようと思った時、自分がすでに夢の外側にいることに気が付く。その直前までその夢の内側にいたはずなのだけど、何時その境界を通り抜けたのかはわからない、もどかしい気持ち……。そんないつもと変わらない目覚めの時を僕はその朝に迎えたのだ。
(あ〜あ、会社、行きたくないなあ……)
そしてこれまたいつもの週初めと同じユウウツ。ずり落ちるようにのろのろとベッドから降り、いの一番にテレビのスイッチを入れる。そう、ここまでは全くいつも通りの当たり前の時間が流れていた。再びベッドに戻り、温かい布団にもぐり直してぼんやりと先刻の夢の尻尾を再び追おうとした僕の耳に届いたニュースのナレーション。
「……昨夜午後九時頃、練馬区豊玉上の路上で主婦が通りすがりの男にいきなり包丁で刺されるという事件が……」
(……あれ?)
そのニュースの記憶が僕の中にあった。というより、そのニュースを耳にし「あれ、豊玉上っていったらこの間山岸の芝居を見に行ったとこじゃないか。へええ……」と思った、その記憶に覚えがあったのだ。山岸の奴、最後のクライマックスの場面で台詞を忘れやがって、10秒間ほど絶句しちゃって、観ていたこっちが冷や汗かいちゃったよ……などと考えていたところに、次のニュースがまた耳を引く内容で……。
「……午後五時頃群馬県吾妻川沿いの道路から観光バスが転落……」
そうそう、吾妻川といえば高校1年の時に山岸と一緒にキャンプに行って、調子にのってビールを飲んだらゲロ吐いちゃってさ、翌日は人生最初の二日酔い……。
(!?)
 僕は、にょっと亀のように布団から頭を出した。どうして昨日と同じニュースをまたやっているのだろう? 見るとテレビの画面はバスの転落事故のニュースの続きを現場からの空撮を交えて続けている。その画面に確かに見覚えがあった。昨日の朝観たニュースと同じような気がする。それだけではない、現場からのナレーションが昨日と同じ箇所で間違えたのだ。
「事故の起きたここ『あずまがわ』は渓谷美として有名な……」
何、プロが間違えてるんだよ「あずま」じゃなくて「あ・が・つ・ま」だろうが、もう……と、確かに昨日ツッコミを入れた記憶がある。ニュースキャスターが続ける。
「……事故の原因は……」
確か、ダンプを避けられなかった、だ。
「……対向して来た大型ダンプとすれ違う際に左に寄り過ぎて路肩を踏み外し、堤防から転落した模様です」
そして、ダンプは逃げた、と。
「……ダンプカーはそのまま走り去りました」
 僕は起き上がって頭を振った。僕はこのニュースを昨日観ている。確かに観ている。ベッドから下りてビデオデッキを確かめてみたが、もちろん録画されたものが再生されているわけではない。土曜日の朝なら、一週間のニュースをまとめてダイジェストで紹介するコーナーがあったりするが、今日は月曜日、そんなコーナーはないはずだ。
 何かがおかしい、何がおかしいかわからないけれど……と、僕は割り切れない不審の念を抱きつつも、いつも通りアパートの玄関扉を開け、朝刊を新聞受けから抜き取った。今日は月曜日、月9のドラマはいよいよ主人公浩平が夏実と運命の再会を果たすんだよね……などと、テレビ欄を開いた僕の目にいの一番に飛び込んで来た文字は『NHK杯将棋トーナメント』。え? え? え?……と、動揺にさまよう僕の視線が捉えたその他の文字は『NHKのど自慢』であり『サザエさん』であり『ちびまる子ちゃん』であり『日曜美術館』であり『サンデースポーツ』であった。ということは、これは……日曜日の番組表ではないか。慌てて紙面上部の日付を見ると『6月12日 日曜日』とある。やはり日曜日の新聞なのだ。ひっくり返して第一面をあらためて見てみると、記事は代議士の汚職事件とアメリカとの経済摩擦に関するものだったが、その見出しも写真も本文も昨日見た記憶があった。まあ、あまり興味が無かったので、読みもせず本当にただ「見た」だけだったのだが。
 それでも僕は、まだその時点では、新聞屋さんが「間違えて」昨日の新聞を配達したのかな……などと、無理矢理自分を納得させていた。だってそれ以外にどんな合理的な解釈が出来るだろうか。
 とりあえず洗面所でばしゃばしゃと顔を洗い、目ヤニをほじって、少し頭をシャキッとさせようとパンパンと頬を叩く。顔を上げて鏡に映る自分自身の顔を見れば、それはいつも通りの当り前の自分だ。何も異常は無し。僕は電気シェーバーを取り上げ、髭を剃り始めた。習慣的な動きと聞き慣れた音、変わらぬ手応えと感触が僕の気持ちを静めていく。フンフンと鼻歌がこぼれ、鏡の中のぼさぼさの寝癖頭が揺れる。ひどい頭だ。もう床屋に行かなくっちゃ……。
(……!!)
手が止まる。僕は……昨日散髪したはずじゃないか。確かに床屋へ行って散髪した。そう、昨日の午前中に駅前のヘアーサロン「ダンディ」へ行ったのだ。しかし鏡の中の僕の頭はぼうぼうと伸びた髪がだらしなく乱れている。昨日の朝と同じように……。
 茫然と僕を見つめながら再び髭を剃り始める鏡の中の僕を、僕は見知らぬ他人を見るようにただただ見つめた。

    1日目の2

 「こういう時はとりあえずお茶を飲め」
 それが田舎のばあちゃんの教えであった。僕はガスコンロでお湯を沸かし、濃い玄米茶をいれてそれを飲みながら、改めてこの事態を考えてみることにした。まずは新聞のテレビ番組欄を見ながら、テレビの全チャンネルを回してプログラムが合っているかどうか確かめてみる。間違いはない。テレビは新聞の番組欄通りに日曜日の番組を放映していた。こうなると、もはや自分の認識がどうであろうと、今日と言う日は月曜日ではなく日曜日なのであることはもう認めざるを得なかった。
 となると、おかしいのは、自分の「記憶」ということになる。自分の頭の中には、確かに昨日過ごした日曜日の記憶が確固として存在しているのだから。
 その昨日の記憶を振り返ってみれば……。
(ええと昨日は、この後床屋……駅前のヘアーサロン「ダンディ」に行って散髪してもらい……、昼飯は、コンビニエンスストアで弁当を買ってきて……和風幕の内弁当とウーロン茶だったっけ……、午後二時に山崎涼子と池袋駅で待ち合わせていたから、部屋を出たのが一時……)
僕は電話機を引き寄せて山崎涼子の電話番号を押した。
「……は、い……」
受話機の向こうから山崎涼子の眠そうな声が聞こえて来た。僕はおそるおそる話しかけた。
「あ、僕だけど。あのさ、き、今日、約束してたよね」
「……う、ん、二、時、に、い、け、ぶ、く、ろ、ね……」
山崎涼子は半分眠っているようだった。
「あ、ごめんね、寝てたんだ」
「……う、ん、け、さ、四、じ、ま、で、げ、ん、こ、う、……」
「あ、じゃ、もうちょっと寝てて、うん、まだ時間あるし」
「……か、い、て、い、た、の……」
「うん、じ、じゃ、二時ね、うん、また、その時に」
僕は慌てて受話機を置いた。昨日山崎涼子と駅で会ったときに彼女はすごく眠そうな顔をしていた。僕が「どうしたの」と聞いたら「うん、朝まで原稿書いててね」と答えたのだった。

 この期に及んでようやく僕も自分の置かれた状況というものを把握出来た。つまり、僕はまるまる一日時間を遡り、過去に戻ったということなのだ。もちろんどうしてそんなことになってしまったのかはさっぱり分からないけれど……。そう、こういう時は……と僕は「ずずず」と玄米茶をすする。
 しかしながら、どうも「時間を遡り」というのは、ちょっと大げさ過ぎる気もする。そういう言い方をすると何だか特殊相対性理論がなんだとかブラックホールの影響がどうしたとか四次元軸がこうだとか、そういう大仰なSFティックな方向に話が行ってしまうではないか。そんな大それた話にするのは、何か、何か……、そう何か、嫌だ。「嫌だ」というのは、自分で理解できないから「嫌だ」というわけなのだけど……と再び「ずずず」と玄米茶をすすると、一つひらめいた。
 そうか、今の自分の状況は、どういう理由だかわからないけれど、要は、今日「6月12日・日曜日」という一日の記憶を既に持っているということなのだ。「時間を遡った」などという大げさなことなのではない。一日分の記憶がぽっと僕の中に現れたということ。そう、それだったら「もしかしたらそういうことってあるかも」というレベルの話にしておける。うん、とりあえずそういうことにしておこうではないか。
 そして僕は「ずずず」と最後の玄米茶を飲み干した。
 
 ……それにしても、それはあまりにリアルな「記憶」であったけれども。

    1日目の3

「……で、どんな感じにしましょうか?」
僕の身体に白布を掛けながら、ヘアーサロン「ダンディ」のマスターは(僕の記憶通りに)そう僕に尋ねた。
「そ、そうですね、ばっさりと、思い切って短くしちゃって下さい……」
大鏡の中のその記憶通りの光景に幾分戸惑いを感じながら、僕は(確か僕の記憶通りに)そう答えた。
 僕は結局昨日と同じく、9時半に部屋を出てここヘアーサロン「ダンディ」に来てしまった。僕が今日一日の行動の記憶を持っているのは確かだったが、さて……それでは一体僕はどうすればよいのだろうか? 僕以外のすべての世界はどうやら僕の記憶の通りに進行しているらしい。山崎涼子は朝まで原稿を書いていたと言うし、テレビは僕が昨日見た通りの番組をその後も続けた。8時を回った頃に隣の部屋で目覚まし時計が鳴り始めるのが聞こえ、それが一分ばかり鳴り続けた後に止まったかと思うと続いて大音量で『時の流れに身を任せ』が流れ始めたというのも昨日と同じだった(まあこれは基本的に毎日同じなのであるけれども)。しかし既に僕自身はその記憶とは違う一日を過ごし始めているのだ。例えば昨日は僕は山崎涼子に電話をしなかったし、第一、昨日はこんな「一日の記憶」なんて持っていない普通の自分だったのだ。
  もちろんそんな記憶なんて関係なく勝手に行動すればいいのだろうけど……何か恐かったのだ。
「こんな感じで?」
目を開けると、大鏡の中で理髪店のマスターが手鏡を持って僕の頭の後ろを映している。僕の生白い耳の裏が手鏡の中に揺れていた。
「あ、はい。そう……ですね。いいです……」
僕はそれを禄に見もせずに答えた。本当は襟足の部分をもっと短くして欲しいような気もしたのだが……と昨日も思ったのだったが昨日もそうしたように僕は注文をつけずに目を閉じた。
 そう、「恐い」のだ。自分の中に存在する「記憶」が僕の行動を監視しているようで、僕は腕の上げ下ろしから果てにはまばたきのタイミングにまで意識を囚われてしまう。そしてそれは恐いと同時に疲れる。本当に疲れる。実のことを言えばダンディに着いて椅子に腰を下ろした時に、思わず大きな吐息をついてしまって、マスターに「お疲れですね」などと言われてしまったのだった。でも、まあとにかく「一日の辛抱」だ。
「そうですよね、人間辛抱ですよ、まったく」
いきなり理髪店のマスターの言葉が割り込んでくる。おっといけない、口に出してしまったらしい。でも大丈夫。
「そうですよね、その点旭富士はちょっと物足りなかったですよね」
僕は目を閉じたまま答えた。何も聞いてはいなかったのだが、理髪店のマスターが、大相撲の話題を僕に話しかけていたということは「知っていた」のだ。
「そうそう、その点若貴は偉いですよねえ」
よろしい、矛盾無く話はつながってくれた。
 襟足にひんやりと泡が塗りたくられ「さりさり」と剃刀の刃がそれを削り落としていく。ところで僕は理髪店ではずっと目を閉じていることにしている。それは、一つには散髪している人と鏡の中で目が合ったりすると気まずいという理由があるのだが、何よりもその、自分の頭の回りを動き回る音達が好きで、それを楽しむのには目を閉じているのが一番だからであった。
「さりさり」
「チャッ、チャッ」
「……ふぁさ」
「チャチチャチチャチチャチ」
「ぶぅおぉぉおおおぉぉおおぉぉ……」
とりあえずこうして理髪店を楽しんでいる間は「恐さ」も何も忘れることが出来る。そして、目を閉じてじっとしている限りは、世界は記憶通りに進んで行ってくれるのだ。
 
 「はいお疲れ様です」
理髪店のマスターが「ぶぁさ」と白布を取りながら言った。僕は目を開けた。
「いかがでしょうか?」
「はは……。ええ、いいんじゃないすか」
かっちりと七・三に分けられた髪を乗せた僕が鏡の中で作り笑いをしている。
(早く帰って昨日のように洗髪しなくちゃ)
理髪店の「音」は好きなのであるが、そのいかにも作為的な仕上がりというのは、やっぱりどうも馴染めない。まあこのままにしておいたら山崎涼子には受けるだろうけど……。
 理髪店を出た僕は、再び「記憶」の監視の元、慎重な足取りでコンビニエンスストアに向かった。
 
 コンビニエンスストアに入った僕は昨日と同様にまず雑誌のコーナーに行って漫画の立ち読みをした。もちろん昨日と同じものを選び、あたかも初めて読むかのように丁寧にページをめくった。一ケ所笑うのを忘れてしまったが、とりあえず次のページで笑っておく。漫画週刊誌を三冊読んで雑誌コーナーを離れようとした時に、昨日気付かなかった『ぼのぼの第八巻』が目に入ったが、我慢して弁当コーナーに向かった。そう、そんなものは明日読めばいいのだ。今大事なことは、慎重に、細心の注意を払って、昨日と同じく行動することである。
  『ぼのぼの第八巻』に未練を残しつつ、弁当コーナーで「和風幕の内弁当」を取り上げようとした僕は、愕然として手を止めた。
(無い……!)
「和風幕の内弁当」が無いのだ。
(……そんな、馬鹿な)
僕は慌ててもう一度弁当コーナーを隅から隅まで捜した。やはり無い。その時レジの方から
「お弁当暖めますか?」
「はい、お願いします」
というやりとりが聞こえて来た。
(あ…)
僕は慌ててレジに駆けよった。
(やはり……)
「山下」という名札をつけたアルバイトらしい店員が、今まさに電子レンジの中に入れようとしていたのは、まさしく僕が捜していた「和風幕の内弁当」であった。どうやら僕は昨日より少し遅れてこのコンビニエンスストアに着いてしまったらしい。タッチの差でレジの前に立っているその男に「和風幕の内弁当」を奪われてしまったのだ。
「あ、あの、それ」
僕は思わず声を上げてしまった。
「はあ?」
店員と男は同時に振り返って僕を見た。
「そ、それ、僕のです」
  言ってしまって僕は「しまった」と思った。これじゃあまるでただの「変な奴」ではないか。店員と男は、やはりただの変な奴を見るような目で僕を見ながらもう一度同時に「はあ?」と言った。
「い、いや、その、僕のっていうんじゃなく、その、だから、僕は和風幕の内弁当を買わなくちゃいけないんです」
店員と男は同時に半歩身を引いた。僕は男に向かって半歩踏み出して言った。
「いや、あなたが和風幕の内弁当を食べたい、というのはわかります。これはおいしいですよ。確かに。しかし、たかが弁当じゃないですか、ねえ。人助けだと思って、譲ってください。お願いします。なんなら……」
僕は弁当コーナーに駆け戻り、一番値段の高い「極上牛タン弁当」をつかんだ。
「これ、僕が買ってさしあげます。ほら、620円、和風幕の内弁当より70円も高いやつで……」
と言いながらレジに戻ると、男はすでにいなくなっていた。山下君は「和風幕の内弁当」を手にしたまま困った顔をしている。僕は「極上牛タン弁当」を弁当コーナーに戻して来て言った。
「……ああ、それ、温めて下さいな。あ、それと温かいウーロン茶一つお願いします」
僕は僕の中の「記憶」を恨めしく思った。明日からこのコンビニエンスストアには来られなくなってしまったではないか。少なくとも山下君がレジに入っている時は……。

 コンビニエンスストアを出てアパートに向かいながら僕は「和風幕の内弁当」を僕に譲ってくれた男について考えていた。あの客は「昨日」は何の弁当を買ったのだろうか。僕のへまのおかげであの客は「今日」は弁当を買えなかったのだ。どこか別のコンビニエンスストアで別の弁当を買ったのだろうか。それとも蕎麦屋にでも入ってうどんか何かをすすっているのだろうか。いや、まさかとは思うが、弁当を買えなかったいらだちから、道端に停めてあった自転車を八つ当たりで蹴飛ばし、それを見ていた持ち主にボコボコに殴られていたりして……。
  いずれにしろ、結局僕はあの男の運命を変えてしまったということになるのだ。
(なんということだ…!)
あの客だけではない。山崎涼子だって僕の電話で睡眠不足になり、何らかの運命の変化を被ったかもしれないし、ダンディのマスターだって昨日と微妙に違う僕と接したことによってやはり運命の変化があったかもしれないのだ。
(なんということだ…!)
 ここに至り僕は自分に負わされた責任の重大さを改めて思い知ったのであった。
 
 部屋に帰った僕は、多大な犠牲を払って手に入れた「和風幕の内弁当」を平らげ、シャワーを浴びた。理髪店で付けられた整髪料は昨日と同じように三度洗いで落とし、改めてヘアークリームだけで髪を撫で付けた。
 今日は山崎涼子と池袋で待ち合わせて、その後どこかへ行こうという約束であった。その「どこか」は、彼女の提案で上野の美術館で開催されている浮世絵展ということになるのだけど、なんて言うか、こう、展開がわかってしまっている一日というのも、ときめかないものだ。実際「記憶」によれば、美術館では僕と山崎涼子とは全然会話がかみ合わず、これといって盛り上がりの無い午後になるはずだったし、それに加えて「記憶」という監視つきでびくびくしながら過ごさなければならないと思うと、ただ気が重いだけである。大体何の因果で僕がこんな災難に巻き込まれなくちゃならないのだ……?。ああ、だんだん腹が立って来た。どうせどんなに気をつけたって、さっきのコンビニエンスストアでの騒ぎのように、記憶と現実との些細なずれというのは避けられないものなのだ。
「無の境地だよな……」
僕の口からそんな言葉がこぼれ出た。そうである。もう「記憶」なんぞ気にすること無しに、自然な在るがままの自分で行動するのだ。実際昨日は自然な在るがままの自分で行動していたわけなのだから、今日だってそうすれば、結果として同じ自分になるはずではないか。
(こりゃ禅だね)
そう考えると、ただ行動するだけで禅の修行になるのだから、これは有意義なことである。もしかしたら、今日あと半日過ごす間に解脱なんかしてしまったりして、そんなことになったら、素晴らしいではないか。うん、だんだん気分良くなって来た。僕はコートをはおり、鏡に向かって「無の境地」の顔を作ってみた。よく分からないが、いい顔のような気がする。
(よし)
僕はガスの元栓を確かめ、部屋を出た。

 

   1日目の4
 
 山崎涼子は「記憶」とは違って、15分遅れで待ち合わせの場所にやって来た。確か昨日は5分遅れだったことを考えると、やはり僕が今朝かけた電話が何か影響を……おっといけない、無の境地だっけ。僕は頭の中でむくりと顔をもたげた「記憶」を追い払った。山崎涼子は人ごみの中を小走りで駆け寄って来て言った。
「……ごめん、ごめん。ちょっと寝坊しちゃって」
「いや、俺も今来たばかりだから。眠そうだね」
「うん、明け方まで原稿書いててね。……ああ、朝電話くれたよね。私、ちゃんと答えてたかな。よく覚えてないんだ」
「あ、うん、かなりぼけてたかな。でもなんか悪かったね」
「うん、別に……ふぁ、……ふふ、いいのよ」
「さて、じゃ、どうしようか」
「ああ、あのね、上野で今ね……」
来た来た来た。浮世絵展だよね……と、いけない、無の境地、無の境地。
「どうしたの?」
山崎涼子が不思議そうな顔で僕を見ている。
「い、いや、なんでもないよ。う、上野で、何?」
「うん、印象派美術展やってるのよ」
「ええ? いんしょうはあ?」
僕の大声に、僕を中心として半径およそ12m以内の人間の顔が全てこちらを向いて一瞬停止した。
「何よ、どうしたの?」
山崎涼子は顔を赤らめて小さな声で僕に聞いた。
「え、いや、その、う、浮世絵展は、その、どうしたの?」
「あら、どうして? そうなのよ、浮世絵展もやってるのよね。私もそっちにしようと思っていたんだけど、ここ来るときに電車のつり広告で印象派展のこと見てね」
「そうか……一本遅い電車だったな」
「え? 何?」
「いや、別に……」
「変なの……。うん、だから別に私はどっちでもいいのよ。やっぱり浮世絵展にする?」
「そ、そうだねえ、お、俺はあ、浮世絵展の方が……」
「うん、じゃ、そうしよう。決まりっ」
山崎涼子はそう言うと先に立ってさっさと歩き始めた。僕は心の中で
(無の境地、無の境地)
とつぶやきながら彼女の後に続いた。

 山手線に乗り込んで向かい合うと、山崎涼子は僕の顔を斜め下から見上げながら言った。
「髪、切ったのね」
彼女は僕より18cmばかり背が低い。
「あ、うん。今朝ね……」
「何か、変ね。顔の面積が広くなったみたい」
「はは……」
(この会話は昨日と同じだな……っと、無の境地、無の境地)
山崎涼子は横に回って言った。
「以外と絶壁よねえ」
「登ってみる? オーバーハングだけど」
「うーん、遭難しそうだから、やめとく」
(うーん、やはり無の境地となると、全く同じやりとりになるものだなあ……)
僕は妙に感心してしまった。いや、無の境地、無の境地。
 田端駅が近づく頃、僕達の前の席に座っていたお婆さんが「よっこらしょ」と立ち上がった。
(あ……)
このお婆さんは網棚に手下げ袋を忘れていくのだ。視線をちょっと上げると確かにそこに一つ「松坂屋」の紙袋がある。僕の記憶によれば、上野駅でこの車両の乗客はほとんど降りてしまうのだが、その時ぽつりと網棚の上にこの紙袋が残されていて、山崎涼子が「あれ、さっきのお婆さんのじゃない?」と僕に言ったのだった。
「あの……」
僕は思わずお婆さんに声をかけそうになった。しかし……、無の境地だ…あ、そうか、声をかけるのが無の境地の結果なんだからいいのか……、しまった、すでに無の境地じゃないじゃないか……ということで、扉は閉まり電車は動き出してしまった。
「どうしたの?」
山崎涼子が僕の顔を見上げて尋ねた。僕は内面の動揺が面に現れやすい奴なのだ。
「……いや、無の境地って、難しいものだなって思って」
「そりゃそうよ」
「おや、ずいぶん簡単に言ってくれるねえ」
「無の境地はね、無理やり自分をそこに追い込もうとしてもだめなのよ」
「ほう」
「そこで楽しんでしまうくらいの心のゆとりが無いと無理ね」
「楽しむ、ねえ……」
それはちょっと無理のような気がする。こんな状況を楽しめるような自分であったら僕の人生は全く違ったものになっていたであろう。
「でも、やけに無の境地に詳しいね」
「あら、言ってなかったっけ。私、禅寺の娘なの」
聞いてなかった。しかしそうとなれば、特に今日の僕にとっては何かと頼りになってくれそうな気がして、僕はちょっと心の負担が軽くなったような気がした。
 上野で電車を降りる時、山崎涼子は記憶の通り網棚の紙袋に気付いて「あれ、さっきのお婆さんのじゃない?」と言った。僕は一瞬心臓をきゅっと掴まれたような……あれ? ときめき……を感じた。……なんだ? 昨日はこんな風にときめきを感じたのだったっけ? ……そんな記憶は無かった。僕は僕の隣(というより斜め下)を楽しそうに歩いている山崎涼子をちらりと見た。
(……あ)
どきどきした。
(僕は山崎涼子が好きなのだ)
この忙しいというか立て込んだというかそんな余裕も何も無い時にそんな事に気が付くなんて……。
 僕は心の中で、散髪したての頭を掻きむしった。

 

  1日目の5

 「わあ……」
美術館に入り最初の展示フロアに足を踏み入れると、山崎涼子は歓声とも溜め息ともつかない声を上げ、小走りに最初の浮世絵の前に走り寄った。僕は相変わらずどきどきとその後ろ姿に見とれながら後に続いた。胃袋のあたりが切ない。
「写楽よ、写楽」
「うん、『二代目坂藤三津五郎の石井源蔵』だろ」

二代目坂藤三津五郎の
石井源蔵
三代目坂田半五郎の
藤川水右衛門

僕は思わずそう言ってしまった。
「あら、良く知ってるわね」
「まあね……」
そう、昨日山崎涼子に説明されたのだ。
「その隣にある奴、『三代目坂田半五郎の藤川水右衛門』が親の仇で、その仇に向かって今まさに刀を抜かんとしているところなんだろ」
「そうよ」
「で、ざんねんながら返り討ちにあってしまう」
「そうそう。へえ、すごいすごい」
山崎涼子が喜ぶものだから僕も調子に乗ってしまう。
「写楽は活動期間が半年余りしか無くって、その生涯も謎に包まれているんだよね」
「そうそう」
「写楽は誰か? という謎を解こうとした本…いわゆる写楽本も沢山出ていて、その中で写楽候補として挙げられている者は20人以上はいるんじゃないかな」
「うんうん」
「僕はあんまり詳しくないんだけど、やっぱり最近再び見直されつつある説……阿波侯の能役者斎藤十郎兵衛説に分が有るような気がするな」
「いやはや」

三代目市川八百蔵の
曽我の十郎祐成

「この大首絵は写楽の短い活動期間の中の最初期の作品で、評価も非常に高いんだけど、不思議なことに後になればなるほど作品に冴えが無くなっていく…、そうそう、この一人細版全身図なんかそうだけどね、こっちの大首絵に比べて何か魅力が感じられないよね」
「ふふ……、すごいすごい」
山崎涼子は大喜びである。したがって僕も大喜びである。それにしてもこんなによく僕が覚えているということは、つまり昨日の山崎涼子の説明がそれだけ分かり易かったということだろう。正直言って僕はさほど一生懸命に聞いていたわけじゃないのだ。
「Iさんがそんなに浮世絵に詳しいって知らなかったわ。ふ〜ん。じゃあ、今日はIさんに解説してもらおうかしら」
「そ、そりゃあ、無理だよ。そんなに詳しくないんだから…」
「いいのよ。……はい、これは?」
山崎涼子は僕の手を掴んで次の浮世絵の前に僕を引っ張っていき、僕を見上げた。僕はその意外な展開に「て、て、て、手だ手だ手だ手を握られている」と脈拍をスキップさせながらも、満更ではない気持ちで、もうその気になってしまっている。

庄 野

「そ、そうだねえ…、これは歌川広重の東海道五十三次の中の佳品『庄野』で、降り出した雨に慌てて走る旅人が生き生きと描かれているよね」
「うんうん」
うなずきながら山崎涼子は握っていた手を離してしまった。僕は何か身体の一部がもぎとられてひゅーひゅー風に吹かれているような寂しさを感じた。ほんの数秒手を握っていただけなのに、ずっと前から握り続けていたような安らぎを感じたよなあ……そういえばこの前に誰かと手をつないだっていうのはいつのことだったろう? ああ、高校の頃女子校の学園祭に行ってフォークダンスをやった時以来かなあ……大学時代は不毛の青春だったからなあ……それでその前って言ったら……うん、母親に連れられて出かけるときはいつもしっかりと手を握っていたよなあ……あれって安心するんだよなあ……でも今の感じはそれとは違ったよなあ……何なんだろう、もっと以前の記憶……あ、これはもしかして僕が生まれる前の記憶なんじゃないか? いわゆる前世に僕と山崎涼子は手をつないだことがあるんだ……なんてね、へへへ……などと思っているのは僕の方だけなのだろうか、と山崎涼子を見ると彼女は僕を見上げて「それで?」と後を促す。あまりというよりほとんど、いやもしかしたら全然意識してなかったようだ。
「う、うん。よく安藤広重っていうけど安藤は本名で画号は歌川なんだな。例えて言えば明石家さんまのことを杉本さんまと呼ぶようなもので、おかしいことなんだよね」
「ふんふん」
ちなみに杉本さんまの例えは僕のオリジナルである。昨日山崎涼子は江戸川乱歩と平井乱歩という喩えで僕に説明してくれたのだ。まあ少しは自分というものを入れておかないとね……。ところで僕は僕の左手をさりげなく山崎涼子の右手の前方4cmあたりに位置させた。とりあえずベストポジションを取っておくというわけだ。
「これは? 二代目広重ってあるけど…」
山崎涼子はそんなベストポジションなどには気が付くこともなく、でも楽しそうに僕に尋ねた。
「うん、二代目広重は茶箱広重って呼ばれててね、何故かっていうと……」
ま、いいか。好きなひとが隣に、しかもすごく楽しそうな様子でいるのだ。何の不満がありましょうか……。
 
 「……まあ、北斎は肉筆が素晴らしくてね。版画ももちろん素晴らしいけど、僕は晩年の肉筆画に一番の魅力を感じるんだ……げほ」
最後の展示を見終わった時には、喋り続けで僕の喉はからからになってしまっていた。左腕も何だか意識し過ぎて硬直してしまったようだが、甲斐あって6回の接触に遭遇することが出来たから文句は無い。
「疲れたね」
「うん、ちょっとね」
それはかなりの強がりであると自分でも思う。
「でも、楽しかったわ」
「そうだね」
ほんとにそうであった。
 美術館から外に出るともう陽は落ちてすっかり暗くなっている。
「さて、どこ行こうか?」
山崎涼子の言葉に僕は考え込んだ。
「うん、そうだね……」
(ええと、昨日はどうしたのだったっけ……)

「どうしたの」
「い、いや、その……」
僕は今の今まで「記憶」のことを忘れていたのだ。もちろん「記憶」を利用して山崎涼子に浮世絵の解説をしていたのだが、「記憶」に意識を囚われて不自由な思いをするということは無く時間を過ごすことが出来たのだ。しかも楽しみながら……。これを無の境地と言わないで何と言おう。
「あ、ありがとう」
僕は思わず山崎涼子の手を取り、強く握り締めた。
「う、うん」
山崎涼子は(当り前のことであるが)何が何やら訳がわからない様子である。
「無の境地だよ、無の境地」
「はあ……?」
「いやあ、あんなに苦労していたのに、こんなに簡単に到達出来るなんて」
「はあ……」
「確かに君の言う通り、無理やり自分をそこに追い込もうとしてもだめなんだよ。楽しむことが肝心なんだ」
「はあ……」
「いやあ、恋の力っていうのは、偉大だなあ……」
言ってしまって、僕は自分の手が山崎涼子の手をしっかりと握り締めたままなのに気が付き、次いで吾に返った。
「ご、御免なさい……」
僕は慌てて手を放して小さな声でそう言った。
「いえ、どういたしまして」
山崎涼子はそう言いながらもさすがに少し赤くなっている。
「と、とにかく、お茶でも飲もうか」
僕はその気まずさを紛らすためにそう言ってさっさと歩き出した。
「うん」
山崎涼子は小さな声で答えて僕の後に続いた。何だかいいなあ、こういうのって。さて、それじゃあどこか喫茶店にでも入って……と思った時、「記憶」が僕の頭の中に再び浮かび上がって来たのだ。
(喫茶店が無いんだ!!)
昨日僕たちはやはり同じように「とりあえずお茶でも飲もうか」ということで歩き出したのだけれど、これといった喫茶店が見つからず結局御徒町まで歩く羽目になり、疲れ果てて「もういいやどこでも」と入った喫茶店と言えば、安でのレザーもどきのビニールのソファーに煙草の焼け焦げの跡がついているような席で、テーブルの上には星占い機(一回50円)があって、壁には南米のポスターが「やに」で黄色くコーティングされて貼られており、その隣に「フラッペやっております」とマジックインキで書かれた紙がやはり「やに」で黄色くコーティングされて貼られており、出て来たコーヒーは不味くは無いんだけど、ん? 油が浮いてんじゃないのかな? ミルクはちょっと遠慮しておこう、おいスプーンちゃんと洗えよ……という喫茶店で、山崎涼子は溜め息をつきながら「ビールでも飲みにいけばよかったわね」と言ったのだった。それならば……。
「ああ、お茶より、ビールでも飲まない? もう随分暗くなっているし」
「そうね、ふふ、私もそっちの方がいいかなって思ってたのよ。すっごく喉渇いているし」
よしよし。運命などくそくらえだ。失敗がわかっているのに同じ轍を踏むなどということは人間として愚かなことである。より良い方向へ進もうとするのが種としての進化の道なのだ。僕は「無の境地」を体験してから自分自身が一回り大きくなったような気がして、心無しか自信に満ちた声になって言った。
「OK、じゃあ、ビールを飲みに行こうぜ」
気がつけば、語尾までが多少変わっている。 

 

  1日目の6

 「ねえ……、今日はちょっと変ね」
僕の大ジョッキ4杯目が4分の3位に、山崎涼子の大ジョッキ3杯目が3分の1位になった頃、彼女は幾分充血した目で僕を見つめながらそう言った。ビルの屋上のビアガーデンは、梅雨入り直前の一時、爽やかな夜風が頬を撫でてゆく気持ちのよい晩に、月を見ながらビールを飲もうという人々でかなりの盛況であった。僕達も「それでは乾杯」「んぐ、んぐ、んぐ」「ぷはー」「おいしー」と一連のセレモニーの後、今見て来た浮世絵展の話などで楽しく盛り上がったのだった。時折昨日と同じ話題になり、その度に無の境地から脱落してしまったが、まあここのところまでは無難に来ていたのだったが……。
「え、何が?」
僕は内心どきりとしながらも何気無いふりを装ってそう答えた。
「うん、何か、ほら、無の境地がどうしたとか…」
「ああ、あれね……」
やはりそう来たか。さてどうしようか。実を言うと今日の「ちょっと変」な僕については、さっきから何度か山崎涼子に話してしまおうと思いつつ今に至っていたのだ。一度など「実は今朝ね……」とまで口にしたのであるが、その瞬間山崎涼子が「でも、私達って以外と相性いいかもね」などと言ってしまったものだから「そ、そうかなあ、そうだね」と結局言えなくなってしまったのだった。何しろ昨日は例の喫茶店を出た後、これといった盛り上がりもなく、二人とも「今日はお疲れ」と言って次の約束もないまま駅で別れたのだ。第一、浮世絵展でも僕があんまり何も知らないものだから随分張り合いがなさそうにしていたというのが本当のところなのである。つまりは「私達って以外と相性悪いかも」しれなく、今日が楽しく過ごせたのも総て昨日があったおかげ……ということは、そのネタをバラすということはあまり賢明じゃないのでは……そんな計算が頭の中でさっきからなされていたのだ。うん、やはり本当のことは言わない方がよいだろう。
「ああ、最近内面世界というものに興味を持っていてね」
もうちょっとましないいわけは無いのだろうか。
「へえ、すごいのね」
「うん。人間、ただのんべんだらりと生きているだけでは、いけないんじゃないかななんて考えてしまう今日この頃でね」
心にも無いことを。
「よいねよいね。そこらへんのところ、もうちょっと聞かせて」
山崎涼子は首を右斜めに∠10°位傾け、僕の顔を覗き込むようにしながら、そう言った。僕はよい気分になって、ジョッキに残っていたビールを一気に飲み干し、「内面世界への興味」というテーマの口から出任せを続けたのだった。 

 

  1日目の7

 「じゃあね、また電話する」
西武線の改札の向こうで山崎涼子はそう言って小さく手を振った。僕も「おやすみ」と言って小さく手を振った。山崎涼子は、笑顔のままくるりと回れ右して軽やかな足取りで人の間に消えていった。僕は山崎涼子が見えなくなると、小さく振り続けていた手をぐっと握りしめた。うおおお、昨日は「じゃあ」だけだったのに今日は「ね」と「また電話する」がついているではないか!! 僕は躍り上がる思いでスキップしながら東武東上線の改札へと向かった。
 下り森林公園行きの最終電車は昨日と同じように(いや「ように」ではなく昨日と「同じく」か)意外と空いていて、僕はやはり昨日と同じく先頭車両の真ん中辺の開いていた席に「あらよっ」と腰を降ろした。見れば、正面で口を半ば開けて居眠りしている厚化粧のOLも、右隣でチューインガムのこびり付いた「日刊ゲンダイ」を読んでいるおじさんも、斜め前で耳に息を吹きかけたり髪を触ったり手をくすぐり合ったり腰に手を回したり唇に人差指をあてたり真剣に目と目を絡ませ合ったりしている若い男女も、みんな「記憶」の通りだ。その中で僕だけが昨日とちょっと違う自分でいる。昨日は山崎涼子と早い時間に別れた後、一人で居酒屋に入って文庫本を読みながらぼーっと酒を飲み、「ああ、俺って孤独だなあ」などとつぶやきながらとぼとぼとこの電車に乗り込んだのだったが、今日は違う。斜め前で耳に息を吹きかけたり髪を触ったり手をくすぐり合ったり腰に手を回したり唇に人差指をあてたり真剣に目と目を絡ませ合ったりしている若い男女に対しても、昨日は「てめえら、人前でいちゃついてんじゃねえよ。刺すぞ(陰の声)」だったのが、今日は「うんうん、幸せなんだよね。いいよ、もっとやりなさい、もっとね(陰の声)」と、寛容のまなざしを向けていたりするのだ。
(また電話するね……か)
 動き出した電車の揺れに身体を任せて僕は目を閉じた。軽い酔いが心地好く身体中を満たしている。このまま眠ってしまいそうだ。乗り過ごさないように気を付けなければ……。そういえば昨日はよく大丈夫だったな。駅からどうやって家にたどり着いたのか記憶が無いものな。そんなに酔っていた訳でもないのに。まあいいか。でも長い一日だったな。やっと終わる。疲れたな。楽しかった。変な一日。何だったのだろう。明日は明日だろうな。ふふ、まさかね。ああ。山崎涼子はいいな。また電話するね……か。乗り過ごさないように気を付け……。



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