北朝鮮の核開発・拡散に対する国際社会の対応

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    90年代の初頭、世界の耳目は、北朝鮮の核兵器開発疑惑に引きつけられ、新たに生じた半島の危機 に緊張した。それは、この北朝鮮の動きが、韓国や在韓米軍はじめ、日本を含むアジア近隣諸国に脅威 を 及ぼすばかりでなく、国際社会の安定と世界の秩序維持にも脅威を与える恐れがあったからである。 北朝鮮が核兵器を持てば、技術的にその能力を有する潜在的核保有国が、核兵器競争に参入するかも しれず、この国がその原料や部品を売却すれば、核兵器が中東諸国に拡散する恐れがあった。高まった 半島の危機は、国際社会の介入と、軍事解決も辞せずとの決意を見せる米国の対応により漸く転機を迎 え、北朝鮮の核問題は一転して米朝の直接交渉の場に移り、米朝間に交わされた「枠組み合意」(ジュ ネーブ合意)とそれによって設立された「朝鮮半島エネルギー開発機構(KEDO)」により解決に向 かうこととなった。 しかし、過去の疑惑が解明された訳ではなく、核のカードを手にした北朝鮮の脅迫的な駆け引きに「 枠組み合意」も揺らぐ中、新たに秘密核施設建設の疑惑が浮上するなど、北朝鮮の核開発・拡散の不安 は消えていない。 1・ 核問題のはじまり   北朝鮮の核問題は、1982年4月、米国の偵察衛星が、平壌北方100キロ、寧辺を流れる九龍江 の湾曲部に、建設中の原子炉らしきものを撮影した時に始まる。その後、84年3月及び6月撮影の写 真には、原子炉のほか、円筒形の核施設の煙突、冷却塔、送電線等が写っており、寧辺ではさらに建設 が進んでいることを示していた。ワシントンの情報専門家の分析では、その原子炉は、50年代に英仏 で核兵器製造に使われた原子炉と同じタイプの黒鉛減速炉で、燃料には北朝鮮に豊富に産出する天然ウ ランと黒鉛の二つの鉱物が利用されているものと考えられた。   ただ、それは疑わしいとはいえ、民需用の原子力発電所の初期段階とも考えられ、その時点で、北朝 鮮の核計画の決定的な証拠とはなり得なかったが、86年3月、同じように寧辺地区の衛星写真が、川 の堤防近くの砂地に幾つかの円筒状のクレーターを写し出すにいたり、これが、核爆弾を炸裂させる標 準的手法の一つである高性能爆発実験の痕跡と判明、核兵器計画への疑いが強まったのである。 北朝鮮が本気で核兵器計画を進めようとすれば、上記原子炉と爆発技術に加え、核兵器の原料である プルトニウムを使用済みウラン燃料の副産物から、複雑な化学処理により抽出する再処理施設がなけれ ばならない。86年3月以降、米国の偵察衛星は、長方形の巨大な建物を捉えるようになった。87年 2月、衛星写真は、屋根のない施設内部の形状を写し出しており、その建物が紛れもない再処理施設で あることを、プルトニウム抽出する際のその典型的な配置が示していた。 北朝鮮の最初の国産原子炉は、発電量5メガワットの控えめなものであったが、建設中の原子炉は、 遥かに大規模のもので、88年6月、北朝鮮は自らそれが50メガワットの原子炉であることを認める にいたっている。後になって分かることだが、寧辺の西北方25キロの泰川には、さらに大きな200 メガワットの原子炉が建設されていた。かくして、寧辺付近の慌ただしい建設の動きは、次第に国際問 題化して行くことになった。 2・核疑惑の背景   北朝鮮が本格的に核開発に取り組んだのは朝鮮戦争後のことである。北朝鮮は、1956年の3月と 9月、旧ソ連との間にそれぞれソ朝核連合協定、ソ朝原子力協定と二つの核研究協力に関する合意文書 に調印した。これにより北朝鮮は数人の科学者をモスクワ近郊のドゥブナ核研究所に送り込む一方、旧 ソ連から小規模の実験用原子炉の供与を受け、これを寧辺に設置した。旧ソ連は、核の研究協力は兵器 開発のためではなく平和利用に限定されるべきとの立場を維持したため国際原子力機関(IAEA)の 監視下に置かれたが、北朝鮮は軍事転用可能な独自の核を持つことに執着、64年、はじめて核爆発実 験に成功した中国に支援を要請して拒絶に遭うと、秘密裏に核開発計画に着手したと見られる。 旧ソ連・東独の関係者の証言及び82年米偵察衛星が撮影した写真の分析から、北朝鮮が独自の核の 開発に着手したのは、79年頃と推察されている。 金日成が指示したとされる最初の核開発計画は、南部朝鮮生まれで戦前日本の京都帝大の工学博士号 を持つ李升基(リスンギ)等日本や旧ソ連で教育を受けた5人の科学者が中心となった。李升基は戦後 ソウル大学工学部長を務め、朝鮮戦争中に、北に亡命、金日成の側近顧問となり、人造繊維ビナロン発 明で名を馳せている。他の四人中二人は同じく南部出身で戦前の日本で教育を受けていたが、もう二人 の科学者は北部出身でモスクワで核物理専攻の経歴を持っていた。この計画の存在と進捗状況は極秘に され旧ソ連、中国の要人といえども、寧辺の重要施設には近づけなかった。 北朝鮮は、この秘密計画に加え、増大する電力需要を賄うため、民需原発の導入を企図した。84年 5月、金日成とチェルネンコの間に、追加協議が行われ、85年12月、旧ソ連政府は、ウクライナの チェルイノブリにある同型の原子炉4基の供与承認したが、核の拡散を憂慮する米国に配慮し、核拡散 防止条約(NPT)への加盟を条件とした。このため北朝鮮は同年12月12日、NPTに加盟した。 北朝鮮はこの後、この条約の「検証のため、すべての核施設を国際査察受ける」という義務規定条項の ため、国際社会の介入を受けることになるが、数年を出でずして、北朝鮮が期待していた旧ソ連製原子 炉導入は、両国の関係悪化と旧ソ連経済の衰退により、ほぼ絶望視されるにいたった。  条約の規定により、北朝鮮はNPT加盟後18ヶ月以内にIAEAと査察を中心とした保障措置協定 を締結するように求められたが、これに応ぜず、期限は、87年半ば、さらに18ヶ月延長された。し かし88年12月11日、再び期限切れとなって世界の注目するところとなった。 北朝鮮にすれば、秘密で開発中の原子炉は外に知られるはずはなく、IAEAの要求する保障措置は、 その対象となる原子炉がない(旧ソ連供与の実験原子炉は75年に運転開始、77年から既にIAEA の監視下にあった)のだから不要と言うことであったと思われる。 3・米国の介入 これを憂慮した米国は、同年12月6日、米朝唯一の外交チャネルである北京参事官協議に臨んだが、 然るべき進展も見られなかった。米国はこれまで、北朝鮮のこうした動きを憂慮しつつも、問題を表沙 汰にしていなかった。米国が本格的に北朝鮮の核問題に介入するのは、1989年1月、米国ブッシュ 政権が発足してからである。北朝鮮の核兵器計画を阻止するため、北朝鮮に対する国際的な圧力を組織 して、核拡散防止条約(NPT)に従わせ、査察を認める保障措置協定に調印させるよう、同2月、こ れまで極く限られた情報専門家だけの知識に止まっていた北朝鮮の核兵器計画について、旧ソ連と中国 に説明するとともに、5月には5人の専門家を東京とソウルに派遣、両国政府にはじめてその核開発の 状況を伝えた。 この情報は、たちまち韓国から世界のメディアに流れ、その後5年間にわたり朝鮮半島は世界政治の 舞台を揺るがす震源地となった。北朝鮮は、核兵器につながる活動は一切ないと否定する一方、核査察 の圧力が強まるにつれ、米国の核、とりわけ韓国に配備された核の脅威が存在する以上、査察は認めら れないとの頑な主張を展開した。それは北朝鮮の核疑惑の解明に対する世界の期待を裏切るものであっ たが、米国にとっては泣き所でもあった。 韓国には米ソ冷戦の最盛期、最高763発の核弾頭が配備されたこともあったが、ブッシュ政権発足 時には100発まで削減されていた。91年8月、クレムリンにクーデターが起こり旧ソ連が急速に崩 壊に向かうや、米政権はモスクワから前向きの譲歩を引き出すべく、先手を打って世界各地にある米軍 基地の地上・海上の戦術核を撤去すると宣言、韓国からも核兵器をすべて撤収することにした。 これがあって、南北関係は91年の冬、異例の進展を見せた。同年12月13日、「和解と不可侵、 交流と協力のための南北合意書」が採択・調印され、同月31日、「朝鮮半島の非核化に関する共同宣 言」が最終合意に達し、仮調印が行われ、査察問題は解決に向かうかに見えた。 一方、米国は、北朝鮮に対する影響力を維持する観点から、同年12月、米朝間に唯一存在した北京 の参事官級のチャネルを通じて、査察受け入れと交換に、従来北朝鮮が望んでいた高官レベルの会談に 応じてもよいと打診した。この米提案は北の受け容れるところとなり、翌92年1月、米国務担当次官 、アーノルド・カンターと北朝鮮国際問題担当の党書記で金正日の側近、金容淳の会談がニューヨークの 国連米代表部で実現、八日間の協議の結果、1月30日、北朝鮮はウィーンでIAEAの保障措置協定 に調印した。 4・プルトニウム抽出疑惑 ウィーンに本部を持つ国際原子力機関(IAEA)は国連の準専門機関で、35ヶ国の理事国によっ て運営され、米国などの大国が大きな発言力を持っている。68年に核拡散防止条約(NPT)成立以 後、核兵器非保有の加盟国を対象に、公約検証のための査察チーム派遣を重要な仕事としていた。   査察は91年まで加盟国の自発申告に基づく、民間の核施設と物質の調査に限られていたが、湾岸戦 争で、イラクの核兵器計画が発見されるや、IAEAは体制の立て直しと査察に関する権限の強化を図 った。即ち、米国等の保有する確度の高い機密情報の提供を受ける権利と「特別査察」による強制的な 立ち入り要求権の獲得である。これにより、米国からは91年秋以降、偵察衛星による機密情報等がI AEAに提供されるようになった。保障措置協定に調印した北朝鮮はこのIAEA新体制のテストケー スとなった。 92年5月、全面査察準備のため、IAEA事務局長ブリクス等の一行は北朝鮮を訪問、平壌で予備 的討議の後、寧辺の核施設地域に入った。視察の主眼は、十年前から偵察衛星が捉えていた再処理施設 を確認することであったが、その施設はあらかじめ提出されたリストにはなく、訪問直前になって「放 射化学研究所」として追加されたと言う事情があった。一行が見た施設は、米国当局者から受けた秘密 ブリーフィング通りの、フットボール球場を二つ並べた大きさで、六階建てビルの高さがあったが、造 りは堂々としていた。完成度は八割で内部設備は四割程度の生産能力しかないと思われた。 しかし、案内人に、この施設で生産されたものと言う、瓶にはいった90グラムのプルトニウムを無 造作に見せられて、グリクス一行は驚くとともに疑問を持った。北朝鮮は90グラムのプルトニウムに ついては、国産の五メガワット原子炉で欠陥燃料棒を取りだした際、実験用処理施設(「放射化学研究 所」)で抽出したものと、90年にIAEAに報告していたが、これを裏付けるものがなく、90グラ ムを上回る量のウラニウムが生産され、隠匿されている可能性は否定できなかった。又、最初に抽出す る実験施設としては「放射化学研究所」は巨大すぎ、どこか別の場所にパイロットプラントの存在を考 えなくては北朝鮮の説明は信じ難いことであった。 このため、同年7月に続く9月の査察では、プルトニウム抽出に使われた鉄製タンクの壁からサンプ ルの採取が行われ、ウィーンのIAEA研究所とフロリダの米空軍技術応用センターの付属研究所のテ ストにかけられた。その結果、サンプル成分の崩壊率精密測定および同位元素の含有比率の比較からプ ルトニウムの抽出作業は、90年のみでなく、89年、91年にも行われた可能性が判明した。これに より、実際に分離されたプルトニウムは90グラム以上あるものと推定されたが、それが数キログラム なのか数グラムなのか分からなかった。 5・核廃棄物貯蔵所疑惑   92年末になると、さらにもう一つの疑惑が持ち上がった。北朝鮮は、秘密の核廃棄物貯蔵所を持っ ているのではないかと言うものである。IAEAは米国より、寧辺の偽装された二つの建物の写真を入 手した。その一つは、二階建ての建物で一階が土盛りで覆われており、見かけ上は一階の建物の様子を 呈していた。その建物は、以前の写真では二階建てであったもので、写真には土盛り作業に従事する労 務者の姿が写っていて、明らかに偽装が行われていることを証明していた。先のプルトニウム抽出疑惑 に続く、核廃棄物貯蔵所の疑惑である。 IAEAは、査察を要求、北朝鮮はこれを拒否、緊迫した状況が続く中、IAEAは特別査察を指示 するとともに、93年2月22日、IAEA理事会に疑惑の秘密写真を開示、同月26日に、北朝鮮に 1ヶ月の猶予を与え、3月16日に査察訪問を受け入れるよう最後通牒を突きつけた。この間、国連安 保理事会はIAEAの査察要求が受け容れられなかったら懲罰措置も有り得ると宣言しIAEAを支持 した。 最後通牒で示された査察受け入れ要求の3月16日が迫る3月8日、北朝鮮は、一年前に軍司令官に 就任した金正日の命令で「戦争準備態勢に入るよう」下令し、特別査察の要求を拒否した。理由は翌9 日から米韓軍事演習チームスピリットが再開されることと国家が「準戦時体制にある」ためとした。  IAEAは査察要求を繰り返したが、北朝鮮は3月12日、国家の最高利益を守るためという条約の 免責条項を引用して、核拡散条約から脱退を宣言した。条約の規定では、脱退が発効するには、なお3 ヶ月の期間を要したが、何も起こらなければ、6月12日、北朝鮮は世界で最初の脱退国になるはずで あり、世界はこのことを衝撃をもって受け止め、あらためて北朝鮮の核開発計画が国際問題の焦点とな った。 6・米朝直接交渉   1993年5月11日、脱退期限の一ヶ月前である。国連安保理事会は決議825号を採択、北朝鮮 の脱退撤回と査察協定遵守を勧告した。この頃、北朝鮮の国連代表部の外交官が、米国務省の北朝鮮担 当官、ケネス・キノネスに電話で米朝接触を提案してきた。 米政府は、これを北朝鮮が核問題での対決を避けたいというシグナルと判断、提案に応じることにし た。米国は、従来北朝鮮との直接接触を避けてきたが、92年カンター金容淳会談で限定的には北朝鮮 と直接対話に転じていた。  三回の実務レベルの接触後、93年6月2日、米国側からは、政治・軍事問題担当国務次官補、ロバ ート・ガルーチ、北朝鮮側からは第一外務次官の姜錫柱が出席することになり、両者による会談が米国 国連代表部で行われた。当初は原則論の応酬で進展はないかに見えたが、ニューヨークのコーヒーショ ップでの度重なる実務者協議で接点に達し、NPT脱退期限の前日、6月11日に共同声明の発表にい たった。  共同声明は、米国が北朝鮮の安全保障を確約し北朝鮮と公式対話を継続する一方、北朝鮮は,自らが 必要と認める限りNPT脱退は保留すると言うものである。NPT脱退は撤回ではなく保留である点、 後になって再度波紋を呼ぶことになるが、ひとまずは差し迫った危機感は取り払われた。ここに米朝二 国間協議のルートが成立することになった。 共同声明は曖昧さを残したとはいえ、核問題で米国と本格的交渉を主張してきた北朝鮮にとって極め て重要なものとなった。共同声明があること自体、米国が北朝鮮政府の正統性を認め交渉相手としてい ることを示す証拠となったからである。 米朝二国間協議は7月14日、ジュネーブの北朝鮮代表部で第二回目の交渉がもたれた。この交渉で 北朝鮮の姜錫柱は、自国は核兵器を生産する積もりのないこと及び国際社会の提供があれば、黒鉛減速 炉をより近代的で核拡散の恐れのない軽水炉に転換する用意があることを表明した。この案は既に92 年5月IAEAのハンス・グリスク事務局長が平壌を訪問した折り、軽水炉の入手と濃縮ウランの安定 供給の支援依頼として表明されていたが、米国は再度の軽水炉提供依頼の提案には明確な態度は示さな かった。 この間、疑惑のある二箇所の核廃棄物貯蔵施設に対してはIAEAの「特別査察」問題で何ら進展は なく、両者は交渉継続では合意を見たものの、米側は南北朝鮮問題及び査察問題に進展がない限り、第 三回交渉は行わないと言明した。 交渉は開かれないまま年が明けた。94年2月IAEAは査察再開を2月21日に設定米国は3月2 1日に米朝協議第三回交渉を行うこととしたが、南北対話も、査察問題も進むかに見えてはその都度壊 れ、時間は無為に過ぎた。この間、93年11月IAEAは国連総会に膠着状況を報告、総会は北朝鮮 に「即刻IAEAに協力」するように勧告決議を140対1で採択しており、韓国では、万一の場合、 ノドンミサイルの攻撃に備えて、米軍によりパトリオットミサイルが新たに配備され、軍事演習チーム スピリットのための部隊の増強が行われていた。 そうした中、3月15日IAEAは査察官の引き上げを指示し、米国は第三回米朝協議の計画を中止、 国連制裁を求める準備を始めた。3月19日行き詰まった南北対話を話し合うため板門点で最後の実務 レベルの会議が開かれたが、激しいやりとりの後で、北朝鮮の代表、朴英洙(パクヨンス)は韓国の代 表、宋栄大(ソンヨンデ)に向かって、「ソウルはここから遠くない、戦争になれば、ソウルは火の海 になるだろう」と言い放って、会談は決裂、朝鮮半島の情勢はただならぬ方向に急旋回を始めた感があ た。 7・核燃料棒の抜き取り   1994年春、北朝鮮の核開発をめぐる危機は朝鮮半島全体を包み込み、国際原子力機関IAEAが、 北朝鮮の国際的義務違反を公式に宣言したことで激化の一途を辿った。 93年春の対立以来、北朝鮮が核開発計画を、米国による国家の承認、安全保障、経済的恩恵を得る 駆け引きの材料にしてきた一面は見逃せない。ほかにカードらしいカードもない孤立無援となった北朝 鮮が、交渉力を高めるにはIAEAとの協力関係を弱め、米国に核兵器を開発すると脅迫するしかなか ったとも言える。 しかし、危険な駆け引きに乗ることは更なる危機を招く恐れがあった。米国と、韓国、日本等その同 盟国は国連安保理による制裁を求めたが、北朝鮮は「制裁は宣戦布告」と繰り返したため、米国はこれ に対し部隊の増強を持って応じ、半島での軍事衝突の可能性はますます高まっていった。 このような緊迫した状況の中、4月19日、北朝鮮は、突然、燃料交換のため原子炉の運転を止め使 用済み核燃料棒の抜き取りを実施したいと通告し、燃料棒の抜き取り監視にあたる査察官の派遣を要請 した。IAEAは唐突な通告に戸惑うと同時に、査察官の派遣を検討したが、査察の段取りや手続きが 不明確な上、サンプルの採取が認められなかったため、査察官を派遣しない旨返答した。 この原子炉は北朝鮮が独自に設計した出力5メガワットの小型原子炉で、まだ実験段階にあったもの である。燃料棒は一本の長さが、約38センチ、直径が2・5センチ強で、寧辺の核施設では、これら 燃料棒を化学処理して原爆用プルトニウムを分離できる工場の建設が最終段階を迎えようとしていた。 燃料棒の取り出しは二つの重要な側面を有していた。一つは、系統的にサンプルを採取し、慎重に燃 料棒を分離すれば燃焼時間や燃焼強度が分かり、原子炉の運転歴や、過去交換された燃料棒の数量、更 にはプルトニウムの抽出量が分かると言うものである。二つは、この原子炉から取り出されようとして いる八千本の燃料棒から4発ないし5発の核兵器(10キロトン級の原爆)を作れるプルトニウムが抽 出できると言うものである。 5月8日、北朝鮮は国際的な監視や承認がないまま、使用済みの核燃料棒の引き抜きを始めた。その 作業は思ったよりも早く、6月2日には、燃料棒の6割が引き抜かれるに及び、IAEAは強い調子で 国連安保理に事実上の制裁を求める書簡を送った。 8・ 軍事対決の危機   米国では、原子炉燃料棒抜き取りの暗雲が漂う中、5月18日、朝鮮半島での戦争に備えるための軍 事会議が開かれ、国防省の会議室にはペリー国防長官、シャリカシュビリ統合参謀本部議長等、陸海空 の要人が出席する中、ラック在韓米軍司令官はじめ世界各地の司令部から、三、四名の代表が集まり、 戦争が始まった場合の在韓米軍支援について全軍的な計画の調整が行われた。  韓国には、既にパトリオットミサイル、アパッチ攻撃ヘリ、ブラッドレー戦車の配備や兵員の増強が 行われ、近海には戦闘艦や物資を積載した艦船が待機していた。一方非武装地帯の北側100キロ以内 には、8400門の火砲、2400の多連想ミサイルが存在し、軍の65パーセントの部隊が展開して た。  戦争になれば、最初の九十日で米軍側に5万2千人、韓国軍に49万人の死傷者が出、財政支出は6 10億ドルに達すると見積もられた。6月2日のIAEAの「原子炉の過去の検証が不能になった」と の報告を受けて、米国は国連安保理に制裁を求めることとした。それは米国が従来の予防外交から制裁 外交に大きく方向を変えた瞬間であった。 米国提案の国連安保理の制裁決議案は、30日の猶予を与え、まず北朝鮮への武器輸出や技術移転を 禁止、必要とあれば、その後、在日親北鮮団体からの送金停止、中国からの原油輸出停止、これらの制 裁が功を奏さなかった場合、北朝鮮の港湾の封鎖による輸出入制限を課すと言うものである。この制裁 決議案が功を奏すには北朝鮮に直接かかわりを持つロシア、中国、日本の動向が大きく関係していた。 三国は必ずしも、制裁に乗り気ではなかった。特に北朝鮮に対して唯一の食糧・エネルギー供給国の中 国は、これまで、拒否権行使は控えて来たものの、制裁には終始反対であった。 6月10日、ウィーンのIAEA理事会は北朝鮮を激しく非難し、年間50万ドルに達する核施設に 対する技術援助を停止する決定を行った。これは事実上の国際制裁であったが中国は反対票を投ぜず単 に棄権するに止まった。これ機に北朝鮮は、IAEAからの脱退を宣言し、残留査察官の追放と「保障 措置の継続性」協力の拒否を表明した。これが実施されれば、いよいよ北朝鮮核開発に対する国際監視 の目がなくなってしまうことになる。この事態は、ワシントン、東京、ソウルはじめ世界の首都で新た な脅威と警戒を持って迎えられ、国際的な懸念が一気に高まった。  米国防省は、北朝鮮が国連の制裁応じなかった場合の対応をさらに具体化していた。 第一のオプションは、先ず基盤設定のための2000人ほどの部隊の先遣に加え、対空レーダーや偵察 システムを追加配備すること。第二のオプションはF117ステルス爆撃戦闘機を含む前線航空大隊を 前方に推進し、新たに空母部隊を近海に展開、さらに3万7千の在韓兵力に加えさらに陸軍兵力1万人 を増派すること。第三のオプションは、本格的な陸海空兵力の投入であった。、   6月16日、ワシントンでは、クリントン大統領、ゴア副大統領、ペリー国防長官、クリストファー 国務長官、シャリカシュビリ統合参謀本部議長、ウルージーCIA長官、オルブライト国連大使、レー ク大統領安全保障担当補佐官その他、外交及び国防担当高官が、ホワイトハウスの閣議室に集まり、二 時間に亘り、北朝鮮核問題で最終決定を下すため協議を開いていた。冒頭クリントンは国連安保理の制 裁案に最終承認を与えた。 クリントン大統領は、制裁対応策としての軍事計画について説明を受け、十分な兵力を派遣するには、 予備役の召集等米全土に危機の深刻さが拡がることを覚悟しなければならなかった。統合参謀本部長が 第一のオプションを説明をはじめた時であった。クリントンの消極的了解のもと、個人的な資格で金日 成との面会を求めて北鮮を訪問していたカーター元大統領から、金日成との会談が成功し、金日成が核 計画を凍結しIAEAの査察官の活動継続を容認したとの電話が入った。会議場には一瞬呆然たる雰囲 気が支配した後、カーターの出過ぎた行動に非難の声が聞かれたが、クリントンが、他の行事で退席す るとカーターの現地からのNBCテレビインタビューに聞き入った。ここで事態は一変、外交軍事的な 危機は一転して新たな政治的な局面を迎えることになった。 制裁に向けての国連の工作や米国の軍事対応計画は中止され、米国は、北朝鮮から核凍結に関する確 認文書を手にしたことで、米朝高官協議第三回目を開催する用意を表明、協議は7月8日ジュネーブで 開催されることになった。 9・米朝「枠組み合意」   第三回目の協議開催直前の7月6日、突然、金日成が死去、協議は流れることになった。 権力を継承した金正日の謎に包まれた人物像から、その後の成りゆきが危ぶまれたが、金日成が死んで も北朝鮮の交渉態度は変わらず、却って驚くほど実務的な態度を示し、交渉進展に強い意欲を見せた。 中断されていた、交渉は8月5日に再開、一週間の協議を経て、8月12日主要議題について大筋で合 意に達し、6週間休会後、9月に再開、一ヶ月半の協議の末、10月21日、包括合意で妥結した。米 国は国内の共和党支配の議会の手続きの煩瑣を避けて、条約でなく政府間の「枠組み合意」(ジュネー ブ合意)とした。本合意には、日本、韓国の協力が深くかかわっており、それぞれ国内の手続きを経て、 10月27日正式に署名の運びとなった。   「枠組み合意」は四つの部分からなる。一つは黒鉛減速炉及び関連施設の軽水炉への転換、二つは米 朝関係の正常化、三つは非核化と朝鮮半島の平和と安全のための協力、四つは国際的な核不拡散体制強 化のための協力である。 軽水炉については、米及び国際コンソーシアムが2003年までに2千メガワットの軽水炉(千メガ ワット2機)を北朝鮮に供与し、黒鉛減速炉凍結に伴うエネルギー補償として、軽水炉の運転開始まで 重油を年間50万トンを供与する。一方北朝鮮は現状を凍結するとともに、建設中の50メガワット、 200メガワット原子炉工事も中断解体する。現状凍結は一ヶ月以内に開始し、軽水炉完成時にはすべ ての原子炉及び施設の解体を完了する。何れもIAEAの継続監視下に置き、5メガワットの原子炉か ら取りだした8000本の燃料棒の処理は、自国で行わず、国外に搬送する。以上の四つである。 米朝関係の正常化については、両国は政治経済関係の完全な正常化の最初の段階として、三ヶ月以内 に現存する貿易や投資の障壁を緩和するための措置を取る。両国の首府に連絡事務所を設置する。関係 大使のレベルを格上げする。 平和のための協力については、米国は北朝鮮に対し核による脅威を与えず又使用しない。北朝鮮は朝 鮮半島の非核化と南北対話再開という19991年の南北共同宣言を遵守する。 核不拡散体制強化の ための協力はIAEAによる査察が規定されたことである。このことにより、北朝鮮は核拡散防止条約 NPT締約国に止まること、軽水炉の主要部分が完成し、重要な原子力部品が供与される前に、冒頭報 告を検証するためにIAEAが必要なとするあらゆる措置を執ること及び、保障措置を完全に履行する ことことが義務づけられた。 10・KEDOの発足   米朝合意後一ヶ月をへた94年11月18日、北朝鮮は「枠組み合意」に従って黒鉛減速炉と関連施 設を全面凍結する措置を講じたと発表。これをうけて米日韓の三国は北朝鮮に軽水炉を供与するための 国際コンソシアームの設立に向けて動き出した。95年3月9日、日本、米国、韓国は「朝鮮半島エネ ルギー機構(Korean Peninsula Energy Development Organization =KEDO)の設立に関する協定」 に署名しKEDOが発足することになった。その後、95年8月までに、日米韓のほかオーストラリア、 フィンランド、インドネシア、アルゼンチン等10ヶ国が加盟、97年に欧州連合(EU)が理事国、 ポーランドが加盟国として加わっている。 KEDO発足に当たり直面した問題は、軽水炉に韓国型を採用することに北朝鮮が反対したことであ った。米国は軽水炉の供与に当たり何処からどのように持ってくるかを明確にしていなかった。名乗り を上げたのは韓国である。米国は当初から韓国による建設を求めており、費用負担は大半を韓国に残り を日本に期待していた。しかし、北朝鮮は軽水炉の出所が韓国であることを公にさせまいとした。一方 韓国は自らが軽水炉の提供で中心的役割を果たしていることを認めさせようとした。このため、一時、 南北関係が緊張する場面もあったが、米国が韓国に自制を求め両者折り合う形で決着した。双方の面子 保つために出された方策が、国際企業連合(コンソーシアム=KEDO)である。95年5月19日か ら6月12日にかけてマレーシアのクアラルンプールで行われた米朝交渉で、実質的には規格諸元の明 記と説明文から韓国製と分かる軽水炉を、韓国製とは明記せず米国主導のコンソーシアムが提供すると 言うことで解決を見た。 この問題決着後、95年8月から96年7月にかけて建設場所選定のための現地調査が行われ、95 年9月からはKEDOと北朝鮮との間で「軽水炉プロジェクトに関する供与の取り決め」について交渉 が行われ、12月署名、発効、同7月、「法的地位・特権免許」、「輸送」及び「通信」に関する議定 書、さらに用地使用や北朝鮮労働者の雇用に関する「サイト」及び「サービス」に関する議定書の交渉 も妥結した。97年7月に建設着工に必要な事項の調整に関する専門家会議が三回行われて同年8月1 9日、琴湖地域で起工式が行われ,KEDOは本格的に始動した。 11・KEDO後の問題   北朝鮮の核問題が片づいたことで朝鮮半島は静謐を取り戻すかに見えたが、数ヶ月を出ずして思わぬ ところから問題が起こった。食料不足で国民に食べさせるものが無いというのである。北朝鮮は90年 代頃から、その硬直した計画経済政策の失敗とイデオロギー偏重の主体農法の弊害で慢性的な食糧不足 が表面化しつつあった。折しも95年7月、大洪水に見舞われ農地と穀物が壊滅的打撃を受けたことが これに拍車をかけた。北朝鮮は、孤高と自尊をかなぐり捨て国連食料農業機関(FAO)や世界食料計 画(WFP)に救済を求め、世界の目を再び北朝鮮の新たな事態に引きつけることになった。   食料不足が人道門題として浮上する中、北朝鮮の経済は、燃料不足、外貨不足が重なり、危機的状況 にあることが判明した。国内では、食えなくなった住民の流民化や餓死が多発、またあいつぐ外交官、 党政府要人の亡命や一部に伝えられる部隊の反乱など、端末の配給制度や治安秩序は崩壊し、権力機構 の一部にも動揺が走るなかで、軍に依拠し、恐怖政治と強硬な対外姿勢で体制維持を図る金正日政権の 異常な体質が明るみに出て、KEDOを含めた北朝鮮支援の是非が問われるようになった。   もともと,KEDOについては米国内においても異論があり、北朝鮮の黒鉛減速炉凍結の見返りに軽 水炉を供与し、かつ軽水炉が完成し運転開始にいたるまで、重油50万トンを補償すると言う米朝「枠 組み合意」は、泥棒に追い銭を与えるようなもので問題の解決にならないと言うものである。   しかも追い銭は端金ではない。ざっと見積もっても軽水炉建設費用は50億ドルに上る。そもそも、 問題の発端となった核開発の疑惑そのものが、解明されずに封印されたままでは相手の脅迫に屈しただ ではないか。こうした議論のある一方で、北朝鮮の核問題で最も影響力を及ぼしてきた、ウイリアム・ ペリー前米国防長官は、北朝鮮を故障して急速に高度を失った飛行機に見立てて、「いま、北朝鮮は軟 着陸(ソフトランディング)を模索している。やがて南北和解か統一の方向に向かうだろう。」と北朝 鮮支援を擁護した。  食糧支援要請の一週間後、国際社会が北朝鮮の救済支援と警戒論で沸き立つ中、96年4月5日、北 朝鮮は休戦協定に違反した不可解な軍事行動にでた。板門店の非武装地帯にAK自動小銃ライフルや機 関銃、対戦車砲で武装した北朝鮮の兵士130人が侵入、共同警戒地域をデモンストレーションし、翌 日には、二倍の兵力で同じ行動を繰り返し国際的な緊張と非難を呼んだ。さらに96年9月18日には、 半島東海岸の韓国の江陵市で潜水艦による武装スパイ侵入事件が発生し、4万人の軍、警察が出動、 0日に及ぶ大がかりな捜索の末、自殺11人、射殺12人、捕獲1人、逃走1人、韓国側にも軍警察民 合わせて、14人の死者を出したことで、半島は極度に緊迫した空気に包まれた。   このようなこともあり、米国では「枠組み合意」で米国が負担べき重油50万トンの供与は議会の十 分な支持を得ることが出来ず、発足したばかりのKEDOは軽水炉の経費分担の問題とともに先行きに 頭の痛い問題を抱えることになった。  KEDOと並んでもう一つの問題は、南北関係の改善の行き詰まりである。南北の対話とその関係改 善は米朝間に合意をみた枠組みの一つであった。しかし北朝鮮の米朝直接対話重視の姿勢から南北対話 が進展しないため、これに代わるもとして、96年4月16日、米韓両国は、韓国、北朝鮮に米国、中 国を加えた四者協議の機関を設けることを提案した。  その後上記のように南北関係が緊迫したため、97年の10月になって、漸く第一回目の四者協議に 漕ぎ着けたが、北朝鮮の対米重視、韓国外しの態度は変わらず協議の進展に見るべき成果はなかった。 98年10月24日に行われた第三回協議では、協議のやり方をめぐる入り口論議で、分化委員会の設 置を認めることでの合意には達したが、依然、対米交渉パイプ維持のための担保確保の感は免れない。  また、国際社会が北朝鮮の食糧危機に対して人道支援に立ち上がるや、北朝鮮は、自国の食料危機や 燃料不足を、四者協議や対米交渉の取引カードとして利用してきたが、最近では、滞りがちな米国の重 油50万トンの支援に対し、「枠組み合意」の無効化と、核開発の再開をちらつかせるなど、北朝鮮の 強硬な態度が懸念される状況にある。  こうしたなか、北朝鮮の秘密地下核施設の建設が明るみに出た。98年8月19日、外電が米国防省 筋の情報として「偵察衛星は北朝鮮の寧辺北方40キロに、1万5千人の労務者が大型のトンネル掘削 工事に従事している姿を捉えており、トンネル内には、2ー6年で原子炉か再処理工場が完成するもの と見られている」と伝えた。     米国では、こうした新たな事態の出現に、もともと「枠組み合意」に懐疑的であった議会が政府の対 北朝鮮政策に対する批判を強め、米国政府も積極的な対応を迫られるにいたった。このため米国政府は 疑惑解明のため、1998年11月16日から3日間、現職政府高官として初めてチャールズ・カート マン朝鮮半島和平協議担当大使を平壌に訪問させ、政府の固い決意を伝える一方、12月12日には対 北朝鮮政策全体を見直す調整官としてウイリアム・ペリー前国防長官を指名するなど北朝鮮に対する対 応を厳しくしつつある。   米国が疑惑とする大規模地下施設は、核兵器開発に必要な起爆実験が昨年から今年にかけて三回行わ れたとされる、平安北道大館郡金昌里にある施設のほか、平安北道亀城群ハガブ地域に一ヶ所、亀城群 とその東側の泰川群にまたがる地域に一ヶ所の計三ヶ所である。 北朝鮮を訪れたカートマンはそれら 疑惑施設の視察を要求したが北朝鮮の外務次官、金桂寛は他の施設を提案する一方その視察の見返りに 三億ドルの保障を求め、早くも米国政府の「枠組み合意」路線は難題を突きつけられることになった。  第三回四者協議に先立ち行われた1999年2月16、17日の米朝協議では、三億ドルの査察補償 は問題外とする米国に対して、北朝鮮は3億ドルのキャッシュにこだわらない態度を示したものの、そ れに代わるその他のたとえば100万トンの米の支援か、経済制裁解除を求めていると見られ、査察問 題は決着を見なかった。  米国の基本的態度から、米100万トンの経済支援は受け入れられないとしながらも、人道支援とし ては可能としており、疑惑解明を目的とした査察と査察補償をめぐる米朝の交渉自体はつぎにつながる 何らかの展開がないわけではない。しかしそれが米議会の納得を得られるものかどうかは予断を許さな い状況にある。。  当面事態打開のかぎを握るのは、議会の対北朝鮮強硬姿勢を背景に任命されたペリー調整官による政 策の見直しである。米国政府には「合意の枠組み」がいずれ破綻するかもしれないとの認識があり、こ れを機に、核合意に代わる新たな枠組み合意を模索し始めていると見られる。いずれにしても、ペリー 調整官の見直しには、相手の善意を前提にしたアメを与えるだけの従来の枠組みと異なり、時にアメを ひかえムチを加える、核開発だけでなく、ミサイルやテロなど北朝鮮をめぐる諸々の問題を網羅する包 括的なものになる可能性が高い。このため日韓を交えたKEDO見直し論議は必至の状況にあり、ペリ ー調整官の議会報告の3月、5月を一つの山場として、秘密地下核施設の査察問題は北朝鮮の出方次第 で場合によっては再び軍事的に緊迫した場面を迎えることも考えられる。 12・日米韓の対応   外からの支援がなければ生きていけない北朝鮮の現状は、国家崩壊の瀬戸際にあり、改革を断行して 回生するか、自然崩壊を待って自滅するか、さもなくば、自滅を避けて、暴発するしかない。最も望ま しいのは改革を断行して回生の道を辿ることだが、北の政権は、頑なに改革を拒み、自滅か、暴発の道 を歩いているように見える。  東北アジアの安定と平和に重要な役割を有する日米韓は、戦争によって被る損害と混乱を避け、核に よる脅威とその拡散の可能性を排除するため、高価な代償を覚悟の上に、「枠組み合意」を選択し北朝 鮮に対する軟着陸(ソフトランディング)政策をとった。しかし北朝鮮は、食糧危機や核開発疑惑を逆 手に取り、巧妙な駆け引きに明け暮れ、日米、米韓の間を分断をし生き残りを策しているかに見える。 しかし日米韓がこれに乗じられることは、核兵器の開発と拡散の可能性に目をつぶり、東北アジアに不 と脅威の増大を助長することにほかならない。その結末が何を意味するかは多言を要しない。その結末 こそ「枠組み合意」が軽水炉供与の高価な代償を払って避けようとしたものである。   98年8月31日、北朝鮮は、わが国周辺海域に突如、無警告で弾道ミサイル、テポドン(射程四ー 六千キロ)の発射実験(釈明で衛星打ち上げと主張)をして世間を驚かせた。93年5月のノドンミサ イル(射程約千キロ)発射に続く暴挙である。国家崩壊の淵にありながら、核開発とミサイル開発技術 の向上に見せる異常な執念は、同国の「枠組み合意」の公約とその履行の意志に対する従来の疑念を増 幅するものになった。  このような北朝鮮の核・ミサイル開発には、密かに流出した旧ソ連の科学者や技術者達の働きが大き く影を落としていると見られるが、核兵器は運搬手段のミサイルを得て全能となる。旧ソ連製「スカッ ドミサイル改B」に改良を加えたノドンミサイルからテポドンミサイルへの開発技術の向上は同国の核 兵器開発への疑惑をますます深めている。  テポドン発射実験現場には、イラン、シリアの軍事関係者が立ち会ったとも言われる。両国は北朝鮮 の武器の売却の顧客であり、イスラムの核を欲する国である。外貨不足の苦境にある国家が悪魔の兵器 を手にしたら、それは苦境脱出の最も有効な手段となる。それは正邪善悪を越えた生物生存の摂理であ り、ここに世界が恐れる核兵器拡散のシナリオがある。   98年8月29日、日米韓は、これまでそれぞれの国内事情から結論を見るに至らなかったKEDO 原子炉の経費分担について合意に達し調印した。米国による重油50万トンの供給は途絶えがちとは言 え、KEDOは、実務的に「枠組み合意」に沿って進んでいる。しかし、日米韓は、北朝鮮の「枠組み 合意」に対する不履行と新たに生じた秘密地下核施設疑惑に対しては、北東アジアの安定と平和を維持 するため、ひいては世界が核拡散の悪夢に苛まされないため、新たな枠組みの合意を視野に入れ、思い 切って軟着陸(ソフトランディング)政策を見直し、三者の調整の上、統一した強固な意志のもと、チ ェック機能を生かされる政策の実現に当たるべきであろう。   とりわけKEDO正面は、同じ目的で当たる唯一の日米韓の協調の場であり、北朝鮮の駆け引きに乗 ぜられぬ戦略的な配慮がなされるべきであろうと思われる。当然のことながら、そのことが、その結果 として起こる事態にも十分備えてのことであるのは言うまでもない。 (了)
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