愚見庵
なま枯れ日記 観自在未覚 abri@nifty.com
2007.09.13 (木) 辞任の美学
だが、彼の辞任劇は本当に不可解な、誰にも解せない行動なのか。
いや思うに、立派に筋の通った劇の終幕に見える。彼には、そこに至るシナリオがあったのだ。彼の逆風は、選挙を前にして噴出した閣僚の政治資金管理の不手際に社会保険庁の不祥事が重なったことに始まる。根強い人気を背景に起死回生を狙った参院選挙が敗北した。ここで、命運を予感しただろう。だが、ここで下野することは安倍政治の完膚なき敗北を意味する。彼の掲げた「美しい国」「戦後レジームからの脱出」は未だ志半ばである。
未完に終わるにしても、終わり方がある。
内閣改造で、初志を貫く姿勢を示す。そのための改造は最早本人の政権継続意思とは関わりなくてよい。初志貫徹できるか出来ないか最早問題ではない。選挙の結果に反省した謙虚な姿が示せたらいいのだ。だが、初志貫徹の意思の表明には、それなりの舞台と儀式が必要だ。改選後の参院開会式が舞台で「所信表明」こそが儀式となる。彼はそう思ったに違いない。ここで思いの丈を吐露すれば、一区切りになる。あとは、力尽きて断念せざるを得なかった諸般の事情が、退場の舞台を飾ってくれる。そのことによって起こる政治空白の非難も含めて。そんな筋書きではなったか。少なくとも、そこには退陣要求の怒号と混乱の中で自制を失っての討ち死の姿はない。彼の美学でなくてなんだろう。
2007.09.12 (水) 安倍首相辞任の衝撃
大雨に見舞われ、よりによって同期との会食に臨んだ。期するところあって、食事後、自宅に直行した。帰ると、安倍辞任の報道でテレビが騒々しい。まったく予期せざる事態の展開だ。彼の美学か。それが咄嗟の感想だった。が、苦境下の重圧が彼の忍耐の限界を超えたのかとも思った。彼の追い落としを企む陣営も、彼にリーダーシップを期待する陣営も、ともに、不意を突かれて、第一声が声らしい声にならない呟きになっている。
安倍降ろし陣営が喜ぶどころか、憮然たるさまが事の異常さを物語っている。支援陣営もまた、無責任だと激高している。それもそうだ。一昨日、外遊から帰って国会(参議院)で所信表明をしたばかりであったことが、辞任の不自然さを助長した。
辞任の理由が、アフガン支援の国際公約の継続が、野党党首小沢の首脳会談拒否で困難になったからと言うのである。衝撃の一波が去って論者は一様に言う。国会で戦い、国民には理非曲折を訴えればよいのにと。そう、その先に策と展望がなかったわけではない。職を賭す覚悟なら、衆院優越の力勝負や退陣と引き換えに国際公約の実現を迫るなど、そこを乗り切ることこそ安倍氏への期待ではなかったのか。また世の気まぐれの世論もその戦う姿を見たかったのではないか。なぜ今ここで職務放棄なのか? 彼が口にしなかった持病のことが語られる。泣く子も黙る病気の報に辞任同情の風は吹くものの、その唐突の衝撃波の余韻は収まりそうにない。
2007.09.11 (火) 塩野七生の魅力
今読んでいるのは「ベネチュア一千年の歴史−その2−」だが、わが友マキャヴェッリ―フィレンツの存亡―。ルネッサンスの女たち。ベネチュア一千年の歴史−その1−。法王庁殺人事件。レパント沖の海戦。チェーザレ・ボルジアのある優雅なる冷酷を読んだ。 まだ、神の代理人は読んでない。切っ掛けは、「ローマ人の物語」である。これは文庫本が威力を発揮した。これもまた、「キリストの勝利」の一巻を残すのみとなった。これで西洋文明史に目を開かれ、「チェ−ザレ・ボルジアの優雅なる冷酷」でイタリア・ルネサンスの西洋近代化に及ぼした影響の偉大さと意味を理解するに至った。イタリアは神とキリストの桎梏下に逼塞を余儀なくされていた時代にも、小国分立の状態であっても、のびのびと自由の精神が息づいていたのだ。
そこで芽生えた古代復興の文化は、近代ヨーロッパ誕生のマグマとなった。領土国家の台頭の時代には、遅れをとったが、イタリアの都市国家の先進性は、文化、政治、経済のすべてにおいて、ヨーロッパの近代領土国家の発展の母体として燦然として輝いているのだ。
われながら、今日のヨーロッパはローマ帝国とルネサンスの恩恵に与らずして歴史はなかったも同然であることを知らされて世界が本当に見えて来たように思える。歴史によって、理想主義の陥り易い視野狭窄症と偽善的独善性の危うさを学ぶことが出来る。今日のわが国の浅薄驕慢なマスコミに支配された世相と政治を見るにつけ、歴史的な視野とパースペクティブの必要性を痛感する。
2007.09.10 (月) なぜ塩野七生を読むのか
なぜかくも塩野七生を読むのか。思うに、ひとつは彼女の人生に立ち向かう姿勢が共感を呼ぶことにあるのだろう。それは、世の理想主義者なるものに信を置かず、現実に立脚して是非を論ずる正直さが清々しいからに違いない。観察が鋭く冷徹で、筆法は辛辣を極めるが、機知がある、諧謔がある、クールでユーモアがある。
ルネッサンスとはなにか。
ここには彼女のライフワークのエキスが凝縮している。彼女のルネッサンス論には啓発されるところが多い。精緻を極める文章からは真実「歴史」を学んだ。外国ものを念のためその翻訳書で読んでみるが、興味が湧かない。専門に過ぎる。想定した読者が違うのだ。
これに比べ、彼女の書は何よりも日本人相手に彼女自身が、研究で目を開かれたことを伝えんとしていることがひしひしと伝わってくる。読者が意識されている。ルネサンスの知識は高校の教科書だったという彼女の率直さが、歴史への興味をそそるのだ。読者もまた、似たり寄ったりのレベルだからである。そこを克服してイタリア史に挑戦した彼女の意思と情熱には凄みを感ぜずにはおれない。
歴史は、抽象ではない。何よりも人間が語られなければ学ぶ価値はない。現代から過去を断罪しても何も学べない。マルクス史観に毒された世代には斬新だ。その時代の中で当事者たちの立場に身を置いてこそ、歴史の真実に迫れるのだ。彼女の書はそのことを何よりも証明していてくれる。そこが魅力の源泉なのだ。彼女は言う。専門家の批判に答えて「私の書は歴史書ではない、物語なのだ」と。
2007.08.16 (木) 防衛省への期待
わが国では、安全保障や防衛問題の根幹に関わることは、その発言力から見れば、外交の専管事項に属すかのような状況を呈し、とりわけ自衛隊はその存在すらもが良く言って外交のレバレッジ悪く言えば外交のご都合主義の玩具であった観は否めない。それは、戦後たどったわが国の現実の姿の一断面にすぎず、国の大事、一国の防衛国防が、近寄れば災いを招くものとしてわが国の政治にそっぽを向かれて来たことと無縁ではない。生命より尊き価値のあることを信ずることによって成り立つ防衛国防が、摩擦回避の平和主義と、金のばら撒きと他国の善意信仰の自己欺瞞に取って代わられてきた現実を嘆き、いまさら外務省や外務従事者に恨み辛みを言ったところで始まるまい。一人外務省の咎ならず独立回復後も自分の国の在り様を自分で決められなかった日本という国家の悲劇だとも思い直すことも可能だからである。
だが組織の中にいて感じていたものを言えば、過去を持たない新生官庁の二流三流の悲哀であった。筆者は中央の枢機に関わる仕事に従事した身分ではないが、本庁から出向し在外公館で勤務した経験からその悲哀は身に沁みるほど分かる。外国では組織の中でも、制服を着た特別国家公務員であったわけで、世界の軍事の常識が通用するような職務でも身分でもなかった。建前を言えばその通用しない常識を通用する常識にすることこそ課せられた任務であったろうが、常識の壁は厚く、自己の職責と国家の歪んだ姿に虚しさを覚えること一入でなかった。
軍事が政治を壟断するのは未熟な国家である。だが外交が軍事を軽蔑するのは不健全な国家である。力の備えのない国の外交が如何に国益を守るに無力であるか、身に沁みて学んでいる筈だ。軍事を忌避して国家の安全保障が全う出来る筈がない。防衛省にはこれまで蓄えてきた力に磨きをかけて、謙虚にしかし堂々と国防と国家の安全保障に然るべき役割を担って貰いたいものだ。
2007.08.15 (水) 防衛と道徳
この一見何の関係なさそうに見える二つの用語を並べたのには理由がある。憲法九条改正のための国民投票法案が国会を通過し、漸くわが国のまともな国家としての輪郭が見えて来ようかという今日、防衛庁の省昇格も実現し、わが国の安全保障政策にも省としての一定の発言力が確保され、防衛論にも本格的な論議が期待される。だが、性急な論議の前に、筆者の歩いた人生を振り返り、これまでの論議には意図的か否かは知らず、何か大事なものが触れられずに来たのではないかとの思いがあるからである。
それは心の問題である。
心の問題は戦後のタブーとなった。タブーは勝者が敗者に強いた国家解体の毒薬であった。勝者が敗者の自由を奪うのは戦いの現実としても、古来培われて来たわが国の美風道徳が国を誤った軍国主義の温床とされ廃棄の憂き目を見たのは国辱の極みであった。政治は心の問題に触れることを極度に恐れ、財物崇拝と諸国の公正と信義への信仰で、難題を避けようとした。ひとたび根付いたその気楽な心性は幾度かの覚醒の好機に目覚めることもなく、今日、日本の心となってしまった。
今日新聞テレビを賑わしている社会的な事件は、今日の日本人の心の反映である。心の貧弱なることこの上なく、わが国に美風道徳と呼ばれるものが存在しないことの何よりの証拠である。道徳頽廃が叫ばれて久しい。だが、最早道徳そのものが存在しないのだ。
道徳は廃れても、社会的事件は最小限、法と司法で補いが付く。だが、道徳なくして、命より大事なものがあることを知る縁はない。国防が道具立てのみで成り立たないことは明らかだ。国防には第一線で担う防人の凛裂な魂がなければならない。魂を物欲と他人の善意にすがることで満たしても、防人の用は為すまい。命を危険と死に晒す職業人に高邁な徳操を欠いては、国防は成り立たないのだ。
道徳は教えなければ人の心に芽生えない。だが、道徳は率先垂範である。教える側に徳がなければ強要となる。いつか見た悪夢と大騒ぎになるだろう。国防は国家の大事である。一省庁が一人騒ぐ問題ではない。だが、道は遠いが、どこかが火付け役にならなければ展望は開けないのも真理だ。
2007.07.26 (木) 「マオ」を読む(続)
流石に、騒がれた書だけあって内容が凄い。筆者は中国人の女性で文革時代を紅衛兵で生き残り、イギリスに留学、学位をと取って、英国人の夫ともにこの書の出版に立ち至ったものである。十数年の歳月を掛け本国は勿論日本、ロシア、米国その他関係国に、数百人の証言を基にしており毛沢東側近は百人近くに及ぶ、よく調べ上げたものである。それだけでも価値が高い。なんといっても、毛沢東の生い立ちから死までの全ての振る舞いと思考と行動が手に取るように分かる。利己的で言行不一致、政敵は昨日の同志も粛清処刑を厭わない冷酷無慈悲で残忍で、陰謀と姦計を好み山賊にも劣る無法無頼の徒として描かれている。革命とはおよそかけ離れた、世界支配の帝王にならんことを夢見た男であり、そのためには、人民の財産はおろか、その生命までも犠牲にさせた悪鬼であったというのである。美化された毛沢東像は微塵に打ち砕いている。毛沢東を礼賛したエドガー・スノーや、アグネス・スメードレが滑稽に見えてくる。
当然、国共内戦も具に描かれており、こちらから支那事変を眺めてみると、わが国で支配的な軍部悪玉論が如何に思い込みと自己反省式の論であることが分かる。
それはそうだろう。戦争とは相手があって戦うものであり、結果の全てが一方だけに原因があるわけでないのだから。言うまでもないことだが。この書は、時間は掛かるが一読に値する。凡庸なわが国の昭和史や戦争責任論のみならず世界の歴史家にも衝撃の書であることは間違いない。
2007.07.25 (水) 「マオ」を読む
「マオ」ユン・チアン ジョン・ハリディ共著
衝撃的な書だ。遅ればせながら通読した。
実は、書評もさることながら、昭和3年満州事変の発端となった張作霖の爆殺が、実はソ連コミンテルンの陰謀であったという、従来の日本軍関東軍陰謀説を覆す記事があるということに購読心をそそられたのが去年のことだった。
だが、その記事は満州事変そのものを扱ったのではなく、毛沢東の中国が実はコミンテルンと深い関わりなしには出現しなかったということの一論証として脚注で触れられていたに過ぎなかったため、それ以上は、関連箇所を拾い読みしただけで終わっていた。
それは、この本が、この種のものでは例外とも言うべき厚さの本である上に上下二巻では、片手間に読む代物ではなかったという事情もある。
ところが、最近、総合雑誌や単行本あるいは新聞の特集記事に見られる、昭和史の解説ものや戦争責任論など、固定した視点に縛られ真実性の追求を放棄した、凡庸なジャーナルや評論に飽きて、直接、旧軍関係者の書や手記に興味を持つに到ったということもあり、その「マオ」を取り出したという次第。
2007.07.14 (土) ノブリス・オブリージ(続)
法が万能という社会の現実をこれほど如実に示す例もない。法治国家は近代国家の要件だが、法でどうにもならないことがあるから人間は道理や道徳の力を信じてきた。ここで言う品性はとりもなおさず法を超えた道理道徳の問題である。
マスコミもこの種事件が起きると、個人の犯した不祥事犯罪でも、その個人の属す組織の欠陥を指摘する場合が多い。そこには、その組織人の規範意識は高くなければならないと言うことと、規範意識の低い人間を抱える組織は怪しからぬと言う意識が潜在している。
明らかに、そこには、少なくとも国家のエリート層や、指導者は庶民より高い規範意識を持つべきだとの牢固とした観念がある。それはとりもなおさずノブリス・オブリージ(高貴な身分にはより厳しい義務が伴う)の問題である。ならば、そこに警鐘を鳴らせばよいものを、法の下の平等を絶対視する大衆もマスコミも一様に、今時、高貴な身分も卑賤な身分もあったものではないとでも思うのか、あるいはノブリス・オブリージが法を超えた道徳の問題であるからか、何故かそこに触れたがらない。
だが規範意識の高いか低いかは、法の問題ではない。道理道徳、品性の問題である。法の理念は「正義の実現」にありというが、今日の裁判事例を見ると、司法の現実は、不正義の助長に役立っているように見えて仕方がない。法万能が幅を利かす限り、庶民の常識から見て、正義がこの世に存在するかという不信の念は高まることはあっても静まることはあるまい。正義に実現には道徳は欠かせない。それだからといってマスコミが道理道徳の問題をこわだかに叫ぶことはない。それはわが国のマスコミの未だ戦後のタブーから抜け出せない後進性の典型だろう。
ノブリス・オブリージ、それは一朝一夕で芽生えるものではない。道理道徳を捨てて余りにも長い年月が過ぎた。道理道徳は理屈ではない。理屈以前に人間の心に根付かせるものだ。教育の重要さがここにある。道徳頽廃の病巣が歪んだ教育にあることは自明であり世の識者の憂うるところであった。だが漸くにして、信念と勇気ある政府が出現した。安倍政権の戦後レジームからの脱却の決意は頼もしい。曲がりなりにも政府の教育基本法改正案が国会の通過を見たことはいずれの日にか日本人の心に道徳心復興の期待を抱かせる。
(平成19年9月12日安倍首相辞任)
2007.07.13 (金) ノブリス・オブリージ
人の噂も七十五日、最近、世間を賑わせた自衛官の収賄事件や防衛大学校出身企業家の介護保険不正請求事件も、もはや世間の関心事ではなくなった。確かに、犯罪性から言えば世間によくある事件の一つに過ぎず、話題性から言っても、マスコミの関心に事欠かない出来事は後を絶たない。
だが、私には、自分の歩いた世界と関わりのある人間の事件だけに、ただ世間一般によくある事件の一つと言ってすまされないものを覚える。確かに、近時、総理の犯罪が世を騒がして以降、世の中には何でもあり風潮が瀰漫し、政治家、官僚の金銭汚職や教師教諭の児童生徒相手の性犯罪にはもはや驚かず、社会的にそれなりの地位を有し責任を負うべき医者、弁護士、大学教授等や法の番人たるべき警察官、検察官、裁判官等、特に国家公務員による犯罪が、小は軽犯罪から大は放火殺人の重犯罪にわたり日常茶飯化してみると、往時は反自衛隊と組織叩きのマスコミの好餌となった自衛官の不祥事や犯罪も相対化し、お陰というべきか感情的な自衛隊叩きが影を潜めてしまったのは喜ぶべきことなのかもしれない。だが、ことの本質は喜んで溜飲を下げて済まされる問題ではないと思うのだ。
本稿執筆中に、元公安調査庁長官の朝鮮総連本部建物をめぐる偽装売買事件が明るみに出て衝撃を与えている。事件の真相は司直の解明に委ねられているが、そもそも国家の治安に任ずる機関の長であったものが、今は一市井の弁護士とはいえ、非公然活動の巣窟として監視していたその曰くつきの組織の延命に手を貸すという、いわば反国家的行動は、自ら弁明したその組織の陥った本拠喪失の危機の法的救済という名分を些かも正当化するものではない。かような、公務員による犯罪、とりわけ国家の骨組みを支えるエリート層や、指導者の逸脱行為や犯罪は、ノブリス・オブリージ(高貴な身分には義務が伴う)が、最早当事者達には無縁なことを物語っている。それは法治国家の健全性云々以前に国家の品性が問われる問題でもある。
2007.06.17 (日) 政治家の自裁
もう旧聞に属すが,前農林水産大臣の自殺は確かに異常な事件であった。それまで金に纏わる疑惑に説明責任を果たさないことを非難していたマスコミがその予期せざる死に直面して動転したか一転その死に同情し、非難の矛先を安倍政権に向け、死者に説明責任をさせなかったと非難をはじめたのは滑稽なほどに異常であった。
死者に鞭打つのはわが国の文化(や宗教)に馴染まないが、それはわが国の美質として大切にするとしても最も理性的であるべきマスコミが理非の判断を回避するのみならず安直に大衆の情緒に迎合し恬として恥じないのは見下げ果てた根性だ。政治家の自裁は情緒ではなく理性で理解さるべきであろう。政治家とは芸能人やスポーツ選手ではなく況して道徳家や聖人君子ではない。権力闘争に命をかけた人種なのだ。人類の長い歴史の中で権力闘争はルール化されたが本質が敵の抹殺にあるのは変らない。
今の世の中で物理的に政敵の命を殺めることは許されず、また自らも敗北で命を捨てることもないが、自らの政治的敗北を自ら裁くことは誰も止めることは出来ないだろう。なぜなら、その本人の生き方、死に方、人生観、死生観と深い関わりがあることだからである。しかし、生こそが善という世の中では政治家の死も残念ながら動物愛護の次元での死ほどにしか意識されていないと言うのが本音だろう。当然ながら政治家だから善人度も悪人度も交々だろうが、政治家の自裁は全人格かけての覚悟の上での死であると理解すべきではないか。小学生の発作的な死ではないのである。仮にその死を悼む気持ちがあるのなら、その死の意味を考えてやることこそが、その政治家へのせめてもの供養と言うものだろう。
2007.06.13 (水) 「廉恥」が読めない
年はとっても世相世情には疎くないと思っていた。が、その確信が揺らぐ事態に直面し、衝撃を受けた。場面は史学の教授を中心とした若い教職員のさる研究会である。故あって私も加わっていた。談たまたま「徳目」に及んだ時、ある職員が、忠誠、信義、礼節、等いくつかの二字の漢語が並んでいるのを見て言った。「しんゆう(真勇)とはどういう意味ですか」と唐突な質問をした。呼んで字の如し「まことの勇気」としか言いようがない。
だが念のため、「蛮勇」の対語だと説明しても、本人は浮かぬ顔、さらに、蛮勇とは、奮うべきか否かの判断もなく奮う勇気のこと,真勇はその反対、どちらかといえば静かな理性的なものと説明を加えても、表情は一向に冴えず誰が言い出したのかと、挙句の果てには、そんな言葉あるんですかとくる始末。「辞書を見てみろ」とは言わなかったが、絶句した。さらに隣にいた若い研究員が言った。「これも(廉恥)れんちなんて読めませんよね」と。漢字が読めなくて意味が分かるわけがない。況して本人に廉恥心などあろう筈がないと思わざるを得なった。言葉が死んだのか。教養の問題か。正直、悩んでしまった。
徳躁とか実践陶冶など己の人格を磨くことなど、所詮、無縁のものなのだろう。彼らの育った時代背景に同情が及ばなかったわけではないが、教える立場の教官や研究者の卵が、自己の無知を恥じることなく,もっと分かりやすい言い方はないのかと開き直るあたり、その幼稚度に呆れるより国語力の低下も此処に窮まれりかとの思いに打ちのめされた。
2007.06.09 (土) 塩野七生の世界
塩野七生の世界に嵌った一ヶ月であった。ローマ人物語15巻、「ローマ帝国の終焉」を残して読了した。先ず感じたものは、よくもまあー根気があったものだということであった。年一冊15年は流石に長い。語り尽くされたものの写し直しなら15年はいらない。作者の探究心が自らの歴史を作り上げるのに必要とした時間だったのだ。読んだ全てが新鮮だった。 私にとって幸いだったのは,遅れてこの世界に入っただけに纏めて読めたことである。何をおいても面白い。作者はこの書が歴史学者や専門家の歴史への挑戦となることを自覚して臨んでいる。
そこには史実と史実をつなぐ作者の奔放な推理が羽ばたき、人物がその時代と世界の中で思索行動する姿が描かれている。人物の中心は皇帝である。だが、ローマ帝国の興亡史に入るには、帝国の姿を知らなければならない。それは東洋的な専制君主国ではない。長い共和制から生まれた帝国で、エスタブリッシュメントの元老院の中から選ばれローマ市民によって認知された市民の第一人者の統治する国である。帝国の拡張と発展は、敗者の抹殺奴隷化と収奪に基礎を置くのではない。敗者復活と共同反映の寛容の精神を原理とする蛮族開化政策の当然帰結なのだ。
そこでは、ローマ法が納得できれば民族の神々と生活習慣は干渉されず、インフラと安全保障は整えられ交易増大と経済発展により属国領民の福祉と繁栄は保障される。ユリウス・カエサルによって基礎が築かれた帝国はアウグストウス帝によって磐石となり、ハドリアヌス、賢帝の世紀を得て、全盛期を迎える。
が、帝国の統治は皇帝の資質と力量に負うところが多かった。帝位は元老院とローマ市民の認知必要としたが、終身の身分は暗殺によってしか替えられなかった。やがて頻繁な皇帝の交代は混迷の時代を招き、税収増大化策に取り入れた属国領民へのローマ市民権付与政策は領民の堕落を招き、帝国への求心力を弱め帝国統治の原理を揺るがすことになる。帝国の衰亡化への過程を描く作者の筆致には限りなく哀歓が漂う。
2007.05.06 (日) 抗えない改憲の流れ
憲法がおかしいと言うのは今や国民の常識、その関心はもっぱら自前の憲法を如何するかというところに向いているいる。この大きな潮流は何ものも止めることは出来ない。まともな国家に目覚めた国に興っている自然の潮流だから。だが、この常識と関心から最も遠いところあって己の殻に籠り何の開明性も生産性もない自閉的な言辞を玩ぶ奇怪なメディアがある。
今日のサンプロがそれを炙り出して面白い。最近の例により政府叩きを止め、読売毎日朝日三紙の論説主幹を集めて、憲法改正是か非か、九条二項の扱いを巡って論戦させるでなく、その主張を聞くという手合いである。念が入っている、その後で大勲位中曽根氏との対談と来るのである。
その企図は差し置くとして、朝日毎日の言い分である。憲法改正の是非に本心は非でありながら非と言えず、世論の大勢に逆らい難さが滲み出ている。九条に至っては世界の歴史遺産と言ってみたり、自衛隊は良いが軍隊は駄目といったり、およそ時代の変化も世界現状も視野にない支離滅裂な言語の羅列、挙句の果てに、何故今の動きに反対するかと問われて吐いた、安倍首相の政治姿勢が危険だからとの言い草には、得意の世論誘導も儘ならずの誇りを傷つけられ理性を失った新聞の形振り構わぬ姿が透けて見える。
なるほど政権批判が新聞の使命というのはよい。だが、それは公約違反か失政の場合だ。政治姿勢を攻撃するのはフェアじゃない。そもそも安倍首相の出現はその政治姿勢への世論の好感が齎したものだ。批判するなら戦後体制からの脱却を願う危険な国民の声であるのが正しい。だが流石に国民の声を敵にする勇気はない、己の錦の御旗なのだから。そこで首相の人格攻撃に走って馬脚を現した次第と言うわけか。見下げ果てた根性だ。ともあれ、朝日毎日、程度のさこそあれ、自分達の安住と受益の砦、戦後体制、の風化を恐れる様は尋常ではない。そこに新聞の正義を見るのは難しい。
2007.05.01 (火) ◆縮み志向
どうも御しがたい性向がある。縮み志向である。周期的に訪れる。特に、食うための仕事を離れてからは、意識することが多くなった。考えて見れば、わが半生、自分の本当に熱中する世界はどこか他にあるとの想念は一時として消えることはなかった。仕事に熱中している間はよい。だが、ひと仕事終えるとその想念は鎌首をもたげるのである。別の世界に安住の住処があるわけではない。だが、住処を探したいという欲求は断ちがたく現実から遠くに身を置こうと縮むのだ。 だから、縮みに徹しきれない。縮んだ先が怖いのだ。勇気がなかったというのが正しい。
そこで費やしたエネルギーは如何程だろう。この精力を只管伸びる方向に振り向けたらも少し増しな人間になっていたのではと思わないわけではない。だが伸びるだけなら逆境に弱い萌やしみたいな人間になっていたかも知れぬ。順風満帆の人間を見て思う。人間としての襞と深みである。のっぺらぼうの人生で人の心の痛みは分からない。縮みがあって今の自分あるのだと慰める。それにしても、人生の峠を過ぎた今、縮み志向にも別の意味を考える。
2007.04.30 (月) 近視眼的政権批判
「報道2000」で安倍訪米を話題にしていた。相も変らず、成果を問うと言うよりどのように扱われたかと、受けた処遇や評判を気にする議論が中心。それも論ずる価値がないと言うのではない。だが、その先の議論が情けない。その受けた処遇と評判で安倍政権の値踏みを平気でやっている。なかでも、頂けないのは元大蔵官僚でアメリカの代理人よろしくビッグバンで日本経済を混乱に陥れた張本人の言である。
どうやら、安倍氏の戦後体制脱皮の政治姿勢と物の言える日本が生理的に受け付けないらしい。ほかの論者が政権の値踏みをそれでも個々の場面で論じているのに、一人得意然と売国メディアの言い分丸呑みのような記事を特集したニュウズウイークという一週刊誌を持ち出して、まるでアメリカ中に安倍批判の渦が逆巻いているかのように、安倍政権批判を展開したものだ。その口吻ぶりは、罪は安倍個人の右翼そのものの政治姿勢にあると言わんばかりだ。安倍氏に何の恨みがあるのかとも聞いてみたくもなる。
その政治姿勢をいまさら問うて何になる。その姿勢を明らかにしてなった首相なのだ。御仁の「慰安婦問題」や「拉致問題」に対する考えや姿勢は、所詮真っ当な歴史的な視野もなければ真の愛国心もない、時流に目聡い近視眼的情勢屋やのそれに過ぎない、といえば言い過ぎか。ただ番組の終わりに常連コメンテータ氏が、御仁のパフォーマンスを窘めるかのように安倍氏の政治姿勢はヨーロッパや東南アジアでは、「主張する日本」と評価するメディアがあると結んだのは救いだった。
2007.04.29 (日) 「主権回復記念日」
小堀桂一郎氏の時流マスコミに超然たる孤高の卓論はいつものことながら問題の核心を突いて言葉を持たぬ憂国の民を元気付けてくれるが、4月28日産経紙「正論」では、氏の持論たる「主権回復記念日」制定の意義に新しい視点が提示されている。氏の的確な事実把握と正確無比の言語によって組み立てられた整然たる論理は俗論の軽薄な主張や反論の付け入る隙を与えない。氏は、米軍占領下における「祝日法」が、審議段階において政府呈示の原案にも「将来の平和条約締結日」を新たな国民の祝日にするという意見が入っており、元旦、紀元節、天長節等当然自明と見られる祝日についで祝日候補日として70%の支持を得ていたのでありこのたび実現した「昭和の日(4月29日)」の制定の驥尾に付し「主権回復記念日」の制定は官民挙げて深思熟考の糧とすべきと提起している。
勿論その提案が単なる復古主義や懐古趣味とは無縁のものとして「昭和27年4月28日のサンフランシスコ条約発効の日こそが日本国が敵国軍隊による占領を解除されて独立国家主権を回復した日として重要」であり「独立国家主権の尊厳を確乎として認識」することは「世界全ての国家が有するそれぞれの国家理性に基礎おいた国是たるべきものであり、その自覚は常に国民にとって必須の要請だからである」と言うことを忘れていない。
2007.04.28 (土) 安倍政権の対米発言度
西尾幹二氏は首相就任後の安倍氏の言動を捉えて「保守の星」安倍氏への失望と保守の本当の声を結集する政権への期待を表明している(産経28日)。氏も自らの言説が冗談と受け取られることを見通してのことのようだが、その容赦ない失望の表明は、重厚な保守主義論者として「あるべき国の姿」を安倍政権に賭けた氏の期待の大きさを物語っている。確かに、中国温家宝の来日前後と訪米を前にしての、歴史認識や慰安婦問題での後退とも取れる少なからぬ発言には、氏ならずともそこまで自分を殺すこともあるまいにと思えるところはあった。だが見渡して安倍氏に替わる旗印が見えるのか、政権つぶしに虎視眈々たる敵は近くにいるのである。国内のマスコミに足をすくわれては元も子もない。
言うまでもなく、アメリカに物言えてこそ「あるべき日本」という意味では、小泉流に、まず敵を峻別し原則を明示し、信念を貫く法があった。アメリカでの慰安婦決議案騒ぎや、対北朝鮮制裁後退に直言、抗議のオプションはあったのである。その反応反響も受けて立つ気概と覚悟無くば、事態の好転は期し難いのだから。だが、双葉マークの安倍氏には今の選択はそれなりの選択だったと大目見ることも出来ようし、三行半なら首相の資質を見とどけてからでも遅くないのではあるまいか。
2007.04.23 (月) 歴史に挑戦する「物語」
キリスト文明によって窒息させられたギリシア・ローマ文明とは、現代文明に勝るとも劣らない文明だったのだ。とりわけローマ帝国は帝国主義とは無縁の普遍世界国家であったという塩野七生氏の主張と見解には瞠目させられる。氏は浩瀚な史書に当たり今に残る遺跡遺品実地踏査の上、実在した皇帝や人物を甦らせている。氏の才幹と該博な知識の蓄積が鋭い感性と豊かな想像力に支えられて織りなす「物語」は読む者をして厭かしめない。
氏は自らの作品を敢えて「物語」と称し、無味乾燥の歴史学書に挑戦している。だが、ふんだんに史料扱うなど、軍事の素人と言いながら、駆使する軍事史料の咀嚼力と戦理推理の的確さは玄人の軍人をも辱めるものがある。文献学と実証主義で部分や特定テーマを扱った史学では、決して描けない歴史なのだ。ローマ帝国の興亡世紀、日本では、文字はおろか国家らしい国家も形成されていない時代である。文献に乏しいわが国古代史に、哲学と文学を駆使して、津田左右吉の史観に挑戦した梅原猛氏の一連の著作を読んだ時の興奮を思い出す。だが、ローマ史には、シーザー、ティベリウス、キケロ、タキトゥス等々、同時代に生きた人の著作や同時代史がある。ローマ史を扱った優れた研究書や書物が世界に多いのも頷けることだ。
2007.04.22 (日) 「ローマ人の物語」
面白さに惹かれて塩野七生氏の「ローマ人の物語」を読んでいる。この話題作にめぐり遇ったのは文庫本であった。周回遅れもいいところの読者である。そのおかげでと言うべきか、多年にわたる氏の大作シリーズを纏めて読む幸運に恵まれた。このところ、「ユリアス・シーザー」「悪名高き皇帝たち」「危機と克服」「賢帝の世紀」と一気に読んで、歴史とはこんなに面白いものなのかと改めて思い知らされている。そこにはローマの世界帝国を作りパクス・ロマーナを成し遂げた英雄や皇帝たちが躍動している。顧みれば、教科書で歴史を学んだほかは、市販の歴史全書と個別テーマの新書本の類で、凡そ古典に属する著名な史書に直接触れたことはない。わが頭の中にあったローマ帝国とは、ロゼッタ石に刻まれたエジプト古代王国の延長上での理解であった。恥ずかしい!シーザーの「ガリヤ戦記」くらいは翻訳の文庫本でも覘いておくべきだった。
2007.04.16 (月) 核論議と対米自立論
岡崎氏は「核戦略論序説」と称する論のイントロの部分で、「日本核武装論は日米同盟の枠の中で考えねばならない」と氏の立場と主張の枠組みを極めて明確に述べている。それは氏の日米同盟を機軸とする現実的な安全保障論と基を一にする。その当然の帰結だろうが、現在わが国の核論議に見られる戦後体制脱皮のための対米自立論を捉えて「このままでは日本はいつまでたってもアメリカの従属国だ。真の独立国になるには核武装しなければならない」と言う議論あるが、これは単なる欲求不満の感情表現か、すねかじりの息子が自分用の車を別に欲しいと我が儘いっているようなものだと入り口一蹴の過敏な反応を見せている。要は非現実と言いたいのだろうとは思うが、わが国の左右両派に根強い核アレルギーを配慮してか、アメリカの怒りを本当に恐れてか、はたまた自説を死守せんと身構えてのことかと疑ってしまう。
対米自立論、それ自体戦後体制で喪失した国家の自立心回復志向の議論として究極的には氏の信ずるところに収斂すると思えるのに排斥する理由があるとは思えない。政治は現実である。狭隘な対米自立論ないし過激な反米独立論の現実化は想像しがたい。氏自身、若し核を持つなら、との前提で米国の懸念を招かない英国型とまで言い及んでいる。正論大賞に輝く氏のことだ。氏のアングロサクソン重視論が揺らぐことはあるまい。核論議にはもう少し寛容であっても良いのではないか。議論自体に国民の覚醒を促し、世界の見る目に変化を齎す効用があるのだったら。
2007.04.15 (日) 核武装論は本質論で
日米同盟論者の岡崎久彦氏が、先に盛り上がるかに見え萎んでしまったわが国の核武装論議に自らは加わることを躊躇してきたことの弁明とも取れる記事「核戦略論を考える」を読売のコラム「地球を読む」に寄せている(読売4・8)。氏はその理由として「それほど急いで考えなくてはならない問題ではないとの基本的判断が背後にあったから」とも、また後世の批判に耐える核戦略論を書くには技術論も含めて準備不足と思ったから」ともし、それ(今考える必要ない?)が(将来はともかく)その記事の結論でもあるとしている。それはそれで納得できるにしても、今考える必要ないのに、「核戦略論序説」と称する論を展開しているのはどういうことだろう。氏の「核戦略論」の構想が固まったということだろうか。それともここは氏の立場を明らかにしておく必要があったというのだろうか。核戦略論はともかく、論ずる(考える)ことが早いか遅いかが主たる論点というのは核武装論封じか本質論の回避に映るがどうだろう。議論に早いも遅いもないと思うのだが。
2007.04.13 (金) 米議会調査局と慰安婦決議案
「慰安婦」という単語があると、その事実歪曲の悪意のプロパガンダとの戦いに巻き込まれた
苦い体験からどうしても目が留まる。12日産経紙の「慰安婦」と言う文字に目を留めると横書きのタイトルで“米下院「根拠」虚構”とあって二段目に“米議会調査局、議員に報告”とある。米議会調査局とは馴染み薄い機関だが、米国議会に関連議案に関して調査報告するところらしい。古森義久記者の報ずるところによると、その米国議会米国議会調査局なるところが、例の対日慰安婦非難決議案で加熱する議員向けに、いわゆる慰安婦なるものは「軍や政府による強制徴募はなかった」ことを証する調査報告書を作成していると言う。それが熱冷ましになるのかどうかは疑問だが、無知の議員には何がしかの影響はあるだろう。アメリカにも
一片の良識が議会の足元にあったのかと救われる気がする。
だが、ここで忘れてならないのは、ともすれば悪意のプロパガンダに踊らされ軽薄独善に走りがちなアメリカでその一部とはいえ良識が蘇った思える背景には、邪心なく正確で詳細な事実に基づく情報を送り続けたわが国の言論人の弛みなき努力が効を奏しているのだろうと思わざるを得ない。それは、自虐と謝罪と阿りに固まったマスコミや文化人の影響では決してない。わが国で、
孤立を恐れず勇気をもって日本の主張を発信し続ける人々の労が実って来ているのに間違いはあるまい。
2007.04.12 (木) 温家宝の来日
好々爺の風貌物腰や代々木公園をジョギングして大極拳で愛嬌振りまく姿は親善友好ムードの演出にピッタリだ。だが、まともな日本人なら、このたびの訪日が日中関係の真の改善を狙ったとものと浮かれる人はあるまい。今日の国会での演説は、友好に名を借りた説教であり長さといい内容と言い、およそ親善外交の節度を逸脱したものである。案の定、歴史問題にくどく言及した。「歴史問題は民族感情を操作する道具であり、中国共産党にとって国内的には政権求心力を高め、対外的には政治経済上の利益を勝ち取る手段である。」と元天安門民主化運動リーダーの一人は認めている。
その点十分に計算し尽くされたもので、向こうのテレビには当人の一挙手一投足が放映さているようだ。 問題はこれを受け止めるわが国である。ゆめゆめ向こうの思いのままに靖国と歴史で呪縛されて金と技術を持っていかれてはなるまい。呪縛の効き目があればあるほど手にする獲物も多い。親善友好とは日本外交にとって最終目的であるが、中国にとっては目的達成のための単なる手段に過ぎない。前例がある。櫻井よし子氏は、臍をかんだ中曽根首相の悪夢と竹下首相のODA大盤振る舞いの教訓を慙愧を込めて警鐘を鳴らしている。
2007.04.09 (月) 都知事選
石原都知事280万票で再々選!結果で騒ぐほどのニュースでもない。二期八年の都政にもそろそろ飽きが来て変化を求める気分はあったろうが、出てきた駒が駒でとても対立候補と呼べるような代物(浅野元宮城県知事160万票)ではなかったというのが正直なところだろう。それにしてもである。石原都政を評価するに共産党の粗捜しに便乗するしか拠るべき基準を持ち合わせなかったマスコミの低劣さにはうんざりさせられるものがあったが、都民の良識は都知事の勝利の弁どおり健全だったようだ。
強気が取柄の石原氏が石原叩きに配慮を見せる戦いを演じた背景には、大衆の気まぐれとマスコミの偽善を知り尽くした選挙参謀の巧みな戦術指南があったのだろう。政治家とはほとほとご苦労な商売と思わざるを得ない。塩野七生氏は(ローマ人の物語)の中で「音楽や絵画のプロには愛好者はいても批評はプロ(評論家)の領域だが、政治のプロは素人の審判を受けなければならないから可笑しなものだ」と言うようなことを述べて衆愚政治の本質を喝破している。
2007.04.01 (日) 桜と日本人
桜が日本固有のものと言うについてはそれが栽培種であるとの理由で渡来説があるようである。だが有史前はともかく古来桜が歌にも読まれ、春の花見が広く貴族庶民の楽しみの一つとして行事化し、この花が日本人に好まれ日本の生活文化に深く溶け込んでいたのは明白で、“かな文字”が日本固有のものとされる同じ理由で、自生の桜がわが国固有の花と言うのに異論を挿し挟む余地はあるまい。
今日、法の定めなく国花とされているのは、その歴史的慣習が明文化の必要性を超えているからと思われるが、桜の高雅優麗な姿かたちとその淡い匂いの心地よさに加え、一陣の風にも無防備で身を任すその散り際の潔さが日本人の心性にぴったり合ったからだろう。
桜と日本人の心性については新渡戸稲造の「武士道」(矢内原忠雄訳)が熱く語っている。西欧人が讃美するとされる薔薇は、「甘美の下に棘を隠せること、その生命に執着すること強靭にして、時ならず散らんよりもむしろ枝上に朽つるを選び、あたかも死を嫌い恐るるが如くであること、その華美なる色彩、濃厚なる香気・・・・全てこれ等は桜と著しく異なる特質である。わが桜花は衣の下に刃をも毒をも潜めず、自然の召しのままに何時なりとも生を捨て、その色は華麗ならず、その香は淡くして人を飽かしめない」と。
2007.03.30 (金) ◆上野の山は満開
昨日、上野の山は満開だった。天気上々、温度も上がる。仕事仲間と花見と洒落込んだ。話に聞いた花見の名所というだけあって平日というのに若者や学校休みの家族連れの客でごった返していた。流石に美術館から西郷さんの銅像に到る道路の両脇は桜花爛漫、花の下には夜桜鑑賞用の場所取りがなされ、先発組みの中ではすでに酒が回っているところもあった。こちらはスマートに花のアーケードで気分を味わい御徒町に出て一杯やったという次第。
こんにち、花見といって子供の頃の雰囲気をしのぶことは難しいが、花の下の人々の屈託のない楽しげな風情を見ていると、桜には日本人の心を和ませるなにものかあり、その愛着と美意識に深く結びついているのだなあとしみじみ考えさせられる。“敷島の大和心を人問えば、朝日に匂う山桜花”である。昔の日本人は感性豊かであった。
2007.03.28 (水) ◆汗かいて味わう生の喜び
汗をかくよろこび。文字通り身体を動かして汗をかき、汗の後に味わうえもいわれぬ疲労感は何物にも代えがたい。喜びはそれに止まらない。単調になりがちな一日の生活にリズムが蘇り些細な思索や仕事にも意欲が沸いてくる。むしろ、汗への拘りはこちらの誘いが強い。一日40分駆け足、40分腕立て腹筋懸垂を含む柔軟体操、その他準備整理運動10分合計90分の運動で、身体が引き締り活力が復活、その結果として、食事が旨く、風呂が楽しく、坂道階段が苦にならず、鈍った頭が活性化する。今そのことを喜びとして実感している。確かに、運動を控えたこの一年半、風呂が億劫で、食事は惰性、鈍った頭で時間を空費し、坂道階段が苦であった。この90分、今の身体に無理はない。何処まで続くか、気の衰えは感じない。
2007.03.25 (日) シーザーとキケロ
この週末、遅ればせながら塩野七生の「ローマ人の物語」のユリウス・シーザーを文庫本で読んだ。氏の文章にはこれまで雑誌その他で触れた程度でこの「ローマ人の物語」のシリーズもの以外これと言った纏まったものを読んだこともないが、その論旨明快な文明論の痛快さはその男性的な名前とともに印象深く残っている。氏のイタリア学の造詣は凡人の及ぶところでないが、他国の歴史を扱ってそれを読み物として読者に読ませる力はとにかく凄いという他ない。
本の魅力は実証的に歴史を語りつつ、随所に現代文明批評が鏤められているからだ。特に日本人には現在のわが国の政治状況が歴史の教訓に照らし出されて興味尽きない。この巻で作者は、シーザーの人物像を余すところなく描きだし、愛情込めて理想の指導者と讃えている。彼は有能な軍人であり、政治家であるばかりでなく当代ローマ世界で第一級の文人であり教養人であった。ローマには彼が幾たびか裏切られつつもその知性と政治的行動力を認めたキケロがいた。
作者は比較して言い切っている。共に、当代随一教養人で知識もあり、文章家で、雄弁家でもあったが、キケロには、政治好きではあったが元老院の既得権喪失を恐れ新しい時代を読む先見性がなかったのだと。最後にはシーザー暗殺グループ弁護に回り、刑死する運命にあった。先見性、然り!それは政治指導者を志すほどのものには必要欠くべからざる資質である。
2007.03.22 (木) ある自衛官の転進
若い自衛官が栄達の道を断って、選挙に打って出る。政治家を志してのことだ。今日、その激励会で本人の悲壮な決意を聞いた。悲壮なと言うのは筆者の思い入れもしれない。世間的には動機が何であれ、自ら決した鮮やかな転進であることに相違ないからだ。それはスリリングな一人の人間の生き方として誰もが真似のできるものでなく、その勇気と決断は幾ら敬服し賞賛してもし過ぎることはない。過去にささやかな関わりを持つ者として、心から応援しその成功を祈りたい。
本人は語った。現場の声を国政の場に活かしたいと。政治の怠慢から生命のリスクと日の丸を一身に背負ってイラクで大役を果たした男の言葉だけに真実に迫るものがあった。だがそこから先は政治の世界である。政治の論理は数だ。彼の純粋な愛国の志も政治の世界では数に還元されてしまう。集まったプロの政治家は言った。自衛隊が一人の代表も国会に送れないようでは組織の恥だと。数がなければ愛国の志も絵に描いた餅だ。それは残念ながら現下のわが国の政治状況では真理である。運動はこの延長線上にある。
だが、“矛盾の組織”でもがいてきた身には割り切れないものが残る。数の政治で一国の国防がまっとう出来るのか。国防は、名誉だけを信じ身命を賭けた崇高な集団でなければまっとうできまい。自衛隊は人間の欲望渦巻く利益集団ではない。本来なら利益代表まがいの代表は要らないと言うのが正しい国家のありようではないか。崇高な使命の集団が、そうでない現状を正す為とは言い条、崇高とは程遠い政治に手を染めさせられている絵は、“政治的活動に関与せず”の次元を越えて、あるべき国家の正しい姿とはどうしても思えない。このことだけは心に留めておきたい。
2007.03.21 (水) 安倍首相の餞のことば
3月18日防大卒業式で異例とも言える訓示をした。それは従来の味も素っ気もない“通り一遍の軍事情勢をなぞって日米安保自讃に終わる作文”ではなく、すくなくとも阿部と言う日本国首相の心の見える血の通ったことばが鏤められていた。チャーチル回顧録からの引用の日本語訳が、十分聞き取れなかったが、
「足して二で割る決心」は危機的状況下で致命的な結果を齎すとのことばが強く印象に残った。以下はそのくだりを正確に書き取った
阿比留瑠比さんのブログからの模写引用である。安倍氏の心事を語って尽きない。(カラー字化は筆者)
(前略)諸君は、将来、自衛隊の幹部として様々な部署で活躍されることとなるわけであります。そうした諸君に、餞に次のことを申し上げたいと思います。
それは、「
思索し、決断する幹部であってほしい」ということであります。
チャーチルは、その回顧録(「第二次世界大戦」第一章「勝者の愚行」)でこう述べています。
「
慎重と自制を説く忠言が、いかに致命的危険の主因となり得るか、また、
安全と平穏の生活を求めて採用された中道は、いかに災害の中心点へ結びつくかを、われわれは知るであろう。」
ここには、チャーチル独特のレトリックもあるのでしょうが、チェンバレン内閣がとった宥和政策を始め第二次世界大戦に至る様々な事件を自らの体験に照らした上での含蓄ある表現だと思います。
特に申し上げたいのは、諸君が将来直面するであろう「危機」に臨んでは、
右と左とを足して二で割るような結論が、こうした状況に真に適合したものとはならないということであります。様々な情報を幅広く収集し、情報を的確に分析し、時に応じて自らの信じるところに従って的確な決断をすることが必要となるのです。(後略)
2007.03.20 (火) 六カ国協議進展せず
絵に描いたような展開だ。昨日、アメリカが北朝鮮の言いなりにBDA凍結口座の全面解除した時、この問題で著名な専門学者は、米国の全面譲歩はこれまでの六カ国制裁路線の腰砕けを意味するも協議の進展では評価できるとコメントしていた。この評価、北の参加拒否で動かなかった今日の協議にどう落とし前をつけるのだろう。
見え透いていたことではないか。第一、“協議の進展”と言うくだり、対話願望論者でなければ見えない景色だ。対話で事が進まないから、制裁が出てくるのに、制裁引っ込み対話に戻ったというのに事が進んだと評価するなど、およそ学者にあるまじきことだ。喧嘩に耐えられない日本の学者には、対話は妥協と平和の万能薬と映るのだろうが、ならず者の国には、難癖つけてただの時間稼ぎか、更なる無謀な譲歩を引き出すための機会でしかない。よくよく覚えあれ、今日の参加拒否はほんのその小手試しに過ぎないということを。
2007.03.19 (月) BDA凍結資金の解除
大方?の部分解除の予想と期待を裏切り、ブッシュ政権は凍結中のマカオのバンコ・デルタ・アジアの北朝鮮取引口座2500万ドルの全面解除に踏み切った。すでにアメリカが調査結果と称してその不法性を取り消しその処置をB・D・Aに委ねた時点で結果は予測できたことである。
それは、アメリカがなんと釈明しようと、その大きな賭けの裏に再制裁の担保があるとは言いきれず、譲歩や約束履行の保証の有り得ない北朝鮮から見かけだけでも変化を求めたいと打って出た、後戻りのない敗北の取引と言った方がよい。独裁者の戦略判断を誘い、解除資金の使途を人道教育に限ると言ってみたところで虚しく響くだけだ。
今更めくが、追い込む立場から逆に追い込まれた立場に逆転したら、頼りにしていた友人の困惑などにはお構いなく平気で振り上げたこぶしを下ろせるところなど、流石に鉄面皮のアメリカらしい。頼むにたらざるところを頼んで地獄を見ないよう日本の針路を説く政索献言者や要路の為政者に願いたいところだ。くれぐれも尻軽の言論屋や評論屋の妄言に惑わされ、米中ペースに乗ったり、対北制裁に手加減加えたりすることのないよう。
2007.03.18 (日) 防大卒業式
防衛大学校をこれほど愛おしく感じたことはない。ここを振り出しにわが半生を終えた身である。素性を語れば理解して貰えよう。だが、私にとっての母校はこれまで記憶のかなたに翳んだ思い出に過ぎず感傷に浸ることもなかったものである。 しかるに、このたび学校の卒業生(8期生)に対する卒業式(51期生)への招待行事に参加して見て、凍てついた心に春風の吹くのを感じた。
ここに到るには先立つ話(
「槇校長と八期生」)もあるのだが、43年前とは様相を一変した新設の講堂で、母校を愛おしく思わせたものは、式場風景でもなく、過去の自分を重ね合わせた学生の風姿でもなく、校長式辞、首相訓示、来賓祝辞であった。正直なところ、槙氏以後の校長を学校の顔や管理者としてはともかく教育者と思ったこともなく、況してや首相訓示などに、防人の高邁な徳操など期待したこともなかった。
が、五百鬼部校長には伝統と学生像に触れるところがあって
教育者の理想が見えたし、下僚の作文に引きずられない安倍首相の訓示には
自らの強い意思が感じられ、軍人と言う用語を躊躇なく使い武人の心がけを説く山崎正和氏の話には他人の顔色を恐れない
毅然たる勇気があった。この学校も捨てたものではない。本来のものになる。そう思うと急にいとおしくなった。
今はこの気持ちが本物になることを祈りたい。それにしても貧相を極めたのは、初代防衛大臣の訓示であった。残念ながら、そつのない事務官僚の作文としか言いようのない朗読には、何一つとして訴えるものがなかった。
2007.03.16 (金) 米朝交渉
アメリカの譲歩が懸念されている。凍結されていたマカオのバンコ・デルタ・アジア銀行口座の解禁である。六カ国協議のテーブルに引き出すだけのための代償にしては思い切ったものである。交渉は妥協なければ成り立たないが、犯罪国家をただすのに検察官が譲歩しては、國際正義は成り立たない。
だが、そもそも妥協の有り得ないならず者相手に始めた交渉なのだ。それぞれ相互に抱える内部圧力に何処まで耐えられるかで勝負は決まる運命のものでなのである。結果は見た通りアメリカが耐えられなかったと言うことだろう。
確たる保証のない譲歩の安売り、この結果、ほくそえむならず国家は別として、困る国は何処もないというのが六国協議の欺瞞性である。どこかの国だけが万に一つの強行手段に果敢ない期待をよせていたのは。いまその夢破れて失意の中、その妥協の産物への協力問題が拉致問題を他所にいずれ浮上してくるだろう。その時どうするのか、わが国の正念場は必ず来る。
2007.03.15 (木) マイク・ボンダの正体
15日付き産経は第一面トップでマイク・ホンダの政治活動が、在米中国系住民からの異常な献金に依存しており、中国政府とも胡散臭いつながりを有する反日政治団体「世界抗日戦争史実維護連合会」とやらの幹部との政治共闘関係にあることを古森特派員の署名入り記事で報じている。ありうべきことである。慰安婦決議案の正体見えたり、枯れ尾花である。
このような事実はもっともっと宣伝されてよい。古森義久特派員の精力的な事実追及の取材活動は敬服するに値する。それしても、わが国にこの人一人の能力に匹敵する情報機関ありや。この情報が先に官邸にあれば、決議案騒ぎに先手を打って、いかなる対処も可能であったろうに。信頼できる情報機関の保持! わが国もそろそろ歪んだ情報恐怖症を脱してこれに真剣に向き合う勇気が必要だろう。
2007.03.13 (火) アルメニア人虐殺非難決議案
慰安婦謝罪要求決議案と並び、米下院で、90年前のアルメニア人虐殺でトルコ非難の決議案が採択されそうな雲行きだそうである。そんな歴史的事実を知る由もなかったが、もうこうなると、アメリカと言う国(社会)の奇癖奇行を熟知した上で日頃から多元的で地道な対処を考えるしかあるまい。そういえば、アメリカは人種の坩堝といわれ、様々な国の移民、難民、亡命者などを抱え、それぞれのコミュニティを形成している国だ。これ等の民族人種のルサンチマンを選挙や謀略に利用することは十分ありうることだ。
それにしてもトルコはすごい。このアメリカ議会の動きに、政府が堂々と異議を唱え、アメリカの軍事基地存続に嚇しをかけている。十分にアメリカという社会の特質を捉えた上での対処だと思うがわが国の対応とはえらい違いである。
2007.03.12 (月) サンプロ異変
昨日のサンデープロジェクト、報道2000と際立った違いを見せた。同じ慰安婦問題も、専属コメンテータを桜井よし子女史その他のナショナリストの論客に論破させている。サンプロは先週に引き続き、着実な戦後体制脱皮の流れの中で孤立化を避けるために巧妙に右に舵を切りつつあるかに見える。
2007.03.11 (日) 内弁慶のマスコミ
情報が大衆化した今日、言論の自由と知る権利の前には何人と雖もひれ伏さざるを得ない。マスコミが大衆と政治を思いのままに操つる秘密もそこにある。そこには驕りの影も付き纏うが、その主たる役割が政治権力の暴走と腐敗をチェックだというのに異論はない。 だが、政治権力が穏当で暴走もさしたる腐敗もないのに、特ダネ欲しさに事あれかしと、マッチポンポンプに走り政治や社会を不安に陥れて一人悦に浸っているのは堕落としか言いようがない。
況して、国家を分断するような問題をことさら煽って外国の干渉を招きそれを政権叩きに利用するに到っては、反国家?行動もいいところだ。今日(報道2000)など、慰安婦問題でアメリカの新聞が、安倍政権叩きを始めたいるのを取り上げ、政府(外相)を攻め立てている。アメリカのマスコミが、他国のことを論うのは勝手だがそのことが問題と言うなら、それに反論してみてはどうか。内には威勢がいいが、外には、反論する勇気も力もない内弁慶では他国を利するだけだ。
2007.03.10 (土) 日本外交の転機
慰安婦問題は拉致と並んで
日本の正義と勇気が試されている問題である。敗戦に続く冷戦下では、アメリカと言う大守護神に守られ、国家として難しい判断をすることも、一人苦境に立つこともなかった。いわば国際政治の摩擦を避け、精々大守護神の怒りを買わぬよう、お供え物を欠かさず、守護神の振る舞いに邪魔にならないようにして、せっせと金儲けに奔走し、困った時にはお金をばら撒いておけばよかった。日本の外交はそれが全てであった。それ故悲しいことだが、相手国との
喧嘩(緊張関係)も辞せざる決意なければ前に進まない拉致や慰安婦問題はそもそも日本外交の想定にはなかったのである。
此処に来て日本外交に転機の自覚はあるのだろうか。私事にわたるが、
WVFで慰安婦問題を抱え、その初期上司とともに外務省にその対処の方策につい相談する機会があったが、受けたアドバイスと支援は事実関係には目を瞑り事を荒立てないで、只管アジア女性基金の実績を宣伝することであった。筆者の孤独の戦いはこのときから始まったのだが、状況は十年後の今日も変わっていない。
2007.03.09 (金) 駐米日本国大使の反論
河野談話の亡霊が地球の裏側でさ迷ってる中、日米関係の悪化を憂える政府に尻叩かれてか、わが国の世論を恐れてか、在米日本国大使館(加藤良三大使)が米下院の動きに反論したと言う。だが、その反論たるや、“過去に誠意を持って謝罪して補償しているのに騒がないでくれ”という言わば反論と言うより懇願で、事実関係には全く触れていないのだという。これでは相手の暴論に裏書するようなもので、これから立ち直ろうという今日の日本に何の益するところないばかりか、その害毒は致命的でさえある。
そもそも、今日の混乱が、慰安婦と称する韓国女性16名の証言(聞き取り)の裏付けが全くないに拘わらず、韓国の国内事情に発する理不尽な執拗な要求に屈して、日本軍の慰安所設置、移送への関与と、募集に甘言、強圧が存在したという謂われなき不名誉な非を認め謝罪した河野談話なるものに起因すると言うのに痛切な反省がない。
ここで、やるべきは、原点に戻り、事実を明らかにし誤謬を率直に詫び道理に任せて正々堂々と河野談話を撤回することだろうに、この期に及んでなお、先の政府の発言は重いなどと後ろ向きの姿勢に終始しているような外務官僚は再教育か、首を挿げ替えするしかないではないか。
2007.03.08 (木) 河野談話
米下院の慰安婦決議案の波紋が日本の政治を揺さぶっている。マイク・ホンダの狙いがそこにあるなら、紛れもなく成功している。だがその狙いが奈変であれ、日本国家としての採るべき道は無視か徹底反撃である。だが、その前にやることがある。先ずはその害毒の元を洗浄することだろう。もう古い時代の姑息な立ち回りは無用だ。
7日付き読売と産経は“核心を逸らして議論するな”“一時しのぎのつけがきた”としていずれも、かかる事態を招来した元凶が不用意な河野談話にあることを指摘し毅然とこれを撤回すべきであると主張している。国家の重責を担いその命運を左右する立場にある、一国の大臣たる政治家が、国家の最も困難な舵取りを迫られているときに、反日マスコミと未熟な国の理不尽な要求に屈して一個の政治生命を擲つこともなく最も安易な、最も苦痛を伴わない選択をしたことは幾ら責められても責めたりない。
両紙はそこまで言わないが、その非と誤謬が明らかになっているいま、その元凶たる本人が沈黙して語らず、国家最高権力の一つのポストに安座し続けているのは奇怪としか言いようがない。いまなお本人にその意思も勇気もないというなら、それこそ野党はともかく与党・政府は、人の尻拭いで悩むより、本人にその政治責任をどう考えるか国会の場で質してみてはどうか。外国の言いがかりに構うのはその後でよい。
2007.03.06 (火) ◆固定は死なり
「固定は死なり」。このところ苦しさに耐えてジョギング運動しているときに思い出すことばである。確か独学で語学に熱中していたときに読んだ本の中にあったが、今はともすれば消えかかるジョギング運動継続の意欲に炎を吹き込むマントラになっている。女房は呆れた口調で窘める。年寄りの冷水も良いところ、己の過信で命縮めた例は枚挙に暇ないと。それは分かっている。だが、生きると言うことは、なんだろう? いや難しく言おうと言うのではない、ただ生物学的に言えば、それは肉体が動いていることではないか。勿論脳も含めて。
人は生きるためにあくせく働いている時には思う。働かず頭使わず煩わしさから解放されたいと。だがその願望は願望である限りにおいて、救いとなるが、それがt現実となった老いの身で実践するとなると、老いは深まり、人生の終幕は急速に近づいてくる。なぜなら、身体を動かすことも頭を使うこともなくなれば、生物学的に生きることの意味がなくなるからだ。創造主は摂理に忠実であらせられる。家にいて、テレビ見て、食べてばかりいては,神の恩寵を授かることはできまい。人間動かなくなったらお仕舞である。動くことは生きている証であり、生きるためには動かなければならない。生きる証を掴むために走る。固定は死なのである。
2007.03.04 (日) サンプロと朝日の間
いつも見てる訳でないので、異変というほどのことではないだろうが、今日のサンデープロジェクトは従来のあの確信的な左翼プロパガンダの代弁者から右翼シンパに早替わりしたのじゃないかと思えるほどの変貌振りである。サンプロが朝日新聞から距離を置くような素振りを見せ始めたのはもう随分前のことと思うが、時世の右の流れは大きな潮流となっており、心情的左翼大衆の朝日離れが急速に進んでいるのに危機感を覚えてか、朝日グループのなし崩し的右傾化の道を、新聞とテレビで演じあっているのかに見える。
テレビ出演ゲストの顔ぶれを見れば分かる。ゲストにも、吊るし上げに呼ぶゲストと自社利用のためのゲストがある。後者は露骨に示せない社の方向転換をそれとなく出演者の口を通じて語らせるためのゲストである。
きょうのゲストは明らかに後者である。支持率の低下は安倍政権を叩く材料かと思いきやさにあらず、世耕議員と塩川議員を出して、政権援護に狂奔している。
韓国の某がまた慰安婦問題を持ち出して安倍政権の毅然たる姿勢に言いがかりをつけたらしいがそれを報じたのが、朝日だけであったと塩ジーに公然と批判されても、反論しなかった。サンプロは朝日と違うというポーズが透けて見える。その態度、汚く卑怯卑劣である。昔なら武士道の風上にも置けないものである。
2007.03.03 (土) ◆中仙道信濃路の踏破
年金暮らしの身分でなければ、先ず出来ないことである。軽井沢の宿からはじまり、各宿駅を訪ね、和田、塩尻の両峠を越えて、本山の宿までの約百キロの道を女房とともに12回12ヶ月で踏破した。昔であれば、二日か三日の道程だろうから壮挙というには当たらないが、続けたことに意義ある。
意義があると力むのは、昔の景観がそのまま残っている訳ではなし、つまらないと思って止めてしまえばそれまでのことだからである。歩くこと自体健康との為と言っても、若い者がそれに時間を割いたり、のめり込むほどの面白さがあるわけでもない。そこそこの興味があって、自分で計画したり、調べたり、実行したりしてまではと言う向きに手ごろな小旅行というに過ぎない。
日本の国中,知識として知っていても行ったことのないところが殆どだ。中仙道など、地理で学び歴史で知っていると言っても想像の世界のことだ。それを比較するだけでも価値があった。微かに残る歴史の痕跡から、更に想像は広がり、この旅は楽しんで余りあった。体力絶対の自信が、雪道の峠や岩だらけの山道で女房を前に揺らいだのは、淋しいことだったが。
2007.03.02 (金) ◆夕べの酒
確かに、夕べは飲んで喋って、ともかく自分の感情だけは処理したようで結果としては満足な酒?になった。だが、今朝、目覚めて、声は嗄れ喉が異常、その酒で変わった自分の姿を想像して後味は悪い。近来にない飲み方だった。自己嫌悪に陥り反省すること頻り。
2007.03.01 (木) ◆美しい酒と見苦しい酒
酒、酒には様々な飲み方がある。酒は薬にもなれば毒にもなるからその効用も広い。純粋な薬用、飲料用は別として、楽しい酒、嬉しい酒、悲しい酒、淋しい酒、一人酒、団欒酒、笑い酒、泣き酒、はしゃぎ酒、憂さ晴らし酒、愚痴り酒、悪態酒、自棄酒、酔狂酒・・・・等々、勿論、飲めない人や飲まない人、また酒の席に義理や社交で臨む人は例外としても、喜怒哀楽、人間の感情生活に離れがたく纏わり付いている。だからその感情処理の効用となると、百態百様その効用は飲む人の数ほどあることになる。 だが、傍目には迷惑な酒か、そうでないかの二つしかない。或いは見苦しい酒か美しい?酒かである。
さて、今夜の酒は如何だろう。酒盛りの目的が飲み始めて分かると言う展開、感情は揺れる。勢い、飲み方も感情のままに流されるのは止むを得ない。飲んでる顔ぶれ、得体の知れない仲ではなく、さほど遠慮のいる集まりでもないとの気持ちがあるから、その場の話が堅く望む酒の効用が期待できないと分かると、もう我慢ならなかった。義理や社交でその場に留まる理由はないし、ハッキリしない議論や去就の定まらない意見に苛立ちは募り、ついつい喋りは追求口調となってボルテージは上がる一方、酒のピッチは上がるわで、どう見ても、傍目に美しい酒ではなかった。
2007.02.28 (水) 核武装論
一時高まるかに見えたわが国の核武装論はマスコミの集中砲火浴びて沈静したかにに見える。だが、心ありて真にわが国の現状と将来を憂える者には、核武装いや核武装論議こそが最も象徴的な自尊と誇りの回復策であり、犯罪国家や一党独裁国家の侮りを排撃する最も手っ取り早い手段と映る。核は怖い、もてば危険、金が掛かる、いや被爆国の崇高な願いが打ち砕かれる、等々、どれ一つとして逞しい理性や生存競争渦巻くジャンぐるを生き抜く強かで冷徹な智慧は感じられない。
あるのは、虚弱怯懦、無知蒙昧、商売根性と感傷夢想、更に加えて自己不信である。生活だけが関心の庶民ならそれもよかろう。だが、少なくとも国家の将来を預かることで食を食んでいる者なら、今のわが国で夢想と感傷に浸って、自己不信を増幅している場合かと言うことである。
2月22日の産経で西尾幹二氏が慨嘆している。先の6ヶ国協議評して、「もともと米国を含め五カ国の狙いでは北朝鮮はその対象ではない。狙いは日本の永久非核化であり、国家としての日本の無力化である。日本はその罠に嵌っているの気付いていない。今日本で、核武装論が国内の王道になれば、米中は態度を変え、北緒戦を本気で抑ええるだろう」と喝破している。 将に言い得て妙である。政府、政治家たるもの、マスコミに右顧左眄することなく、道理に任せて、言動すべしである。
2007.02.27 (火) ◆まさかの出来事体験
思ってもみないことが起きた。一年半前に亡くしたキーを発見したのである。キーの紛失それは私の生活を一変させた重大事件だった。野外の運動を日課としていたのに、そのキーをなくしたことのショックでそれ以来ピッタリと止めてしまった。ただそれはまた自分の健康過信を謙虚に見直す良いきっかけともなったのだが、その反動として野外の運動は病院通いに替わり、コレステロール値を上げることにもなっていた。
コレステロールは薬のせいもあろうが、何より運動不足が祟っているようだし、気にした病?も回復基調を告げられ、陽気になれば運動再開は時間の問題だったのである。
問題はその後共同日課となった女房とのウォークだったが、彼女がショッピングに出掛けた折に一人野外に飛びだしたのが昨日である。その二日目の今日、ジョギングのあとグランドの端で柔軟体操を始めようと腰を下ろすとその目の前に、あるべきことか、その鍵の紐が見えていた。紐を辿ると、まさしく、一年半前のものである。半分土に埋もれていたが、今日という日が刈った枯れ草の粉が残る無草の日だったのが幸いした。失くした日の草は深かった。草は何度も刈られただろうによく残っていたものだ。驚きである。でもこの幸運,一体、どんな結果をもたらすことになるのだろう。
2007.02.25 (日) 米下院の「従軍慰安婦決議案」
久しぶりにTV報道2000を見ることになった。今米国の下院でいわゆる従軍慰安婦で対日非難決議案が通過しそうだと言うので、その推進者の日系三世マイク・ホンダ議員をテレビインタビュうに出していたからである。
その動きは産経新聞の古森特派員の記事で承知していたこともあり、アメリカの傲慢な性格と習性を熟知しておれば、目玉をむき出して驚くことではないが、これに対する日本外交の無能と不甲斐なさはいつもながら苛立たしいかぎりである。
“従軍慰安婦”このプロパガンダに悩まされて、筆者自身十年になる。その関わりについてはこの愚見録のWVF稿で触れている。
問題は、最初の事勿れ主義外交の失敗が、後の惨禍を招来していることである。「何故、今アメリカでこの問題が?」の問いに、「従来の日本政府が認めているから」と答えている。真実を問うことを離れて、問題は完全に変質ししまっているのだ。桜井よし子女史は言っていた。わが国の情報戦略の欠如と。将に、わが国は世界の情報戦略に翻弄されている。
2007.02.24 (土) 盗作社説で言論の自由か
どうせそうだろうとは思っていたが、地方新聞の社説が中央紙や同業紙の論説の盗作だった言うので、これまた同業紙が、よそ事みたいに大いに騒いでいる。小説、絵画、音楽など盗作ばやりで、テレビ番組の捏造まで含めると、創作・創造なる用語はいまや盗作・捏造に置き換えた方が良いのかもしれない。
なかでもマスコミだ。マスコミが商売だと言われて久しいが、とても高尚な道徳や倫理を説けた義理ではない。地方紙など購読してるわけではないが、郷里やホテル旅館で手にする新聞の社説が、よくもここまで似るものかと思ったことは一度ではない。高見から物を言うのは当然みたいな顔しているが、どうしてどうして、それほどの見識も智識もなくその道徳観は無に等しい。そうなりゃいっそのこと止めてしまえば良いものを、そこが商売、無い物は盗んでも、また盗めるものがなけりゃ、紛い物を造ってでもと言うのだからしまつに悪い。ばれたらゴメンナサイで一件落着、事件は再び繰り繰り返される。
それでもマスコミ界が他山の石と自戒すればまだしも救いがあるが、われに非難の及ぶのを恐れるかのように落ちた犬の叩きに狂奔し、知らぬ権兵衛を決め込む。地に落ちた偶像などと言うつもりはない、もともとマスコミを高く買っているわけではないのだから。が、程度と言うものはあるだろうに。
2007.02.23 (金) 二つの異なる対米自立
自彊自立か、日和見自立か。確信的自立か、ムード的自立か。
何でも良いが自立の裏づけは何だ! 裏づけが、相手の善意や理性とか相手を除く世界の正義など独り善がりの子供騙しの空論では勿論議論にもならない。況してや、自国市民のアンケート結果とか、憲法などと言うに到っては、愚かさも此処に極まれりと言うもの、宛てにならないものの典型だ。裏づけの保障には全くならない。
自国の国防を担う大臣が、己の対米認識を語って識者の顰蹙を買ったようだが、マスコミを意識したムード的自立論ではなかったか。
どこか、この人も自分以外の誰かが、いや、きっと神様や、仏様が考えて下さるだろうという刷り込みがあるのだろう。そんな所感を抱かせる一幕であった。
2007.02.22 (木) 忠義談義
今どきの忠義と揶揄したが、昔の殿と家臣の主従関係と、今どきの首相と閣僚との権利義務(職位)の関係とを同列に並べて物言うのは一寸首相にとって可哀想ではないかと言うことである。忠義とは生殺与奪の権限を持つ絶対者とこれに尽くすに己の命を惜しまない服従者を前提として成り立つ徳義であった。勿論、これが徳義としてなり立つためには、主人たるべき人のリーダシップも含めて人徳も預かって大きかったのは言うまでもない。
だが何よりも、その背後には、揺るぎなき国家、いや堅固な幕藩体制と置き換えよう。そこには己に求めることの少なき高い倫理と整然たる価値の体系があり、身分秩序や社会秩序が厳然としてあった。如何に指導力優れ高徳の将軍・藩主でありとても、その背後の国家が頼むにたりないものであれば、臣従・忠義立などは有り得ない。幕末の志士達の動きを見れば明らかだ。
言いたいのは、現状のわが国家である。壮年首相は、その体をなさないだらけた国家に喝を入れ当たり前の国家としての背筋を正そうとしているのである。買い被りかな!だが、国家がしっかりしなければ、首相のリーダシップも有り得ないことは知るべきだ。
2007.02.21 (水) いまどきの不忠者
安倍首相の人気度低下に歯止めがかからず、ファンをやきもきさせている。今や政治も政治家も、マスコミの玩具と化しその慰み物に成り下がっているから、安っぽいタレントのワイドショウと思えば気は楽だが、壮年首相には期待もある。「美しき日本」なる理念は拙稿『日本郷友連盟50年史』のはしがきに登場したのが一年早い。別にオリジナルでないので自慢にはならないが、現状の日本を見る目が期せずして一致したのには、ある種の感懐を禁じえない。
その首相がである。リーダーシップを問われて配下の閣僚に軽んぜられていると言う。これを見かねて党の幹事長が、首領に対する忠義心が無いと苦言を呈したらしいが、これがまた群雀の好餌となって、却って首領の指導力のなさを証明することになったと騒いでいる。何たることか!騒ぐ連中にはもとより忠誠心などない。だが、これに対しわざわざ、不忠ものと言う方もいう方だ、言ったところで、自戒・反省などある筈もない。みんな奴凧だから風のあるところに集まっているに過ぎないのだし風が去れば逃げるだけのことだからである。
でも、ひいきの安倍さんには、八方美人はいらないから、敵を恐れず強烈なリーダーシップが欲しいな。
2007.02.20 (火) ◆庵の葺き替え
長い作業であった。手直し始めたら止まるところを知らない。あるわあるわ、あそこもここもと、欠陥が目立つ。欠陥が目立つのは目が肥えたことになるのだろう。勢い技術の復習が必要になる。確かにマニュアルの読み方は深くなったようだ。訳がわからずやっていたところの理屈がよく分かるから面白く更に挑戦したくなる。当然レベルが上がるから試行錯誤は避けられない。時間は掛かるというもの。今日も一日パソコンに向かったままだった。 新聞の整理も、読みたい本もそっちのけ、気になる運動に到ってはここ一週間全くのご無沙汰だ。
だが、今は満足感ある。見栄えは変らぬが庵も雨露凌げて、少しはみすぼらしさは減ったように思える。新たなアーカイブも加わったし、国際会議(WVF)関係の書き物を纏めて離れを作った。リンクフレームも手直しも庵の案内役を果たしてくれたらと思う。
2007.02.18 (日) 法律使いに正義はあるか
法の理念は正義と言うが、濁世の犯罪に法はその正義を実現しているか、実に嘆かわしい限りである。人を殺して、殺した人間の人権が厚く守られ、殺された人間やその遺族の人権が軽んぜられる。経済犯に到っては、法の目を潜って悪の限りを尽くす。弁護士は臆面もなくその助太刀をする。何処に正義があるというのか。全ては法律万能が生み出した堕落した世界である。その最たる悪は法の番人たちの堕落である。
昔は、法に代わり武士がいた。武士は、その身分に伴う権限と責任を自覚し、己の正義の観念の曇るのを恐れ、「義」を守るべき武士の規範の第一に置いた。林子平は「義」を定義して言った。「義は勇の相手にて裁断の心なり。道理に任せて決心し猶予せざる心を言うなり、死すべき時に死し、討つべき場合に討つことなり」と。正義とは斯くまで緊張を孕んでいたのである。
正義とは、孔子孟子の時代よりの大事であった。「義は人の道なり」。人が失われたる楽園を回復するために歩むべき直くかつ狭い道なのである。だが、正義を道義(徳)に任せて安住できるほど、今の世は健全ではない。
2007.02.17 (土) 礼儀の方向は上か下か
いまや日本では、礼儀という言葉は死語に近い。礼儀は秩序の感覚、規範意識の骨格的な要素である。人間社会、いかに平等主義を振り翳そうと、そこに、親子、長幼、上下、同朋、男女、強弱の厳然たる区別のあるのを否定できない。平等主義の過剰な鼓吹はその厳然たる区別の存在を見失わせる。そこから人間の不幸が始まる。その不幸を最小限にとどめるための人間の智慧が礼儀と言うことだろう。今日の社会の紊乱はこの礼儀の欠除にある。
礼儀とは小難しいものではない。「武士道」は言う。「真の礼とは他人の感情に対する同情的思いやりの外に表れたるものである。それはまた正当な事物に対する尊敬、従って社会的な地位に対する正当な尊敬も意味する。」
確かに武士道だ。強者の立場から見た礼儀である。だがその同じ「武士道」は言う。「礼儀は仁愛と謙遜の動機より発し、他人の感じに対する優しき感情によって動くもの」と。礼儀には「謙遜」があるのである。ここにきて礼儀は道義となる。
2007.02.16 (金) ◆礼儀に悖るか「なま枯れ日記」
「礼は寛容にして慈悲あり。妬まず、誇らず、驕らず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を思わず。」
新渡戸稲造の「武士道」(矢内原忠雄訳)の一節である。わが身を省みて忸怩たる思いは消えない。ここで己を観自在未覚と称し、未だ悟らざる境地を逆手にとって、腹脹るるわざに耐えてきたが、人倫の基本にも悖るかとの思いもつのる。
無礼、失礼、欠礼、虚礼、礼知らず、様々な人生の場面でわが身の到らざるを恥じなかったわけではない。
だが、己の心の深奥を除き見れば愕然たる風景がある。わが心、寛容に限度ありて、慈悲心浅く、「妬まず、誇らず、驕らず、非礼をなさず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を思うこと皆無なりや」と問われれば躊躇わざるを得ない。考えさせられる一節である。
2007.02.15 (木) ◆実像と虚像
自画像についてである。自分の実体は中身も外観も一つしかない。けれど、意識に上る自分は、傍が見る自分とは異なるはずである。外見の自分像にもその違いがあるのだから内面に於いてをやである。外見はともかくも内面の落差は避けがたい。主観と客観というが、人間、こと自分象については自己評価の高い主観の世界で生きていると言っても良いだろう。
だが最近、その落差が狭まるような変化が現れている。どんな時も自らを軽んずることのなかった自分が頼もしく思えるのだ。昔の武人は言った、「心だに誠の道にかないなば、祈らずとても神は救わん」と。 母は、苦しい生活の中で只管神に祈っていた。神は存在するのだ。私も神を信じたい。だが、自惚れてはいけない。実像が虚像に陥いる危険はすぐ傍ある。
2007.02.14 (水) ◆「残し書き一言集」の閉鎖
ことばを通じて心に通うものを期待し夢は膨らんだが、所詮一人相撲であった。今現実に帰っている。文字に思いを託すことは簡単なようで意外と難しいことなのだ。自分を裏返してみればよく分かる。書いたものが後に残ると思っただけでも躊躇いが起こる。だが、その時は、廃屋のホームページを引き取って、にわか大工になって、立て直すことだけしか心になかった。
マニュアルと首っ引きで、CGIファイルを克服した時、このページは何よりも成功の喜びと達成感の源泉となった。老いたりとは言え、この興奮は、新鮮であった。夢が膨らんで当然だったのである。
だが、自ら他の仕事にかまけて手入れが出来ず、荒れ野となっていくのをどうすることも出来なかったのも現実だった。だが後悔はない。様々な意味で学んだものは多い。特に、リニュアル当時、戴いた心に触れるありがたいコメントや励ましは、忘れることは出来ない。ここに心より感謝申し上げ、また新たな世界に向かって進みたい。
2007.02.13 (火) ◆わが庵に再び還る
二度目の正直である。放っておく訳に行かぬ。残し書きサイトが大荒れに荒れている。いかがわしい英語での誘惑や売薬の書き込みだらけになっている。
消しても消しても、自動的に数秒おきに送ってくる。閉鎖するしか道はない。
それにしても、CGIは苦労して獲得した成果だ。何とかして後に残す手立てはないかと、あれこれ、やっているうちに庵のほころびが目立ち、大改修となりそうだ。何しろ新しく学んで習得した技術だけに、時間が過ぎて確かでない。思い出すのに時間がかってしようがないが、世の中の動きも新聞も気分を引き立てるものがなくなったところだし、打ち込む仕事が出来て好都合といったところか。当面HPに専念したい。