キスをした。
額や頬、こめかみ、眉間、瞼、鼻の頭、目元、顎、口元、そして唇。
触れていない部分がないくらいのありとあらゆる部分に。
触れるだけの軽いキスから、啄むキス、舐めるキス、深いキスまで。

キスをした。繰り返し繰り返し。
目の前の幸せが逃げていかないように。
確信はなくとも、そうすることでその瞬間は幸せを掴めている気がしたから。

幸福感でいっぱいで、溢れそうになるそれを溢すことなく吸収し尽くしたい。
キスをしている間でさえも、この幸せの喪失に恐怖する。このまま時が止まってしまえばいいと思う。
唇で相手に触れることが、こんなにも自分を満たすのだ。
全ての感覚を一つの部位に集中させて、そこから伝わる全てに全身が浸る。

気持ちいい。
気持ちいい。
キスがこんなに気持ちいいことを初めて知った。








先に仕掛けたのはハボックだった。




ロイを自宅まで送り、扉が閉められるのを最後まで確認して、ハボックはそのまま帰ろうとする。
毎日の仕事である上司の送り迎えが今日も終わった。
あとは、車を本部に返して、残りの仕事を済まし自宅に帰るだけだ。 早く本部に戻らなければ、それだけ自分に割り当てられた仕事は終わらない。 ここのところ残業続きで、早くシャワーでも浴びてゆっくりくつろぎたかった。 暇さえあればタバコを吸うのは既に習慣で、とりわけくつろいでるときの一服はたまらない。
本当はロイの家で、好きな相手と共にたった今思い描いたことを実行したいのだが、過去に似たような状況時に言ってみたところ、それが許されたことは一度もない。 そもそもハボックはロイの家に上がったことがないのだ。
ハボックの仕事の中には、ロイの家と司令部との間の日々の送り迎えがある。 そのため、ロイの直属の部下になって以降は、毎日ロイの家を訪れているのだ。 だが、ハボックは家の中にまで入ったことは一度もなかった。入っても、玄関までで、その奥の部屋に通されたことはない。
ハボックとロイがキスをする関係になってからというもの、ハボックはロイの家に上がりたくて、何度か訊いてみたものの、あっさり却下された記憶はまだ新しい。
ロイの家に上がるのを許可されている人間はヒューズだけなのだ。

――それでも。
ハボックは背を向けたロイ宅の扉に再び向き直る。

ハボックがキスを許される関係になってから、まだそんなに時間は経過していない。 数えるほどしかしていないが、一番最初に許されたキスは嬉しさのあまり有頂天になり、味も香りも全くと言っていいほど覚えていない。
ただ幸せで、幸せで。
幸せで泣きたくなったのを覚えている。

ふいにたまらなくキスをしたい衝動に駆られ、扉をノックした。

「大佐、大佐」
「何だ?まだ帰ってなかったのか?」

静かな音を立てて、扉が開かれる。
顔を覗かせたロイに、ハボックは我慢ができない自分に苦笑する。
ロイは気まぐれで、キスはたまにしか許可されない。
強引にしようとすると、いつも発火布を目の前に突きつけられるので断念しているのだ。
今回も拒否される可能性が頭を掠める。
だが触れたい気持ちを抑えることはできなかった。

「忘れ物です」

そっとロイの額に唇を落とす。

「忘れ物とはこれか?」
「ええ。そうですよ」

拒絶を示さないロイの態度に安心し、今まで出来なかった分のキスをしようと思う。
ハボックは穏やかに微笑むと、次は左の頬に口付けする。
柔らかい。
軍人の多くは全体的にしっかりとした骨格で、見た目がごつごつした者がほとんどだ。 ロイは決して貧弱なわけではないが、それでも軍の中で比較すると細い印象を受ける。 男なのだから、身体の肉が柔らかいわけではない。 しかし、ハボックはロイの頬やロイに触れる全ての部分に柔らかさを感じてしまう。
こうして触れるだけで幸せだからかもしれない。 自分の身体の末端が触れて、そこから伝わる全てに溺れてしまうのだ。
その体温に、その感触に。

唇を頬に置いたまま、指を滑らす。
最初は先ほど口付けした額に。そのまま上に滑らせて、前髪を上に持ち上げる。 指の合間からすぐに零れ落ちる、そのさらさらの感触は、ずっと触れていたいと思わせるものだった。 今度は頬の上で唇を滑らせた。 唇の端ギリギリで止めて、舌で舐めてみる。
やはり柔らかさを感じた。

「お前は好きだな」
「好きですよ。大佐のことが心の底から」
「違う。私の言っていることはそんな事ではない。」
「『そんな事』って酷いっすね」
「私はお前がキスが好きだ、という意味で言ったんだ」
「ああ。」

そんな事か、と思う。
酷い言い方だと告げた自分が、相手の発言に同じ台詞を思いついたことにハボックは苦笑した。

「好きですよ」

次はこめかみにキスをする。

「何で唇にしない?」
「一番の好物は最後にとっておくタイプなんで」
「馬鹿だな」

ふっとロイは笑う。

「最後までとっておいたら、他で満腹になっているかもしれんぞ」
「別腹ですよ」

クスクス笑うロイにハボックもつられて一緒に笑う。

「それに」

瞼に唇を落とす。

「満腹になることなんてありえませんから」

瞼に舌を這わせた。

「大佐はキスは好きですか?」

聞き返されると思わなかったのだろう。ロイは笑うのを止めて少し考える様子を見せた。

「嫌いではない」
「好きじゃないんですか?」
「キスの種類によるさ」
「今は?」
「ふん。悪くない」

対抗するようにロイもハボックの顎にキスをする。

「嬉しいっすね」
「犬がじゃれついているようなものだからな」
「犬はキスなんてしませんよ」
「するさ。ブラックハヤテ号は顔を寄せるとすぐ唇を舐めてくる」
「妬けますね」
「お前が嫉妬だなんて十年早い」

いつもの傲慢な笑みを浮かべて一蹴する。
ハボックはロイのその表情が好きだった。
頂点に向って迷いなく進んでいくロイにぴったりの表情だからだ。
その笑い方は自分にはできないもので、そしてロイの部下になるまで従っていた上官達が頻繁にしていた類の笑みであり、ハボックの 嫌いなものだった。同じ類の表情が浮かべる人間によってこんなにも印象が違うのは不思議で仕方がない。
昔はその笑みを浮かべられたら、嫌悪と反抗心しか思いつかなかった。それがロイだと、躊躇することなく無条件に従ってしまう。

ハボックはずっとこの人に付いていきたいと、ロイの望む物を一緒に追いかけたいと常々思っている。
少しでもこの人の役に立てたら、と心の底から願う。使い捨ての駒のように用済みで捨てられたとしても、役立だずとして放置されるより ずっとましだ。
たとえ支えになれなくても・・・。
ハボックの脳裏を一人の男が掠める。その人物は既にロイの支えになっている男、ヒューズだった。

ヒューズとロイの関係の深さを見る度に、もしくは考える度に不安定になる心が、キスをしているときは驚くほどしっかりと安定して、 味わったことのない幸福感で満たされるのだ。
だから、今だったらヒューズのことを口にできる。
嫉妬心と穿った思考に見舞われて、ヒューズの名を声に出すのを避けていたが、この幸せの中だったら心が崩れそうにない自信がある。

「いつも嫉妬してますよ」
「うん?」

ハボックの声に僅かな翳りが差したことにロイは気付いた。

「オレはいつも中佐に嫉妬してるんです」
「女々しいな。それではいつまで経ってもいい男にはなれんぞ」
「それがいい男だってんなら、オレは一生なれそうにないっす」

冗談のように拗ねている様子を見せるが、それが本音だということが分かった。 今までヒューズと自分の関係について何も言及せず、むしろ避けているかのように見えたハボックが、急にこの状況で言い出したことの 意味をロイは考えた。
そういえば。
ロイは過去の自分の発言を振り返ってみる。 ハボックに自分が何を考えているのかをはっきりと言っておかなかった事実に今更ながら気付いた。
この部下は一見飄々としているかのように見えるが、これでも繊細な部分があるのだ。 おそらく気になり、悩みすぎて、ずっと言えなかった一言なのだろう。 そう思うと、このような関係になった以上、ハボックの今の言葉に何か返してやるのが筋というものだろう。
さて、何と言ってやったらいいものか。
少し思案して、ロイはハボックの肩に顔を埋めた。

「ヒューズのことを持ち出すのは気に入らないが」

一呼吸おく。
少しくらいは甘やかすのもいい。そんな気分だった。

「それでも、私はお前がそうやってじゃれついてくるところは可愛いと思っているぞ」

ハボックの顔が見る見るうちに朱に染まっていく。 ロイは自分の発言で蛸のようになっているハボックが愉快で、クスクス笑い出す。
たまらなくなり、髪に触れていた方の手を背中に回して、強く引き寄せる。
その箇所は一番熟れて、甘く薫っていた。
ここが一番の美味しい部分なのだ。
僅かに濡れている唇に誘われるようにキスをした。

(up.04.11.07)

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