北国街道てくてく旅       トップへ戻る

私は、2015年までには、高岡から長崎まで歩きたいという願いをもっています。
初めは足慣らしです。1回10キロほどを半日で歩き、つないで行こうと思っています。
丸一日歩くと、その日は休業になります。身体に不具合が出たら、ストップします。
当店は、金沢市泉1丁目というところに、営業所謙住まいがあります。
ここは、藩政期には、金沢の南の玄関口でした。
北陸道(北国街道、北陸往還)が通っていて、農家相手の商店が軒を連ねていたようです。
家の前から、南へと歩くと、金物屋や竹屋、種屋、味噌屋、酒屋などがあり、
千代女ゆかりの寺や富樫ゆかりの神社などもあります。
南のはずれが、有松で、金沢の入り口(町はずれ)のしるしである、松の木があったところです。
同じような松の木は、北はずれの春日町にもありました。
ここ有松から西に折れ、野々市をへて松任に向かいます。
てくてく旅第1回はわが家(加能屋書店)から松任までです。

 
加賀の千代尼ゆかりのお寺(泉2丁目)         国造神社(同じ)

このあたりは、泉野扇状地という、犀川による隆起扇状地の西の端にあたり、砂礫の地盤はしっかりしています。
付近には、金沢測候所(気象台)、師範学校などがありました。

うちの町内は、それこそ毎日歩いたりしていますが、街道という視点で歩くと、違った風に見えてきます。
また、普段車でしか通らない道も、歩くと全く違います。
北国街道は、藩政期には、参勤交代に使われました。それはほとんどが東まわりで、泉町を通ったのは2回と聞いています。
その大名行列を、町屋の2階から見下ろすことは、ご法度だったはずです。
古い町屋ほど、2階部分が低く、街道に面しては、窓もないような造りです。
泉3丁目は、「小街並み」に指定されていて、そのような背の低い町屋があります。

 
泉3丁目の古民家                      同じく
現代史の領域になりますが、昭和44年2月、自衛隊小松基地の戦闘機が墜落したのは、泉2丁目の道路上でした。
周辺20軒ほどが全焼し、4名が亡くなりました。このときの思い出は書き出すときりがありません。

さて、有松からは、旧国道8号線の広い道になります。
以前は泉野から流れてくる、雀谷川が道路を横切り、曲がっていた部分も30年ほど前に直線になりました。
この付近、右手からゆるくカーブしてくる細い道があります。これは、松金鉄道の線路跡で、旧街道に沿って野町から松任まで続いていました。
私にも、幼児のとき乗ったかすかな記憶がありますが、思い違いかもしれません。
二万堂を過ぎると、雀谷川が伏見川と合流し、さらに高橋川と合流します。一帯に桜が多く植えられ春と秋はきれいです。
川中には、今はリュウキンカ、桜のころはナノハナが咲き乱れ、コゴメも採れます。
横川、伏見橋、押野などを過ぎ、国道下をくぐると野々市です。
このあたり、旧古字に大乗寺という名があり、戦国時代、大乗寺があったところと思われます。
一向一揆の軍議が行われたことが記録に出てきます。

 
この付近、桜の名所です。                 北陸鉄道石川総線のレール 現役です

左手に末吉川と住宅地を見ながら南下します。この住宅地、以前は繊維工場でした。
廃水が川に流され、伏見川はどす黒く汚れていたものです。
道は、鉄道線路を越えます。これは北陸鉄道石川総線で、野町から鶴来まで南北に続いています。
以前は、白山下まで、手取川を渡りながら続き、さらに名古屋までつないで、金名線にしようとしていました。
白山登山や白山ひめ神社参拝の重要な足でした。
線路を越えると、本町になり、立派な町屋が続きます。
野々市は、金沢市に隣接しながら、合併を拒んできた、誇り高い町です。
平成の大合併も断り、もうじき単独市制に移行します。
金沢開町450年に対し、富樫氏を守護に、800年の歴史があると言います。
本町の近隣に守護館、一向一揆に滅ぼされた、高尾城とその麓にも館があったといいます。
道は右に折れ、西へ向かって進むと、さらに古い街並みになり、お菓子屋さんが1軒。

 
金沢や松任にもなかなかないような立派な構えの民家が続く

 
富樫の名前をつけたモナカを販売している       布市神社 野々市の名の由来

総理大臣賞をもらったという巻物形のモナカを、おばあさんが販売していました。おみやげに5個購入。
付近に、白山神社、富樫神社、布市神社があり、布市が、本来の地名です。
町屋のひとつが、文化会館になっていて、見学もできそうです。もうひとつの町屋に入りました。
親切に解説していただきました。偶然同じ高校の先輩でした。

 
こちらは、文化財に指定されている            こちらは比較的新しいそうだ

本町を辞して、街道をてくてく歩く。足元のマンホールをみると、椿のデザインです。そういえば、椿が多いと気付きました。
次々と用水を渡って、松任に入ります。用水は全部北へ流れています。
国道と街道が分かれているところは雰囲気があります。「郷」とありました。
小学校の跡地だそうで、なぜか里程原票の石柱がありました。記念碑と忠魂碑もありました。

 
マンホールを見ると町のシンボルがわかる       小学校跡地に里程原票とある

更に西へと歩くと、町はずれにつきました。足元のマンホールは、いつのまにかアサガオに変わっています。

 

菅原神社の脇で見たものは、赤い丸いポストでした。こんなものがまだ現存していたとは。すごい。
うら寂しい街並みの中を、松任駅に向かいました。街道は南下して、商店街へと入っていくのですが、
リニューアルされた駅前を見たかったのです。

 
停車場往来と彫られた標柱                中川一政記念館

松任といえば、千代尼、あんころ、一政?そして鉄道です。
松任の古い時代は知りませんが、戦国期、一揆方の鏑木氏が城を構え、上杉氏や柴田氏と対峙した伝説に彩られています。
古城跡は埋め立てられ、おかりや公園を残すのみです。蕪城と呼ばれています。
ちなみに金沢城は金城、小松城は芦城、大聖寺城は錦城です。
中川一政は、奔放な画風で知られる、洋画家、挿絵画家です。母君が松任の出身ということで、記念館があります。
古書業界には縁の深いお一人です。

 
明治大正昭和を生きた日本人真宗僧侶暁烏敏    国鉄松任工場を記念してD51を展示

記念館の前に、暁烏敏の銅像と歌碑がありました。「世の中に十億の母あれど」という有名な歌が刻まれています。
暁烏敏については、北安田を通過したときに書いてみたいと思います。
目を転じると、大きな旧家と俳句記念館があります。 つづく

 
この旧家は、吉田茂平という人の家で、安吉から移築したそうです。兼六園を模した立派な庭園があります。
庭に隣接して、千代尼の里俳句館があります。

 

駅を背にして、松任市内に入ると、左手に図書館、右手に公園があります。おかりや公園とよばれ、旧松任城の名残です。
元は、もっと大きく、街道は城を迂回するようについていました

 
おかりや公園                         公園内の千代女句碑

公園を抜け、博物館をへて聖興寺に入ります。千代女ゆかりのお寺です。