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スペースゼロ公演中に加納さんに『かぶき座の怪人』についてのお話をお聞きしました。加納さんの寛大なご配慮により、その模様をアップさせて頂きます。
貴重なお話をお聞かせ下さった加納さんに心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。
なお、以下の文章の文責はすべて大原にあります。
また、もしよろしかったらお読みになった感想をお書き頂けるとたいへん嬉しく思います。ご記帳所が設けてありますので、感想などを一言書き残していって下さいませ。よろしくお願いいたします。
●まずはじめに、どうして89年初演の『かぶき座の怪人』という作品を再び完全新作として取り上げるこになったか、という経緯をお聞かせください。
劇団の10周年のときにお客様にアンケートを採ったら『かぶき座の怪人』の再演希望が非常に多かったんですね。初演のときは劇団をアピールする意味もあって『かぶき座の怪人』という題名だったら花組芝居を知らない人にも面白そうだなと思ってもらそえそうな気がしたので「じゃあ、やっちゃえ!」みたいな感じで作ったんですけれども、今思うと勢いで作ったようなところもありました。いつか『かぶき座の怪人』という看板だけじゃない作品にしたいという思いが元々あったんです。
ちょっと以前から、僕らの中でも「等身大のお芝居をやりたいね」という話が出ていて『泉鏡花の日本橋』でお化けが出てこない、等身大の人間同士の愛憎物語をやったんです。次に現代劇をやりたいなという気持ちがあったんですが、うちで(現代劇を)やるのはどうだろう? という気がしてたし、何かひねらないと劇団としての意味や意義みたいなものが欠けるなと思っていました。それで、『かぶき座の怪人』を等身大の現代の物語として、同世代の劇作家さんで等身大のものをお書きになるのがお上手な方に脚本を依頼してみたらどうだろう、ということで、泪目銀座の福島三郎君にお願いしたんです。
今回は共同脚本ということで、僕が大体の骨組みやテーマ、人間関係を提示して、『かぶき座の怪人』の等身大の部分を彼に書いてもらって、劇中劇を僕が担当する、そして、それを最終的に現場にいる僕が調整する、という作り方をしました。面白かったのは、福島君が「等身大の本編の部分は歌や踊りは入れるのはやめて、あくまでも会話劇にしましょう、それで劇中劇は歌や踊りがあり、また歌舞伎的な要素があるようにして、それぞれがちゃんとできるぞというのを見せるお芝居にしましょう」と言ってきたんですね。そういうのも僕らもちゃんとやってみたかったところではあったので、面白がって作りましたね。
同時代的なことを言えば、経済がダメになって思想的な問題もダメになって、今の人たちって目標が持てなくなっちゃってるじゃないですか。目標とか夢を持った人間たちは、なんていきいきしてるんでしょうというのをこの作品で出せたらなと思ってます。演劇という、人間が人間を表現する現場に携わる人たちというのは、とても生き生きしているし、こんな言葉は恥ずかしくてあんまり使いたくないけど、いわゆる人間賛歌みたいなものが『かぶき座の怪人』という題材でできるかな、と思いました。
●実際舞台を拝見しますと、音楽も照明も舞台美術もすべて、大変な規模の作品になっていますね。帝国劇場『西鶴一代女』のときのスタッフの方が集結していますし。
そうですね、(音楽の)村治(崇光)さんや、(舞台美術の)古川(雅之)君、照明のあやめさん……あ、吉沢(耕一)さん(笑)。
●「芳澤あやめ」の「あやめ」ですか(笑)。
そう(笑)、吉沢さんをあやめさんと呼んでるんですけど、あやめさんは遊◎機械/全自動シアターの照明をやっていて、ずっといいなと思ってたんですよ。古川君は大学の後輩で、劇団の最初のころはずっと一緒にやってたんです。彼がテレビ関係の美術の会社に入って忙しくなったんで一緒にできなくなってたんですが、最近は彼のところで舞台もやるようになって、ジャニーズの舞台装置も手がけたりしてたんですね。それで『西鶴一代女』のときに「できる?」ってお願いして、それに続いて今回もお願いしたんです。
●村治さんの曲も大変素晴らしいですよね。
『かぶき座』という題材だから、純邦楽が分かってる方にお願いしたいなと思ってました。実際に村治さんはよく歌舞伎座に出入りして歌舞伎座でお仕事してらっしゃるんで、雰囲気が分かってくださるだろうと思ってたんです。
●舞台で流れている唄も、村治さんが実際唄われているものですよね。
そうです。『西鶴一代女』のときはご本人はお唄いにならなかったんですけど、今回は語りの部分があるものですから、やっぱり村治さんにお願いしたいということになったんです。ご本人も「いいですよ」ということで、唄って頂いて。やっぱり村治さんでないとああいうふうには唄えないんですよね。
●村治さんはとても色っぽいお声ですね。
そうですね、長唄のあの世代の方の中では、きれいな声をしてらっしゃるし、言葉がとても明快でいらっしゃるからいいんじゃないかなと思いますね。
●『かぶき座の怪人』というタイトルから考えると、もっとおどろおどろしい内容のものを想像した方も多いんじゃないかと思うのですが、それは福島三郎さんの脚本らしく、温かみのある舞台になっていますね。
ぼくも実は初演のときは芸術の神様か悪魔か分からないけれど、アーティストが魂を売ってしまうような存在として怪人を描いていたので、ちょっと怖い感じが残ったんです。この怪人像は福島君のオリジナルですね。僕は福島君にそんなふうには頼まなかったんだけど、すごく愛らしい人物に書かれている。大元の題材のもっているイメージや世界から、ワンクッションおいた形になっているのが、逆に今回はこれでよかったんだと思います。
●群像劇的なところも福島さんの特徴がよく出てますね。
そうですね、今回は福島さんの今までの脚本の登場人物と比べると3倍くらいいますから(笑)、彼は大変だったんじゃないかなと思いますけどね。いつもの彼の脚本だと、この3分の1くらいの人数で、一とおり全員の結末が書いてあるんですよね。今回はさすがに、ドラマが最後クライマックスにいくにしたがって、だんだん絞り込んでいく形になってちょっと脇筋の連中は「あら、どこいっちゃったの」みたいな感じになっちゃってますが、まあ、ドラマとしては仕方ないんじゃないかなと思います。怪人が代替わりしたことにしたことによって全員の思いがどうなっているかなんてことをいちいち描いてたら、それこそものすごい時間がかかっちゃいますからね。あれはドラマの仕立て方としてはいい選択なんじゃないかなと思いますね。
●一人一人の登場人物が書き込まれいる中でも、やはりお話の芯になってくるのは恋松(桂憲一)と八重子(加納幸和)だと思います。まさに「女優という生き物」としか言いようがないような八重子という人を、加納さんはどういうふうに演じようと思われましたか?
大女優然としたものというのは、出してもしょうがないと思うし、自分自身がそうじゃないですしね。自分の少ない経験の中でも、本当に大女優という方に接すると、ご本人自身は作ってないんですよね、もしかしたら作ってるのかもしれないけれども、作ってるんだか作ってないんだかわからないような、本当に「その人のまま」という感じがする。長年経験のある女優さんの積み重ねというのがあるのかもしれないけど、そのある種の厳かな感じや大きさが、(わざと作るんじゃなく)自然と出ちゃうのが大女優なんですよね。皆さん、妙にぎすぎすしたりしているところがなくて、ざっくばらんですね。大女優になればライバルといがみあったりとかいう心配がないから、悠々としてられるのかもしれないですけど。下々の者に対しても非常に気遣いがあるし、優しさがあるし、それでいて、威厳みたいなものもどこかであるイメージがあったもんですから、妙に大女優として作っちゃってもしょうがないと思ったんで、その場その場で、いろんなことに対応していくというふうに作ったんですけどね。
●恋松は恋助と八重子の間に出来た子だけれど、それは周囲にも恋松にも隠している、という設定になっています。八重子の恋松に対する思いは、あるときは母親のようであったり、あるときは女性としてのそれであったりして、そのときによって違って見えるんですが……。
こればっかりはね、僕は女じゃないし、子供を産んだこともないので、母親が子供に対する意識ってどうなのかなと思うんですけれども。まあ、これは想像の域を出ないんですが、恋松の向こう側に愛した男(恋助)の姿を見ているというところがあるんじゃないかなとは思います。一応ね、人間がその社会生活を始めた原始のころから、近親相姦というのは忌み嫌うものであるというふうになっているんですが、それ以前はそういったことはあったんだろうなと思うんですよ。愛するということの、ここから先が何でここから後が何でっていう境目は基本的にないんだろうと思うし……まあねぇ。どうなんだろうねえ(笑)。
●その時々で加納さんの中で出てくるものも違うんでしょうねぇ、やっぱり。
そうですね。だから、実際に僕が桂に対して、演出家であるし、何年か先輩であるということもあるし何度か相手役をしているということもあり、それのもろもろも出てきてるんだと思う。 桂は『かぶき座の怪人』の初演のときに一番最初にうちの劇団に関わったんですが、そのころは「どうなっちゃうんだろう、コイツ」みたいなところもあったんですけど(笑)、それが今はこうなってるし。(初演以来の)12年の間で、僕も変わったと思うし劇団も変わったと思うし、それぞれのコミュニケートのしかたとか存在をどう見てるかといったこととか、もろもろのことを12年分使ってるという感じがしますけどね。
●八重子が恋松にお稽古をつけている場面は、花組芝居というもののあり方を表しているところもあるような気がします。
そうですね。演じている側としては本気で演出をつけているところと、あのシチュエーションで母親が教えてるというのと半々ぐらいのでやってますね。それが見た目にはちょうどいいんじゃないかなと思ってやってるんですけど。
●劇中劇の「姥ヶ池」の設定は芝居で描かれている人間関係の裏返しなんでしょうか?
最初はそこまで考えてなかったんですけど、福島君が「劇中劇も本筋の話の裏側みたいな感じにならないですかね」と言い出して、それで『欲望列車』のほうも『姥ヶ池』のほうも実際の人間関係がダブって見えるような感じに書こうというふうにしたんです。題材に『黒塚』を選んだんですが、(『黒塚』の話は「親が子を食ってしまう」という部分はないけれども、『黒塚』の元となっている)「安達原」系の話というのは親が子供を間違って食ってしまうっていう設定が普通なものですから、大元の伝説に戻して、「親が子供を食ってしまう、しかも母親で」という設定にしようかなと。
でね、ライオンブックスだったかな、手塚治虫が安達原ネタのSF漫画(『安達が原』注1参照)を描いてるんですよ。1話完結の短いものだったんですけど、革命を起こした男女がいて、それが政府によって鎮圧されて生き別れになっちゃうんですね。女性のほうは、それでも地下に潜んで逃げ回った後、宇宙の小さな星で暮らして、年を取っておばあちゃんになってる。そして、恋人の男性は政府につかまっちゃうんですけど、その人の素質を政府が見込んで冷凍保存して、何十年後に甦らせて政府のためにゲリラ的な活動をしている人間を見つけて戦うという使命を負わせてしまう。冷凍保存されてたものですから、若いままの彼が、宇宙船に乗って旅をしてるようでありながら実はアナーキストを探している。彼がその老婆の住んでる星にやってきて老婆と接して、彼は老婆が恋人だと気づかないけど老婆は「あ、彼だ」と気づく。でも、老婆は身を明かさないまま彼と接したりするんですけど、その老婆というのは、迷子になった宇宙船が泊めてくれといってやってくると殺したりしている、本当に安達が原伝説どおりのことをやってるんです。彼は実は政府の機関から任命を受けて老婆をやっつけに来ていて、で最後の死ぬ間際になって、老婆は「実は私はあなたの」と言う。まさに安達が原の面白い焼き直しになってて、これはうまくつかえないかなと思って、それであの中に『弁慶上使』(注2参照)をあの劇中劇の設定にいれちゃったんですよね。弁慶とおわさが娘の信夫をめぐってああいう出会いをして、二人が出会ったときは娘は死んでいるというのを息子にして、というのを『姥ヶ池』にいれてみたんです。
●加納さんって、昔読まれたものを本当によく覚えてらっしゃいますよねー。
なんだか、思い出すんですよ。読んだときはそれこそ覚えようなんて思ってないんですけど、お芝居を作るとき、特に脚本を書くときには「あれ、そういえば、あの話面白かったな」と言ってもう一度読み返してみたりすることが多いですね。
●そういえば、怪人・宇治乃川霧(八代進一)の拵えが一人の衣装で道成寺の釣鐘まで表現されているというのも、ヒントになったものがおありだそうですね。
ああ(笑)。「大正テレビ寄席」(注3参照)という番組でやってたんですけど、なんていうグループだか忘れちゃった、トリオだか4人だかで寄席とかでやっていた演芸なんでしょうね。最初は、「芝居します」っていうんで、女形の紫帽子をつけた男の人が踊ってるんですよ。それで「これから道成寺やります」という口上があったと思うんですけど、紅白の幕を消し幕みたいにして出して、その陰であっという間に道成寺の赤の衣装に変わっちゃうんですよ。引き抜いて、紫帽子をひっくり返すと下から、風船を膨らますみたいにしてふーっと金冠が立ち上がってくるんですよ。それを見て「おっかしいなー」と思って。それで一通り踊って、その間に相方が着替えて押し戻しになって戻ってくるんですよ。そこから振りがあってその花子をやってた人の振り下げの帯の後ろ側にちょうちん状の鐘が隠してあるらしくて、本当に手品みたいにそこから釣鐘がぽーんと出てくるんですよね。それで釣鐘をもっておしまいっていうのがあったんです。もう、それが本当におかしかった! ヘンですけどね。お年寄りに聞いたらどういうチームだったか知ってるっていうんじゃないかなあ。僕が見たときはもういいお年のグループだったですけどね。あんなものがテレビで見られた時期があったんですね。
でも、そのときのテレビの記憶がそのまま生きてらっしゃるなんて、すごいことですよ。
あはは(笑)。覚えてるのは覚えてますね。
今回のお芝居は劇団創立時からいらっしゃる方が親の世代の役をやってらしたりして、劇団の中の世代がそのまま表れているような設定になってますね。
福島くんがよく皆に当てて書いてくれましたよ。いつもこんなに台詞がない連中が台詞があったりとか。うん、よかったんじゃないかな。いい経験になったんじゃないかなと思います。
原川さんも3年ぶりですしね。
そうですね。ははは、変わってない(笑)。
原川さんもすごくパワーがあるし、怪人になった八重子さんと恋助の二人の場面は涙が出てきますね。
原川は普段はあんまりああいう演技をしてないんですけれども、学生のころからたまにああいう演技をしてたので、上手くやれればいいなと思って。福島君は原川浩明のことをあまりよく知らないでしょうしね。
とてもいいシーンだと思います。恋助の桂さんもとても頑張ってらっしゃると思いますし、桂さん自身が花組芝居の中で成長していっている過程とダブるような描き方になっていますよね。
そうですね。あのあたりは、福島君の準備稿とも設定が違うんですけど、「どういう設定にすれば面白いだろう」といろいろ話したんです。一時は八代がやってた宇治乃川霧と八重子の間に出来た隠し子という設定にしようかとか言ってたんだけど、「それじゃ複雑になっちゃうしややこしいよね」というんでやめにして。また恋松が八重子と恋助の子供であるということをどこまでの人が知ってることにするのかというのもいろいろ考えました。結局は知ってるのは恋助の奥さんの逸美さんと水下がやってる乱十郎と春杉夏希(溝口健二)だけということにして、他の周りの人は全員知らない、恋松本人も知らないっていう設定にしたんです。
八重子も最後に自分がお母さんだとは言ってないんですよね。
言わすかどうするかでももめたんですよ。八重子が消えたときに「母さん」と呼ばそうかどうしようかって。でも「呼んじゃうのはあまりだね」ということで、恋松がわかったかわからんかは、ま、ほっとこうということにしたんです。
今回は本当に、いろんな人のことを考えたくなるような芝居ですね、逸美さんにしても、しのぶちゃんにしても。
一人一人をちゃんと書いてくれた分、お客さんは感情移入しやすいんじゃないでしょうかね。一人一人にね、お好みで(笑)。
それでは最後の質問です。観ていてとても気になったんですけど、舞台上に飾られているたくさんのだるまはどういう意味があるんでしょうか?
古川君が装置をちゃんと作ってくれたんだけど、「何か、ポイントが、遊びになるものがほしい」というときにだるまをおこうかということになったんですよ。実際においてみると、屋根の上の猫にも見えるし、目が二つあるから、なんだか誰か見てる感じでもありますしね。だるまって達磨法師が元だから厳しさと愛くるしさと両方兼ね備えてるキャラクターで、おくにはちょうどいいんじゃないかなと思ってね。だるまの置き方には一応規定があって、劇中劇の向こう側には飾らないというのがあるんですよ。本編側のところには飾るけど、劇中劇には飾らないという、ある種のシアトリカルな部分でちょっと区別をしようということにしてます。
八代さんとお話したら、「俺の気持ちとしては、俺(怪人・宇治乃川霧)が置いて回ってると思ってる」とおっしゃってましたけど。
(笑)人によっては「歴代の怪人ですか?」という方もいらっしゃるし、そうも見えるだろうしね。劇場というところはいろんな人が出入りしてる場所ですから、思いがこもるだろうし、人間の魂みたいなものが残って当然みたいなところですからね。
注1・手塚治虫さんの漫画『安達が原』
ライオンブックス「手塚治虫漫画全集 第1巻」(1977年・講談社刊)に掲載されている漫画。
粗筋はこちらを参照してください。
注2・『弁慶上使』
『御所桜堀川夜討』の3段目。粗筋はこちらを参照して下さい。小袖を互いに持っている、という設定が『姥ヶ池』にも取り入れられている。
注3・「大正テレビ寄席」
昭和38年から15年間NET(現・テレビ朝日)でやっていた日曜のお昼の演芸番組。司会の牧伸二さんがウクレレを弾きながら「日曜のお昼だよ〜〜」と言っていたのが有名。その牧伸二さんのプロフィールはこちら。
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