かぶき座の怪人(2001年)



(観劇日)2001年2月13日…新宿・スペースゼロ

配役、内容、結末等に大幅に触れてますので、その点をご留意の上、お読み下さい。

舞台のラスト、恋松改メ三代目男女川恋助(桂憲一)の襲名披露公演が行われる中、天地座(あめつちざ)の新・怪人になった九重八重子(加納幸和)が劇場支配人・早瀬(高荷邦彦)に宛てた手紙を読んでいる声が聞こえる。

「こんな役者たちを、どうか愛してあげて下さいね」。

その言葉に思わずじわっと涙がこみ上げてくる。
演劇の世界に生きる人たちの様々な生き方を観てきた最後に、支配人に向けた言葉が、自分に言われているような気がして、「ああ、だから、私は芝居が好きなんだ」「私も芝居を、役者さんを愛していきたいな」と心から素直に思えた。絵空事の気持ちではなくて、自分の芝居との向き合い方までも考えさせるような、「芝居に関わっている、すべての人(観客も含めて)の物語」が「かぶき座の怪人」なのである。

そして、私がそういう気持ちになったのも、それまでに描かれている役者の世界の人間模様が実にいきいきと描かれているからだろう。

舞台は、天地座の次回公演の稽古中で、襲名をする歌舞伎役者・恋松と、今公演中の新劇の舞台に出演している大女優・九重八重子と、その周りの役者たちと舞台関係者たちの間の人間模様が描かれている。

中でも非常に生きていると思うのは、支配人が新任で文部省から天下りで来た人という設定になっていて、芝居のことが全然分かってない役であること。
彼の右往左往してる様子(「千秋楽おめでとうございます」と言い合うのを「正月みたいだね〜」と言っちゃうのとか、すごくラブリー)もおかしいのだけれど、ある意味では普通の人たちからは遠い世界に思える芝居の世界を支配人の視点をいれたことによって、私たち観客にとってはすごく分かりやすくもなっているし、物語を非常に立体的なものになっている。そして、もしかしたら、初めて花組芝居に脚本を書いた(というか、花組芝居が外部作者の新作脚本を使うこと自体が初めてなのだが)福島三郎さん(泪目銀座)ご自身が、「かけ離れている」という花組に対して持っている戸惑いとか距離感とか面白がり方が支配人の役に投影されているような気もするんだけれど、うがちすぎだろうか?

群像劇的にたくさんの登場人物のいろんなエピソードが出てくる中で、話の骨子を担うのが恋松の部分。名優・恋助(原川浩明)に芸養子でもらわれてきた恋松が、自分の出自にコンプレックスを持っていることで、演技的にも伸び悩んでしまう。

実は恋松は恋助と八重子の間に生まれた子だったのだが、その事実は恋松には隠されたまま、二人は出会ってしまう。母親としての子に対する気持ちと禁断の愛との揺れ動いたような気持ちはちょっと『怪誕身毒丸』も思い出される。恋松のすねた様子とか「どうせ、馬の骨ですから」というところの屈折した感じ、それに年上の恋人に対する甘えたところとかが、非常に女心をくすぐるというか(^^;、桂さんの魅力の見本市というか(^^;;;、福島さんはさすがに桂さんのことをよく見てらっしゃるなあとも思うし、桂さんはこういう雰囲気を出すのが非常にお上手ですよね。(あとね、ラブシーンがリアルなとこも(笑))

恋松自身のもがき苦しんでる葛藤や恋松の思いが丹念に描かれて積み重ねられ、桂さんもそれを的確に表現していること(「扉をこじ開けても、扉のむこうに何もなかったとしても?!」という台詞に込められた思いがリアルに迫ってくる)、そして、エゴの塊みたいな(^^;いろんな人たちが徐々に彼に「思いを託す」ことで、だんだん観てるほうも「恋松頑張れ!」みたいな気持ちになってくる。このへんの積み重ね方はやはり福島さんらしいなぁ…と思う。(ちょっと構図的に「サニー・コースト・セレナーデ」に似てる気もする)

今、書いてて気が付いたんだけど、恋松って最後、八重子が死んだときも母親であることを知らないままでいるんですよね。八重子自身も「私が母だよ」とは最終的には名乗らないし。襲名公演「姥ヶ池」の最中、八重子の霊を見たときに母と悟ったのかどうかはよく分からないけど(もしかしたら、そのとき気づくのかしら? どうだろう←八重子が出てきてからとそれまでとは、明らかにトーンが変わってるけど)。でも、「血筋が分かったから開眼した」というのより、いろんな人の励ましや思いももちろんあるんだけれど、恋松自身が切り開いて芝居と向かい合おうというパワーを持てたからというのが大きいんだと思う。恋松の(そして、桂さん自身の)そういう気迫がラストの劇中劇「姥ヶ池」でのイワテに溢れてました。

「恋松」という名前は「恋」助になる日を「待つ(松)」という思いが込められてるんじゃないかと勝手に思うのですが。この役は、「待つ(松)」のときの葛藤と、「恋」助になってからの飛躍との両方が、名前の示すとおり、車の両輪のようにきちんと際立っていないと成立しないように思います……これも私が勝手に(^^;。でも、桂さんは誠実に舞台と向き合って、そのどちらもに見事な成果を出していたと思うのです。

さて、「エゴの塊」と言えば(^^;、まさに「女優という生き物」としか言いようのないような、八重子。冒頭の劇中劇のシーンのクラウディアからもその「大きさ」(←身長のことではアリマセン)が伝わってくる。豪華な衣装の数々にも負けない役者ぶり。前回も書いたけど、加納さんはこの1年の外部出演を経て、その役者ぶりが一段と大きくなったよう。特に二幕目の劇中劇の「欲望列車」のラストシーンは、魂に迫ってくるような演技で鳥肌が立った。ある意味では、「かぶき座の怪人」とはこの大女優が怪人になるまでの物語、という話でもあるな、と思う。怪人になった八重子が、初日前の恋松に「姥ヶ池」を教えに来る場面は、非常に心に残る、緊密な名場面だ。

八重子も含めて、劇団創立メンバーが思いを「託す」という側、という芝居の構成になっていて、劇団の中での世代の層の厚さを感じさせるのも興味深い。

花組3年ぶりの原川さんは、二代目恋助。皆、ナチュラル傾向の芝居の中にそれを意に介さない(笑)ような迫力のある芝居を見せてくれているのが嬉しい。特にラストの霊になった八重子に一人語りするところは、二人の来し方を思わせる。八重子の存在がわからずに話しているのに、立ち上がるのを手伝った八重子に向かって知らずに「ありがとう」と言ってしまうところ、実はグっと来てました。

歌舞伎役者・乱太郎の水下さんも、恋松の出自を知っていて彼の役者としての大成を願うという役どころ。恋松に「姥ヶ池」の指導をしているところも、思いを「託す」彼の大きさが出ていると思う。それでも八重子との艶っぽいところがあるのが、水下さんの色気が出てる。

一方の若者(?)チームでは、原川さんと同じく花組3年ぶりの植本さんが、女形役者の告世。野望のあるところを植本さんらしいキュートさで見せて、その上手さが際立っている。怪人が「ちょっとヤなやつだったけれど」というのも分かるような(笑)。

そして文字通りの怪演を見せる森川さん。八重子に恋人・アラシを取られて、嫉妬に狂っているどこかいっちゃってる女優さんの役がすごくはまっていて、「さよなら大好きな人」の歌のところでは拍手が起きるほど。その恋人、アラシが各務さん。登場シーンのインパクトの強さが良い。新劇俳優らしさ、という点ではやっぱり一番なんでしょうね。彼も、劇中劇「欲望列車」のラストシーンが見せ場。

そして、先代・怪人の八代さん。怪人なんだけど、どこか可愛げがあって、劇場内をうろうろしているところのおかしみがなんともいえずいい感じ。でも、当たり役の道成寺を踊るところの迫力とかは格別。拵えが基本的に道成寺の衣装なんだけど、後半は全身で花子&鐘を表現する「一人道成寺」状態なのが、もう爆笑ものだった。


とまあ、様々な要素がたくさんある舞台で、書いておきたいのに書けてないことが山のようにあります(^^;。
最初の劇中劇が終わったところの、オープニングナンバーの心躍るような迫力とか、なぜここで「刃傷・松の廊下が??」と思うんだけど(笑)、でも植本さんの歌が良くて、松に扮した人々が通り過ぎるところのとんでもないおかしさとか。なんで、だるまがいっぱい飾ってあるのー??(笑)とか。

でも、それ全部書いてると公演が終わってからもレビューはアップできないと思うので、とりあえず、本日はこれぎり。また、書きます〜〜。(2001.2.15)


(観劇日)2月16日

スペースゼロに怪人が舞い降りた、とでも言うような大変に素晴らしい出来の公演でした。演劇の神様、というか、怪人様、ありがとうっ!という感じ(^^)。

初日あいて4日目のせいかそれぞれの人の役が大きく膨らんで、それが相乗効果を上げて舞台全体の成果につながっていたのだと思うけれど、特に、恋松と八重子の二人の結びつきが強くなったおかげで、歌舞伎の人たちと新劇の人たちのそれぞれの絡みが深まって感じられた。

なんて冷静ふうに書いてますが(^^;、実は全然冷静でなくて今でもドキドキしてるくらい、加納さんも桂さんも素晴らしかったですね、もうもう。上にも書いた八重子と恋松の最初の場面で恋松の「僕の扉だ、僕が一番よく知ってる」の激しさで、恋松自身の深いコンプレックスの闇の強さが特に際立っていたこと。そして、自分の子供であると知りながらも強く惹かれていってしまう八重子の気持ち、そして、そういう自分を「恥じて」死に向かっていかざるを得なかったという彼女自身の業、「女優だって人間」という言葉のとおり、その激しい思いが明確に表れていたことで、「かぶき座の怪人」のメインストーリーがしっかり前面に出て。

そしてラストシーンの「姥ヶ池」。襲名公演で恋松が演じる鬼女イワテの、自分の子供を知らずに食ってしまった「あさましい鬼となってしまった」悲しみが、そのまま八重子の姿と重なって感じられる。怪人となった八重子を認めて、恋松の気持ちに戻って(恐らく、すべての事情を感じ取った後)、それを振り切って再びイワテとなって舞台前面に向かった瞬間、「あ、三代目恋助が生まれた!」と思った。それくらいのすごい気迫に満ちていた。前回見たときは、イワテの最期直前に笑っていたのがよく分からなかったんだけど、子を食らってしまった鬼の身の自分を恥じているイワテが死ねることに喜び、というか魂の平安を見出しているのかな、と思って、でもそれもそのまんま、怪人になった八重子の姿と重なってるんですよね。

こうして、恋松と八重子、歌舞伎の人たちと新劇の人たち、芝居と劇中劇が全部ぴったりと重なり合って終わる……という、もう見事なまでの幕切れに、もう……ホント、圧倒されました。こういう、ジグゾーパズルが最後に全部ぴたっとはまるような快感は、加納さんの演出ならではのものだなあ、と改めて驚嘆した次第。

すごいもの、見せてもらいました。(2001.2.16)




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