怪誕身毒丸蜂屋組 (観劇日)98年11月18日 暗闇の中に蓮の花が仄明るく咲き乱れる。火炎模様の木のアーチ、そして低く流れ続ける読経……。開幕前から見える舞台のちょっと異様?な様子に期待が高まる。やがて、絢爛豪華でグロテスクな神々の饗宴が現世の舞台に降臨する。 7年前の再演は見ている(粗筋とそのときの感想はこちら参照)。今でも一番印象が強いのは加納さんのカーリーで、その女の情念の凄まじさ、迫力、美しさ、強烈な程の母性……等やはり忘れられないものがある。だから当時の「怪誕身毒丸」を、カーリー対シッダルタ、とか、カーリー対ブラフマー、と言ったようにどの配役でもカーリーとの関係性で見ていた部分があると思う。 だから、加納さんが出ない「怪誕身毒丸」(二子玉屋組では加納さんが出るけど)というのは、私にとっては期待半分、不安半分…というのが正直なところだった。 そして幕をあけた蜂屋組は……今までの「怪誕身毒丸」の感触とは全く違うものだった。これはカーリーという一人の女性の物語ではなく、カーリーの物語であると同時にカーリーを狂おしいほどに求めるシッダルタの物語でもある、ということに初めて気づかされた。 こう思わされたのはシッダルタ(桂憲一)の演技によるところも大きい。冒頭のお葬式のシーンで自分の出自のことを言われたときの深い憤りを内に秘めた表情、そしてそこから退場するときに見せるコンプレックスの裏返しの凶暴さ…など、最初からシッダルタという人物を強く印象づける。 対するカーリーの八代さん。まず黒い衣裳に映える立ち姿が美しく、一瞬その動きが「人形振り?」と思わされたほど(ク・ナウカふうというか)。もうちょっと情念どろどろ(汚い表現ですみません)なカーリーになるか、と思っていたんだけれど、そのへんは意外とあっさりめな感じ。 他に特筆したいのがヤマの大井さん。女のいやらしい面を見せつけるような、でも、最後の立ち姿の大きさは格別で実に良かった。 とりあえず、まだ初日(というか、3日連続初日というか(笑))。今回は幸せにも各組とも何回かずつ見られるので、おいおい「怪誕身毒丸」の深奥に迫っていきたいと思います。(…本当に迫れるのか(笑)?)。 (98.11.19) 二子玉屋組 (観劇日)11月19日 恐るべし、加納幸和 昨日見た舞台とは全然違う。 「圧倒的」という言葉がまさにぴったりの加納さんのカーリー。義太夫の台詞の表現力と言い、有無を言わさぬ迫力と言い、女形表現の真髄を見たような気がする。 対する北沢さんのシッダルタはネタ系(笑)。ギャグに走っているようで見えて、その中にシッダルタの心情をびしっと織り込んでいるのがさすがで、「こういうシッダルタへのアプローチもありなのか……」と感心する。 森川さんが初の大役のヤマ。お化粧が綺麗なのは結構でした。「ヤマは元々加納さんがやっていた役だから、実はすごく難しい」という話もあったけれども(^^;、ヤマの肚の中のどろりとした部分がもうちょっと見えた方がいいかも。途中、入座披露口上がありました。今までカーリーとヤマで対決していた二人が突然座長と座員になるのが、なんだかおかしい。 話が全然飛びますが、ヤマがインドラを車で引いていくシーン、7年前もありましたが、「小栗判官照手姫」の照手姫が盲になった小栗を引いて歩く姿と同じですね(@_@)。(その姿を見たのはスーパー歌舞伎の「OGURI」だったか「小栗判官照手姫」だったか忘れちゃったけど)「摂州合邦辻」は「合邦庵室の場」しか見たことがないから分からないんだけど、「摂州合邦辻」にもこのシーンがあるのでしょうか? 小栗も合邦も、多分話しの大元は同じで、インドの仏教説話に遡るのだと思いますが。 (98.11.20) 曲屋組(観劇日)11月25日・29日 一番、予想もつかなかった(^^;ゞのがこの曲屋組。意外にも? かっちりと女方がはまっている誓さんだった。(初めは「聖ひばり御殿」の姫狸に見えちゃったんだけど……ゴメンナサイ(^^;ゞ。見た目がですよ、見た目が)男っぽくもありながら、どこか可愛らしい、そして母性が強い愛すべきカーリーでした。対するシッダルタの水下さんは数少ない再演キャストだけあり、自家薬籠中の物にしている、という印象。シッダルタの登場のダンスシーンはあれくらいのガタイの人だと映えるんだよなぁ、というのを実感する。 29日は東京の千秋楽ということで客席もハイテンション。バケツ親爺で登場の原川さんと木原さん(&理貴くん)に客席は大いに沸いてました。 (98.12.7) 蜂屋組(観劇日)12月4日 上の方で蜂屋組の印象として「シッダルタの心情にシフトした身毒丸」ということを書いたのだが、加納さんに聞くと「狙いとしては(それは)ない」とのことである(^^;。……でもいーの。私の目にはそう見えたから。 だいぶん初日のころとは印象が変わって来たのは、やはり八代さんのカーリーの出来による。主役の経験というのは役者をどんどん変えていくものなんだなぁ、というのが実感で、それをこの公演(観劇)回数の中で目の当たりに出来た喜びは大きい。正直言って、初めは音階的に聞こえた「のり地」(義太夫調の台詞)もだんだん生きて語っているように聞こえてきて、「小座長」ではない、八代進一ならではのカーリー像が立ち上がって来たように感じられた。 前作の「泉鏡花の日本橋」でも姉への恋慕が正しく「恋」であるかのように描かれているのが不思議な気がしていたんだけれど、今回の「怪誕身毒丸」においても、人間の思いの中で「ここまでが恋」「ここからが愛」という境界線はないものとされているようだ。(もしかして、これは花組世界を理解するためのキーワードなの?) そうして見ると、この芝居のハイライトはカーリーとシッダルタの二人の場面。我知らず口づけをする二人、そしてゆっくりかぶりを振るカーリーを見て、喜びの絶頂から絶望の淵まで引きずり下ろされるシッダルタ……。ここの美しすぎるほどの緩やかな拒絶が八代カーリーの真骨頂であるのだが、また、あまりにシッダルタが可哀想で見ているのが辛い。私にとっては生涯忘れ得ない表情の一つである。 (98.12.7) 特別企画「加納幸和さんに聞く『怪誕身毒丸』」をご覧になりたい方はこちらへ |