ザ・隅田川(1987年)

西鶴一代女



(観劇日)99年11月2日……帝国劇場C列センターから

初日を見て、の感情的興奮編。また、かなり内容にも触れてますので、ご注意下さい。

終演後にお会いした植本さんに「はじめは手に汗握ってました」と言ったら「母のような気持ちで見てたんでしょう〜〜」と言われてしまいましたが(笑)、母のようではなくても、会場に入った途端に異常に緊張していたことは確かで……。
というのは、会場中の殆どが、いわゆる「帝劇でルリ子さんを見てる」ようなお客さんたち。普段花組芝居の公演会場で見掛けるような、一見して「いつも花組を見てるから来てるのね」と思えるようなお客さんは、実に1%もいないのではないか……(大げさ?)と思えるくらいだったから。
このお客さん達に(失礼だけれど)どの程度、加納さんの世界が伝わるんだろう、そして、もしかしてこの大舞台に加納さん色が薄められちゃったらいやだなぁ。とか、自分が見終わったときどういうふうに思うんだろう、とか、いろんな思いが渦巻いて……、開幕近しを告げる1ベルが鳴って客席に着いた私はまさに「手に汗握る」状態になっていました。

やがて、開幕。

帝劇の舞台いっぱいに(あんなに奥まで使ってるのを見たことない!) 立体的なセットが組まれ、風流踊りを見るお客達が現れ……、そして大ゼリから踊り手達がせり上がってきます。その、照明とあいまった圧倒的な絵面にまず圧倒されて。「ああっっ、この感覚が加納さんだああああ」という(よく分からない)思いに、「あ、これはいける……」というような感じがよぎりました。

そして、始まる物語。と言っても、多分、ストーリーを追おうとすると躓いてしまうのではないか…という気もするのですが(実はつまずきかけた(^^;ゞ)。これは、おまん(浅丘ルリ子)という女性の波瀾万丈な運命をストーリーで追って見せているのではなくて、それぞれの場面での、あるいは花魁となり、あるいは駆け落ちし、あるいは商家に勤める「女」の生き様というものを、それぞれに受け止めればいいのではないか……と気がついて、一気に頭にすとんと入ってくるようになりました。

浅丘さんの様々な姿が実に素晴らしく、たとえば、商家に勤める初心な娘が急に蓮っ葉になり、それがまたしおらしくなるというその変わり方が実に魅力的。冒頭の男装シーンもとってもカッコよく(*^^*)、花魁姿は大変艶やか。その中で、常に愛を求めて愛にまっしぐらな姿に心惹かれます。

そして、おさん茂右衛門の火刑の場面から、(再見したら、火刑じゃなくて磔でしたね、訂正(恥))(言葉で説明するのはとっても困難)、コペルニクス的展開をして、全てを昇華させるラストシーン!! への帰結。
なんと言ったらいいのでしょうか。おさんを火刑に掛ける(これも「磔にする」です、訂正)髑髏達 (じゃなくて、五百羅漢でした)が徐々に総踊りの人に代わって、踊り出すという、あの、演劇でしか表現し得ない見事さ、そして、最後に現れる浅丘さんの、あらゆることを乗り越えた上での、すべてを超越したような美しさ。その「スパーン」と切ったような終わり方によって、長い3時間のお芝居のすべてを自分の頭の中に音を立てて流し込まれたようで、「これが『芝居を観た』という醍醐味なんだな……」というのを実感しました。
(ちょっと、「再演ニ非ズ」でないほうの「ザ・隅田川」を彷彿とさせるような…)
実は終演後もすぐには席を立てなかった(くらい感動してた)、ということを告白しておきましょう(笑)。

演劇的であるといえば、「これが演劇ってものね〜〜」と思わず感心させられる仕掛け、というか趣向もたくさんあります。その一つが、帝国劇場の機構のフル活用。「え、あそこにセリがあるの知らなかった……」と思うようなところからもセリ上がります。上記した冒頭の大ゼリのセリ上がりは本当に効果的ですし、盆回し、スライド舞台、盆回しながらのセリ上がり……という転換の仕方は、見る者に素朴に「うわ〜〜〜」と思わせる力があります。

また(このへんネタばらしですけれど)、二幕目の開幕前に花組の役者さんたちが客席から出てくるのも、お客さんを親密な雰囲気にさせるのにとっても役だっていて(結構、年配のお客さんが嬉しそうだった(笑)、声掛けたりする人もいたりして)、特に二幕目の客席が盛り上がる一因になっていると思います。

花組の役者さん達も随所で活躍していますが、チラシに出ている誓さん、植本さん、桂さんがかなりの役どころを担ってます。植本さんの女方はコメディリリーフ的なところですが、とってもキュート(*^^*)。最後のお葬式の女房のところが(佐藤B作さんにめちゃくちゃされてますが(笑))特に本領発揮(?)という感じです。冒頭の風流踊りの踊り手もとってもキレイで目を引きました。誓さんは遊女屋の女衒の役で、相変わらずのお上手さです。桂さんは大沢さやかさんのお夏と組んでの清十郎。お夏を慕い申し上げる、優男な感じがよく出てますが、途中で一転してラップ(!)を歌うところの表情の転換が、実はとっても気に入ってます。

結構、感情的な文章になってますが(^^;ゞ、初日を見ての勢いと思ってご容赦下さいませ。また、詳細は改めて……。(99.11.3)


(観劇日 11月3日マチネ)

何故だか今日も見てしまいました……(^^;。昨晩書いたもので勘違いしていたところもあったので、若干改稿しました。

二幕の開演前のところは楽しいですよね。皆さん、お客さんの懐に入っていくのがとってもお上手なんだなっていうのを実感します。(いや、こういう趣向って外してしまう場合もあるでしょう〜(^^;ゞ?)

ということで、ちょっと小ネタ。
誓さんの女衒は証文をぴらっと見せるところの間合いが絶妙。
清十郎は、初めの登場のところから、どこか悲劇の影が透かし見えるところにぞくっときます。大沢さやかちゃん、可愛いですね。
お夏清十郎は見せ場があるけれど、せっかく八百屋お七を出すのに、吉三さんに見せ場がないのがもったいないかも。
花魁道中の絵面の美しさ! そこに上手・下手の女郎屋のセットの上から道中を見下ろすような形で、端女郎(下手側が大井さん…ごめんなさい、上手側は見えなかった…と書いていたら、溝口さんだと教えてもらいました、今度見てみます〜)をしどけなく座らせているという、その対比が非常に見事です。托鉢僧(山下真司さん)とのやりとりのあと、祈った浮舟(浅丘さん)が再び歩き出すところ。そこの間合いというか、タメが、理屈では説明できないけど、「うわぁ〜〜」と胸をかき立てられるような感じを受けます。私のとても気に入っているところです。(99.11.3)


(観劇日 11月25日ソワレ)

上記から何回か劇場に足を運んだのですが、昨日(25日)、私の伝言板に書いて下さってるミアさんと一緒に見に行ってお話ししたり、加納さんとちょっとお話させてもらったこともあって、今回の劇中の「お夏・清十郎」について考えたこと感じたことを、受け売りも含めて(^^;まとめてみることにしました。

お夏・清十郎……死へのエロチシズム

芝居のラスト近く、お夏は清十郎の首を愛しそうに抱きしめながらセリ上がってくる。愛するヨカナーンの首をはねさせ、それを抱きしめるサロメを連想させる姿でもある。サロメの場合はヨカナーンを殺すことで彼を手に入れることができたのだけれど(やがて、彼女の様子に恐怖を覚えた義父の王様によって、サロメも殺されてしまう)ではお夏は……? 
「こうやって首を抱けるということは、もしかしたら、お夏は現実の清十郎を見ていなかったのかもしれないですね。万一、大阪に落ち延びることができたとしても、この二人は上手く行ってなかったかも……」という加納さんの言葉に、うーんと考え込む私。

実際、お夏と清十郎の最初の舞台登場のシーンも、そして場面が終わって下手花道へと消えていくところを見ても、そこには「破滅」「死」に向かってひたすら走っていっているような印象がある。決して逃げおおせることはないと分かっていても、それでも二人の愛の成就である「死」のために走っていっているような……。この後、おまんと源五兵衛の「無事逃げ延びてくれればいいが」と言う台詞に続くが、決して逃げられはしないだろう、という暗い予感があたりを支配する。
ところで、ここの道行きのシーンで巡礼とすれ違うところがあるが、これは「お夏狂乱」の踊りから持ってきているのだそうだ。(「お夏狂乱」は、清十郎の死後に狂ってしまったお夏の踊り。そこには清十郎は出てこない)「エリザベート」の「夜のボート」の場面で、すれ違い人生だったエリザベート夫婦の後ろに幸せな老夫婦をおいているのにちょっと似た感覚(?)で、「夫婦として共に長く生きてきた巡礼の二人」と「死に向かって走っていくお夏・清十郎」のと対比はとても印象的である。

この舞台では出てこないけれども、原作の「好色五人女」によると、もともと清十郎は遊里で多くの遊女に思いをかけられ、そのうちの一人を死なせてしまって実家にいられなくなり、お夏の家に奉公するようになる…という話があるのだそうだ。
最初に見たときにはそのことは知らずにいて、なんとなく「初めて恋をしたような手代なのかなあ」と思って見ていた(それは、お夏はずっと「清十郎」と呼び捨てにし、清十郎はお嬢様に仕える、という徹底的な上下関係からそう感じたのかも)。それでも、後半、死した清十郎の霊が無表情から徐々に表情を変え妖しく色っぽくラップを歌っているのを見て、その劇的な高揚感にノックアウトされていたのだけれど。(ここでラップを使って清十郎に歌わせるという自由さって、加納さんならではという気がする)

さて、その清十郎の出自を知った後、改めて舞台を見てみると、ラップを歌っている清十郎の色っぽい姿が本来の彼なのかもしれないな、というふうにも感じる。逆に言えば、死ななければ本来の姿を見せることができなかった、ということなのかも。
加納さんはこの舞台のお夏と清十郎は「『春琴抄』の春琴と佐助みたいな感じ」とおっしゃっていたが、もしかしたら、あえてそういう上下関係を(無意識かもしれないけど)二人は演じていたのかもしれない。私が最初に見たときに「初めて恋をした純真な手代」のように見えたのだけれど、実は清十郎はお夏のためにそういうふうに振る舞っているのかも。そして、本来の姿ではない自分でお嬢さんを愛してしまったという清十郎の「嘘」を本当にするためには、死ぬしかなかったのかもしれないな、なんていうふうに考えてみる。

死によってのみ、二人の愛は永遠になる。
二人の道行きからは濃密な死のエロスの匂いが漂う。

(99.11.27)


(観劇日 11月28日)
千秋楽を観劇してまいりました。商業演劇の千秋楽って淡々と終わることが多いのですが、非常にいい雰囲気で盛り上がった千秋楽でした。それこそ舞台と客席が一体になったような……。そして浅丘さんが緞帳が降りきるまでしゃがみ込んで手を振る姿の愛らしさにもノックアウト(笑)されました。

今回の公演で一番感じたこと……、それは、花組芝居は帝劇の大空間の中でも「花組芝居」だった、ということでしょうか。前回の「奥女中たち」がスズナリという小さい小屋で公演されていたのとは対照的ですが、帝劇でもまったくすき間なく花組ワールドで埋め尽くされていたことに感動しました。また、花組の役者さんも演技が小さくない。大舞台でもちゃんと立っている姿を見られたのは非常に嬉しいことでした。

もちろん、この公演の成功の要因は、浅丘ルリ子さんという主演女優を得たことでしょう。
私の友人からのメールには「ルリ子さんはこういう芝居を求めていたんだな、と思った」と書いてありましたが、それには私も大いに同感してます。
加納さんの演出は一種様式的なものを要求しています。たとえば、二幕目、暗がりの中手燭を持って、りんの部屋に向かうおさんが盆回しの上を歩いていくところ。歩きながら一瞬目を横に向けるところがあるんですが、この目線の素晴らしさ! 目が大きくていらっしゃるから、目がきく、っていうのもあると思うけど、いつ見てもぞくっとさせられます。これ、普通はこういう視線の飛ばし方ってしないと思うんですが、これが「女方芸」ってものなのかなあ、と思ってしまいます。
3日に書いた花魁道中の浮舟が歩き出すくだり、実はそこのシーンをお稽古場にお邪魔したときに見ていたのですが、加納さんが非常に細かく「ここはこうやって…」と演技をつけてらっしゃったのが印象的でした。たとえば単純に「花魁道中だから外八文字で歩く」というのではなく、その前段階からの動き、間合いをきっちりつけることにより、その「芸」とそこから醸し出すものにお客は胸をどきどきさせられてしまうのですよね。
浅丘さんがそういう加納さんの演出を受けて(「映像出身なので、舞台の演技にはまだ慣れていないところがある」とプログラムの対談でおっしゃってましたが)、それを形だけなぞるのではなく確実に自分のものになさって舞台に存在していることに驚嘆しました。様式性に内面が見事に伴っていること、まさに、冒頭の上林の主人(大門悟朗)の掛け声じゃありませんが「大当たり!」だったと思います。

様式性、と、いえば、お六が最後に現れるところで公演後半は必ず拍手が入るようになってましたよね。多分、公演前半とはちょっとした違い(一瞬正面切って見得を切ってるようなポーズになる)なんだろうけれど、そこでお六と一代女が重なり、さらにそれを超えた形でのラストに向かっていくので、感動がさらに増したような気がします。そういう、徐々に変わっていくところを見られたのも一ヶ月公演ならではの嬉しい経験でした。

(も一つ話を飛ばすと(^^;、冒頭のおまんと源五兵衛の二人のシーンの後ろで踊ってる八代さんの表情がすんごい綺麗で見とれてしまいました。これって様式性のある舞台をやっている人ならではの「技」だよねぇ。余談でした)

まとまりがありませんが(^^;、十年花組芝居を観てきて、帝劇の大舞台でこれだけの成果を見せてもらえたことは何にも代え難い喜びでした。そして、次に見せてくれる「夢」に早くも思いを馳せている私です。

(99.11.30)



10月18日、『西鶴一代女』お稽古場訪問のレポートをお読みになりたい方はこちらへ

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