火 に な っ て 燃 え る !?

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仮面によって動く

  「火になって燃える」というのは、仮面のワークの中の一つだ。中性の面をつけて舞台に出てゆき、呼吸を深くして、火のイメージによってからだが無意識のレベルで動き出すのを待つ。非常に深い集中を必要とするので、そのときのコンディションによっては、いくら待っていても燃えないこともある。のるかそるかのバクチみたいなワークだ。

 その代わり,いったん火がつけば,その動きは激烈で,床を転げ,伸びあがり,立ちあがってはまた転げ,転げては跳ねる。そして燃えつきるか,誰かに止めてもらうまで燃えつづける。(オープンレッスンの当日、出演者の二人はリハーサルと本番で2回もこれをやったのだから、本当に大変だったハズだ)。

 聞いた話しでは,本番当日は,会場の事務の人たちがこのときだけ「来てごらん!すごいよ!失神するんだよ!」と誘いあって観に来たとか。(^^;)

たしかに,いきなりこのレッスンを見せられたら,「何が起こっているのかわからないけど,何か大変なことになってる!」と思うかも知れない。でも,失神しているのではない(念のため)。

それも「わたし」

 実際に見たことのない人にこのレッスンの話しをすると,「催眠術みたい」とか「新興宗教の修行?」とか「何だかこわ〜い」なんて言われることがある。

 催眠術も新興宗教も縁がないので,このレッスンとどこが同じでどこが違うのかわからないけれど,多分そういう反応には,自分を自分がコントロールできなくなってしまうことへの怖れとか,マインドコントロールみたいに誰かに操られてしまうのではないかとい懸念があるのだと思う。

 その恐い気持ちはわかる気がする。

 でも,一方で,もともと人間の動作は意識が了解していることよりも,無意識と言うのか,からだが勝手にやっていることの方がはるかに多いのも事実だ。

 内臓が動くことにはじまり,歩くとき手足のバランスをとることから,自動車の運転やパソコンのキーボードを打つことまで,どの筋肉をどれだけ動かすか,緊張させるか,それらをいちいち意識することはない。

 火になって燃えるというのは,いわば,そういう精妙な働きによって生命を支えている「からだ」に行き先を委ねてみるということだと思う。そこで思いがけず現れて来るものがあれば,それを日常バージョンの自分が認めようと認めまいとにかかわらず,それもまた「わたし」なのだ。それはそれで別の意味で恐いことなのかもしれない。

中性面と表情面

 ここで使う「中性面」とは、ニュートラルな面,笑っても怒ってもいない、表情のない面のことだ。表情のない面をつけることで、自分自身も何でもない存在になる。

 鏡の前で面をつけたときから、自分の中に起こってくる怒りや哀しみの衝動、筋肉の緊張、そういうものを捨てて捨てて、ただ深い呼吸によってまっすぐに立つ。支えて行く。

 この「何でもない」がミソで,何でもないからこそ,逆に想像力によって何にでもなれる。だから,火にもなれる。火になって燃えるだけではなく,水にも光にもなるし,ときには「人間の誕生」といって,無から人間になるまでをやったりもする。

 もう一つ,仮面のワークで使われる面がある。表情面と言って,喜怒哀楽などの表情が豊かだったり,狐や狼などのケモノ,怪獣,神様などの面を使うレッスンもある。

 ひょっとこなども表情面だ。こちらはこちらで,面に秘められたキャラクターによって,自分では思ってもみなかったような動きや,声が生まれて来て,レッスン場はさながら百鬼夜行だったりするが,こちらはまだオープンレッスンではやっていない。

 竹内さんの「からだとことばの戦後史」(ちくま学芸文庫)には,中性の面とは集中の次元が格段に違うと書かれている。

火になって燃えるに挑戦!

 わたしは「水になる」とか「人間の誕生」も好きだけれど,初めて参加した集中合宿で見て以来,この「火になって燃える」は,いつかやってみたい課題ナンバーワンだった。

 こんな文章書いておいてナンだけれど,説明を聞いていても,竹内さんの本を読んでみても,本当にそんなことがあるの?という疑念がどこかにあったからかも知れない。けれども,求められる集中の深さから言って,とうてい自分にはできないと思っていた。

 ところが,年明けに,成人の日の連休を使って開かれた仮面の合宿で,竹内さんが「やってみたい人はどうぞ」と希望者を募ったとき,突然,無性に挑戦したくなった。昨年の第2回オープンレッスン以来,自分なりにからだを耕して来ていたからかも知れない。

 その甲斐あってか,結果,わたしも燃えることができた。燃え出す直前,大きく吐いた息が,熱い炎のように伸びていったと思った。

 次の瞬間から,転がり,のたうち,立ちあがり,また転がった。頭をごつんごつん床にぶつけるので痛かった。それでも意識はクリアで,ただ燃えつづけることにだけ集中しているという感じだった。正確には,集中している自分と,集中していることを見ている自分がいたような気がする。

 何度目かに転がったとき,見ている人たちの中に飛びこみそうになった。壁になってくれた人のからだにぶつかった瞬間,その人の体温を感じた。感じた途端,全身の力が抜けて動きが止まった。仮面をはずしてもらって,しばらくは放心していた。

 想像していたのとは違って,充実感もなにもなかった。あるのは,すり傷と打ち身だけ。からだは確かに動いたけれど,炎になったという気がしなかった。

 面の目の穴から見えたいくつかの光景と,大きな息づかいだけが断片的に思い出された。だんだん,自分が燃えたというのは錯覚で,ただカツゲンのようにからだが動いただけではなかったかと思うようになり,合宿の感想文にも,どうも燃えたのではなかったようだと書いた。

 そうだったからかわからないが,次の定例のレッスンのとき,休憩時間に近くでお茶を飲んでいた竹内さんが突然,「合宿では燃えてよかったですねえ」と言った。

 え?と思って,「炎になった気もしなかったし,炎のイメージも見えなかったし,終わってみたら空っぽだったけれど,それでも燃えたということなんですか?」ときいてみた。

 竹内さんは,なにを馬鹿なこと言っているんだコイツはという感じで,「空っぽになるんだよ。燃えてる最中に,今自分は炎になってるとかあれこれ考えていたら,それは集中が足りないんだ!」と,そんなようなことを言った。

 それではじめて,わたしは納得して,ああ,あれが燃えるってことかと思ったのだった。(-_-;)

いろいろな炎

 ところで,前述の「からだとことばの戦後史」には,竹内さんがフランスの演劇学校の先生である,ルコック氏のレッスンで初めて「火になって燃える」をしたときのことが書かれている。

 今読みかえしてみると,頭を打って意識が遠くなりながらもからだは止まらず,跳んでからだを宙に投げ出したり,跳ねあがったりしたとある。

 ヘトヘトになって息が苦しくなって,もうこのままでは死ぬと思ったとき,無理矢理,面を引きはがしてやっと止まったそうだ。ルコック氏は「重油の炎だ」と言ったとのこと。激しく,いつまでも燃えつづける油田火災のような炎。竹内さんんは動いている間,からだの内が熱くなり,吐く息も熱く,自分は炎だと感じたという。

 わたしの炎は,長続きもしなかったし,立ちあがるまではしたけれど,飛びあがりはしなかった。

 竹内さんは,そのとき隣りで燃えていた人の炎と見比べて,「あなたのは油の火,彼女のは石炭の火だったね」と感想を言っあと,「燃えているときに,炎のイメージを見るようにすれば,またもっと違ってくるんだけれどね」と教えてくれた。

 でも,一口にイメージって言っても,それがなんだかまだよくわからないからなあ・・・というのが正直なところだ。油田火災までの道のりは遠すぎる。


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