見知らぬ少女が部屋の中で浮かんでいた。
誠は声にならない叫びを上げて、いちど扉を閉めて表札を見やる。しかし206号室と
かかれたその部屋は、確かに自分の借りた新しい部屋だった。
見間違いかもしれないと思い、恐る恐るもういちど扉を開けてみる。
六畳一間のちっぽけなぼろアパートの一室。その部屋の中には、まだ荷物も運び込まれ
ておらず、がらんとした空間が広がっている。
その部屋の真ん中に少女は浮かんでいた。
腰までのびた長い黒髪が、真っ白なワンピースを引き立てている。くりんとした大きな
瞳に、整った鼻先。艶やかな紅い唇は、微かな笑みを覗かせている。
すらりと伸びたカモシカのようにすらりと伸びた細い足。右手には銀色の、左手には金
色のブレスレットを身につけており、よりいっそう彼女の可憐さを引き立てている。
どこか全体的に儚げな色彩を帯びて、触れれば消えてなくなりそうにも思えた。そして
それを示すかのように、彼女の足先は畳から十センチほど浮かんでいる。
「う、浮いてる!?」
誠は思わず声を漏らして、背を向けて逃げ出そうとしていた。
しかし慌てたせいか自分で自分の足を絡めてしまう。
転びそうになって部屋の壁に頭をぶつけ、
逆に部屋の中に入り込んでいた。
バタン。同時に音を立てて扉が締まる。部屋の中に、二人だけが取り残されていた。
さすがに少女も誠に気がついたらしい。誠へと振り向いて、それから目を大きく開いて、
慌てた様子で声を漏らした。
「ち、痴漢ですかっ」
唐突な少女の台詞に、思わず誠は咳き込んでいた。
「ぶはっ。げほっげほっ」
「あ。だ、大丈夫ですか。でもほら、痴漢とかしようとするから、そういう目にあうんで
すよっ。悪い事したらいけませんっ」
少女はやや眉をつりあげて告げると、指先を一本たてて左右に振るう。
「だ、誰が痴漢だよっ。誰が」
誠は何とか息を整えながら、目の前の少女に向かって声を荒げる。しかし少女は誠の言
う事がわからないとばかりに眉を寄せると、上げていた手を降ろして、その腕を組んでい
た。
「え、違うんですか。突然部屋の中に入ってくるからてっきり。えーっと、じゃあ」
少女はしばらく首を傾けながら考え出すと、それからすぐにまた指を立てて誠へと向け
る。
「あ、わかりました。訪問販売ですねっ。私に布団とか高値で売りつけちゃおうとか、そ
ういう訳ですね。おっと、そうはいきませんよっ。なんたって、私はお金もってないです
からね。あ、いっときますけど、ローンも組みませんよ。布団一つが十万円とか、絶対あ
りえませんからっ。買いませんよー。ええ」
また勝手に勘違いして話を膨らませていた。
もちろん誠は訪問販売員ではないし、そもそもここは誠の部屋のはずだった。
誠の親は事情によりこの街から引っ越す事になった。しかし誠はまだ高校に入学してか
ら時間がたっていないし、また親の引っ越し先も長くいるとは限らない。その為に誠は一
人暮らしを始める事となり、今日はその引っ越しの当日であった。
だがその部屋の中には、見知らぬ少女が一人で浮かんでいる。そしてまるで自らがこの
部屋の主のように振る舞っていた。もっとも少々反応がおかしくはあったが。
しかしそのおかげというべきか、少女が浮かんでいるという不思議への驚きはかなり薄
れ、誠を冷静にさせていた。
「訪問販売でも宗教の勧誘でもないっつうの。だいたい、お前誰だよ。ここは俺の家だぞ、
俺の家」
「ええええっ。そんな事ないですよ。ここは私の家ですよ。変な事言わないでください。
はっ、さてはそんな事いって、何か私を騙そうっていうんですね。そうはいきませんよっ。
ええっ、もうっ。私、しっかりしてますからね。騙されませんよーっ」
少女は言いながら、再び右手の人差し指を一本だけ立てて左右に振るう。たぶん意識し
てやっている訳ではなく、癖のようなものなのだろう。
「いや絶対ここは俺の部屋だっつうの。メゾンシャトル206号室。ほらっ、みろ。これ
が契約書だ」
鞄の中から契約書を取り出して、少女へと突きつける。
少女が何者なのかはわからなかったが、とにかくこの部屋から出ていってもらわなくて
はと思う。
完全に初め少女に抱いた恐れ等は、頭の中から消え去っていた。
少女は誠の言う事がわからないとばかりに、きょとんとした表情を浮かべると、誠の持
つ契約書を覗き込もうとして近づいてくる。
ごく自然な動作ではあったが、その時全く音がしなかった事実に気がついて、誠は少女
が浮かんでいた事を思い出す。
「そ、そうだ。こいつはなんで浮かんで」
急にまた恐ろしくなって、慌てて後に下がろうとする。
しかし誠の足は下がるどころか、絡まって前へと倒れかかっていた。
「わぁぁっ!?」
思わず情けない声を漏らして、少女の上へと覆い被さるような形になる。
しかし誠の身体は、全く抵抗感を感じない。そのまま大きく音を立てて、床へと倒れ込
んでいた。
その誠の身体の上に、少女はそのまままっすぐに立っている。まるで誠の身体が触れる
事はなかったかのように。
「わわわっ。や、やっぱり、ほんとは痴漢でしたかっ。だ、駄目ですよ。そんな事をする
と天罰が下りますよ。いつも神様はみていますからっ。ああ、イエス様、マリア様っ。こ
の私をお守りくださいっ」
少女は胸の前で十字を切ると、両手を組んで、力の限り目を閉じていた。
目の前にはっきりと見えている。しかし誠は全く彼女に触れる事すら出来なかった。そ
れどころか彼女は宙に浮かんでいる。
そうなれば、考えられる事はただ一つしかない。
「ゆ、幽霊!?」
思い切り叫びながら、なんとか後ずさろうとして手を動かした。
しかし驚きのあまりか、誠の身体はぜんぜんその場から動こうとしない。
「ええええっ。私、そんなのじゃありませんよ。失礼ですねっ。どこをどうみたらそうみ
えるんですかっ」
少女は眉をつりあげて抗議を声を上げて、両手を揺らしていた。その度に髪もたなびい
て、どこか独特の雰囲気を醸し出していた。
「ど、どこをどうみてもそうみえるっ。ゆ、幽霊じゃなかったら、い、いったいなんなん
だよ」
ややどもりながらも、誠はまだ何とか正気を保ったまま少女へと告げる。その手は震え
を隠せなかったし、足などはがくがくと揺れて、まともに歩けそうもなかったが。
「そんなの決まってるでしょう。私は」
少女は呟きながら人差し指を立てて、そのまま指先を振るう。それから唐突に動きを止
めたかと思うと、伸ばした指を口元に当てた。
しばらく誠を見つめていた。まっすぐに向けられた瞳に、思わず顔を背けたくなる。
しかし誠はなぜだか彼女から目をそらす事が出来なかった。時間が止まってしまったか
のように、唐突に沈黙が訪れた。
少女は困ったように眉を寄せて、もう一度首を肩の方へ倒す。
今までよりもずっと落ち着いた静かな声で、少女は誠へと訊ねかける。
「私は。誰なんでしょう」
少女のその呟きに、誠は思わず目を丸くして、言葉を失っていた。
「よく考えてみたら、私、ぜんぜん何も覚えていないんですよね。そもそも私、どうして
ここにいるのでしょうか。ここはどこでしょう。てっきり自分の部屋だと思いこんでいた
んですが、よく見ると違いそうですし。はぁ、これは困りました」
大きく溜息を漏らして、それから誠の顔の目の前に座る。
誠は少しだけ息を整えて倒れ込んだままの体勢を立て直す。どこか抜けた少女の台詞に、
彼女が幽霊であろうと何であろうと、もはや恐れも驚きも消えて無くなっていた。
「いやお前が何でここにいるのか何て知らないけど、幽霊なんだったら、なんか未練とか
あったんじゃないの」
「わ。失礼ですね。だから幽霊じゃないっていってるじゃないですか。幽霊だったら、ど
うして私はこんなとこにいるんですか」
少女は不機嫌そうに眉を寄せると、また人差し指をぴんと立てて、左右へと振るい、そ
れから少しだけ誠へと傾ける。
確かにその様子からは、ごく普通の女の子のようにしか思えなかった。おかしいところ
といえば、少し宙に浮かんでいるところと、触れると突き抜けるところくらいだ。
もちろんその時点で全く普通ではないし、彼女が少なくとも霊的な存在だという事は疑
うところではない。
ただすでに誠は彼女に対しての警戒心は溶けきっていたし、彼女が生きている普通の人
間のようにも感じていた。あるいはあまりにもおかしな態度に誠の意識もどこか狂ってい
たのかもしれなかったが。
「そりゃお前、幽霊なんだから何かこの世に未練があるとか、誰かに恨みがあってとりつ
こうと思っているとか、そんなとこだろ」
ごく普通に答えると、まだ荷物のない畳の上に座る。
「なるほど。そうすると、私、さては貴方に対して恨みつらみがたまっていたんですねっ。
だから貴方の前に現れて、呪いをかけようとしたんですか。謎は全てとけましたっ。完璧
ですねっ、完璧っ」
人差し指をびしっと音が立ちそうなほど鋭く、誠へと向けていた。
「まてまてまてっ。俺はお前なんかぜんぜん知らないぞ。そりゃあもう、完璧完全に知ら
ないっつうの。恨まれたりする覚えはねぇっ」
慌てて言い放つと、彼女から少し距離をとる。誠は本当に彼女には見覚えがなかったか
ら、彼女の恨みをかっているはずはない。そもそも少女にしても、初めあった時にそんな
そぶりは全くみせなかったのだから、あり得ない話だろう。
しかしこのままでは無実の罪で、少女にとりつかれてしまう。とりつかれた人間がどう
なるかなんてわからなかったけれど、決して楽しい事にはならない事は間違いないだろう。
「むぅ。じゃあ、私はなんでここにいるんですかー。もうちょっと、何か考えてください
よ。だいたいホントに私の事しらないんですか。呪われるのが嫌で、嘘ついているんじゃ
あ」
頬を大きく膨らませて、それからぷいと顔を背ける。
「そんなことしねぇつうの。何か覚えてる事はないのかよ。例えば自分の名前くらいさ」
誠の言葉に、少女は考えこむように首を傾げる。立てた人差し指を額にあてて、何かう
なり声のようなものを上げていた。
「むぅぅぅぅ。名前ですか、名前。そういえば、私の名前は何て言うんだろう」
眉を寄せたまま、少女は首を右に傾けたり、左に傾けたりしながら悩みこんでいた。
どうやら少女は完全に記憶を失ってしまっているようで、自分の名前すらも思い出せな
いようだった。
「名前名前。ええっと。あ、そういえば最初にゆがついたような」
何か思い出したのか、指先をくるりんと回して、大きく頷く。
「うん。そうだ。ゆ、なんとかだった。なら、うんと。ゆき。いや、ちがう。ゆあ。む、
そんなのでもなかったな。ゆめ、ゆな、ゆい、ゆり、ゆみ、ゆま。違う違う。どれでもな
い」
しかしそこから再び悩み始めたかのか、部屋の中を左右に行き来し始める。誠はまるで
動物園の熊のようだと思ったが、とりあえず水を差すのはやめておいた。
「ゆ……そうだ。ゆう。ゆうだ」
少女は再び指先をくるりと回し、それから誠へと突きつける。
「私の名前はゆうですっ。わかりましたか。どぅあんだすたん?」
何故か最後は発音の悪い英語になっていたものの、とりあえず少しは思い出したらしい。
「ま、名前は、わかったけどよ。でもそれだけじゃ結局、お前が何でここにいるのかはわ
からないな」
「うーん。そうですよね。まぁ、でも、ここは一つ前進という事ですよっ。前向きにいき
ましょう」
少女は満面の笑みを浮かべながら、指先を左右に揺らしていた。
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