六畳一間。幽霊つきっ (02)
 確かに彼女の言う通り、何一つ覚えていない事に比べればまだマシなのかもしれなかっ
たけれど、誠にはあまり前進したようには思えない。
「前進っつてもな。で、ゆうって名前は漢字でどう書くんだ」
「え。漢字ですか。うーん、それはまた難しい事をききますね。これは私も困ってしまい
ます。もうまさに絶対難関です」
 少女は大げさに驚きながら、眉を思い切り寄せて皺を作る。
「絶対難関ってそんないうほどのものか。普通それくらいわかるだろ」
 溜息混じりに答える誠に、少女は今度は眉をつり上げて指を大きく振るう。
 それからびしっと音をたてそうなほどに鋭くつけつけて、再び声を張り上げていた。
「そうだっていったらそうなんですっ。もうほんと優しくないですね。よくありませんよ。
そういうの。人は優しくあるべきですからっ。じゃあ、もう、そういう事で、優しい羽と
書いて優羽でいいです」
 優羽と名乗った少女は、ぷいっと顔を背けてそのまま背を向けてしまう。
「優羽でいいって。そんなのでいいのかよ」
 適当に決めた漢字に、思わず溜息を漏らす。こうして話していると、彼女が幽霊である
事なんて忘れ去ってしまいそうだった。
「いいったらいいんです。もう決めましたから、そうなりました。そんなことよりも、ど
うしたら私の他の事がわかるかです。そっちを先に考えてくださいっ」
「ん……まぁ、そりゃそっちを先に考えるべきかもしれないけどさ。って、ちょっとまて。
どうして俺が、見ず知らずの幽霊の記憶を取り戻させなきゃいけないんだよ」
 あまりにも当然のように言い放たれた為に、一瞬納得しかけたものの、誠はすぐに抗議
を声を上げる。
 優羽はたまたま誠の家にいたものの、本来何も関わりがある訳ではない。しかも忘れが
ちになってはいたが、彼女は幽霊なのだ。下手に関わっていれば、とり憑かれり呪われた
りしてしまうかもしれない。極力関わり合いになりたくない存在だった。
「え、だって。袖すり合うも他生の縁というじゃないですか。こうして知り合えたのも何
かの縁って奴ですよ。それにもう遅いみたいなんですよね」
 優羽は静かな声で呟いて、それから満面の笑みを誠へと向ける。
「私、どうも貴方にとりついちゃったみたいんですよね。さっきから離れようと思ってみ
たんですけど、ぜんぜん遠くにいけないし。これはもう一心同体って奴ですよ。そんな訳
で、ここは一つよろしくお願いしますっ」
「ちょ、ちょっとまてっ。そんなさらっとお願いしますと言われても、聞ける訳ないだろ
がっ。何で俺が幽霊なんかにとりつかれなきゃいけないんだよ」
「そんな事言われても、とりついちゃったものは仕方ないじゃないですか。私だって好き
で貴方についてる訳じゃあないですし。あ、そもそも私、幽霊じゃないっていってるじゃ
ないですかっ。何度いえばわかるんですっ」
「いやっ、だからどっからどうみても幽霊だろ、お前。つか、そもそもとりついてるとか
いってるだろうがっ」
「そんな事はささいな事なんですっ。だいたい仮に私が幽霊としてですよ。そしたら私は
何かこの世に未練があってここに残っている訳ですから、未練を取り除かない限り、この
後もずーっと貴方についてる事になる訳ですよっ。それでいいんですかっ、嫌でしょうっ」
「いや、まぁ、そういわれりゃそうだけど」
「でしょう。だったら、私の協力してくださいよっ。私だって記憶が取り戻せればそっち
にいくでしょうし、こうなったのも一つの縁ですよっ。そもそも私だって、貴方にとりつ
きたくてとりついてる訳じゃないんですからねっ」
 言うだけ言って優羽は満足したのか、ふふんと鼻で笑っていた。
 何となく少しむかつくものを感じはするものの、だからといってどうする事が出来る訳
でもない。優羽の言う事はあながち間違ってはいなかったし、彼女の記憶が取り戻せれば、
成仏していなくなってくれるかもしれなかった。
「ああ、もう。わかったよ。手伝ってやればいいんだろ。手伝えば」
 投げやりな口調で答える誠に、優羽は急にきょとんとした表情で首を傾げていた。
「え、ほんとですか」
 自分で手伝えと言っておきながら、むしろ驚きを隠せない様子で、目を見開いている。
「とはいっても、ホントに俺はお前の事なんて知らないから、役に立てるかどうかなんて
わからないぞ」
「あ、はい。あの。ホントにいいんですか」
 指先を立てて、胸の前で頼りなげに揺らす。
 急に声のトーンも小さくなって、なんだかずっと儚げに思えた。
「ああ。仕方ないだろ。俺だって、ずっととりつかれたままなんて嫌だしな」
 誠は溜息まじりに答えて、両手を大きく広げてみせる。
 優羽が幽霊だと言う事は、ほぼ間違いがないだろう。しかし彼女のどこか抜けたような
性格のせいか、もう恐怖は感じない。それどころか少しくらいは彼女の力になってやって
もいいかとすら思い出していた。
 誠はそんな自分に苦笑せずにはいられない。あまりにも突拍子も無い出来事に、自分が
正常なのかどうかも疑わしくなってくる。
 ただ話をしているだけでは幽霊だとは全く思えない彼女に、完全に調子を崩されていた。
「わわっ。ありがとうっ」
 優羽は大声で言い放つと、そのまま誠へと飛びついていた。
 もちろん優羽は幽霊である。実際に誠に触れる事は出来ず、ただ目の前に優羽の顔が急
接近しただけの話だ。
 それでも唐突に現れた少女の顔に、慌てて振り払って後ろに下がると、驚きのあまり荒
い息を吐き出していた。
「急に近づくな!? 心臓が飛び出るかと思っただろっ」
「わ。なんでそんな冷たい事いうんですかっ。そりゃあ嬉しい事があったら、誰だって喜
びを表現するに決まってるじゃないですかっ。だいたいそれくらいで驚いてどうするんで
す。私、どうやら貴方の半径二メートル以内から離れられないみたいですからねっ。ずーっ
と一緒にいる訳ですよ。ずーっと」
 優羽は指先を左右に振るいながら、じっと誠の目を見つめていた。
 しかし誠は今、優羽の告げた言葉がはっきりと理解出来ないでいる。
 誠はしばらくの間、沈黙を保って、なんとか一つずつ優羽の言葉を認識していこうと考
えを巡らせた。
 半径二メートルっていうのは、中央にいればだいたい部屋が丸ごと全部入るくらいだろ
う。離れられないっていうと、自分の身の回りにいる訳で。ずっとというのは、四六時中
という事か。つまりは。本当に少しずつ言葉をかみ砕いていく。
 もちろんそうして導き出される答えは一つに過ぎない訳で、やっとの事で浮かび上がっ
た事実に、誠はすっとんきょうな声で叫びだしていた。
「ちょ、ちょっとまてっ。するっていうと、何か。俺はお前が成仏出来るまで、いつでも
二十四時間年中無休つきまとっている訳か。コンビニエンスストアか、お前!?」
「むむ。失礼な事いいますねっ。私だって、貴方とずっと一緒にいたい訳じゃあないです
けども、仕方ないでしょう。まぁ、幸い貴方は私に触れる事が出来ないみたいですから、
困った事にはならないでしょうしっ。辛いのは我慢しますっ。そんな訳で、貴方も我慢し
てくださいっ。それでいいですかっ、納得ですかっ」
 優羽はぷいと顔を背けながら告げる。しかしすぐに誠が気になるのか、ちらりと横目で
覗き見ていた。
 ただ誠は彼女のそんな様子には全く気がついていない様で、呆然としたまま立ちつくし
ている。
「お、俺は一体これからどうなるんだ」
 呟いた声に、優羽がすぐに振り返って、誠の肩に手を乗せていた。もちろん実際に手が
触れた感触がある訳ではなかったが、彼女はどこか楽しそうに人差し指を突き立てる。
「まぁ、なんとかなりますよっ。そんな訳で、これからよろしくお願いしますっ」
 優羽のその一言は、誠にとって全く救いにはならなかった
 魂が抜けたかのように誠は部屋の中に立ちつくす。どうしたものか全くわからない。
 しかし呆然としたままの誠を、一気に現実に引き戻したのは、外から響いてきた声だっ
た。
「ちーす。ミケネコ引っ越しセンターっす」
「げっ!?」
 思わず声を上げて、慌てて周りを見回した。優羽の身体は変わらず浮かんでいる。引っ
越し業者の人が見かけたら、それだけで大騒ぎになってしまうだろう。
「と、とりあえず押入に隠れて。いや、だめだ。引っ越しの人は絶対あける。どうすれば
いいんだ。そうだ、トイレ。トイレなら平気だろ。優羽、トイレに隠れてくれ」
「えええっ。私、別におといれなんかいきたくないですっ」
「そうじゃなくってっ。お前を見たら、引っ越しの人が仰天するだろうが。とにかくしば
らく隠れていろ」
「やですっ。絶対、やですっ。隠れる意味がわかりませんっ。なんですか。そんな厄介者
みたいにいってひどいですっ。私、そんなに邪魔ですか」
「邪魔だっ。つうか、はやく隠れ……」
 ぷいと顔を背けて嫌がる優羽を、なんとか隠れるように促す。とはいえ優羽の身体に触
れられる訳でもないから、優羽の意志を無視する事は出来なかった。
 そしてすぐに無視する必要もなくなっていたのだが。
「荷物配達にきましたー」
 引っ越し業者の若い兄ちゃんが、扉を開けてスタンバイしていた。
 誠はその場で、完全に時間を止めていた。どうしたらいいのかもわからずに、ぽかんと
口を開けて業者の人を見つめていた。
 見られたっ。心の中で呟いて、どうフォローをすればいいか、何とか思考をフル回転さ
せる。しかし完全に宙に浮かんでいる優羽の様子に、全く言い訳の台詞も思いつかない。
「え、えっと。これは、これはですねっ」
 何とか言いつくろおうとして声を漏らす。けれどその誠の想いを無視するかのように、
隣で優羽が手を振っていた。
「こんにちわー。お待ちしてましたよー」
 優羽は大きな声で告げて、それから深々と頭を下げる。
 もっとも完全に空中に浮かんでいたから、それでも誠の頭よりも高い位置にあったのだ
が。
 悲鳴を上げるか、それとも思考を停止させるのか。その時はどうすればいいんだ、俺は。
声にはならない叫びと共に、とにかく業者の人を見つめてみる。
 けれど彼が取った行動は、全く誠の予想とは違っていた。
「あ、ちーす。三原さんですよね。ミケネコっす。今から荷物運び込みますから、ドアは
あけといてくださいね」
 まるで何事も無かったかのように、業者の人は階段を降りていく。そのままアパートの
前に止めたトラックから荷物を抱えていた。
「あ、れ……!?」
 全く驚きすらしない彼を訝しげに見つめてみる。若い兄ちゃんは平然としたまま、もう
一人の髭面のおじさんと荷物を運び出していた。
「彼がおかしいのか、それとも俺がおかしいのか」
 思わず呟いて、それからもうしばらく様子を伺っていた。普通に考えれば、少なくとも
何らかの反応は見せてもいいはずだった。しかし彼は全くといっていいほど、関心を寄せ
ていない。
 ただ業者の人はこの兄ちゃんだけではない様ではあったから、もう一人おじさんがどう
いった反応をみせるのかに注意を向けてみる。
「こんにちわ」
 おじさんは頭を下げて、軽く挨拶をすると部屋の中へと入り込んでいく。
 誠はいま玄関口のそばにいるから、優羽はその脇でふよふよと漂っていた。どうやって
もおじさんの目に入らない訳はない。
 しかしおじさんも何も反応も示さなかった。
「あ、この辺に置けばいいですかね」
 話したのはそれだけで、まるでおかしなものは何一つない様なそぶりしか見せない。
 誠にしてみれば宙に浮かんだ優羽はどう考えても異質な存在なのだが、もしかすると優
羽を変に思う自分の方がおかしいのかとすらも考えてしまう。
 ただその疑問は、すぐに晴れる事になった。
「ご苦労様ですっ。がんばってくださいねっ」
 優羽はおじさんに話しかけていたが、その声にはぴくりとも反応を示さない。それは若
い兄ちゃんにしても同じで、何事もない様に荷物を積み込んでいくだけだ。
「あ、それ重そうですねー。何かいっぱいつまってそうです。あ、そっちの荷物はすかす
かですね。さっきから、お兄さんの方、楽してますよっ。注意しないとっ」
 こうやって優羽が何かいろいろと話しかけているのだが、彼らは完全に無視を続けてい
た。
 そして誠がそうではないと気がつくまでには、それほど長い時間は必要としなかった。
 彼らには優羽の姿は見えていないし、声も聞こえてはいないのだ。そう考えれば全て辻
褄が合う。
 優羽は返答がない事もあまり気にしていないのか、ずっと話しかけ続けている。しかし
彼らはついに最後まで、一度も優羽を気にかける事は無かった。
 最後にサインを求め、そのままトラックに乗り込んで去っていく。大して荷物も無かっ
た為に、すぐに引っ越しは片づいていた。
「いっちゃいました。私、完全に無視されていましたね」
 優羽は軽い口調で呟いて、それから誠の方へと振り向く。照れたように優羽は笑うが、
だけどその時見せた瞳に、誠は思わず言葉を失っていた。
 吸い込まれそうに感じた瞳の色は、どこかおぼろげに揺らいでいる。それは目の中に見
える潤いのせいだと言う事は、誠にもすぐにわかった。
 だから何も言えなかった。
「あ、嫌ですね。貴方まで無視ですか。ちょっと。おーい。何とかいってくださいよー。
おーい。なんだかなぁ。やっぱりさっき話したのは、気のせいだったのかな。何か言って
くれないと、悲しいですよー。聞こえてますか。おーい。えっと、えーっと。名前、なん
でしたっけ。そういえば聞いてませんでしたね。あーあ。せめて名前くらいきいておくべ
きでしたね。しかしこうなると、私、またひとりぼっちでしょうか。せっかくやっと声が
通じる人がいたと思ったんだけどなぁ」
 優羽は静かな声で告げて、それから溜息を一つ漏らす。
 その目から涙がこぼれたように思えたのは、誠の気のせいだったのだろうか。優羽は幽
霊なのだから、本当に泣いたりする事はないとは誠も思う。落ちたはずの水滴は、しかし
畳を濡らしたりはしていない。
 優羽は少しだけ床へと降りてきて、そのまま畳の上に座り込む。実際に床の感覚がある
訳ではないらしく、わずかに浮かんではいた。それでも優羽はぺたんと足をつけて、大き
く溜息を漏らしていた。
 誠は彼女がどうして喋り続けるのか。見ず知らずの誠を巻き込もうとしていたのか。やっ
と少しだけ理解出来たような気がする。
 恐らくは今までは誰にも気づいてもらえる事もなく、ずっとこの場所にいたに違いない。
たった一人、記憶も失ったままで。それがどんなに辛い事なのか、誠には想像する事すら
出来なかったけれど、容易でない事だけははっきりとわかる。
「三原誠だよ」
 誠は静かな声で告げて、すぐに優羽から視線をそらす。少しだけ照れくさくて、素直に
顔を見つめていられなかった。
 優羽は少しきょとんとしたまま首を傾げて、それからまた指を一つ立てる。軽く指先を
振るって、それから誠へとまっすぐに向ける。
「三原誠さんっ!」
 思い切り名前を呼びつけて指さす姿は、まるでどこかの名探偵が犯人はお前だと指名し
ているかのようだった。
「なんだよっ!?」
 思わず声を大きくして訪ね返す。
 だけどのぞき込んだ優羽のその顔は、今にも崩れそうなほどにぐしゃぐしゃで。誠は息
を飲み込んで、声を失う。
 優羽は無理矢理に笑顔を浮かべて、それから深々と頭を下げる。
「よろしくおねがいしますっ」
 お辞儀をしたまま顔を上げようとしない優羽に、誠は少し胸の奥に痛みを感じていた。
 だからただ一言だけ声を返した。
「よろしく」
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