「聖っ!」
美優の怒りを含んだ声が、水着売り場に響く。
「はいっ。美優さん、なんでしょう」
まるで飼い主に呼ばれた犬よろしく、聖はぱたぱたと尻尾を振りながら駆け寄っていく。
もちろん聖に本当に尻尾がある訳ではないが。
と、同時にバコと鈍い音が鳴り響く。
「な、なんで殴るんですか。俺、何もしてないです。ひどいです」
「欲しいなって思ってた水着が売り切れてた」
「それ、俺のせいじゃありません」
「知ってる。でも、殴らずにはいられなかったから。何ていうか、乙女心って奴ね」
美優はこともなげに言い放つと、それからすぐに違う水着を手にとっていた。
「これなんかいいかな。この、パレオついてるの」
「いや、美優さん。こっちの白いのいい感じですよ。美優さんに良く似合いそうです」
聖もすぐに復活して、美優の隣で一緒になって選んでいた。
「どれ? あ、ほんと。可愛い」
「ええ。美優さんには白が似合います」
「そう? 可憐ってこと?」
「はい。そうですね。それに白の水着は透けてウハウハでばっちぐーです」
ガン。
毎度の事ながら、重厚な音が伝う。
「あんたはいつも一言多い。だいたいウハウハとか、ばっちぐーとかってあんたいつの時
代の人間よ」
「ガラスの少年時代です」
「意味わかんないから殴る」
はー、と拳に息を吐きつけると、にっこりと微笑みながら聖を見つめていた。
「ちょ、ちょっと待ってください。そうだ。これ、これなんかどうですか!?」
そう言って聖が適当に取り出した水着は、かにぱんまんの絵が描かれた子供用のものだっ
た。
その瞬間、僕は両手を合わせて祈り始める。
「ほほぅ。あんたは私にこれを着ろ、と」
満面の笑みで美優は、聖へと語りかけた。
顔を向けられているのは僕ではなかったけれど、ぞくと身体が震えていた。
「ま、間違いです。俺、間違えました。すみません、許してください」
「安心して。ちゃんと三途の川まで送ってあげるから」
美優と聖の漫才はいまも続いている。
そんな中で、僕は少し外れた場所で二人を眺めていた。
女性用の水着売場が少々恥ずかしかったというのもある。でもそれと違う部分で、なぜ
かこの場にいる事が重い。
何かが頭の中に残っている。
しかしその引っかかっている物が何なのかわからないまま、時間は駆け足で過ぎていっ
た。
水着も無事決まって、三人は特に目的もなく街中をぶらついていた。
見慣れた街並にめぼしいものがある訳もないのだが、それでも美優は珍しいものをみる
かのように、あちらこちらと店舗を回っていく。
もっともそのどこの店でも一切買い物はしないのだけれど。
日はそろそろ沈み始めていた。
「あ、もうすっかり空が赤い」
美優がすっかり夕焼けに変わった西の空を見つめて立ち止まる。
僕も美優の隣で、空見上げてみる。
空は茜色だった。
毎日みているはずの風景に、なぜか懐かしく思う。
「空を見たよね」
僕は無意識の内に呟いていた。
「え?」
「夕暮れは世界で一番綺麗な瞬間だって、確かそう言ったんだ。それから歌が聞こえて」
そこまで呟いてから、僕は激しい頭痛に襲われていた。
頭が割れる。誰かが無理矢理こじ開けようとしているかのような痛み。
「う……」
僕は思わずしゃがみ込んでいた。
「友希!?」
「友希さん!」
美優と聖の二人が駆け寄ってくる。だけど僕はずっと頭を抱え込んで、ひたすら痛みに
耐える事しか出来なかった。
目の前が揺れた気がする。
吐き気が喉の奥から訴えてくる。
その中で、空が見えた。
茜に染まった雲は、夏だというのにうっすらとして冷たい。
「あかねいろ……」
呟いた瞬間。目の前が真っ赤に染まっていた。茜どころじゃない、それは深紅だ。
僕は事故にあった。
そうだ。僕は空を見ていた。
そして、飛んだ。
冷たい音が響く。身体中が痛みと苦しみが襲ってくる。
水の中だ。海の味がする。
真っ赤に染まる視界。
忘れていた。思い出した。
僕は空を飛んだ。崖の上から。
「友希。平気っ、しっかりしなさい!」
美優の声で僕は現実に引き戻される。
途中から幻を見ていた。
でもあれは夢じゃない。僕が確かに経験した記憶だ。
まだどこか荒い息をなんとか整えながら、ゆっくりと立ち上がる。
「友希さん、平気なんですか。痛くないんですか。休んでいた方がいいですよ。何か思い
出しましたか。でも無理に思い出さない方がいいです」
聖の呼びかける声には応えずに、僕はもういちど空を見上げていた。
茜色の空。あの時と同じ色。
僕は知らない。何も覚えていない。だけど、確かに僕はあの時崖から落ちた。
それは本当に事故だったのか。自殺するつもりだったのか。それとも誰かに落とされた
のか。それすらも記憶の中には残っていない。
どうして僕は忘れてしまったのだろう。何が僕をそうさせていたのだろう。
事故にあった。その話は医者からも親からも友達からも聞いた。だけど何の事故だった
のかは誰も言わない。だから勝手に自動車にでもひかれたのだと思い込んでいた。
どうして誰も何も言わなかったのだろう。考えてみれば両親の喜びようは、少し異常な
ほどだった気もする。僕にはそれほど外傷はなかったし、入院はそれほど長い間でもなかっ
たのに。
たった三十六日間。変わらないはずの日常の時間。その中で、僕はどれだけの事を感じ
て失ったのだろうか。わからない。これ以上には何も思い出せはしなかった。
「友希さん。しっかりしてください。何か、何か思い出しましたか」
「……僕は空を飛んだんだよ」
呟いて、ただ空を眺めていた。
「友希さん」
聖は僕の名前を呼んで、それ以上は何も言わなかった。いや、何も言えなかったのかも
しれない。普通に聞いたら呆れて何も言わないか、おかしくなったかと思うような台詞だっ
た。それも当然かもしれない。
「友希。平気? 疲れてる? ん、いろいろひっぱりまわしたしね。そろそろ帰ろっか」
美優は僕がもう普通に立ち上がっているのをみて、顔を覗き込みながら呟いていた。
僕は軽く頷いて、それでも空を見つめる。
綺麗だと素直に思えた。
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