三十六日間の忘れ物 (10)
三.さよならは言わなかったけど

 終業式はつつがなく終わった。通知票も概ね良好で――もっとも僕のレベルでだけれど
――安心して夏休みに入る事が出来る。今は帰る前に鞄の整理をしているところだった。
 聖はもう教室にはいない。いつも通り先に帰ったのだろう。
 特に聖に変わった様子は無かった。朝あった時はごく普通に挨拶を交わしていたし、馬
鹿な話も交えていた。
 だけど何故か遠くなったような気がする。なぜかわからないけれど、聖の雰囲気がいつ
もより鋭いように感じられた。
 どこがどうと言われればわからなかったが、何か違和感を認めざるを得ない。
 さようなら。昨日呟かれた台詞が、胸の中に残っている。
 僕の手が今一つ動いていないのは、それを思い返しているせいだろうか。
「友希」
 ふとかけられた声に顔を向ける。
 見慣れた顔が僕の方をじっと見つめていた。
 こうして見てみると、やっぱり整った顔をしていると思う。ふわりとした優しい瞳が、
見ていると暖かく感じられた。
「美優。パフェなら奢らないよ」
 僕は反射的に答えると、殆ど丸めるようにして鞄にプリントを詰め込んでいた。
 がん。と、頭に衝撃が響く。美優が拳を握りしめていた。ひさしぶりに殴られたと思う。
「なにすんだよっ」
「友希は私の彼氏でしょっ。彼女にパフェの一つくらい奢れる甲斐性がなくてどうするの」
 美優は世の中の全ては私を中心に回っているというばかりの勢いで、僕に語りかけてく
る。
 僕は眉を寄せて、溜息を一つ。それから、あのね、と続けようとしたけれど、美優はそ
れを遮るようにして話し始めていた。
「って、そうじゃなくて。明日から夏休みだよ。知ってた?」
「当たり前だろ」
「ならどうして。私の予定がたたないでしょ。はやくちゃんとして」
「は?」
 美優が何を言っているのかわからなかったが、美優の顔は本気で怒っている。
 僕は何かしただろうか。思い返したその瞬間、僕の心に浮かんできたのは、ひなたの顔
だった。
 確かに僕はひなたの事で気持ちが揺れている。けどだからといって、美優の事を好きな
心が薄れている訳じゃない。
 美優は僕を必要としている。僕はそれに答えたいと思う。それは嘘じゃない。本当の気
持ちだ。
 なら、なぜひなたを捜したいと思うのだろうか。
 僕はひなたを求めているのだろうか。ひなたのそばにいたいと願っているのだろうか。
 いや、そうじゃないはずだ。僕は知りたい。僕が失っている気持ちを思い出したいんだ。
 僕には美優という彼女がいる。他の女の子に気持ちが揺れているなんて事はない。
 僕は知らずのうちに、そんな風に自分へと言い聞かせていた。
 しかしそんな僕の内心を知ってか知らずか、美優はもういちど僕の頭を殴りつける。
「はやくしないと殴るから」
「って、いまもう殴っただろっ。相変わらず口より手が早いのな。で、一体何なんだよ」
「友希、ほんとにわかんないの。私をからかっている訳でなくて?」
「わかんないよ。美優の言う事はだいたいわかるつもりだったけれど、ここまで唐突なら
わかるわけがないし」
 友希は美優へと顔を向けて、それから僅かに身構える。わからないだなんて言えば、再
び殴られる事は十分に想像がつく。
 しかし美優は顔を膨らせてはいたが、手を上げる事はしなかった。
「明日から夏休みで、私は水着も買ったし、友希は私の彼氏だし。それなら何か言う事あ
るでしょ?」
 ここまで説明されて、やっと美優が何を言いたかったか理解していた。もっともこれだ
け言われてわからないのであれば、鈍いなんて言葉では済まされないだろうが。
「そうだったね。じゃあ、海にでもいく?」
「うんっ。いつにしようか。早いうちがいいよね。のんびりしてるとくらげでちゃうし。
明日は少しゆっくりしたいから、じゃあ明後日。時間は十時でいいよね。決まりね」
 勝手に日付まで決めて、美優は僕が答える前に微笑みかけてくる。
「じゃ、今日は私用事あるから先帰るね。明後日あおうね」
 美優はくるりと振り返って顔だけこちらに向けた。それから「じゃあね」と告げて、手
を振る。こちらの意向などいっさい構わない。
 溜息をつきながらも、僕は心のどこかで美優と行く海も、きっと楽しいだろうなとは思
う。
 ひなたの事が無ければ。
 ただ胸の中が痛かった。


 今日は終業式だから、昼で学校は終わりだ。美優とも聖とも一緒にはいないから時間は
たっぷりある。ひなたの事を捜すには十分な時間だった。
 昨日のうちに電話帳は調べてみていた。しかし残念ながら綾瀬という家は見つからなかっ
た。たぶんいたずら防止などで電話帳には載せていないのだろう。
 そうなるとしらみ潰しに家を捜していくしか方法はない。ただいくらこの町が狭いとは
言っても、かなりの時間はかかるだろう。
 ただひなたがこの辺りに住んでいるという事だけは間違いないはずだ。
 うちの高校の三年生には、綾瀬という名はない。三年生も担当している先生数人に聞い
たから間違いないし、そもそも学校が同じであれば、いくらなんでも全く会わないなんて
事はあるはずがなかった。
 学校が近い訳でもないのに、この辺りに普段からいるという事は、家が近所にあるのだ
と考えられる。
 もちろんそれは絶対の保証ではない。それでも友希にとっては、そう信じるしかなかっ
た。もしも違うとすれば、全く手がかりが無くなってしまうからだ。
 町の地図を広げて、じっと眺める。昨日の内に地域をいくつかに区切っておいた。その
区域ごとで捜していけば、いつかは見つかるはずだった。
 ひなた捜しの一日目が始まっていく。
 まずは近隣から捜し始めていた。田中、佐藤、山口……。表札を一つ一つ眺めていくけ
れど、残念ながら見つからない。
 それでも友希にとって幸いなのは、この小さな町にはマンションのような集合住宅は少
ない事だった。小さな団地が一つだけあるが、団地であれば、まだ気軽に捜す事も出来る。
 一件、一件、家の表札を眺めていく。
 しばらく歩いただけで、足が棒のようにだるい。
 歩いているうちに、こうして捜していている事に疑問が浮かんでいた。
 どうして僕はひなたを捜すんだ。
 ひなたと会ってどうするんだ。
 ずっとひなたからの連絡もなかった。ならこんな風に捜すのは、ひなたにとって迷惑な
んじゃないだろうか。冷静になってみれば、少しストーカーっぽい気もする。
 仮にみつかったとして、いまさからひなたに何を言うつもりだ。
 もしかしたら拒絶されるかもしれない。
 後ろ向きの気持ちが表札を見る度に僕を襲った。それでもその都度、僕は首を振るい続
けていく。
 ひなたに、会いたい。
 それだけが、その気持ちだけが僕を突き動かしていた。
 他の事なんて考えられなかった。どうしてもひなたに会いたい。そして見つけたかった。
 失っていた記憶と想い。
 僕が求めているのは、その二つだ。
 それを確かめたら、この落ち着かない気持ちも元に戻るはずだ。
 僕は時間を取り戻したい。
 次の家の表札を見つめる。
 だけど綾瀬という名前の家は、結局一件も見つからなかった。
 足の疲れだけを残して、一日目を終えていた。


 次の日の朝。再び僕はひなた捜しを始めていた。昨日とは違う区域を、同じように一つ
ずつ捜し集めていく。
 昨日、歩きづくしだった為か足が鉛のように重い。ふくらはぎとふとももが悲鳴を上げ
続けていた。
 それでも僕は歩き続ける。表札を一つ一つ眺めて確認していく。
 なかなか簡単には見つからなかった。
 時間はやがて昼頃にさしかかっていく。
 くぅと腹の虫が鳴いていた。
 さすがにいちど食事にしようと思う。本当はその時間も惜しい気がしたが、きちんと食
べなければ体力が持たないだろう。
 パン屋でパンと牛乳を買って、公園へと向かう。公園のベンチに座ってパンにかぶりつ
いていた。
 夏休みだからか、子供の姿も多く目についた。恐らくはその保護者だろうおばさん達が、
近くで井戸端会議にいそしんでいる。
 僕は何気なくそれを聞きながら、牛乳を飲み込む。ただ誰かの噂話ばかりで、あまり大
した事は話していない。
 いや、話していなかった。
「そういえば奥さん。最近、綾瀬さんすっかりみなくなりましたね」
「ああ、そういえばそうねぇ。ほら、あそこはお嬢さんがあんなことになってしまったか
ら、やっぱり大変なのよ」
 そんな会話が聞こえてくるまでは。
 綾瀬さん。確かにそう聞こえた。綾瀬と言う名字は有っても不思議じゃなさそうだけれ
ど、実際にはかなり珍しい名字だ。ひなの家以外にそうそうあるとは思えなかった。
「すみませんっ」
 僕は思わずそのおばさん達に声を掛けていた。
「え? なにかしら?」
 おばさんのうちの一人が僕の方へと振り返る。突然の事に驚いた顔を隠せずにいた。
 それでも僕はそんなことに構ってはいられなかった。やっと見つけた手がかりを離さな
いようにするだけで精一杯だった。
「あのっ、いまお話に出てた綾瀬さんちのお嬢さん。いったいどうされたんですか!?」
「え、えーっと」
 しかしおばさん達はまるで何か言いづらそうにして、皆で顔を合わせていた。
「僕は彼女の友達なんです。でも最近会えなくて、一体どうしたんですか!? 教えてく
ださいっ」
「いや、でもねぇ」
「そうよねぇ」
 僕の訴えにも、おばさん達は揃って口をつぐむ。
 ただはっきりしたのは、ひなの身には何かが起きているということ。連絡がとれなくなっ
たのもその為だろう。
 ひなの身に何があったのか。胸が激しく痛むように鼓動していた。
 ひなたに会いたい。無事でいてほしい。その気持ちだけが僕の中で回る。
「教えてくださいっ。どうしても知りたいんですっ」
 僕はとにかく食い下がって、おばさん達へと深々と頭を下げる。
「自分の目で確認した方がいいんじゃないかしらね」
「そうね。綾瀬さんち、ここから近いし。ほら、そこの角を曲がってまっすぐいったら右
手にあるから、ね」
 おばさん達はどうしても言いたくないようだった。
「ありがとうございましたっ」
 それでも僕は頭を下げて、それからすぐに駆けだしていく。
 とにかく場所がわかっただけでもいい。
 ひなたに会いたい。
 もうすぐそれが叶う。
 それだけでも胸がはじけそうな程に高鳴る。
 だけどひなたには何かが起きている。無事でいてくれればいい。だけど、それは願えば
願うだけ遠くなっていくような気がして、僕は息を吸い込むだけでも苦しく感じていた。
 とにかく駆けていた。ただ表札を見逃さないように、確認していく。そして。
 綾瀬。
 そう表札に描かれた白い家の前で、僕は息を整えるのに精一杯になっていた。
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